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三時のお茶会

 ティーポットに紅茶の葉をサラサラと流し込む。
 銀色の小さなサーバーの上を流れる感覚が好きだから、ついつい量が多めになってしまう。
 熱いお湯を注ぐと一気に香りが立ち上り、それが逃げてしまわないようにいそいで蓋をする。

 三時のお茶。
 いつからかずっと習慣になっている。
 なので、この時間帯は講義を入れない。モニターの電源も切ってしまう。そうするとここは外界との接点を失ったスッポリした空間に思える。現実は違うけれど。

 トレーの上にカップを1つのせて、その横にポットを置く。
 また、たっぷり3人分は淹れてしまった。
「もひとつ、追加」
 不意に肩の辺りに重みがかかり、あたたかな体温が伝わってきた。それと同時に微かな香りとピアスがぶつかり合う音がした。
 いつの間に帰っていたんだろう、この兄は。
 すこし湿り気を帯びた感じは、今、急ぎ足で入ってきたばかりなのかもしれない。余裕の笑みを見せながら歩くので、家族以外には急いでいることがわからないあの歩き方で。
「エース、ちょっと重い」
 言うとすぐに腕は離れたが、その声はまだ耳元にあった。
「なんかさ、忘れてないか?サクヤ
 少し低めの声は甘くてスパイシー。
 この人は自分の妹で練習とか実験とかしているつもりなんだろうか…女性相手の。そんなことしなくても、効果抜群なのはわかっているはずなのに。
「おかえりなさい」
 わざと、絶対に振り向かないで答えた。


 結局トレーはエースが持って、わたしの前をスタスタ歩いた。片方の肩がかすかに揺れる歩き方。スーツを着た背中が前よりも大きく見える。
(スーツにピアスでいいのかな…)
 エースは昨年から外でビジネスを始めた。それがどんなものなのか、今どんな世界に足を踏み入れているのか、内緒にしているところは義父と同じ。
 それまでは一緒に家でいろいろなコースの講義を受け、エースが遊びや何かの集まりで出かけるときは黙って見送った。
 ストリートスタイルがぴったりのエースがかっちりしたスーツを身につけるようになって、離れている時間が一気に増えた。
 さびしい気もしたけれど、なぜか心のどこかでホッとしていた。
 エースには広い世界が似合うから。
「入ってきたの、気がついてたか?」
 紅茶を注いだカップを受け取ると、エースは静かに一口飲んだ。
 エースのカップを持つ大きな手と長い指を見ていると、なんだかまだ自分が幼い子供みたいな気がする。
「全然気がつかなかった。遅くなるって言ってたよね」
「ああ…これ飲んだらまた行く。近くまで来たのがちょうどこの時間だったからよ。でもお前、ちょっと無用心すぎ」
 そう言ったエースの顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
 ものすごくセキュリティの厳しいこのマンションの、これまたセキュリティの厳しい最上フロア。いくらキーを持っていたとしても、こんなに静かに入ってくるのは不可能なはずだ。それに、わたしはどちらかというとかなりいろいろ敏感な方だし。
「どこから入ってきたの?エース」
「企業秘密って奴だ」
 ニヤリとしたエースの顔を眺めながら、お茶のお代わりを注ごうとした時。
 今度はものすごい音でドアが開いた。自動のはずのドアがどうして。思わず立ち上がると、居間のドアも壁にぶつかりそうな勢いで開いて、弾丸みたいに駆け込んでくる姿が見えた。
サクヤ~~~~!俺、おやつ大盛!!」
 飛びついてくるルフィの勢いに倒れそうになると、エースがルフィの首根っこをつかまえた。
「こら!相棒が壊れるぞ。ったく、いつまでもこんな調子だよな、お前」
 エースが言うと、ルフィは初めてそっちを向いた。
「なんだ、帰ってたのか、エース!おやつ、もう、食ったのか?」
 ルフィの顔にはいつのも満面の笑みが浮かんでいた。
 何度負けても兄に挑戦する弟。一応わたしにとっては双子のもう1人。
 どこまでも楽しくて陽気なルフィ。
 17歳になった今も、家にいるときはおやつを欠かさない。
 ルフィが着ているのは通っている学校の制服だった。「ツメエリ」というのはわかる人には懐かしいレトロなスタイルだということだけど、ルフィには意外と似合う。
 この時代に知識を学ぶために学校へ行くことは珍しい。普通は家でモニターに向かって好きな時間に講義を受ける。でも、ルフィは学校を選んだ。彼にとっては勉強以外の魅力がいっぱいの場所なのだ。友達とか、カフェテリアの給食とか…毎月一定の金額を払うといくらでも食べてよいシステムらしいのだけど…ルフィのおかげでそのうち変更されるかな。
 キッチンからお皿いっぱいのプチフールやクッキーを持ってくると、ルフィは嬉しそうに笑った。
サクヤ、一緒に食べよう!学校にはサクヤみたいにやせっぽちの奴、いないぞ!」
 エースの拳骨がルフィの頭に落ちた。落とした当人は立ち上がってジャケットの袖に手を通している。
「なんだよ、エース~。あれ、また出かけんのか?」
「もうちょっとやることあってな。サクヤはお前に任せてやる」
「俺も、出かけるぞ!ウソップと約束したんだ」
「ふ~ん」
 軽い返事をするエースの瞳はなぜかこちらを向いていた。
 何かを確かめるような。一瞬だけ真面目な顔で。
 その視線の意味はあとからわかってくるのだけれど。
 この時のわたしは久しぶりの3人揃ったお茶の時間を黙って味わっていた。




