紅茶を淹れようかな、と思って立ち上がった拍子に溜息が出てしまった。
大丈夫、誰もいない。
賑やかなお花見が終わった後、ルフィはナミを送っていったし、ゾロとサンジ君もわたしを送り届けてくれてすぐに帰った。サンジ君が豪華なお花見弁当を 作ってくれて、ちょうどランチタイムからはじめた花見。ナミお勧めのその場所には満開の枝を重そうに抱えた木々が整然と並んでいて…多分、上空から見ると幾何学模様を描いて見えるらしい設計に基づいて…確かにとても美しい1枚の絵に見えた。料理は美味しかったし大騒ぎの真昼の宴は、結局周りにいた同じ目的の人たちも巻き込んで『盛大』としか言いようのない感じで終わったのだけど。
でも。
たくさん笑って、たくさんお喋りもして。
なのに。
もうひとつ溜息が出てしまったところで、やっぱり紅茶を飲もうと思った。
楽しかったこと、美味しかったことだけ思い出そう。そう思った。
今のキッチンではお湯はあっという間に沸く。引っ越してきたばかりの頃、それがとても不思議でどこか魔法のように思えた。どのお茶にしようかな、と迷い始めた途端に湯気がシュンシュン言い出してケトルが鳴る。ああ、きっとこれがこの街の時間の流れなんだ。あの頃の予感は確かに当たっているかもしれない。
ケトルを火にかけてからのんびりと茶葉を選びカップを並べていたのはもうだいぶ遠くなったあの頃。風が吹いて風車と戯れるあの村で。それでもまだ時間が余ってついついルフィのためのおやつも探してしまうことができた。マキノさんが焼いてくれたクッキーとエースが時々焼いてくれたクッキー。ルフィと一緒の時はマキノさんの方を先にお皿に盛る。その自分が何だかズルをしている気分になって天辺にエースのクッキーをそっと何枚かのせる。エースのとマキノさんのは形や厚みが違うからすぐに区別できる。ルフィは両方まとめて勢いよくたいらげるけれど、その前にわたしに決まってエースのクッキーを渡してくれた。
今、どうしてこんなこと。
とっくに沸いたケトルを下ろし、慌ててお茶の缶を眺めた。
変だな、何だか今、自分の気分がつかめない。並んでいる缶が全部、お店に並んでいる売り物のように感じられる。
ふぅ。
もうひとつだけ溜息が漏れた。
その時、肩の上に優しい重さがのっかり、背中と首がぬくもりに包まれた。
「すげェ真剣に迷ってるな。ギリギリセーフってことで俺にも1杯分けてくれ」
いつも何かを楽しんでいるような声。
びっくりしながら嬉しくて、顔が熱くなってしまった。だめだ、今、後ろは向けない。
「おかえり、エース」
やわらかくわたしを囲んでいる腕に触れたかった。そうできないから余計に。
代わりに、勝手にエースのお茶と呼んでいるスパイシーなものの缶を棚からとった。
「お前もさっきまで花見だったんだろ?綺麗だったろ、桜。俺も見たかったけどなぁ。ま、思ったより早く帰れてサクヤの顔、見れたからいいか」
一緒に見たかったね、と言いたかった。でも、口は素直に開かなかった。
「どうした?」
エースが離れない。
ぬくもりとコロンの香りと声。
勿体無いよ、エース。
何だか冴えない今の気分がバレてしまっているのかな。
湯気と一緒にのぼった紅茶の香りが口を開かせてくれた。
「すごく綺麗だったよ、桜」
「うん。…で?」
「うん…すごく、すごく綺麗だったんだけどね。それだけなんだけど」
「うん。それで?」
「うん…綺麗すぎるなぁって思ったのかな。きちんと並ばせられて背筋をピンと伸ばしてる感じ。で、両手いっぱい伸ばして花たちを抱えて精一杯披露しているというか…」
「ああ…ちょっとばかり人工的?」
ああ、そうか。言いたかったのはそれだ、本当に。
「うん。とても人工的な綺麗さだった。木も花もちゃんと生きてるのにね」
「ここは光があたる場所は徹底的な計画通りにきっちり作られた街だからな」
楽しそうなエースの声は、光があれば必ずできるはずの影の存在まで楽しんでいることを教えてくれた気がした。大きなエース。あったかくて生き生きしてて。
大好きだ。
ちょっと葉を蒸らしすぎたかな、と思った時、エースが先にティーポットを持ち上げた。
「あれ、どっかにあったよな。飲み物詰めて持って歩くポット。水筒がこ洒落たみたいな、あれ」
