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雪上の足跡

 眩しくて今この目で見ることはできないけれど、太陽はあそこにある。
 白く夏空に浮かぶ薄い雲のすぐ向こう。
 この熱い空気の原因になっているのがあの太陽だけれど、わたしは少しホッとしている。夏は妙に涼しいよりもやはり暑いほうがいい。暑い暑いと言いながら 結構いろいろ楽しめるから。
 暑いからという理由でルフィはサンジ君を説得して寿司桶に山盛りのかき氷を作ったし。
 暑いぞ!とぐったりしながら昨夜はテラスで扇風機を回しながら夕飯を食べた。
 考えてみれば室内は冷房完備なのだから家に閉じこもっていれば体感気温は快適なわけだけど。
 夏にしかできねェことってのがあるだろ?
 ルフィが言い、サンジ君が言い、最後にはゾロも言ったこの言葉は魅力的に耳に響いた。
 それに。
 太陽の位置から目を動かして、そっとエースの後姿を見た。
 似てる。
 エースはどこにいてもすぐわかる。大きくて眩しくて太陽みたいだ。
 だからわたしが太陽を好きなのだとしたら…それはちょっと考え物かもしれないけれど。
「祭りだ~~~!」
 目を覚ました時からこうやって元気を発散させてきたルフィは大好きな麦わら帽子をかぶっている。
 その隣りを歩いているゾロは腰の刀を目立たせないためにやはり長いコートを羽織っていて少し気の毒だ。袖なしのデザインで生地もできるだけ薄いもので仕立ててあるので、見た目には夏らしくて素敵だ。
 サンジ君は鮮やかな花柄のアロハに膝丈までのパンツ。すごい。今のわたしたちの中で、一番夏らしい。普段のスーツのイメージが強いの で、わたしはいつまでも見飽きない。裸足にサンダルという足元も珍しい。それでも蹴り技の威力は大丈夫なのだそうだ。
 そして、エースの後姿。
 エースはいつもの休日と変わらないスタイル…Tシャツ、ジーンズ、ピアス、ミサンガという格好で、足だけはショートブーツではなくて素足にサンダルを履いている。いつもと同じ。なのにわたしの目はついついエースを追ってしまう。懲りないヤツ、というのは丸ごとわたしのことだと思う。
 そんな時、エースが振り向いた。
「キツイか?浴衣」
 浴衣を着た朝のことを思い出し、思わず頬が熱くなった。
「浴衣、すげェ似合ってるよ~!サクヤちゃん」
 サンジ君の声が悪戯に羞恥心をあおる。
「かっこいいぞ、サクヤ!そっか、もしかしたらナミも浴衣着て来んのかな」
 …それはそうだと思う。わたしが浴衣を着なくちゃいけなくなったのは、ナミが電話をくれたからなのだから。

 コンテスト、出るわよ! サクヤならお兄さんが見立てたバッチリな浴衣、絶対持ってるでしょ?それをちゃんと着て来るように言ってね。あとは時間厳守。2時半までには会場に来て。

 …というのが昨夜ナミがルフィにくれた電話の内容だったらしい。
 確かにわたしの浴衣は毎年エースが選んでくれることになっていて、今年も一緒にお店に行った。でも、どうしてナミにそのことがわかってるんだろう。それに、コンテストっていうのは。
 疑問がいっぱいで何一つ納得できていないまま、わたしは浴衣を着た。
 …着せてもらったという方が正確だ。
 だから、わたしは実は今も心の半分がどこか宙に浮いてしまっているのかもしれない。


「買っといてよかったな、浴衣」
 ノックの後で顔を覗かせたエースはそう言ってニッコリ笑った。
 わたしは浴衣は1人で着ることができる。着た後でいつも多少の手直しは必要になるけれど。
 でも、帯は結べない。だから、エースが結んでくれる。
 それはいつからだっただろう。フーシャ村にいた頃、わたしたちがうんと小さな頃はマキノさんが結んでくれていたのを覚えている。それが、いつだったかの夏、エースが笑顔一杯でマキノさんが縫ってくれた浴衣を抱えてきてくれたのだ。今すぐ着てみろとエースは言い、一生懸命に帯を結んでくれた。びっくりした。これからずっと俺が結んでやるな、と言われ、返事が出てこないほど嬉しかった。マキノさんの手は柔らかくて大きくてとても優しい手だったけれど、エースの手はとてもあたたかかった。その後、シャンクスがわたしたちの保護者になって、シャンクスはわたしの帯を結びたがってくれたけれど、エースは譲らなかった。わたしはそのことがとても嬉しかった。
 ごめんなさい、シャンクス。
 そう。
 ずっとずっと、エースに帯を結んでもらうのが嬉しかった。恥ずかしかったけれど幸せだった。今もそれは変わらないんだけど。
 でも。
「ああ、やっぱりいい柄だ。すげェ、似合う」
 歩いて来たエースはわたしの周りを小さく一周した。
「ん…襟元がちょっと窮屈かな」
 エースの手がそっと襟を直してくれる。
 浴衣に指先が触れる前から手の温度を感じるように思ってしまうのはなぜだろう。
「先に髪、上げるか」
 エースの手が肩にのり、わたしを鏡の前に連れて行った。
「ほら。座って楽にしてろ」
 エースは慣れた感じでトレーの上にブラシ、櫛、ピンを並べる。
「お前の髪には余計な飾りはいらないからな」
 ブラシの毛先がスッと髪の中を通り過ぎると思わず小さく震えてしまう。自分で梳かす時には何ともないのに、まるでブラシがエースの手であるように感じてしまうからだ。
「痛かったか?」
 言いながらエースは笑う。その笑みは、わかってるぞ、と言っている気がしてくすぐったい。
 エースの手が器用に髪を束ねて首の後ろで綺麗にまとめる。わたしは首を剥き出しにするのが嫌いで、そのことをよく知っている。
 マキノさんも触ったことがないわたしの髪。
 鏡の中にエースの真面目な顔が見える。
 何本もピンを咥えている唇が好きだ。
 そう思った途端に顔が赤くなり、赤くなった途端にエースが鏡の中でわたしを見る。
「ん?」
 ピンを咥えているから言葉を出せないエースは代わりにわたしの目をじっと見る。全部わかられてしまうのが怖くていそいでわたしは笑顔を作る。
「すごいね。わたしは自分じゃこの髪をどうすることもできないのに。重いでしょう?」
 エースは手早くピンを差し込み、仕上げにスプレーをかけた。
「あのな、もう何年こうやってお前の髪に触ってると思う?腕が鈍ると他の人間にこの役、とられちまうだろ?」
 そんなこと、ない。わたしはずっとエースがいい。
 でも、こんなこと、言えないよね。
「さて、仕上げは帯だな。締めるときっと映えるぞ、すごく」
 今年エースが選んでくれたのは髪と同じ深い赤い色の帯だった。わたしにはかなりな冒険に思えた。真っ白な地に漆黒で描かれた幻想的な花々がくっきりと浮かび上がっている浴衣。店の人のお勧めも2つに別れた。柄に合わせた黒っぽい色を勧めてくれる人と、エースが選んだ赤を誉めてくれる人と。わたしがどちらを選ぶかは最初から決まっていた。
「まだちょっとだけ背が伸び続けてるかな」
 立ち上がると帯を持ったエースが前に来た。
 怖い。
 いや、違うんだけど、これの次が一番緊張するとわかっていてそれで心臓が速いのだ。
 帯を持ったエースの手が左右に広がって…こうしてわたしの身体に回る瞬間が。
 エースの体温とコロンの香りと、いろいろなものに包まれているように感じる瞬間。
 エースの体温には慣れているはずなのに。
 でも、エースがわたしにくっつく時はいつも背中からだから。
「苦しくないか?」
 腰の周りを帯が一周した。
「うん。ちょうどいい」
 少しきついくらいじゃないとすぐに緩んでしまうから。
 二週目、そして三周目。
 かがんでるエースの髪が頬に触れた。
「細いな、やっぱり」
 小さく言ったエースの声を聞くとなぜか全身が熱くなった。
 慌てたときにはエースは背中側に回ってしまっていたから、ホッとした。
「ちょっと古風に…と。ほら、できた。浴衣美人の完成だ。鏡、見てみろ」
 去年より大人っぽい柄の白い浴衣。深紅色の帯。柔らかに結われた同じ色の髪。
「自慢、自慢。ほんと、幸運な兄貴だろ?一緒に行けてよかったぜ。じゃなかったら勿体無くて誰にも見せられねェ」
 エースの笑顔が眩しくて、照れ臭くて、わたしは毎年上手く返事ができない。
 夏祭り。
 今年もエースと一緒に行ける。
 わたしは嬉しくてしかたがなかった。
 行くことが決まった昨夜からずっと胸が高鳴りっぱなしで、多分あまり眠れていない。
 心の中がエースのことでいっぱいで。
 ただ、嬉しくて、嬉しくて。

