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小さな足跡

 朝の光がやわらかく変化し始めた頃。
 泣いたことがバレないように念入りに洗顔した。唇の腫れは大分ひいていて、さすが口の怪我だとホッとした。
 なんだかぼんやりとした気分で部屋を出て、居間に入るとキッチンコーナーの方向にコーヒーと卵が混ざった熱い香りと人の気配があった。
「おまえの分もあるぞ~」
 エースの声が聞こえた。朝寝坊が得意なのに、珍しい。
 今日に限って。
「おはよう。ルフィは?」
 あちこち切り裂きが入っているTシャツ姿のエースは、フライパンに追加の卵を割り入れていた。背中のタトゥーがちょっとだけ見える。
 テーブルの上には皿が2枚置いてある。
「まだイビキかいて寝てる。結構殴られたみたいだからなぁ、元気だけど」
 フライパンを軽く揺すりながら卵をかき混ぜるエースの手の動きは、なんだかとても懐かしいものだった。小さい頃、よくルフィとくっついて黙って眺めてた。
「ほい、おはようさん。…なんだ、顔が赤いな」
 卵を盛った皿と湯気が上がるカップをわたしの前に置いたエースが首をかしげた。
「おまえ、熱ないか?サクヤ
 あんな夢の後は熱ぐらい出ても不思議じゃない気がする…とも言えないし。
 それともやっぱり昨日しばらく全身ずぶ濡れだったのがいけなかったのかもしれない。
「う~ん、ちょっとダルイけど、もしあってもたいしたことない」
「ま、今日は俺も休みだから、いいけどな」
 エースが休み。家にいる。…すごい。
 熱い卵とコーヒーは身体を芯から温めてくれる。パンはやめて軽く塩味がきいたクラッカーにする。コーヒーにも紅茶にも合うので、いつも買ってストックしてある。
「少し寝だめしねぇとなぁ」
 エースの口から大きなあくびがひとつ。
 エースの寝だめ体質はひとつの才能だと思う。ほうっておくと軽く3日は眠り続ける。その間、おなかがすいた頃になると突然起き出して、自分が食べるついでにルフィと私にも食べさせてまた寝る。反対に、何か事が起きるとその集中力は凄まじい。別人みたいに睡眠を削って行動する。
 エースは何かに備えて寝だめするつもりなのかな。それとも、ただ時間が余っているから?
「おまえの考えすぎ」
 視線がぶつかると、エースが笑った。
 キッチンの入り口の上の緑のランプが点滅した。アラームは鳴らない。この時間に家に入ることが出来るキーを家族以外に誰が…?
「早いな、どっちか知らないが」
 エースが目を細めた。
 そうか…ゾロかサンジ。2人には家族と同じタイプのキーを渡してある。24時間いつでも自由に出入りできる。
「おはようございます…っと」
 居間からサンジの声が聞こえてきた。と思ったらすぐに、キッチンに顔をのぞかせた。昨日の強さが嘘のようにスーツが似合う爽やか青年の風情だ。
「コーヒー飲むか?」
 エースが声をかけると軽く一礼してわたしの隣の席に着く。
「朝から来る必要もないかと思ったんですが、お届けものがあったから」
 そう言ったサンジの視線は自分が入ってきたキッチンの出入り口に向いた。視線の先には少々仏頂面に見えるゾロが現れた。木箱を肩に担いでいる。
「シャンクスさんから預かってきたんです」
 サンジの微笑とは対照的に、彼に向いたゾロの表情は間違いなくこう言っていた…誰が運んできたと思ってるんだ、と。
 シャンクスが2人に託した箱。
 エースはゾロの分もコーヒーを注いでテーブルにのせた。
