夏という季節を全身で受け止めたくなった。
たまたまレポート作成に追われる日々が続いていたから、夏の空気を感じるのが朝、洗濯物を干す時と、午後のそれを取り込む時だけになっていた。こんなのは何か、変。思った私の心の中を、風が通り抜けた気がした。あの懐かしい村の風車と遊んでいた風。
室内で感じる調整された空気は、確かに心地よい。でも、空気の出入りを感じることはほとんどなく、部屋の中に風は起きない。例外は、ルフィの帰宅、かな。元気よく駆け込んでくるから、一緒に外の風を連れてくる。あとは…そう、やっぱりルフィ。決して手を出すべからず、と宣言されている美味しそうな皿たちに手を伸ばして、サンジ君に追いかけられる。
そんな風、も悪くない。
でも、足りない。
わたしは大きな街に来ても、住んで何年たっても、やっぱりフーシャ村の子どもなんだ。
ルーフバルコニーに1歩出ると、焼け付く日差しを浴びた。容赦ない。その強さに驚いて、計画変更し、一旦退散した。
だめだ。ここには風と戯れて匂いや色をつけてくれる木や草がない。海もない。丈高い建物の天辺に落ちてくる強力な陽光に立ち向かうには、備えが必要だ。
そうっとキッチンを覗くと、火の前で何か挑戦的な角度で煙草を咥えていたサンジ君が、ニッコリと笑ってくれた。
「何、どうかした?サクヤちゃん。昼メシ、足りなかった?…ってルフィじゃねェか」
「そうだねぇ。…あのね、もしかしたら炭酸水があるかなと…その、思って覗きに来たんだけど」
サンジ君はほんのちょっとだけ、不思議そうな顔を見せた。
「炭酸水って、ソーダ?なら、レモン風味のヤツとああ、あと、シードルがあったと思うけど。林檎」
いや…そうじゃなくて。言葉に詰まったまま立ってると、サンジ君は首を傾げ、そこへ刀の手入れを終わったらしいゾロまで登場してしまった。ああ。
「珍しいな。お前、そんなので割るよりストレートをノンビリやる方が好きじゃなかったか?」
はい、その通りだし、わたしが言ってる炭酸水もそっちであってるんだけど。でも、今はまだ真昼間。太陽がやっと少しだけ傾きだした時間だから、お酒を飲みたいわけではなくて。
「ええと…ちょっと1本欲しいかな。ああ!瓶ごとでいいの」
サンジ君はいつだってわたしを困らせたりしないから、まだ首をちょっと傾げたままでも、とにかく冷蔵庫の奥を探ってボトルを引っ張り出してくれた。それと同時にグラスにも手を伸ばしたから、慌てて断った。
ゾロは、いつも何も聞かない。それは、聞いて欲しくないことほど、な気がする。ただ見守り、結果を見届ける。だから、安心できる。だから、時々怖い。
「ありがとう」
言うと返ってくる穏やかな空気は2人、同じ。ありがとう。
さりげなく右手で持ち上げたボトルのガラスの冷たさが、時間を一気に押し戻す。こんなだったかな、あの頃のボトルも。透明で、それこそ炭酸水そのものが固まってできてるみたいに思えた。でも、持たせて貰えた時に感じた重さは、もっともっと、だったよね。
炭酸水。
小川や井戸水で冷やした1本は、わたしたち探検隊の大切な魔法の水、だった。
「ひえた?つめたくなったか?エース!」
身を乗り出しすぎて今にも小川に落っこちそうになっているルフィの隣り、わたしも踊る胸の鼓動をいっぱいに抱え、かえってじっと身体を硬くするしかなくなってる。
夏の朝はものすごく早く来るから、スタートに出遅れないように、みんな、真剣だ。
昨日、1日マキノさんのお手伝いをしたらしいエースが右腕に抱えてきた戦利品。マキノさんはお金をくれる時もあるけれど、時々、こんな風に魔法の水を分けてくれたり、あったかいお料理を持たせてくれたり、お料理の作り方を教えてくれたりもする。