 そう。この時には想像さえしていなかった。この夏祭りがきっかけで今年の夏が一気に心揺れる夏になるような出来事が起こるなんて。夏とは正反対の季節の記憶を少しだけ覗くことになるなんて。
 何も知らないわたしは、わたしたちは笑い合いながらおしゃべりをしながらお祭りの会場に出かけて行った。
 食うぞ~~~!と叫んだルフィの声と、1人下駄を履いているために遅れがちなわたしに差し出されたエースの手。その両方が原因で顔一杯に笑った。
 今最初に思い出したのはあの嬉しさとエースの手のあたたかさだった。


 ナミの浴衣姿はとても素敵だった。みかん色の浴衣。この色をここまで着こなせるのはわたしだけよ、と笑った。
 早速サンジ君がうっとりとして誉めた。サンジ君の場合、心の底から賛美してくれているのがわかるからか、ナミは笑いながら嬉しそうだった。
 すげェな、かっこいいな、お前…そう言いながらルフィがナミの隣りに行った時、あ、と思った。わたしにくっついてじゃれてくるルフィとは違う。嬉しさいっぱいの笑顔は同じだけど、横顔が。
「ん?」
 見上げるとエースは首を小さく傾げた。それからルフィのほうを見て目を細めた。
「大事にしてんだろ、あいつも。ま、まだ無自覚の可能性もあるけどな。それでも少し、男っぽくなったよな」
 そうか、『男っぽい』。さっきルフィの横顔に感じたものはそれだったんだ。どこかエースと印象が重なる横顔。そう言えば…わたしは小さな頃からエースのことをルフィと全然違う感じに見てきたんだ。エースだってまだほんの子どもだった時もあるのに、わたしにとってエースはずっと大きくてあったかい存在だったから。
 繋いでくれてた手も。
 負ぶってもらった背中も。
 顔の表情の一つ一つも。
「なんだ、寂しいか?」
 くしゃっというエースの笑みとともに大きな手が頭にのった。でも、せっかく結った髪を壊してはいけないと思ってくれたのだろう。エースの指が髪の中を通ることはなく、ポンポンと軽く叩かれた。
 わたしは首を横に振った。
「じゃなくてね。ルフィが素敵に見えて嬉しいし…でも、何だか照れ臭くて。おかしいよね」
 笑うとエースが笑みを深めた。
「わかるぜ、それは。あのな、俺は浴衣姿のお前を見るたんびに同じなんだって。ルフィのは同じ男として誇らしい、で済むけどな、お前のは…ま、少々厄介だ。絶対誰にもやんねェ!とかいう決意を新たにしちまうから」
 わたしも。
 わたしもずっとエースの傍にいたいよ。
 心の中のこの言葉をエースには言えなかった。
 でも、もしかしたら。真っ赤になった頬と涙が落ちないように慌ててした瞬きが、代わりにエースに何かを伝えてしまったかもしれない。
 エースはわたしの顔をじっと見て、また手を繋いでくれたから。


 ナミが言ったコンテストというのが、『浴衣見返り美人コンテスト』という物凄いタイトルのものだと知った時、一瞬、本気で家に逃げ帰ろうかと思った。2人1組でエントリーするのだが、『美人』の対象は決して女性だけではなく浴衣を着ていれば男性2人組も大歓迎らしい。
 …ゾロとサンジ君、とかエースとルフィとか、知っていれば巻き込むことができたのに。後で知ったのだけど、ナミは当たり前だが男性参加OKなことも知っていたのだという。でも、ナミが目指しているのはあくまで優勝なわけで、それには強敵は一組でも少ない方がいいと判断してわざと情報を伏せておいたんだというのだけど。ナミらしい、のかな、これは。
 優勝商品はクリスタルタワー内のスポーツジム&エステルームの1年間有効なパスポート。このタワーの施設はどれも人気がある上質なものだから、数量限定で発売される年間パスポートは発売と同時に完売になってしまうのだ。
「ええと…ナミ」
 口ごもるわたしの背中をナミは勢い良く叩いた。
「わかってる!トークもアピールも全部わたしがやるから、サクヤは一緒にいてくれるだけでいいの。あなたはそこにいるだけで十分人の注目を引っ張れるから」
 どうやらナミは怖気づいたわたしを励ましてくれている。
 これから登るステージを目の当たりにして、わたしは情けないことに足が震えていた。
 訳が分からないままとはいえ約束したのだし、ナミのためなら頑張ろうと思う。思うのに、小刻みな震えが足から全身に広がっていく。
 大丈夫なのだろうか、あんなに明るいところにのこのこ出て行って。
 ちゃんと歩けるだろうか、こんなに震えているのに。
 わたしは自分でも大げさだと思うくらい唇を噛んで、そっと一歩を踏み出した。