「まあ、そいつはちょっとその辺に置いて一休みしてくれ。ルフィを起こしてくる」
 ゾロはわたしと向かい合って座った。唇にその視線を感じてちょっと困った。
「だいぶいい感じじゃない、サクヤちゃん」
 軽やかなサンジの口調が面白い。昨日はずいぶんクールな感じだったけど。
「サンジ~~~~!ゾロ~~~~!」
 声と同時に飛び込んできたルフィがわたしに抱きついた。ルフィ流の「おはよう」だ。子供みたいに体温が高い。
 ルフィを見る2人の視線がふっと和らいだ。いい感じだ。
「これがシャンクスの箱か?」
 ルフィがそっと箱に手をのせた。想いが溢れるような顔をしている。
 もうずっとシャンクスに会っていない。電話で声を聞けるし、時にはモニタのこちらと向こうで微笑み会うことは出来るけど、それでは体温を感じることができない。
「開けてみようぜ」
 エースが言うと、ゾロとサンジが席を立ってキッチンから出て行った。わたしたちは2人をひきとめなかった。
 蓋を開けると一番上には薄紙が広がっていた。エースがそっとそれをよけた。すると…。
 最初に見えたのは麦わら帽子だった。ぐるりと巻きついた赤いテープには見覚えがたっぷりある。
「新しいのだな」
 エースがルフィに渡した。ルフィは一瞬黙っていたけれど、すぐに麦わら帽子を頭にのせて笑った。
「俺、ちゃんとシャンクスからもらったやつ失くしてないのにな~。これで2つになっちまった」
 次にエースは革細工のケースに入った大振りのナイフを取り出した。細工はちょっと粗いが手の込んだもので、誰かがひとつひとつ模様を刻んでいった様子を心の中に思い描くことが出来た。
「ちょっと重いな」
 エースが腰に刺すと、ナイフはしっかり落ち着いた感じに見えた。
「かっこいいな~、エース!」
「おまえにも貸してやるよ、そのうちな」
 わたしは2人の笑顔に見とれていた。なんて嬉しそうな顔をするんだろう。
 箱の中を覗いたエースは、にっこりすると大きな巻貝の殻をわたしに差し出した。
「でかいな~」
 ルフィが目を丸くする。
 受け取ってそっと耳にあてると、海の音がした。懐かしくてたまらないこの音。フーシャ村でいつもシャンクスが見つけてくれた大きな貝殻。
 箱の中身はそれで全部かと思ったら、もうひとつ、紙で大げさにグルグル巻きにされて厳重に紐を掛けられた包みが入っていた。

 『ベックマン&ヤソップより いいか、別に無理して開けなくていいんだぞ、サクヤ!(シャンクス)』

 …何?
 ベンとヤソップからのものらしかったけれど、2人の名前の文字の大きさはその後ろに続くメッセージに比べるとかなり小さい。包みを手に持っているエースの表情もなんだか複雑だ。
「シャンクスの言うとおりだぞ、サクヤ
 渡された瞬間、理由がわかった。銃だ。ベンとヤソップの二人がくれたということは、特製で特別にチューンアップしてあるに違いない。2人はずっとわたしの先生だったから。
「開けないのか?」
 ルフィが不思議そうな顔をした。
「今はいい…後で開ける」
 箱は空になった。
 多分、3人一緒にシャンクスのことを考えていた。
 エースが空箱に蓋をしようとしたとき、その手が止まった。それから蓋をひっくり返して裏側を上に向けて箱の上に置いた。ルフィとわたしは覗き込んだ。
 足跡。
 ひとつだけ。
 子供…いや、赤ちゃんだ、この大きさは。10センチほどの足跡。エースやルフィの紙に残されてる古い足型と同じくらいの大きさだから、わかる。
 でも。
 シャンクスの身近に赤ちゃんが…?
 シャンクスの…?