 ランプが赤く点滅し、それからグリーンになった。
 キーでロックを解除する静かな音と一緒に、一瞬部屋の中の空気の圧力が変わる。
 時計を見るともう4時を過ぎていた。
 『料理人』が来る時間だ。…わがままなため息が漏れてしまった。
「失礼します」
 大きな紙袋を抱えて現れるのは、金色の髪を団子型にひっつめた1人の女性。先月から通ってきてくれている。スタイルの良いその姿をみるたびに、思い出す。最初この人が来てくれた時、てっきりエースの恋人だと思ったこと。思って、心臓がギュッと苦しくなったこと。
「マリエさん、雨が降ってるの?」
 彼女の肩は濡れていて、髪に細かな雫が見えた。
「はい。まだそれほど激しくありませんけれど」
 窓辺に行って空をみると、細い雨が落ちてくる様子が見えた。
 エースもルフィも傘を持って行っただろうか。
サクヤさんは本当に過保護ですわね」
 そう言いながら笑うマリエさんの声は、あまりいい感じがしない。エースやルフィがいる時には絶対しない笑い方。
 過保護というのは誰が?
 わたしが過保護にしているの、それともされてるの?
 多分、わたしとあまり年齢が変わらないはずの彼女。
 とても美人。
 どうして料理を仕事にしているのか、よくわからない。いつも漂わせている強いコロンの香りは何か違う世界を想像させる。
 来てすぐに、マリエさんはエースに会って、それから1週間エースを…何というか…追いかけた。ちょうどエースが自宅で仕事をする時期だったから彼女には都合が良かった。
 その間、わたしはほとんど自分の部屋にいた。自分のために。
 3時のお茶もやめた。その時間にはもう彼女が来ていたから。
 自分で自分がいやになった。
 結局、エースとマリエさんは1度だけデートをした。
 あの夜、わたしとルフィの分の豪華な食事を準備してくれたマリエさんは、いつもと違う感じだった。コロンの香りも別。お化粧も髪型も違った。女らしい飾りが沢山ついたエプロンの下には、きれいな身体の線をくっきり現すドレスを着ていた。
 エースはずっと自分の部屋で仕事をしていた。
 学校から帰ったルフィは素直にご馳走を喜んでいたけれど、わたしはなんだかどうしたらいいかわからなくて、自分の部屋で本を読んでいた。
 何回も同じ行を読んだ。それでも頭に意味が入ってこない。
 あの日も雨が降っていて、水滴がついた窓ガラスに映る自分の顔は、子供がべそをかいているように見えた。心の中がそのまま映ってしまうんだろうか。こんなのがエースにばれたらどうしよう。こんな訳がわからない我が儘。
 ドアが開いたとき、入ってくるのがエースだとすぐにわかった。エースの周りの空気の感じ。あたたかくてちょっとスリリング。
 不思議だった。
 エースはルフィと違って、いつもちゃんと入る前にノックするのに。
 エースの服装は家にいるときのいつもの格好のままだった。裾をきったジーンズにラフなシャツ。耳元に揺れるピアス。手首に何本か巻いてある飾り紐。
 のんびりとした足取りでわたしの前までやって来て、腕を組んで立った。
「ちゃんと寝てろよ。…帰らない夜があったって不思議じゃないお年頃なんだからな」
「寝るよ、ちゃんと」
 なんとか拗ねた口調で言えたけれど、心の中はざわざわと波立っていた。
 嫌だ、こんな動揺。
 それでも必死で笑顔を作ると、エースが少し首をかしげて口の中で何かつぶやいた。

 しょうがねぇなぁ

 そう聞こえた。それからわたしの頭にポンッと手をのせると、そのまま腰まである長い髪の中を指先で梳いた。そして、出て行った。

 その晩、結局エースはわたしが起きている間に帰ってきた。
 居間のソファで寝転んだまま眠ってしまったルフィに寄りかかってその寝息を聞きながら、ぼんやりと物思いにふけっていたわたし。1人になるといらない方向へ考えが流れそうで怖かった。部屋の灯りをほとんどおとして、両方の膝を抱えた。
 ルフィの規則正しい寝息を聞いていると、子供の頃の懐かしい村を思い出せた。風車だらけの緑の故郷。やさしいマキノさんに私と同じ赤い髪のシャンクス。
 どうしてだか、泣きたくなった。
サクヤ
 膝から顔を上げると、エースが立っていた。じっと私の顔を見下ろしていた。
「おかえりなさい」
「…寝てろって言ったろ」
「…今から寝ようと思ったら、エースが帰ってきた」
「アホゥ」
 差し出されたエースの手がわたしの身体を軽々と引き上げた。
「こいつの寝顔はガキの頃とおんなじだなぁ」
 起きないルフィの身体を担ぎ上げて、エースが笑う。
「あの頃みたいに、3人で一緒に寝るか?」
 時間の魔法だろうか。
 わたしは素直に頷いていたし、エースの顔にも少年みたいな嬉しそうな笑顔があった。
 一緒に風車の夢を見られるかもしれない。
 そう思った。