 覚えているのはエースの手。
 ステージに登る時まで肩を抱いていてくれて、それから静かに背中を押してくれた。
 頭の中が真っ白で何一つ覚えていないわたしがステージを下りていくと、すっと手を差し出して掴まらせてくれた。わたしはそのままエースの手を握りながら ぼんやりとステージの上の明るさを眺めた。
 結局、ナミとわたしは1等から3等までには入賞できなかった。でも、驚いたことに、『特別賞』を貰ってしまった。クリスタルタワー展望レストランのペア食事券を2組。本当にびっくりした。ナミがものすごく喜んだので、わたしも嬉しかった。
「食事券、ねぇ」
 呟いたナミの目がちらりとルフィの姿を追ったと思ったのはわたしの勘違いだろうか。食事といえばルフィ、という連想がわたしの中で条件反射になってしまっているからかもしれないけれど。
「あァ、ホッとした」
 エースが呟いた。
「そんなにハラハラさせた?…あのね、わたし、ステージの上のこと、全然覚えてないの」
「いや、お前とナミちゃんが優勝しなかったのは絶対に何かの間違いだと思うぞ?どう見たって優勝だろう。…だけどよ、そんなお前を誇らしく感じてても、やっぱりそんなにジロジロ見るな!っていう方が気持ち的に強くなっちまって。だから、終わって、すげェホッとした」
 エースの手が今度は遠慮なしにわたしの髪をクシャクシャ撫ぜた。
「もう、解いちまおう。お前の髪はこのまんまで十分綺麗だ」
 エースの指が首に触れて髪を解き、櫛の代わりに梳いてくれた。その時、指先が髪の生え際に触れた。我慢できずにビクッと身体が震えてしまった。
「悪い。まだ、平気じゃなかったんだな」
 言ったエースはゆっくりと髪の中の傷を1度だけ撫ぜて指を離した。
「大丈夫…エースの手なら」
 思わず本音が唇から零れた。
 首の後ろの短い傷跡。幼い頃、気がついた時にはその傷はもうここにあった。それができた時のことをわたしは覚えていない。エースに会う前にもうついていた傷。理由もなくとにかくその傷が嫌で、隠すことが出来るように髪を長く伸ばした。
「もう一度…触れてもいいか?」
 低く囁いたエースの声に小さく頷いた。
 軽く柔らかく温かく…癒すように動くエースの手の熱に、今度は身体の芯が密かに震えた。


 パンの中で、ベーグルが好きだ。いつも行くベーカリーには残念ながらベーグルはないから、食べたくなるとホッパーを飛ばすことになっていた…この間までは。
 ところが。
 サンジ君がベーグルを作ってくれると言ったのは、夏祭りの余韻が残る翌日のことだった。慣れない浴衣とステージのために寝坊したわたしが起きていくと、腰にエプロンを巻いたサンジ君が迎えてくれたのだ。
「おはよ~、サクヤちゃん。いい夢、見られた?」
「ううん…何か夢の中まで緊張してた気がする。何度も目を覚ましたから、今が何時かわからなくなってた」
 だから、今朝はエースに会えなかった。聞かなくても分かる。エースの気配はない。おはよう、を言い逃してしまった。昨日はその幸運が信じられないほど ずっと一緒にいたから、今隣にエースの声や笑顔や体温がないことを涼しいと…寂しいと感じてしまっている。
 そんなわたしの前にサンジ君がコーヒーを置いてくれて、今ベーグルの生地を練っているところだと教えてくれた。
「ベーグル、好きでしょ?ブランチに特製サンド作るから、ちょっと待ってて」
 誰に聞いたんだろう。
 わたしの身体はまだ眠っていてとてもすぐに朝食を食べられる気分ではなかった。まるでそのことを知っているように、サンジ君はニッコリと笑った。
 ベーグルは本当に焼く前に1度茹でるパンなんだ。
 時々思い出してはコーヒーを啜りながらキビキビと動く後姿を眺めた。
 ゆっくりと時間が過ぎていく。その中でようやく気持ちと身体が目覚めた気がした。
 その時、キッチンに入ってきたゾロが冷蔵庫を開けてオレンジジュースのボトルを取り出した。
「お前も飲むか?」
 わたしが返事をする前に、ゾロはグラスを2つ、並べていた。
 地下でトレーニングをしていたのだろう。首にタオルを巻いたゾロの額にはまだ汗が浮いていた。
 冷たいオレンジジュースは喉を心地よく滑り落ちた。
 ドスン、とわたしの向かいに腰を下ろしたゾロは、喉を鳴らしながらグラスを干した。
「何か食えるもん、あるか?」
 ゾロの声に振り向いたサンジ君は眉を顰めた。
「あのなぁ、お前、最近ルフィに似てきやがったな、クソマリモ。今、俺は入魂してサクヤちゃんのベーグルを作ってるところなんだぞ。少しは大人しく待ってろ。そしたら、お前にも食わせてやる」
「腹が減った」
「か~~~っ!聞いてんのか、人の話を!…ったく!少しも待てねェのか、胃袋マリモ。」
 何だかんだ言いながらサンジ君はしゃがんで冷蔵庫を覗いている。
 『食いたいヤツには食わせる』のがコックだと時々口にするサンジ君。そして、そのことをよく知っているゾロ。2人を見ているととても楽しい。
 その時、ベルが鳴った。
 反射的に立ち上がったわたしはインターフォンのモニターに目を向け、一瞬動きを止めてしまったかもしれない。
 それは予感とかそういう類のものではなかった。ただ、驚いたのだ。モニターに映っている人の髪の色がわたしはシャンクスとそっくり同じくらい赤かったから。そして、そういう体験は生まれて初めてだったから。
「はい?」
 声は囁きに近くなってしまった。
 モニターの中のその人はゆっくりと口を開いた。
「突然な話だというのはわかっているが、サクヤという人間を探している。警察から住所はここだと聞いたが」
 そう言って男はモニターの前に何か紙のようなものを出した。
 写真、だった。
 そしてそこに映っているのは浴衣姿のわたしとナミ。それは夕べの夏祭りの写真だった。
「そういうあんたは?警察ってのがそう簡単にホイホイと個人の情報を教えるはずはねぇんだがな」
 すっとゾロがわたしの前に立った。わたしたちには男の姿は見えるけれど、向こうにはわたしたちの声しか聞こえていない。その状態であってもゾロが軽い臨戦態勢に入っていることが背中の表情でわかった。
「警察には知人もいるし、それだけの力がうちにはある。俺の名前はカズキ。イシグロカンパニーの子会社をひとつ仕切っている。この写真の サクヤという娘が妹かどうか確かめに来た」
 え…
 ゾロが振り向いてわたしの顔を見た。
 サンジ君がわたしの隣に並んだ。
 今…『妹』と言ったのだろうか、この人は。
 でも、わたしはエースの妹で…エースがわたしの兄さんで…ルフィがいつも一緒で…
 サンジ君の手がそっとわたしの肘を支えた。
「本当に随分突然は話だな。あんたは口ではそうやって色々言えるが、こっちはその話もあんたの身分もまるで知ったこっちゃねぇ。話はまあいいが、とにかく身分を証明してもらおうか」
「…いいだろう。データを送る」
 男はカードを出入り口にある挿入口に差し込んだ。
 ボタンでモニターを切り替えると受け取ったデータが表示された。
 カズキ。
 イシグロ。
 データの中に含まれている名前も写真も確かにこの男が言ったもの、今目の前で見ているのもと同じだった。
 長く伸ばした赤い髪。真っ直ぐにこっちを見ている緑色の瞳。
 もしかしたら年齢はエースを同じくらいだろうか。ふと思ってデータを見ると、確かにエースより1歳だけ年長のようだった。
「ここまでは大丈夫みてぇだが…どうする?サクヤ
「会いたくなかったら無理することないよ、サクヤちゃん。後で、エースさんがいる時に出直してもらうってのもありじゃねェ?」
 どうしてだろう。2人が心配そうにわたしを見てくれた時にわたしが思っていたのは、エースにこの話を知られたくない、ということだった。何かの間違いで ここで終わるならそれでいい。とにかくエースには聞かせたくない…そう強く願っていた。
「うん、大丈夫。ゾロとサンジ君がいてくれるから。話、聞いてみる」
 指先でマンションの入り口の開錠ボタンを押した。どうぞ、とかそういう短い言葉さえ口から出なかった。
 ああ、ベーグルサンドはちょっとおあずけだな、と思った。
 ああ、これじゃあ、まるでルフィみたいだ。心の中で、ちょっと笑った。


