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 寝汗が気になって次に目を覚ますと、身体が軽くなった気がした。
 熱は下がったみたいだ。
 見ると、エースはベッドに両足を乗せて椅子に深く沈みこんだまま、まだぐっすりと眠っていた。
 シャワーを浴びてしまおう。
 着替えのパジャマと下着を出してそっとバスルームに入ると裸になった。全身が映る鏡の中でやせっぽちの自分がかすかに震えている。自分の姿で好きなのはシャンクスと同じ色の髪の毛…それだけだ。
 熱いお湯と大好きな石鹸の香りで身体がすっきりと元気になる気がした。
 寝室に戻ると部屋の真ん中にエースが立っていて、大きく伸びをしながらあくびをした。
「薬がきいたみたいだな」
 エースの手が額に触れた瞬間、思わずこっそり全身に命令した。
 熱があがってしまいませんように。効果はあったかどうか、わからないけれど。
 額から手を離しながら、エースはちょっと困ったような顔をした。
「悪いな、ちょっと出なくちゃならなくなっちまった。迎えが来てる。今日は静かにしてろよ」
「迎え?」
 エースと一緒に居間に戻ると、1人の女性が振り向いて微笑んだ。
 アップにした明るい色の髪。喉元に光る雫型の宝石。クリーム色のスーツ。膝丈のスカートからのびるすらりとした足。つややかな唇と笑みを浮かべた瞳。
 こういうのを「艶然とした笑み」というんだな、と思った。
「着替えるからちょっと待っててくれ」
 その女性に声をかけてエースは自分の部屋に入っていった。
 エースの声にはあまり表情がなかった。
 けれど、居間にいるほかの3人の顔はそれぞれで面白かった。
 ルフィは丸い目を少し大きくして関心があるのか無関心なのかわからない。
 サンジはどうみてもうっとりとしている。
 ゾロは眉間の皺が心持ち深い。
「あなたがサクヤさん、なのね。わたしは、クリス。エースさんの下で働かせてもらってます」
 女性の声は響きが柔らかかかった。瞳にも口調にもわたしに対する好奇心が感じられる。なぜだろう。
「自宅ではエースさんの感じがだいぶ違うのね」
 わたしはビジネスの時のエースを知らない。だから、その「違い」はわからない。
 ちょっと困ってしまった。こういう場合、どういう風に話をすればいいだろう。
 エースがいつもお世話になって…は全然違う気がするし。
 迷っていると、クリスは小さく笑った。
「何か質問がある?」
 きれいで明るくて素敵な人だ。こういう人がエースと一緒に何かビジネスをしているんだ。そのことがわかっただけでわたしには十分だったから、首を横に振った。唇が自然と笑みを浮かべていた。
 半分は本物、でも残りの半分は気持ちを隠すための本能的なものだった。
「私はあなたのことをもう少し知りたいわ」
 首をかしげてそう言うクリスの瞳はわたしを捉えつづけていた。その形の良い唇が今にも言葉を発しそうにかすかに開かれて…
「待たせたな」
 エースの登場に、クリスは肩をすくめて目をパチパチした。
「続きは、また今度ね」
 スーツ姿のエースは無表情のままクリスの背中を軽く押した。そのまま二人は玄関へ…と思ったとき、エースが振り向いた。
サクヤを頼んだぞ」
「おお!」
 ルフィが元気よく答え、ゾロとサンジは黙ってうなずいた。
 去り際のエースの微笑があとに残された。
「美人だったなぁ」
 サンジが呟いた。煙草を取り出したところを見ると、ようやく我に返ったらしい。
 料理が上手くて必殺の足技を持つフェミニスト。
 うん、ちょっとだけ分かった気がする。
 それに対するゾロは無言ではあるが気持ちがかなり顔に出ていた。どうやらゾロにとってサンジの状態は日常茶飯事の光景らしい。それに、少しあきれていたりもするようだ。
 無口で刀が似合う烈士。
 彼が目指すものは何なのだろう。
サクヤ、サンジのスープ、すげぇうめぇんだぞ!」
 そういいながらわたしをキッチンコーナーに引っ張っていくルフィは、心はすでにおいしいもののことでいっぱいだ。大好きなルフィ。いつもあったかい。
 わたしたちの横を音もなく素早く駆け抜けるサンジの姿が面白かった。思ったとおり、スープを温めなおしてくれている。こだわり、という言葉が心に浮かんだ。
 スープは器の底まで透明な金色をたたえていた。一口、口に含むと一気に複数の香りと味わいが広がって、驚いてそのまま飲み込んでしまった。熱かった。熱かったけれど、とても美味しい。
「気に入ってくれた?サクヤちゃん」
 すかさず、クラッカーを載せた皿を差し出してくれるサンジ。
「すっげぇうめぇだろ!」
「…お前に訊いてるんじゃねぇんだがな」
 ルフィとはやっぱりすっかり気が合ったみたいだ。
「休みのはずの兄貴は行っちまったが、どうするんだ?また寝るのか?」