 顔上げるとエースと目が合った。多分、同じ事を考えてる。
 ルフィは黙ってその足跡に指を押し付けた。
 シャンクスは結婚していない。
 家族はわたしたち3人のはずだけど、わたしたちが知らない世界でがんばっているシャンクスに、わたしたちが知らない家族ができていても不思議ではない。
 現に、わたしはベンとかヤソップとかずっと前からシャンクスのそばにいるみんなは知っているけれど、ゾロとサンジのことは全然知らなかった。
 恋人ができているかもしれないし、結婚だって。シャンクスは自然と人の心をつかんでしまう人だから。
 考えていたら頭がふらふらした。おかしい。身体の関節が痛んできた気もする。
「なんだか、やっぱり熱が出てきたみたい…」
 情けない。エースもルフィも病気知らずなのに。
 わたしの言葉を聞いた2人はいつもの顔に戻って動き出した。エースはそっと箱にきちんと蓋をして、ルフィはわたしの額に手をあてた。
「うん、なんかあっついぞ、サクヤ
「先に部屋行って寝てろ。薬を持ってってやるから」
 ルフィが心配して後をついてきた。
「大丈夫。ルフィはご飯まだでしょ?ゾロさんとサンジさんもほっといたら悪いし」
「ん~、でもよぉ」
「少し寝れば治るから」
 ルフィは渋々引き返した。子供の頃からおんなじだ。小さな頃は『俺が一緒に寝れば絶対に治る!』と、隣りにもぐこんで来ることが多かった。エースに怒られて引っ張り出されたり、そうこうするうちに結局3人で眠ってしまったこともよくあった。不思議と2人に風邪がうつることはなくて、わたしが治るだけだった。
 掛け布団をめくってベッドに滑り込むと、布団がとても冷たく感じられた。まだ起きてからそんなに時間は経っていないのに。
 まずい。
 やっぱり熱がある。
 顔半分まで毛布を引っ張り上げて、横を向いて少し膝を引き寄せる。わたしの安眠体勢。震えだしそうな身体に力を入れて耐える。今がんばればすぐに治る気がする。
 いつだっただろう。
 エースではなくて、マキノさんでもなくて、シャンクスがベッドの横に座って看病してくれたことがあった。
 そうだ…シャンクスがあの言葉をくれた日だ。
「俺は男の子ってやつが大好きだから2人は欲しいし、女の子は大切すぎるから1人でいいんだ。だから、おまえたちがぴったりだ」
 あの時、わたしはびっくりして何も言えなかった。
 ルフィはシャンクスに飛びついていった。エースはいつもの大人っぽい笑みを浮かべた。
 みんなで「家族」になれる。一緒にいるといつもしあわせだから、それまでだって十分だったけど。でも、ずっと離れずにいられる…身体は離れ離れになっても心は「家族」。
 エースが子供らしい様子を見せることが出来るのは、私たち以外ではシャンクスとマキノさんの前くらいだったから、わたしは余計に嬉しかった。
 でも、その話を聞いた大人たちの反応は様々で。
 マキノさんの顔に浮かんだ戸惑いの表情が不思議だったのを覚えている。すぐにいつもどおり笑ってくれたけど。
 マキノさんでさえ…だったのだから、村長をはじめとするほかの大人たちはかなり騒いだ。
 シャンクスはそのころずっと村に滞在していて、時々どこかへ出かけていった。村にいるときはトレードマークの麦わら帽子をかぶっていつも楽しそうで、一緒にいる男たちも荒っぽそうでいながらみんな気がいい人ばかりで、村にとっては気前の良い大切な客人だった。
 でも、誰もシャンクスの仕事が何で、家がどこにあるとか家族が何人いるとか…具体的なことは何も知らなかった。
 だから、揉めた。
 わたしたちを彼に任せていいのか。
 飛び交う言葉の中には聞きたくないような、痛い言葉もたくさんあった。
 わたしの髪の色がシャンクスの髪とそっくりだったから、とんでもない想像をする大人もいた。
 そんな中で熱を出して寝込んだわたし。
 あの時どうして当事者も当事者であるシャンクスがずっとそばにいてくれたんだろう。
 ふと、もう一つの記憶が蘇って、思わず頭の上まで布団を引っ張り上げた。
 あの夜、熱で身体がガクガク震えていたわたしは水薬のコップを渡されてもコップが震えて全然飲むことが出来なかった。だから、シャンクスが飲ませてくれた。