 イシグロ・カズキ。
 そう名のったこの人は背の高さがちょうどエースとおなじくらいだ。長く伸ばした髪を1本にきっちりとまとめているけれど、その色は赤。モニターで見たよりさらにその色はシャンクスやわたしの髪の色と似ている。じっとわたしの顔を見ている目は緑色。黙って見返しているわたしはまだ言葉が出ないまま。
 向かい合って座ったソファ。
 わたしの両側をゾロとサンジ君が文字通り固めていてくれる。だからわたしは無理に会話の切り出しの言葉を探さずに、こうして呆けていられるのかもしれない。
 カズキというこの人の目は、あからさまに2人の正体を訝しがっていた。まあ、当然かもしれない。2人の方が多分もっとこの人を怪しんで表情と空気で威嚇しているから。
「…この家の人間か?写真には写っていないな」
 カズキがテーブルの上に置いた写真には、真ん中に笑顔のナミ、その隣りに困ったような顔をしているわたし、そしてそんなわたしに笑顔を向けているエースの姿が写っていた。
「写ってはいねェが同じ会場にはいたぜ?俺たちはサクヤちゃんのボディガードだからな」
「なるほど。この家の人間というより赤髪の子飼いか」
 この人、シャンクスのことを知っている。知り合いなのか知識としてだけなのかはわからないけれど、きっとシャンクスの仕事についてはわたしより詳しいんだろう。
「飼われた記憶はねぇがな」
 ゾロが言い、サンジ君が立ち上がった。
 コーヒーを淹れに行ったんだ。多分、この人に今すぐに動き出しそうな敵意がないと判断して。
 静かになった空気の中、それでもわたしは黙っていた。
 カズキの視線が怖かった。そこに確信の気配が見える気がするから。
 そして、わたしには確信できているものなど何もないから。
「赤髪に子どもはいない。趣味や不用意で外に種を撒いて喜ぶ人間でもないらしい。養子は3人。その1人であるお前には他の2人に共通な『D』という名前がない。最初は祭りの様子を映した報道を見たときの直感だけだったが、辿っていくとお前が妹である確率は決して低くはない。お前は自分がどこの誰なのか…生まれた時に属していた場所や家族の記憶がないんだろう?」
 わたしはエースの妹で。
 ルフィと双子で。
 シャンクスが保護者で。
 わたしという人間の真ん中にあるのはこれだけだ。たしかにわたしを産んだ人を知らないし、どうしてその人から離れたのかも知らない。
 だけど。
「コーヒー。砂糖とミルクはいるか?」
 サンジ君がいつもの綺麗な手つきでコーヒーをサーブしてくれた。
 ゾロがそのサンジ君に目を向け、サンジ君が小さく頷いたように見えた。
サクヤのことを細かく詮索する前に、あんたの方の事情ってのを説明しろ。納得するだけの説明ができるまで俺たちは サクヤに喋らせる気はねぇ」
 ゾロが言い、サンジ君はわたしのカップに一匙の砂糖と一回しのミルクを入れてくれた。大抵はブラックで飲むけれど時々、疲れた時なんかにこうやってミルクコーヒーにする。そのことをいつから知ってたんだろう。
 ゾロの声とサンジ君のミルクコーヒー。
 わたしは小さく息を吐いてカズキの顔を見た。
 カズキの目に浮かんでいる何か。それを怖いと思いながら、改めて見るとなぜか胸を衝かれた。
 カズキはコーヒーを一口飲み、味を評価するようにひとつ頷いた。
「…一方的な態度をとって悪かった。俺は、妹は行方知れずになったままとっくに死んだと思っていたし、これまで赤毛の女を見ても妹だなどと感じたことはない。無茶な話だともわかってる。でも、俺にそうさせるだけの何かがお前の姿にはあった」
 カズキは自分の携帯電話をテーブルにのせ、静かに画面を開いた。
 そこには1人の女性の横顔があった。とても…とても綺麗な人で、口元に微笑を浮かべている表情はどこか寂しそうだった。
「…似てるな、確かに」
 呟いたゾロの言葉に驚いた。
「ああ。サクヤちゃんが大人になる頃、きっとこの人みたいな雰囲気のある美人になる」
 サンジ君まで。
 わたしはもう一度その女性を見た。
 この人にわたしが似ているところといえば髪の色と肌の白さくらいだろう。自分にはそう見えた。
「これは母だ。亡くなるその時までずっと妹のことを想っていた。空のままの墓まで作った妹だが、恐らく最後まで死んだとは思っていなかった。妹は…かき集められるだけの幸せをありったけ小さな両手に握って生まれてそれを俺たちに全部与えてくれたような…そんな存在だった」
 カズキの目から強く圧するような光が消えた。代わりに灯った懐かしむような遠くを見るような表情に、すうっと静かになった気持ちが彼の声と言葉に向いた。