わたしたちはいつも島の水をたくさん飲んでいる。近所の井戸を一緒に使っていいことになっていて、毎日、汲みに行く。その水を沸かしてお茶も淹れる。歯も磨く。顔を洗うのには小川の水を使うこともある。
島の水はおいしい。
たくさん飲んでもお腹を壊したりしない。
でも、こんな夏の日には。
昨日のうちから、魔法の水のガラス瓶は、よく冷えるようにエースが小川につけておいた。目が覚めたらすぐに、探検に出発できるように。朝ご飯のパンも食料として持っていく。
「よし、出発できるぞ」
振り向いたエースの顔には特大の笑みがあった。右手でザブリと瓶を引き上げながら、目を細くして、また笑う。
「帽子、忘れるな、サクヤ。お前、すぐに真っ赤になっちまうからな」
はい、エース。
声を出さなくてもエースはわたしの返事を受け取ってくれる。ベッドのそばに置いてきた麦わら帽子を取りに戻る間、ちゃんと待っててくれる。でも、わたしはそのことも嬉しくて、かえって全力で走ってしまうのだ。
子どもたちの夏の日を最高に楽しいものにしてくれるのは、自分たちの想像力だ。いつもの小道も草原も、謎の島の宝探しにぴったりだ。半分に破れた地図を見ながら、探検隊は前進する。時々、やってくる見張りから身を隠さなければならなくなり、そんな時はエースがわたしたちの真ん中になって、2人の頭を腕の中にギュッとしてくれる。突然笑い出しそうになるルフィを我慢させるため、そして緊張しすぎて震えそうなわたしを安心させるため。
エースもルフィも、本当に怖くはないんだろうな。
思うわたしは、実はどこか本気で怖くなっている。遊びに真剣になりすぎている、というのとは違う何か。そんな時にピリッとする首の傷のせいかもしれない。見つかったら『最後』だと、その傷が告げるのだ。
「そろそろ、昼メシにちょうどいいな。今度はジャム、つけて食べるか。お前の大好きなイチゴのだぞ、サクヤ」
昼ご飯。その言葉にワクワクが蘇って、わたしも立ち上がる。お昼の休憩には、魔法の水を飲めるのだ。それがこの探検隊の決まり。
ポケットから栓抜きを取り出すエースの姿は、とにかくカッコよかった。手首の一瞬の動きで栓が抜け、飛び上がった金冠を地面に落ちないうちにすばやく拾う。
「ほら。遠慮はなしだぞ」
最初に魔法の水を飲ませてもらえるのは、なぜかわたしだ。『遠慮』というのがどういうことなのか、わたしにはまだわからない。でも、ちゃんと大きくゴクリと飲んでいいのだ、と言われていることはわかる。そうすると、エースがニッコリ笑うから。ただ、残念なことに、エースを喜ばせたいのだけれど、わたしはまだ思い切りゴクリとすることができない。冷たい魔法の水が、なぜか喉に入ってくると熱く焼け付くからだ。さすが、魔法。3人の中で一番『ゴクリ』が苦手なわたしは、ゆっくりでいい、とか、あと3回は飲んでいい、とか、2人に励ましてもらってしまう。
すごいね、魔法の水。
ちょっと涙目になってしまってエースに心配かけるけど、すぐに嬉しくて笑えるから大丈夫。
ほら、エース。こんなに飲めた。飲んだから、こんなに元気になった。
エースは笑って、頷く。
「ゆっくり食べろよ。食べたら、次は海だからな。やっぱり宝は海賊が埋めた宝箱でしめくくるぞ。この島に宝を埋めたまま戻ってこなかった海賊が山ほどいるんだ」
ルフィが手を叩いて喜ぶ。海賊の歌を歌いながら歩くのが大好きなのだ。
空を仰ぐと、太陽はとっても高いところにあった。ここからは、ゆっくりと低くなってくるだけだ。だから、わたしたちにとって夕焼けまでが勝負になる。夏は時間がとてもたくさんあるけれど、どれだけあっても足りない気がする。エースとルフィと一緒の時間は、いつだってどこかに飛び去るように過ぎてしまうのだから。
だから、いつまでも、と願う。
決して途中で終わらないように、疲れても絶対に言わない。
暑くても、大丈夫。
すぐに、やわらかな風が吹くから。