 3人で寝るときは、いつも最初はわたしが真ん中になった。
 それは出会った頃からずっと同じ。多分、2人で「守って」くれていたんだと思う。
 3人で眠りにつくと、やがてルフィの寝相の悪さが発揮される。天衣無縫というか、自由奔放というか、その性格がそのまま寝相に跳ね返ったみたいだ。
 ルフィの身体が動き始めると、エースが静かに起き上がってわたしと場所を入れ替わる。エースは寝返り以外はほとんど動かないで眠るから、わたしはエースの身体の壁に守られてぐっすり眠れた。

 エースもルフィも私も、自分の部屋のベッドは普通のシングルサイズで3人向けではなかったから、ルフィを担いだエースとわたしはシャンクスの部屋に忍び込んだ。
 シャンクスのベッドはキングサイズでものすごく広い。1年で一体何日使うことがあるかわからないくらいだったけれど、いつも洗いたての寝具を準備しておく。
「ガキん頃と一緒だな」
 笑いながらエースはルフィをぽんっとベッドに放り投げた。それからわたしの身体を抱え上げようとしたので、焦った。心臓が口から飛び出しそうだ。酔っているようには全然見えないけれど、少しアルコールの匂いがした。
 それから、ほんのりとしたコロンの香りが。夕方に初めて嗅いだあの香り。エースのものじゃない。
 気がついたときには、エースの胸を両手で押し返していた。
「どうした?サクヤ
 エースは不思議そうにわたしの顔を覗き込んだ。
 どう答えればいいんだろう。思わず、うつむいた。
「なんだ、これか。かなりキツイ香水だったからな~。隣りのテーブルの客にもうつってるな、きっと」
 どうしてわかったんだろう。
 エースは普段は何にも見ないふりをしているし黙ってニヤニヤ笑っていることが多いけれど、ほとんど見透かされている気がしてドキドキすることも多い。
 もしも、全部見通されてしまったら。そのときわたしはどうするのかな。
 …香水の匂いってこんなに簡単にうつっちゃうもの…?
「シャワーだな、こりゃ。遠慮しないで寝てろ」
 エースは部屋の奥に姿を消した。
 わたしは言われたとおり、ルフィの隣りに寝転んだ。
 懐かしい。懐かしくて、あったかい。
 エースのシャワーの音が微かに聞こえてくると、そのまま心は記憶の奥の小さな家に飛んだ。今みたいに1人ずつに部屋やシャワーがある立派過ぎるものじゃなくて、シャワーの順番を並んで待ったあの家。お風呂はよくルフィとエースが一緒に入ったけれど、シャワーは3人ひとりずつ。よくルフィが海で洗ったとか川できれいにしたとか言って逃げ出して、エースに追いかけられた。
 エースが1番、ルフィが2番、わたしが最後。
 シャワーが終わって居間に戻ると、大抵エースが夕食を並べていた。焼いた卵だけのときもあったし、いつのまに作っておいたのかわからない立派なシチューの時なんかもあったけど、エースの料理はどれもおいしかった。きっとマキノさんが料理するところを見ていたんだろう。
 幼かったわたしたち。
 でも、エースは大人を頼ろうとはしなかったし、村の人たちも結局わたしたちの好きにさせてくれた。
 大きく寝返りを打ったルフィの腕がわたしの上に乗ってきて、条件反射的に抱きしめられた。聞き取れない寝言をムニャムニャと呟いている。
 もう17歳のわたしたち。でも、ルフィにくっつかれるのはいやじゃない。本当の双子みたいな気がする。そうじゃないことをいつもほとんど忘れてる。
「あらら、捕まっちまって」
 タオルで髪を拭きながら、エースが歩いてきた。空気の中にシャンプーとコロンの香りが混ざって広がった。
 あれ?
「なんか違う…」
 呟くと、エースは笑った。
「シャンクスのを借りたからさ。ちょっとオジサマくせぇ?」
 わたしも笑った。
 エースといると、いつも楽しい。心が意味不明にドキドキするようになってからも、それは変わらない。
 まるで子供みたいな顔を見せるときと、強いオーラを感じさせるときと。
 エースもルフィもその差がとても激しかった。さすが、兄弟だ。
 エースは端の枕をポンポンッと叩くと、ゴロリと転がった。
「子守唄、歌ってくれた時があったね」
 思い出して囁くと、エースがこっちを向いた。
「覚えてたのか。そんなに上手かった?」
 …いや、どちらかというと…。エースは声変わりの真っ最中だったし。
 でも、忘れない。半分眠りかかったルフィとわたしを眺めながら、小さな声で口ずさんでくれた歌。
「マキノさんが昼寝の時に歌ってたのとは、ちょっとメロディーが違った」
 笑うと、エースがわたしの髪をひと房指でつまんだ。。
「アレンジって奴だな」
 エースは、そのまま髪を指に巻きつけて軽く引いた。
 こういうのは…相手が違うんじゃないかと思うのだけど。
 いたずらっぽい笑みを浮かべるエース。まったく…かなわない。
 ルフィの身体がまた転がって、今度はわたしの上を乗り越えようとしながらうまくいかずにバタバタした。
「ったく」
 起き上がったエースはわたしからルフィを引き剥がして投げた。ルフィはちょっと弾んでそのまま素直に反対側に転がった。
「交代タイムだな」
 エースがわたしの身体をまたいで移動して、わたしがころころ転がって。
 小さい頃と同じ。
「そういや、朝早いんだっけな…」
 エースは布団を引き上げて、顔の半分まで潜り込んだ。ちゃんとわたしにも掛けてくれるところも変わらない。
 なんだか安心したら、急に眠たくなってきた。
「おやすみ…サクヤ
 言った途端に嘘のような早業で眠ってしまうエース。
 わたしもそのまま目を閉じた。