「妹が生まれたのは冬。数日前から続いていた吹雪の中、念のために呼んでおいたドクターと家族のように数日過ごしていた夜だった。俺は赤ん坊が生まれるとか妹ができるとか聞かされ続けて内心飽き飽きしていて、加えて言えば兄貴になりたいとも思わず、家族の中に…母との間に異分子が紛れ込むことに対して嫌悪を感じていたように思う。俺の一族は親族やら何やらがいいだけ複雑に絡み合って互いの取り分を争ってるような連中ばかり。そのなかで翻弄されながら自分ではまともと思える人間になったのは母と暮らしたあの家での時間があるからだ。そんな中に生まれてくる赤ん坊は邪魔者に違いない…俺はそう決めていたし覚悟していた。だが…生まれてみればあいつは驚くほどちっぽけで、はじめは細くて赤いばかりだったのに日に日に人形のようになってきて…最初は戸惑うばかりだったのに気がつけば俺の生活の中心には母と一緒に妹がいた。じっと俺の顔を見てはコロコロ笑うやつで、一時などは俺が隣りにいないと眠らずにじっと待ってた。それでも我慢できずに眠ってしまった時は、決まって夜中に目を覚まして俺の顔を見るまで不安そうに泣いてた。俺はあいつを見て弱くて小さなものの存在というのを知ったし、自分を必要とされる幸福と与える喜びを知った」
 それはあまりに美しい物語だった。この後に悲劇が続くことをわかっているのが辛いくらいに。
「…で?なんであんたが妹を探すことになった?そんだけ大事にされてた赤ん坊なら…誘拐でもされたのか?」
 サンジ君の問いかけにカズキは暗い瞳を向けた。
「いや。それなら妹の生死くらいははっきりするだろう。いっそそっちの方が良かったくらいだ。妹は突然いなくなった。それだけだ。何も分からず、ほとんど情報も得られなかった。想像だけならいくらでもできた。恐らくきっかけになったのは父の死だ。面倒な一族を仕切りカンパニーを守り続けた父は妹が言葉を喋り出しそうになっていたあの頃に死んだ。俺は忙しい父にはほとんど家で会ったことはなかったが、母がずっと父を信じて大切に想っているのは知っていた。だから、反抗も嫌いもしなかった。そして、父が死んだ後、それまでいかに強く父に守られてきたのかを実感した。母と俺たちに襲い掛かってきた一族の連中はほとんどがハイエナみたいな連中だった。母を慰めるフリをして家に入り込もうとするやつらもいた。母を非難し追い出そうとする者もいた。父の血を継いでいる俺を自分のものにしようとするやつもいた。俺たちは必死で互いを守り…ちっぽけな子どもにすぎない俺にはほとんど何ができたわけでもないだろうが…そんな中で母と俺にあり余るほどの笑顔をくれていたのが妹だった。俺が守ってやらなければならない存在。あいつがいるだけで俺は本当の自分よりも強くなれたし、母は笑顔になれた。そして…ある日、妹はいなくなった。何がどうなったのか見ていた者はいなかったし、声や物音を聞いた人間もいなかった。外出先から戻った母と俺はそれからただ必死で妹を探した。金も人脈もできるだけ注ぎ込んだ。あの頃この街に住んでた人間ならまだ覚えているかもしれない。マスコミも警察も動かした。それでも…情報はほとんど得られなかった」
 カズキの瞳がまたわたしを見た。
 ズキン、と胸が痛んだ。
「ずっと何もなかった。何もないまま母は死に、俺はカンパニーの中に引きずり込まれて駒として色々な物事に目を瞑っていることを覚えた。そうやって俺の将来が見えてきたと思っていた今、お前の姿を見た。母にとてもよく似たお前を見て直感し、探せるだけの情報を得た。 サクヤ…お前は俺の妹ではないか?幼い頃の記憶…は無理でも何か過去に繋がるものを持っていないのか?」
 過去。
 わたしはそこに繋がる扉の在り処を知らない。
 知りたいと思ったこともない。
 何かを思い出そうとすると、ただ、ただ怖かった。だから、思い出そうとするのをやめた。
 それでも、わたしの心の中にはある1つのイメージが残っている。それを思い浮かべると体の芯まで冷えるようで、寒くてたまらなくなる。
 エースとルフィと会ってからしばらく雪が嫌いだった理由。
 平気になったはずの今でも思い出したくない1つのイメージ。
 怖いよ、エース。
 本当は今でも怖い。
 でも、エースがいてくれるから。エースはいつもあったかくてお日様みたいに笑ってくれるから。だから、わたしは平気なフリをして生きてこられた。ただ降るだけの雪を好きになれた。
 ない。
 わたしは過去を持っていない。
 エースたちと出会ってからの日々がわたしの大切な時間だ。
 …ああ。だけど。
 思い出したわたしの手が自然に首の後ろに伸びた。
 あの冷たいイメージの他にもうひとつだけ、わたしがエースたちに会った時に持っていたもの。
 わたしは髪を持ち上げた。
サクヤちゃん…?」
「傷跡…だな」
 恐らく鋭利な刃物がつけたと思われる短くて深い傷。
「わたしにあるのは…これだけ。あとは…本当の記憶かどうかわからないくらい古い1つの光景…」
 身体も声も震えるな、と念じた。
 カズキが深い胸の奥にしまっていたものを見せたのだから、わたしも公平にならなければいけないと思った。
 でも、怖かった。
 もしもこの傷跡のことをカズキが知っていたら。
 わたしがこの人の妹だとわかってしまったら。
 もしもそうなったら…どうなる。
 震えるな、声。震えるな、心。
 一瞬目を閉じてから、わたしは立って傷跡をカズキの方に向けた。