目を閉じていても眩しさがわかっていたはずだった。なのに。
頬にあたった穏やかな風に、ふわりと覚醒を促された。
身体を大きく伸ばし、首筋に汗を感じながら目を開けた。
「…寝てた…と思ったけど、わたし…まだ…眠ってる?」
いつの間にかすっかり傾いたあたたかな色の日差しの中、エースが笑っていた。
ええと。
夏の屋上で昼寝をしてしまったのに、干からびずに無事に目を覚ませた理由らしいものを見つけた。頭からお腹のあたりまで影を作ってくれているパラソル。それから、エースの手が揺らしている大きな団扇。わたしが夢の中でフーシャ村の風だと勘違いしていたのはエースが送ってくれていたものらしい。もしも、これが現実なら。
「お前は油断するとすぐに真っ赤に焼けちまうからなァ。間に合って、よかった」
エースはこれまたいつの間にか置いてある氷水を張ったボウルから、炭酸水のボトルを取り出した。
ポケットから栓抜き。
宙に躍り上がった金冠を掴んだ指。
エースの手はずいぶん大きくて、でも、指先の繊細な動きがやっぱり魅せる。
「ほら。遠慮しないで飲めよ」
差し出されたボトルも、一緒についてきた言葉も夢の後だと懐かしいを通り越してリアルで、つい張り切って、ゴクゴクと2回、飲んだ。そうしたら、咽てしまった。やっぱり炭酸は大好きだけど要注意だ。
「大人になっちまったか、と思ったら」
エースは笑いながらわたしの背中を軽く叩いてくれ、その手は離れ際に髪を梳いた。
『大人』になったら、エースの手のあったかさにドキドキしなくなるんだろうか。
いや、無理か。
ボトルを渡すと、エースは大きく美味しそうに魔法の水を飲んだ。なぜだろう。胸がもっと苦しくなった。
「魔法の水を持って、島中を探検したね」
「やっぱり覚えてたか」
「忘れない…忘れたくない。とびきり楽しかったから」
「頑張ってついて来たもんな。今思えば無茶なくらい」
そう、本当は最後までついて行きたくて、毎回必死になったけど、途中からエースに手を繋いでもらい、最後は集合場所で『戦利品』の見張りに残った。
2人が戻るのを待つのは少しだけ楽しくて、後はひたすら待ち遠しかった。
そして、3人揃うとそこで無事宝探しは終了になり、そこから家に帰るまで、必ずある遊びをした。
「おいで」
エースの悪戯っぽい笑顔が、わたしを誘った。今度はお前が先に行っていいんだと、いつも見せてくれたあの笑顔。
立ち上がると、夕日と夕暮れ時の空の赤さが目に飛び込んできた。
スタートの合図は交わした笑顔。
わたしは自分の影を守りながら、隠れることができる大きな影を探した。でも、バルコニーにはそれほど大きな影を作れる物はなにもない。
「捕まえた」
エースの爪先がわたしの影を軽く踏み、今度はわたしが鬼だ。
追いかけてもらえるのも、自分が追いかけるのも。どっちになってもただ、嬉しかった。ずっとずっと胸を張ってエースを視界に捕まえていられる。その時間が、楽しくて仕方がなかった。
「大きくなると、隠れる影、見つからないな」
「だから、わたしでもエースを捕まえられる…こんな風に!」
エースが宙に伸ばした腕の影を勢いよく踏んだ。
「サクヤ!」
勢い余って前につんのめり、エースの背中にぶつかった。
「身体丸ごと、捕まっちまったな」
肩越しに振り向いたエースは、まだ額をエースの背中に押し当てているわたしに笑いかけ、クルリと身体を回すと右腕で肩を包んでくれた。
「…ありがとな、捕まえてくれて」
耳元を過ぎた言葉の意味は、何だろう。エースは足音軽く、バルコニーの端に走って行った。
「今度はこっから追っかけるから!ほら!」
追いかけるもの追いかけられるのも、どちらも楽しいはずだった。
でも。
なぜだろう、今は、またすぐに捕まってしまいたいと思った。
そして、それでも自分は真剣に逃げてしまうことも、知っていた。