 そう。残念ながら、あの一夜の記憶はそこでは終わらなくて、次に、聞こえてきたドアが開く音につながる。
 エースがもう起きたのかな。そう思って目を開けたら部屋の中には朝日が差し込んでいた。隣りには身体を起こしたエースの姿があって…あれ?
 頭をちょっと持ち上げてドアの方を見ると、そこに立っていたのはマリエさんだった。そうか、彼女はキーを持っているし。でも、どうして朝から?
 マリエさんの顔にはどうやら怒りらしいものが浮かんでいた。それでも唇には微笑があったけど。
「寝込みを襲うのはあんまりいい趣味じゃねぇな」
 エースの唇にはいつものニヤリがあった。
「朝早いっておっしゃってたので…朝食を…」
 マリエさんの声が震えている。いい年をして3人で並んで寝てたからあきれたのかな。
 …それとも。
 いや、誤解のしようはないと思うけど。でも。
「気を利かせてくれてありがたいけど。…あのさ、俺はちゃんとあんたの顔を立てたつもりだし。あと、他人の女に手を出す趣味はねぇし」
 エースが言った言葉の意味をわたしが呑みこめないでいるうちに、マリエさんが泣き出した。とにかく声が大きくて震えていて、あまり上手い演技じゃない、とわたしにもわかった。でも…どういうことなのだろう。
「別にどうこうしたいわけじゃない。仕事、まず2ヶ月っていう約束だったけど、あと3週間にしよう。その間にあんたもいろいろ理由を考えられるだろ。ま、よろしく頼むな」
 涙を浮かべながら顔を上げたマリエさんの表情が瞬間的に次々と切り替わった。
 最初はもう少しすがってみようと思い、それからエースの言葉に怒り、最後には冷静さを取り戻した。
 意外とわかりやすい人だ。
「なんだかよくわかりませんけれど、残念です。雇ってくださるのは1ヶ月間、ということですわね。あと3週間、頑張りますわ。評価を変えてくださると嬉しいんですけど」
 それだけ言うと一礼してマリエさんは立ち去った。多分キッチンに行ったんだろう。
「エース」
 起き上がると、エースの腕がわたしの肩を引き寄せた。口元には笑みを浮かべたまま。
「あいつがお前を誘っても、絶対に一緒に外に出るなよ。まだちょっと確かめたいこともあるしな」
 エースはマリエさんがこのフロアに入ってきたことに気がついたはずだった。気がついていて彼女の行動を待ったんだ。多分、すぐにアラームを止めたからわたしはわからなかったけど。彼女がどういう動きをするか、見たかったのかもしれない。
 一瞬強く力を込めた後、エースはわたしを離した。
「おい、ルフィ!もうすぐ朝飯みたいだぞ!」
 飛び起きるルフィ。さすがだ。
 わたしはその日からマリエさんを前のように意識することはなくなった。その代わり、自分には見えない世界の存在を強く感じ、別な意味の警戒感を強く持った。

サクヤさん」
 気がつくと、目の前にマリエさんが立っていて、私の顔を覗き込んでいた。
「眠っちゃったかと思いましたよ。どうかなさったの?」
「いいえ…大丈夫。ごめんなさい」
 マリエさんは窓越しの空を見上げた。
「雨がね、強くなってきたんですよ。さっきサクヤさん、心配してたから」
 窓ガラスは記憶にあるよりもビショビショに濡れていた。雨粒の大きさが特大になっている。
 エースはどこにいるかわからないけれど、ルフィは学校に戻ると言ってた。間に合うかもしれない。
「わたしが行けたらいいんですけどね…途中までならご一緒できますよ」
 囁くマリエさんの真意がわからない。
 彼女が働いてくれるのは明日が最後。これまでは、何にも変わったことは起きなかったけど。
 とにかく、一緒に外出するわけにはいかない。
「1人で大丈夫」
 手早く身支度をして自分の部屋を出ると、マリエさんが玄関まで見送りについてきた。
「気をつけて…濡れないように」
 もしかしたら、このままここにいるべきなのかもしれない。
 でも雨はまだ降っているし、迷っているのが嫌で、ルフィの傘を手に持った。
 小さい頃、雨の日の楽しさを教えてくれたのはルフィだった。落ちてくる雨の中で一緒にはしゃいでずぶ濡れになったことを思い出す。でも、学校の制服は雨の日向きじゃないから。
「行ってきます」
 マリエさんの方は振り向かないでドアを閉めた。