 覚えているのは雪の上に続く一筋の足跡。
 ずっとそれを追って歩いていたわたしは、ふと、自分が先に足跡をつけたくなって前に出た。
 多分、何も考えていなかった。
 多分、一緒に歩いていたその足跡の主を信頼し安心していた。
 すぐに、まだ何も跡のない真っ白な雪の上に自分の足跡を残すことに夢中になった。
 覚えているのは、その夢中になっていた気持ちと雪の眩しさ。足で踏みしめた雪の音。

 その時、ひゅっと空気が動いた。
 後ろから誰かがわたしの上に屈み込んだ気配。
 熱くなった首の後ろ。
 そこからの記憶は殆どない。
 ただ、怖くて、怖くて。
 そこにただ、自分1人。いつのまにか身体を丸めていた。
 動けない自分に沁みてくる冷たさに脅え、身体の上を吹きすぎる風に脅え、落ちていく太陽に脅えた。
 冷たい。冷たくて怖い。
 だから、ずっと雪が嫌いだった。全部を吸い取られるような気がしていた。

 エースの指が傷に触れた時、身体はもう何も感じなくなっていたのに、鋭い熱が走ったように感じた。ぎゅうっとエースの手が傷を押した。まだ小さかったはずのその手を目を閉じたままとても大きく感じた。
 ぎゅうっ、ぎゅうっ。
 どんどん強く手を押し付けられると、傷から出て行ってしまった何かが戻ってくるような気がした。
 まだ、空っぽじゃない。
 まだ、この手を感じることができる。
 覚えているのは鈍い痛みと手の熱さ。
 目を閉じたままその手を感じていた。
 フーシャ村に何年ぶりかの大雪が積もったその日、わたしは雪野原でエースに拾われた。


 カズキの視線が肌に食い込んでくるように感じた。
「…妹には傷など一つもなかった。あの子にそんなことをする人間は…いなかったはずだ。いたとしてもさせなかった」
 ホッとしたかったけれど、できなかった。
 これだけではまだわたしがこの人の妹ではないことの証明にはならない。この傷は『妹』がこの人の前から姿を消した後に誰かにつけられたのだと…そういうことであってもおかしくはないのだから。
 髪を下ろして振り向くと、カズキの目の中に怒りが見えた。
 『妹』に傷をつけたかもしれない誰かに対する怒り。それだけ大切にしていたのだろう、妹を。そしてやっぱりこの人はわたしをその妹だと思いたがっている。わたしはそのことに抵抗を感じていた。伝わってくる何かに切なさのようなものは感じる。だけど、これはただの安っぽい同情だ。わたしはこの人を兄だとは思えない。これからも思えるとは思えない。
 カズキ、ゾロ、サンジ君。3人の視線がわたしの表情を追っていた。
 怖いよ、エース。頭の中に小さく残る記憶の冷たさが。
 寒いはずがない部屋の中で思わず身震いした。気持ちのバランスが崩れてる。グラグラ揺れてどうやったら普通に戻れるのかわからない。
 あの時、まだ赤ん坊がちょっと大きくなったくらいだったはずのわたしの中に残る短くて鮮明な記憶の欠片。他には何一つ覚えていないのにそれだけ鮮明だということは、心に焼きついて離れなくなってしまったのだろうとフーシャ村のお医者さんが言ったそうだ。他の部分は自分を守るために忘れることができたのに、そこだけ残ってしまった冷たい記憶。
 でも。でも、わたしは。
「大丈夫?サクヤちゃん」
「顔が白いぞ」
 ゾロとサンジ君の声に微笑もうとした。
 多分、うまくいかなかった。
「…1時間でいい、その二人と離れてついてきてくれないか」
 カズキが立ち上がり、わたしの顔を覗きこんだ。
「何言ってやがる。俺たちはボディガードだって言ったのが聞こえなかったか?ぴったりくっついて離れねェぞ」
 サンジ君が勢い良く立った。
「お前たちと一緒だと記憶が戻ろうとしても邪魔になる可能性がある。俺はただ…妹が生まれて育った家をサクヤに見せたいだけだ」
「見せてどうする」
 ゾロがゆっくりと立ち上がった。
「それでサクヤが何かを思い出した気がしてもしなくても、それが何の証明になる。まだガキとさえ呼べねぇ赤ん坊の頃の話だろうが。突然の話をぶつけられてこれだけ動揺させられて、こんなに震えてるヤツをお前は自分のテリトリーに掻っ攫おうってのか?気に入らねぇな」
 震えてる?わたしが。
 両手で自分の身体を抱いた。
 確かに、震えていた。とても寒かった。
 もう、平気になったはずだったのに。エースとルフィと一緒に雪遊びをいっぱい楽しんできたのに。転んで雪の中に転がっても平気だったのに。
 寒いのに吐く息が白くないのを不思議だと思った。やっぱりこれはわたしの気持ちが弱くなっているせいなのだろうか。
 こんな自分は好きじゃない。
 やっぱりカズキの言うとおりにして記憶が戻るかどうか試すべきだろうか。ちゃんと真正面から向き合って。そして、もしも本当に自分がこの人の妹だったら…そうしたらそのことをちゃんと受け入れなければならないだろう。エースと離れて、ルフィと離れて、シャンクスと離れて。
 ダメだ、気持ちが弱いとどんどん悪い方に考えが流れていく。
 情けない。心の寒さに震えて泣きそうになってるなんて。
 カズキの話を聞いた時はこのことを絶対にエースに知られたくないと思った。なのに今、こんなにエースが恋しい。エースがここにいないことが心に大きな空 を作る。
 おかしいな。
 本当は時々思ったことがあったはず…もしも自分の本当の家族がわかったらって。エースとは兄妹じゃなくなって…血のつながりはないことは最初からわかっていることだけれど、そうしたら心の中にしまってある1つの気持ちを伝えてもいい、伝えることができるかもしれないなんて考えたりした。簡単に、自分勝手に、我侭に。考えた時はそんな自分が嫌になるくらいで身体は平気だったのに、どうして今、こんなに寒いんだろう。
 エース。もしも今ここにエースがいたら何て言う?
 わたしが妹じゃなくなったら寂しいと思ってくれるかな。それとも。
 カズキと目が合った。
 伝わってくる強い気持ちに思わず一歩後ろに下がった。
 どうしよう、エース。
 強くいたいのに、何だかとても難しい。
 こんなに何度もエースの名前を呼んでしまう。
 エース。もしも今ここにエースがいたら…
「お客さんらしいな。…どうした?」
 聞こえた声をすぐには信じられなかった。
 ふらりといつもの歩き方で現れた姿を夢だと思った。
 だって、凄すぎるよ、エース。ここにいて欲しいと、今呼んだばかりなのに。
 思わずまた心の中で名前を呼んだときには、身体は先を急いで前のめりに傾いていた。
「危ねぇな。…本当に、どうした?ん?」
 いつの間にか目の前に来ていたエースがわたしを受け止めてしっかりと抱いてくれた。それからじっとわたしの顔を覗きこんだ。
「エース、エース…」
 あったかいエースの腕の中、気がついたら涙が出ていた。恥ずかしいくらい泣き声だった。
「震えてるな。まさか…お前」
 エースの手がするりとわたしの髪の中に滑り込み、手の平が傷跡をそっと覆った。あったかい。この手が傷を痛いくらい圧迫してわたしの命が流れ尽きるのを防いでくれたんだ。
 冷たい雪の中で流れていた筈の血。手が血まみれになっても逃げなかったエース。
 そう。あの忘れたいはずの冷たい雪の記憶をわたしが忘れない理由。お医者さんは衝撃が強すぎたのだろうと言ったみたいだけど、わたしはちょっと違う風に考えている。きっと忘れたくないのだ…命を食い止めてくれたエースの手の感触と温かさを。それは嫌な記憶を嫌うよりも強く望んでしまっていることで、だからずっと覚えているのだ。
 エースの腕の中にいるとゆっくりいつもの自分が戻ってくる。身体の震えが少しずつ小さくなって、温かさの方を強く感じた。
「俺と同じ年恰好の赤毛の男。なるほどな」
 何を推測したのか、エースの瞳が鋭くなり、カズキに向いた。
「俺の妹に手を出すな。今度寒がらせたら、事情がどうであっても許さねぇ」
 わたしの背中に回っているエースの手に力が入った。
 わたしからカズキの顔は見えなかったけれど、その視線の強さを感じていた。