「ああ、サンジ君が今日スープを持っていくのに使って…」
エースの腕がなくなって軽くて少し寒くなった身体を伸ばした。ポットはちゃんと洗ってしまわれていた。
「あ、それそれ。これに入れていけば、むこうでアツアツのが飲めるからな」
言いながらエースはドボドボと豪快に紅茶をポットに注ぐ。
「…むこう?」
振り向くと今日初めて見たエースの顔はいつもの笑顔だった。
ポン、と頭の天辺に手がのった。
「見せてやるよ、俺のとっておき。今年は行けねェかなと思ってたけど、お前の溜息にはかなわねェし」
溜息…聞かれてたんだ。多分、たった2回だったはずだけど。
エースの目がキラキラしているのがわかる。キュッとポットの蓋を閉めて白い歯を見せながら微笑する。わたしの中がいっぱいになってワクワクと熱くなる。そうなると何も言えなくなってしまい、ただ、頷いた。そうしたらエースは声を出して笑った。
キッチンで後ろからエースが首に腕を回してくると、胸が高鳴って苦しくなる。
でも、一緒にホッパーに乗ってエースの身体に掴まっている時のドキドキは、また違った種類のような気がする。そっと頬をくっつけている背中には服の下に タトゥーがあるはずで、それを考えると…どう言ったらいいかわからない気持ちになる。
昼間に比べるとだいぶ冷たくなった空気。スピードを上げるホッパーの上で、時々風が身体を巻き取ろうとする。でもエースのレザージャケットは肩から心地 い程度に重く、何もこわいものはないと思わせてくれる。でも、これを貸してくれたエースは寒くないのかな。心配になるけど、これ以上腕に力を入れる勇気はない。そんな風にすると思い切り抱きしめてる、みたいになってしまうから。
下りてきた宵闇の中をとばしながらエースは時々陽気に笑った。
人工の光溢れる街はグングン遠くなった。
「あ、あれ…あの木?」
「ああ。去年、偶然通りかかって見つけた。どうやらまだ無事にあったな」
花明かり、というのだろうか。夜の中、満開の花が形作る桜の木の姿がほのかに浮かび上がっていた。
エースはホッパーのスピードをおとし、わたしたちはゆっくりと近づいた。だんだんとその木の大きさと古さがわかってきて、そののびやかな姿が胸にしみた。
「大きい…」
「この木が男なら、結構な爺さんだな、多分」
通り過ぎていく風にその花びらをまかせながら。
木は風に逆らうことなく一緒にそこにいた。
懐かしい、と感じた。
「…すごいね」
それしか言えなかった。
「こんな木があっちこっちにあったな、フーシャには」
うん。懐かしいあの村には。
それからしばらく黙ったまま木を見上げていた。それだけで十分、だった。
たっぷり満足した後、倒したホッパーを椅子にして一緒に紅茶を飲んだ。
立ち上るスパイシーな香り。エースに良く似た香り。
「溜息、引っ込んだか?」
「うん。ありがとう」
エースの手がわたしの髪を梳いた。そう言えばあれだけホッパーをとばして来たんだ。きっとモジャモジャになっているだろう。
「花の方はこの木で大満足だけど、サンジの料理を逃したのは残念だったなぁ。美味かったろ」
「うん。あっという間に全部なくなった」
エースは笑った。
「ったく、ルフィの奴は我が弟ながら。でも、お前とあのオレンジ色の髪の子の分はルフィが面倒みたんだろ?」
「…酒、飲んだのか?」
「ま、それでバランスが取れるんだろうな、あいつらは」
あいつら、というのはルフィとナミのことだろうか。もしかしたらエースも同じ事を予感しているのかもしれない。
「で、お前は?」
…何となく、答えるのが恥ずかしかった。
「…飲まなかったよ。…エース、いなかったから。あ、でもね、その分、ナミとゾロがものすごく…」
ポン、とまた大きな手が頭にのっかった。
「いい子だ、サクヤ」
真っ赤になってしまった顔ができるだけ夜に隠れていればいい、と願った。
でも、無理だったかもしれない。頭を撫ぜてくれたエースの顔はとてもはっきり見えたから。
強い光を浮かべた瞳と輝いた表情が。
ちょうどその時降り注いできた花びらが、エースの姿を隠した。
あ、と思った時あたたかな腕が肩を抱いてくれた。
最高の花見だな。呟いた声が聞こえた気がした。だから、ひとつだけ頷いた。