 外に出てすぐに、間違いだったとわかった。一気に走って1本目のロードに乗ってしまおうと思ったのだけど、建物の影から6人、出てきた。多分、男ばかり。ルフィと同じ制服を着ている。一瞬、ルフィの友達だったらいいと思ったけど、ダメそうだ。先頭に立ってわたしに近づいてくる一番背が高くてがっしりした男の顔に浮かんでいるのは、なんともいやな感じの笑いだったから。
「モンキー・D・ルフィの妹だな」
 いや、姉かもしれないんだけど。本当の誕生日は知らないから。
 わたしはそっとポケットの中の端末のボタンを押した。
「こいつ、今…!」
 目ざとい1人が声を上げた。でも、「ガッシリ」は動じない。
「ガードマンが来る前に、いなくなっちまえばいいのさ」
 その手にはスタンガンがあった。
 1人の女相手に。まったく。怖がりたくないから、怒った。もっともっと。怒る理由を探した。
 身体も抵抗したけれど、やっぱり敵わなかった。身体につきつけられた熱さと痛み、そこからはじまる痙攣の中で意識が遠くなった。
 過保護だったな、ほんとに。そう思いながら目を閉じた。
 悔しすぎる。最後までそう思っていた。


 全身に水を浴びせられて、意識が戻った。
 わたしの身体は冷えたコンクリートの床に横たえられていた。そっと頭を動かすと、天上や壁が見えて、そこがお決まりのどこかの倉庫らしいとわかった。
 手首と足首が縛られていた。
 濡れた衣類が気持ち悪い。男たちが笑う野卑な声よりもずっと。
「もうしばらくしたら、兄貴が来る」
 ルフィは何に巻き込まれたのかな。強いからかえって楽しいだけの学校生活じゃ終われないってことなのかもしれない。憧れと嫉妬と。大変そうだ。
 黙って「ガッシリ」の顔を眺めていると、苛つきはじめるのがわかった。
「何かしゃべんな」
 ほんとは泣いてほしいのかもしれない。大きくなったいじめっ子。
「まあ、いいさ」
 「ガッシリ」が顎で合図をすると、子分たちが寄ってきて、手と足のいましめを解いた。そして代わりに自分たちの手でわたしの手首と足首を床に押さえつけた。手も足もぐっと開かされて、かなりいやな状態だ。
「支配してやる、お前を抱いて」
 聞こえた台詞の内容に激しい怒りを感じた。
 どこで見つけてきた台詞かわからないけれど、本当に信じて口にしてるのかな。
 力ずくで『抱けば』わたしが降参して言いなりになると?
 人質にしたつもりなら、それらしい扱いをしなきゃいけないんじゃないかな。頭に血を上らせてどうするんだろう。
 わたしの中の冷たい怒りは自分の心を守るための本能だとわかっていた。
 深く誰かと抱き合った経験はないから、具体的にどういうことになるのかも実はわからない。言葉だけの知識が上滑りする。
 でも。脅えてもなんにもならないから。状況をしっかり見て判断しないといけないから。
 わたしは黙っていた。
「すげぇ赤い髪だな」
 乱暴な手が髪を掴んで思い切り引っ張った。痛みでにじみそうになった涙を押しとどめる。
 自分の純潔をどこまで守るべきか。自分にとってどのくらい大切なのか。落ち着いて考えようと思った。もしも身体をボロボロにされたら、エースの、ルフィのわたしを見る目が変わってしまうんだろうか。
 いや、そんなことない。きっと。
 「ガッシリ」がわたしの身体を跨いで膝をついた。冷たい手が顎にかかったかと思うと、いきなり唇に噛みつかれた。また、涙が出そうになった。それでも、しっかりと男の顔を見上げた。その顔に浮かび始めたのは、焦りだったかもしれない。
 口の中に血の味が広がった。
 なんだか寒い。
 相手が泣かなければ、いじめる方は楽しくない。やりにくい。
 「ガッシリ」の動きが止まった。
 今度はきっと殴られる…そう思ったとき、大きな音がした。
サクヤ~~~~!」
 ルフィの声が響いた。
 手足を掴んでいた男たちが離れ、「ガッシリ」がわたしの身体を引き起こして後ろから首に腕を巻きつけた。
 飛び込んできたルフィは肩で息をしていた。
 走ってきてくれたんだ。
 ルフィの顔に爆発寸前の怒りが見えた。身体を取り巻く雰囲気が場を圧倒する。
「大丈夫か、サクヤ!」
「うん」
 答えると首を絞める力が増した。
「大丈夫じゃねぇだろうが!おい、ルフィ!これで形勢逆転だ。おまえのシマは俺がもらう」
 「ガッシリ」が胸を張ろうとしたが、ルフィの周りの空気が燃え上がった。
「シマぁ?お前、そんなくだらないもんのためにサクヤを…。俺はシマなんていらねぇって言ってるだろうが!」
 「ガッシリ」の身体がわずかに後ろに退いた。
 ルフィの相手になる器じゃない。
 今がチャンスだろうか。わたしが決断しかけた時…
「お前の小さなシマはなぁ、そっから上の大きなシマに繋がっていくんだよ、モンキー・D・ルフィ」
 背後から新しい声と人の気配がした。かなりの人数だ。
「なんだ、てめぇら?」
 気配はドンドン近づいてきて、わたしの周りを取り囲んだ。スーツ姿の男たち。こっちは、ちゃんとした大人だ。
  「ガッシリ」の腕がわたしを抱えなおした。ボスの登場に安心したんだろう。
「そのレディはお前にゃ勿体無い。しっかり捕まえとけ。あとで挨拶したいんでな」