 エースの心臓の音が聞こえる。
 胸に顔を埋めてしまっているわたしは、きっと弱虫に見えていると思う。
 でも、振り向いたらまたあの寒さが蘇るかもしれないと思うと、怖くてまだエースから離れることができない。
 迷っているとエースの手がわたしの頭をそっと胸に押し付けてくれた。
 まだこうしていていいんだと、離れなくていいんだと教えてくれているようで、またホッとした。
「…ポートガス・D・エース」
 カズキの声がエースの名前を呼んだ。びくっと身体が震えてしまうと、エースの指がいつものように髪を梳いて通り抜けた。
「面識はないよな?いや、いい。俺は今、あんたの名前はどうでもいい。多分、大体見当はつくし」
「…俺のことを知っているのか?」
「知ってるのは俺じゃなくて…ああ、説明するより直接本人に出てきてもらう方が手っ取り早いな」
 髪を撫ぜていたエースの手が離れた。代わりに残った手がさらに強く抱いてくれた。
 エースがポケットから携帯電話を出したのが、気配で分かった。
「…ああ、突然で悪い。あのさ、言ってたろ?この街に住んでる赤毛の男の話。今、多分ここにその男がいる。ちょっと時間作ってあんたから説明…いや、サクヤは大丈夫。心配すんな、俺がいる。はは、親バカだな、相変わらず。大丈夫だって。とりあえず、今は電話で頼む。ビジュホンに切り替えるから」
 エースはわたしを抱いたまま移動し、壁に掛かっている薄型ディスプレイのスイッチを入れた。
『とにかく、先ず、サクヤの顔を見せろ…って、よし、ちゃんとがっしり守ってるみたいだな。お~い、サクヤ、少しばかり久しぶりだな。俺はいい加減会いたくて我慢できねぇぞ。ちょっと顔を見せてくれ。そしたら頑張ってもう少し我慢するから』
 懐かしい声。
 家族と話す時はどこかベンの言うところの「しようのない」感じになってしまう話し方。
「シャン…クス…」
 フーシャ村にいた頃からわたしたち3人をいつも大きく包んでくれていたあたたかな大きさを思い出す。
 画面の中のシャンクスは顔一杯の笑顔になった。
『それだけ泣き顔でもそんだけ綺麗ならいい。あとでベンたちにたっぷり自慢してやる。ゾロ、サンジ、世話をかけてるな。どうやらまだこっちに呼び戻すことはできねぇらしい。頼んだぞ』
「「わかりました」」
 ぴったり揃った声と背筋をピンと伸ばした姿が2人のシャンクスに対する気持ちを表している気がした。
 シャンクスの目が静かにこちらを探っているのがわかった。
『なるほど。髪の色具合が俺とそっくりだな、イシグロ・カズキ君』
 シャンクスの顔に今あるのはついさっきまでのものとは全然違う表情だった。鋭く、厳しく、でも口元がどこか…何だろう…まるで悲しんでいるような。
「赤髪のシャンクス…俺を知ってるのか?」
 カズキの視線がわたしから離れていると、かなり気持ちが楽になれた。
 そっとエースと一緒にソファに座った。エースは黙って手を握っていてくれた。
『名前と写真で見た顔くらいはな。あのな、どういう言い方をしても感じることは同じだろうから簡単に言うが、サクヤはお前の妹じゃない。そこに…その街に家を作ろうと考えた時、徹底的に下調べをしたんだが、その時、赤い髪の妹を探している家族がいたことを知り、その後のことも調べさせてもらった。気の毒だがお前の妹とサクヤは血液型が違う。つまり、妹でないことは科学的に明らか過ぎるほど明らかだ。サクヤの心を凍えさせたくなかったから調べたことも何もかも一切教えておかなかったが…それでかえって辛い思いをさせたんだな。ごめんな、サクヤ
「血液型…そんな簡単なものが…」
 カズキが呟いた。がっかりしているのがわかった。それほど、声も視線も弱々しかった。
サクヤたちに関する情報は極力漏れないようにしてあるから、確かめられなかったのは無理もない。まあ、そういうことだから…何か言いたそうだな?エース』
 エースが隣りで小さく息を吸い込んだのがわかった。その目はまっすぐにカズキを見ていた。
「…あんたにも事情はあったんだろう。母親のこととか…それは、わかる。けどな、事情はどうでも、あんた、一度は妹をあきらめたんだろ?墓まで作ってるんだから。それは多分、もう妹には会えないと予感なり覚悟をしたってことじゃねぇのか?俺にはそう思える。もしも俺だったら…会えると思ってる間は絶対にあきらめたりしない。墓なんてとんでもねぇ。気持ちに踏ん切りをつけたくなってそうしたんなら…せめてこれ以上俺の妹に迷惑をかけるな」
 シャンクスは大きく苦笑した。
『悪いな、そいつは思った本音しか言わないし、おまけにサクヤのことになると俺のちょっぴり上を行く程度に人間が変わっちまう。拳で直接ぶっとばそうとしなかっただけ大人になったってことだから、俺に免じて許してやってくれ。まあ、俺が今そこにいたらゾロとサンジが俺とエースを止めることになってたかもしれないがな』
 口調だけは軽くて明るいシャンクスの目は、笑っていなかった。
 後ろで溜息をついているはずのベンの表情をふと想像した。
 どうしてなんだろう。
 どうしてシャンクスもエースもわたしのために「馬鹿」と呼ばれるほどむきになってくれるんだろう。そんな風にしてくれたらわたしは…嬉しくて、こそばゆくて、泣いてしまっていたことを忘れてしまいそうになる。寒かったのが嘘みたいにあったかくなる。
「ただいま~、サクヤ!もうおやつ食ったかぁ?お!エース!!おあ!シャンクス!なんだなんだぁ?なんかすげェ!」
 ドアが開いた音と同時にルフィが走ってきてわたしの首に手を回した。その手も温かかった。
『元気そうだな、ルフィ!ああ、もっと話してぇところなんだが、このまま楽しい家族団欒に入っちまうのもなんだ…まだ片付けなきゃならないこともあ るから…そうだ!夜!夜になったら絶対に電話する。だからな、眠らないで待ってろよ。お前は一度寝ちまうととことん起きないからな』
「うん、わかった!後でな、シャンクス!」
『おお!』
 画面が暗くなってシャンクスの顔が消えた時、ルフィは初めてカズキに気がついたらしかった。
「あれ?何だ、お前?すっげェ!シャンクスとサクヤとおんなじ色の髪だ!いいな~~~。俺もなってみてェ!すげェな、お前!」
 満面の笑みを向けられ、カズキは視線を外した。
「…空気を読んでないっつぅか」
「…読めねぇだろ、こいつには」
 サンジ君とゾロが思わず感想を呟いた。
 エースの横顔からゆっくりと厳しさが消えていった。やがて、くくっと喉の奥で小さく笑う声が聞こえた。
「災難だな、あんたも。1人で飛び込んできたことを後悔してねぇか?タイミングが難しそうだからお節介するが、ほら、俺もちょっと用足しを思い出したから 一緒に外、出るぞ。サクヤに謝れなんて言わねぇよ。混乱も落胆も隠して見せなくていい。とにかく今は、俺たちの家から出ろ。1人になりたいだろ」
 立ち上がったエースは、静かにわたしの手を離した。
「待ってろ。サンジに熱い紅茶でも淹れてもらえ。ルフィとたっぷり甘い菓子でも食べてな。すぐ、戻るから」
 すぐ?
 見上げたわたしにエースは頷いた。
「すぐだ。約束する」
 うん。
 わたしも頷いた。
 わたしはカズキを真っ直ぐは見なかったし、カズキも半分目を伏せたまま玄関に姿を消した。
 歩いていく2人を見送りながら、かすかな雪の音を聞いたような錯覚を覚えた。
 大丈夫。今はもう寒がったりしない。もうすぐ、エースが戻ってきてくれるから。
 わたしを見守っていたサンジ君が笑顔でキッチンに消え、ゾロは腰の刀を抜いてソファに立てかけた。事情を何も知らないルフィはポンとわたしの隣に座り、サンジ君が持ってきてくれるはずのおやつを賑やかに予想しはじめた。
 いつもと同じ午後。
 いつもよりちょっと特別な午後。だってそれは…エースが直に仲間に入ってくれてみんなで一緒にお茶を飲めることがわかっているから。まだ、エースの妹でいられることがわかったから。