 あたたかな唇の感じとそっと流し込まれる薬の冷たさを覚えている。シャンクスは大きな大人で、わたしはひたすら幼くて。
「いやぁ、娘の最初のキスだなぁ」
 照れて笑った顔を見て、シャンクスを本当に「父親」になってくれる人だと心から思えた。
 頭の中に浮かぶのはさっきのあの小さな足跡。
 どうしてか、わたしはいつかシャンクスに赤ちゃんが生まれるときがくるとしても、その子を産むのはマキノさんだと思っていた。2人が特に恋人同士のような仕草をみせたわけではない。でも、わたしたちにとってシャンクスが父親ならば母親はマキノさんだった。そして2人がいないところでは、エースがその両方だった。
 たったひとつの足跡にこんなに動揺するなんて。
 そうだ。ゾロとサンジに訊いてみればいいんだ。今頃、ルフィもしかしたら…。
「なんだ、そんなに寒いのか?サクヤ
 エースの声が聞こえた。
 あわてて顔を出すと、額と額が触れた。
「やっぱり熱いな~」
 …今、1℃は上がったと思う。
 エースは薬と水のグラスを差し出した。
 起き上がると部屋の空気が冷たい気がした。
「震えてるな。大丈夫か?」
 そう言いながらも、エースが唇の端に笑みを浮かべた。
「もし、薬が飲めなかったら、俺があん時みたいに飲ませてやるよ」
 あの時というのは…あの時ということで。
 どうしてエースが知ってるの?
 というか、どういう反応をすればいいのか…。
「俺、あの時、シャンクスの子供になるのはやめてやる!とか一瞬本気で思ったんだよな」
 エースは笑うけど、わたしはまだ動揺していた。なんでもないことなのに。
 でも。今の気持ちまで見せちゃいけないから。
「子供の時は水薬だったからできたけど、今は錠剤だよ?」
 平気な顔、成功。
 エースは眉を上げてわたしの顔を見た。面白がっている、完全に。薬を口に放り込む振りをする姿は、嘘だとわかっていても上手い演技だったので、思わず笑ってしまった。
「お前はルフィよりもやっかいな時があるな。勝てた気がしねぇ」
 エースがわたしの頭に手をのせたとき、いつもどおりの勢いでルフィが飛び込んできた。
「シャンクスの赤ん坊じゃないって!でも、どこの子供かわからねぇんだって!」
 一瞬で気持ちが軽くなった。
 ルフィが聞いたゾロとサンジの話だと、赤ちゃんはベン(!)の家の前に「突然いた」らしい。数日の間シャンクスのところで情報を待ったが、何もわからず、誰も引取りに来ていないらしい。
「子供はいいぞ~!」
 ベンに勧める(?)シャンクスに対してベンは逆にシャンクスに迫ったらしいが。
「俺にはもう十分なだけ子供がいるからな~」
 シャンクスは笑っていたという。
 ベンは、それからどうしたんだろう。想像するとおかしかった。彼はいつも幼いわたしたちをちゃんと扱ってくれた。今も信頼関係は続いている。でも、赤ん坊ははじめてだろう。
「でさ、サンジが今、スープを作るってよ!風邪にはいいんだって。よかったな~、サクヤ!俺も朝めし、作ってもらおう!」
 今度もいつもの勢いで飛び出して行くルフィ。
「忙しい奴だな~」
 エースはわたしが薬を飲むのを見届けると、グラスをテーブルに置いて、ベッドサイドの椅子に座った。
「薬が効いてくるから、少し寝ろよ。俺もここで寝る」
「薬も飲んだし1人で平気」
「まあ、いいだろ。スープとやらができるまでだ」
 エースは足をベッドに乗せて目を閉じた。
 守られてるような、自分も守ってるみたいな。不思議な感じがした。
 でも。
 これじゃあ、またどんな夢を見るかわかったものじゃない。
 幸せなのにエースの方に背を向けて布団にもぐり込んだ。
 寝顔を見られるのが怖かった。
 そっと身体をずらすと、布団越しに背中の真ん中あたりにエースの足を感じることができた。
 いつか「兄」離れをしなくちゃいけないけれど。
 聞こえてきたエースの寝息が子守唄になった。
 いつのまにかぐっすりと眠りに落ちていた。


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