 B級映画の台詞みたいな言い方。「ガッシリ」はこの男の口調を真似してたんだ。こっちの方がちょっと本物らしい。
 でも、気味が悪いことに変わりはない。大人がガリガリ痩せっぽちの子ども相手に使う台詞とは思えない。…そういう趣味なら、もっと嫌だ。
「も~、何言ってんのかわかんねぇぞ、お前!」
 ルフィが叫んだ。
「俺はお前たちの兄貴、さらには父親に用があるんだよ!」
 エースとシャンクス。
 やっぱり、わたしには見えない世界が絡んでたんだ。
 2人がそれぞれに進もうとしている道を遮ろうといている連中なんだ。
 ルフィの顔を見ると、同じ怒りを感じているのがわかった。
 2人の邪魔はさせない。絶対に。
「ルフィ!」
 合図に一声叫ぶと同時に、すばやく右手をスカートの下に入れ、右足のももに巻きつけてあるホルスターから銃を引き抜いた。
 「ガッシリ」の腕を打ち抜いて、そのままルフィのところへ走る。
「そこにいろ!」
 すれ違いにルフィが男たちの中に飛び込んでいった。一体、何人がルフィに襲いかかっているのだろう。30人近い数に思えた。1発も無駄にはできない。この銃は10連発でさっき1発使ったし、サブの弾薬は家にある。
 男たちを殴り倒していくルフィの姿が見えた。
 ルフィの身体にも何発も拳が食い込んでいく。
「このぉ~~~!」
 ナイフを抜いた男が何人もいた。その中から1人がこっちに突進してきた。
 無謀だ。わたしは銃を持っているし、ちゃんと撃てることはさっき見せたのに。
 突っ込んできた奴を最初に、それから狙いを定めて次々に引き金を引いた。
 ナイフが床に音をたてて落ちた。男たちは手を押さえて膝をついたり転がったりした。わたしみたいな小娘にやられるから余計にダメージが大きいのだと、射撃を教えてくれた人が言っていた。ギャップ。そうだといい。
 相手の数は大分減ったが、それでも多かった。
 ルフィはまだまだいけそうだったけれど、もう顔が腫れあがっていた。
「ルフィ」
 床のナイフを拾った。ルフィを助けたかった。そして、怖かった。銃とは違ってナイフを使うとこの手に感触が深く残るだろう。
 でも。弾丸はあと1発。これはとっておいた方がいい。
 ルフィと目が合った。
「そこにいろ、サクヤ!俺は負けねぇ!」
 うん。ルフィは負けない。でも、傷ついてる、たくさん。
 わたしはナイフをしっかりと握りなおした。
「女子供を盾に取る下衆野郎が!」
 場内に、一喝する声が響いた。その声を聞いた瞬間、突然湧き上がった涙が落ちた。ダメだ、今は。泣いてる場合じゃない。
「エース!」
 ルフィの声が思い切り元気にその名前を呼び、大きく手を振った。
 戸口にはエースと、その後ろに知らない2人の姿が立っていた。
 金髪と緑色の髪。1人はスーツ、もう1人は裾が膝にかかるくらいの長さのジャケットを着ている。静かにあふれ出す物騒な雰囲気は、ルフィの周りのスーツ男たちとは一味違いそうだった。
 3人はそのままわたしの横まで歩いてきた。その間、誰も何も言わなかった。
「こんなの、捨てな」
 エースはわたしの手から静かにナイフを取ると、床に落とした。
「ちゃんと最後に1発残したんだな」
 エースの腕がそっと身体に回された。
「来たな、ポートガス・D・エース!!」
 どこまでもB級映画調のボスが声を上げたが、エースはそれを無視した。
「悪いな、三下相手で」
 エースが言うと、一緒にいた2人はそのまま男たちの方に歩いていった。揺るぎのない後姿。エースに似ていた。
 1人がすれ違う時に煙草に火をつけた。
 もう1人はなぜかジャケットの下に刀を帯びていた。耳の3連ピアスが光った。
「ほんとはちゃんと自分でぶん殴ってやりたいけどな。…ま、いい」
 エースの手がわたしの顔を起こし、指先が唇に触れた。痛みが走った。
「ひどいことしやがって…」
 ジャケットを脱いで肩に掛けてくれる手があたたかかった。
「あいつ、相変わらず、強いな」
 嬉しげに目を細める視線の先には、ルフィの姿があった。
 そこにさっきの2人が加わった。そして、その途端に戦いは終わった。壮絶な一瞬だった。
 やられた男たちも何が起こったかわかっていないかもしれない。それほどに、3人は強かった。
「お前ら、強いな~~~」
 ルフィが笑った。
「エ~ス~!サクヤも1発も外さなかったんだぞ。やっぱ、すげぇ」
「そうか」
 エースも笑った。
 震えないように身体を硬くしている自分の方がおかしいみたいだった。
 気がつくと、金髪の方がこっちを見ていた。眉をしかめている表情は同情してくれているらしい。
 もう1人の刀の方は黙ってエースを見ていた。
「2人は、サンジとロロノア・ゾロだ。シャンクスがサクヤのボディガードを頼んだ」
 え…?シャンクスって…どうして?
「で、これがサクヤで、そっちがルフィだ。しばらくお互い一緒にいる時間が多くなるだろうけど、ま、よろしく頼む」
 首の後ろに回ったエースの手が、わたしの頭を軽く下げさせたけど、わたしは何の事だかよくわからなかった。
 さっきの言葉が…。
「あとは家に帰ってからな」
 耳元でエースが囁いた。