「…あきらめないと言ったな、あんたなら」
 カズキの問いかけにエースは頭を小さく掻いた。
「まあ、いろんな事情がそれを難しくするってことは理解できる。別にあんたを責めたいんじゃない。ただ…俺はとにかくあいつが可愛いから。忘れた方が楽だとわかったとしてもあきらめられねぇほど大事だから…さ」
「…それだけか?」
「うん?」
「俺の目にはあんたは『妹馬鹿』なんて程度じゃないように見えた。俺はあんたを取り巻いているように見えたその熱に圧倒されて…なぜだか前より気持ちが楽になってしまった。赤髪も半端じゃない迫力だったが、あんたは…全然違う」
 エースはカズキの真っ直ぐな視線に目を据えた。そして、笑った。
「そこら辺はあんたには突っ込む権利がない領域だ。俺と比べる必要なんてないだろ?あんたは妹を可愛がっててその可愛さあまり、サクヤの古傷をこじ開けた。そのことは許せねぇが、サクヤがあんたの妹じゃないとはっきり理解して貰えたんなら、もう、それでいい。もう踏み込んで来るなよ。次があったら手加減も何もできるわけねぇからな」
「物騒だな」
「それだけの覚悟がなきゃ守りたいものなんて守れねぇよ」
 2人は足を止め、向き合った。
「本当は用事なんてなかったんだろう。一刻も早く俺を追い出したかったか?それとも…」
「それとも、なんてない。俺はサクヤを守る。それだけだ」
「…そうか」
 背を向け、一瞬の躊躇の後に歩きはじめたカズキをエースは追わなかった。振り向かないだろうとわかっている後姿をしばらく見送り、それからゆっくり空を見上げた。
 空気の中に夏が終わりかけていることを感じた。それでもあと数日はまだ暑いとしか言葉が出ない日が続き、サクヤの中の冷たい雪を溶かすには十分だろう。その数日、腹でも壊したことにして家にいるのもいいかもしれない。
 エースは自分の中でまだグルグル回っている感情の素直さに笑った。
 妹だから進んではいけないと思う道を見てしまうたびに自分の感情を持て余し、そんな自分をわかっているのに兄であることもやめたくない。どこまで貪欲なのだろうとあきれてしまう。
 それでも、とエースは思う。絶対にサクヤが困るようなことはしない。守りたい。いつまでもあの眩しい表情で自分を追って欲しい。
 今度は俺も浴衣で一緒に出かけるか。ルフィもゾロもサンジも連れて、夜空に広がる大きな花火を見に。
 エースは風の匂いをかいだ。
 まだ、夏はここにいる。夏にしかできないことを、やれる。
 軽い足取りで歩きはじめたエースの顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。


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