 5人でロードを乗り継いで家に戻った。
 その間、エースはずっとわたしの肩を抱いててくれた。わたしたちの後ろで、ルフィはあとの2人に楽しそうに話しかけていた。口数少なかった2人も、段々とルフィのペースに乗せられて、時々笑い声も聞こえるようになっていた。
 エースは事情を話してくれた。
 マリエさんが姿を現した頃から、マンションの近くであまりいい雰囲気ではない男たちを見かけるようになったこと。
 同じ頃にシャンクスがエースに電話してきたこと。珍しいことではなかったが、今回シャンクスに絡んできた組織のトップが妙に強気な態度をとりはじめたという。それでシャンクスは相手が自分の家族に狙いをつけたのではないかと感じた。
 その頃、ルフィの学校にもあの「ガッシリ」が現れて、突然ルフィの行動範囲を荒らし始めた。元々ルフィはどこのリーダーでもないのだが、ルフィの性格や強さを慕う学生は多く、端からみれば立派なグループに見えたらしい。
 ルフィは喧嘩相手が増えたくらいにしか考えていなかったし、エースはしっかり確証を掴むまでシャンクス以外にこの話をするつもりはなかった。その確証をエースが掴んだとき、シャンクスはわたしたちから離れているだけに不安を感じた。ルフィはまだ学生で、エースは最近自分の世界を築き始めている。そしてわたしは…銃の弾薬が切れたらそこまでの…とはエースは言わなかったけれど。
「男に生まれたかったな…」
 思わず、呟いた。ルフィはあんなに強くて、エースはそのルフィに負けたことがなくて、その2人のずっと向こうにシャンクスが存在している。こんなに強い男たちに囲まれている自分はどうしても女で、絶対にかなわない。男だったら、多分事情は少しは違ったのに。
 わたしを見下ろすエースの視線は静かだった。その瞳に浮かんでいるのはなにか真剣な表情で…これまで見たことがない気がして、胸がギュッとなった。
 でも、エースはすぐに微笑んだ。そして、わたしの肩をポンポン叩いて引き寄せた。
「バァカ。サクヤが女だから、俺たちこんなに頑張れるんじゃねぇか。お前は強いよ。油断してたらこっちが勝てるのは筋肉だけになっちまう。それにな…」
 エースの口調が真面目になった。
「俺も、ルフィもシャンクスも、できればお前に銃を使わせたくねェんだ。甘いってのはわかってるし、これからもお前には撃たなきゃならないときが、きっと結構来る。でも、1回でもその回数を減らしたい」
 何も言えなかった。
 震えるほど…嬉しかった。
 でも。
 ボディガードというのはやっぱり…。
 エースがクスクス笑った。
「別に1日中守ってもらえなんて言わねぇよ。あいつらにもいろいろやることがあるみてぇだし。ただ、シャンクスが折り紙つきで送り込んできた2人だ。必ずお前とルフィの力になる。2人とも今日ここに着いてな、俺はただ、この街が初めてなあいつらの案内役だったんだ。そしたらお前からのシグナルがきた。…間に合って本当によかった」
 エースの声が少しだけ震えた気がしたけど、聞き間違いかもしれない。
 幼い頃からずっとずっとエースに守られてきた。だけど、今日からはあの2人がいるんだね。
 エースが少しずつ遠くなってしまう気がした。
 でも言える言葉はなかった。


 マンションに戻ると、やはりマリエさんの姿はなかった。無人のフロアのどこにも、香水の残り香さえなかった。
 きれいな人だったな、と思った。親しくはなれそうもないわたしたちだったけれど、彼女も自分の心に強い信念を持っていたのだろうか。そうだといい。操られるだけなら、悲しすぎる。
 濡れたせいでかなり身体が冷えていたので、バスタブに湯を張った。
 あいつに触られた髪を最初に洗った。それから顔。唇はかなり腫れ上がっていて、石鹸と湯がしみた。
 鏡を見るのはやめておこう。
 髪にタオルを巻きつけながら居間に戻ると、キッチンから良い香りが漂っていた。
サクヤ!こいつ、すげぇ、料理うめぇんだ!」
 ルフィがキッチンから飛び出して迎えてくれた。口をモグモグさせているところを見ると、何か一口いただいてきたらしい。
 居間のくつろぎコーナーではエースと剣士さんがグラスを持って言葉を交わしているから、料理上手は足技がすごかった眉毛さんの方だろう。
 …名前は…。
 ゾロとサンジ。
サクヤ、つきあえよ」
 エースが自分のグラスに氷を足してわたしにくれた。
 笑顔を見ると自然と緊張が解けた。
 エースの隣りに座って一口飲むと、冷たくて燃えるような味が喉を下っていった。それと一緒にグラスが触れた唇が痛くて、思わずしかめ面をしてしまった。
「あの人と同じ色だな」
 言ったゾロの目はわたしの頭を見ていた。タオルの重なりの間から、髪の毛が見えているんだろう。本当の娘に見えているのかな。
 ゾロが口にした「あの人」という声の響きは、なんだか心を動かされた。静かで自然なのになんだか厚い。この人がシャンクスとどういう出会いをしてどんな時間を重ねてきたのか、いつか訊いてみたい気がした。
「メシだぞ~~~!肉!肉がいっぱいだ~~~~!」
 ルフィとサンジがそれぞれ大きな皿を2枚ずつ運んできた。
 見慣れない感じの美しい料理が見事に盛り付けられている。これは家庭料理じゃない。レストランの極上コースだ。
 サンジはさりげない動作でみんなに取り皿を配り、どこから見つけ出したのかわからないワインをグラスに注いだ。
「コックの腕も一流で、最高のウェイターなんだってな、プライヴェートでは」
 エースが言うと、サンジはきれいに一礼した。
「サンジ、食っていいか?腹へった~~~」
 すっかりなじんだ雰囲気のルフィを見るサンジの口元に笑みが浮かんだ。
 ルフィはといえば、彼の返事を待たずにいつもどおりの食欲を爆発させていた。
「うめぇ!うめぇぞ、サクヤ!ほら、これも!これも!」
 ルフィの困った癖は、自分がおいしいと思ったものをわたしの皿にもひとつずつ載せずにはいられないこと。子供の頃からの癖だ。
 エースとは時々残る一つを奪い合ったりするのだけど。
 でも、エースがそんなところを見せるのは家族だけの時だけだ。
「ったく…」
 エースがそっとわたしの皿の料理を一緒に食べてくれる。
 ルフィが絶賛するだけあって料理はどれも美味の極致で、いちいち痛む唇が恨めしかった。
「寝る前に、消毒な」
 ほんと、エースは何一つ見逃さない。
 食事をしながらこれからのことを話し合ったので、どんどん時間が過ぎた。
 ゾロとサンジは緊急時以外は彼らの都合に合わせて姿をみせることになった。出来る限り夕食を作る時間に来てくれるとサンジが言ったのは、どうやらルフィの食べっぷりが原因らしい。
 ゾロはほとんど口を開かなかった。
 2人とも、やはりシャンクスが信頼しているだけある。そんな気がした。戦っている時のすさまじさと今こうしてくつろいでいるときの雰囲気の違いは、シャンクスやエース、ルフィと同じだ。
 いつの間に準備したのか、サンジが紅茶を運んできた。大好きな香りが鼻をくすぐる。
 もしかして、と思って時計を見たら、やっぱり三時だった。半日遅れだけど、同じ時間。家族が揃うのも珍しいのに2人もお客さんがいるんなら、これはもう立派な三時のお茶会だ。
 熱いお茶が思いっきりしみた。思わず落としそうになったカップを慌てて掴みなおすと、目の前にストローが差し出された。
 ゾロ。
 バーカウンターの奥には確かにストローがあったけど、いつの間に見つけていたんだろう。
 無言の彼につられて黙って受け取ると、すぐに視線をそらされた。
「危なっかしくて見てられないってよ」
 エースが笑った。
 ルフィもニシシ…と笑った。
 …いいチームかもしれない。
 結局サンジは皿洗いまでやってくれて、わたしとルフィが拭いて片付けた。
 それから2人は夜の街へ出て行った。明日の…いや、今日の再会は最初に思っていたほど困ったり照れたりしないで済みそうだ。
 疲れていたし普段よりもおなかいっぱい食べたので、ベッドに入った途端に瞼がくっついた。
 一瞬で深い眠りに落ちたはずだけれど、不思議な夢を見た。
 エースが静かに部屋に入ってきて、眠っているわたしを見下ろした。わたしはそれがわかるのだけど、身体が動かなくてそのままでいるしかなかった。
 エースの顔に浮かぶ表情が見えなくてじれていく心を抑えていると、エースが黙って身を屈めた。
 次の瞬間。
 真っ暗になった視界の中で、わたしの唇にあたたかなものが触れた。痛みよりも驚きと甘さが残った。
「消毒、おわり」
 エースが小声で呟いた。
 夢なのに。
 あまりにあたたかくてやさしいその感触で。
 溢れ出した涙はずっと止まらなかった。


 朝。
 思わず飛び起きたわたしは、手の下の枕がなんだか湿っている気がした。
 ほんとに泣いてたんだ。あの夢が…嬉しくて。
 ダメだ。抱えきれないこの感情を殺すには、いそいでもっと成長しなくては。大きくなって、強くなって、全部自分の中で大切にしまって置けるくらいに。
 それでも、起きるまでのあと10分、夜の夢を思い出していよう。
 目覚まし時計が鳴ったら、心のスイッチを切り替えよう。

 枕を強く抱きしめた。


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