 なんとなく彼の席に決まった感じの向かいの椅子に腰を下ろしたゾロが言った。どうしてだろう。その声の響きにわたしはなんとなく彼の優しさのようなものを感じてしまった。
 サンジのあたたかいスープと。
 ゾロの声と。
 そして、いつものルフィの笑顔。
 涙が落ちそうになったのはスープの湯気のせいだ。絶対。
 自分は、今自分に出来ることをする。
 わたしは決めていた。
「ちょっと地下に行く」
「地下ぁ?」
 ゾロとサンジは不思議そうな顔をした。


 ルフィは皿洗いのため部屋に残ることになった。
 着替えて髪をきつめに縛り、持ち物を揃えた。地下に行くのは1週間ぶりだ。
サクヤちゃん、なんだか凛々しい感じだな~」
 部屋の奥の地下直通のエレベーターに乗る。この部屋と地下にだけ止まる。
「こんなモンまであるのか」
「地下はちょっと違う場所だから、うちからしか行けないことになってるの」
 一気に下るエレベーターの中の浮遊感は少し苦手。髪の毛が逆立つ感じがしてしまう。ルフィはこの感覚が好きで、時々用事がないのに部屋と地下の往復を楽しんでいる。
 エレベーターのドアが開いた時、ゾロとサンジが一瞬身構えるのを感じた。
 銀色の壁、床、天井。無機質なイメージの広い空間は透明な壁で4つに仕切られている。
 エレベーターの昇降口がある区画は一番狭く、シンプルなベンチがいくつか無造作に置かれているだけ。ここは基本的に家族の誰かを待っている場所だ。この場所に2人が入ることに少しだけ違和感を覚えた。
「ここなら音は大丈夫なので、ここで待っててください」
 抱えてきたポーチから白い「耳栓」を出して両耳に装着する。
「え…サクヤちゃん?」
「この部屋の音はちゃんと聞こえてます」
 次にベンとヤソップが送ってくれた銃を出す。銀色の銃身がまだ新しい輝きを放った。
「トレーニングルームってわけか」
 ゾロの目は一番遠い区画のトレーニングマシンたちを認めたようだ。
 挨拶代わりにかるくうなずいて、わたしは目の前の区画に入った。
 壁のスイッチに触れると、ターゲットモデルが何体も壁から浮き上がった。正体はホログラムだから、いくらでも本物の人間らしい映像にすることは可能だったけど、わたしはのっぺらぼうの白い人形みたいな形状を選ぶ。
 手の中の銃がかすかに温もってきたのが分かった。静かに構えると、自分の身体の中の血の流れを感じた。
 一番最初にこの部屋に来た時のことを思い出す。ビル、というかマンションが完成してシャンクスがわたしたちに1枚ずつ専用のキーカードをくれた。最上フロアが新しい家になる、と聞いてドキドキしていたわたしをベンとヤソップは最初にここに連れて来た。射撃練習の設備をいろいろ発注したのは2人だったから、その出来具合を見たかったのだろう。
 あの時、スイッチに触れた瞬間に浮き出たターゲットたちはひとつひとつが個性的なまさに「人間」で、思わず動けなくなったわたしを見てシャンクスが珍しく怒りかけた。そして、あの時にはもう人を撃つのが初めてではなかったわたしの肩を抱いて、エースがベンに言った。
「そんな的、まだ覚悟ができてない奴が相手のときだけにしてくれよ。こいつは十分覚悟があるし、俺たちを守ってきたんだからさ」
「俺はサクヤのほかに銃を教える相手なんていねぇよ。…悪かったな、サクヤ。一度ちゃんと設定すればあとは大丈夫だから」
 ベンはいつも冷静で穏やかで安心できる人だった。


 銃に弾を込めて1発、引き金を引いた。反動は思ったよりも軽かった。軽くて正確。やっぱりベンとヤソップはわたしのことをよく知っている。
 ターゲットを動くモードに切り替えて、30分くらい撃った。
 撃っている間中、耳には何一つ音が聞こえてこなかった。もちろん、話し声も。
 撃ち終わって振り向くと、立ったままこちらを見ている2人が見えた。妙に生真面目な顔をしているサンジ、そして腕組みをしているゾロ。  耳栓と銃をポーチに放り込んで、二人のところへ戻った。
「サンジさん?」
 黙っているサンジに声をかけると、お返しに柔らかな笑みが浮かび上がった。
「ああ、悪い。ちょっと圧倒されちゃってさ。シャンクスさんやエースさんがすごくサクヤちゃんを守ろうとするからさ、俺、ちょっとサクヤちゃんのイメージを違って想像してたみたいだ。…でさ、サクヤちゃん。その『さん』ってのはやめてくれねぇか。なんか老けた気分になっちまう。せめて『君』ぐらいにして欲しいな」
 サンジ君。
 響きはすごく彼に合うような気がしたけれど、呼べるんだろうか、わたし。
 視線をゾロのほうにずらすと、ゾロは組んでいた腕をほどいた。
「俺は呼び捨てだ。『君』とかそういうのは絶対にやめてくれ。…で、サクヤ…」
 ゾロが何か言いかけたとき、サンジ『君』がつっかかっていった。
「なにてめぇ、突然呼び捨てしてんだよ。馴れ馴れしいっつうか、乱暴っつうか…」
「あ?俺はいつも同じだぞ。で、サクヤ、お前あんだけ撃って腕とか肩とか痛くないのか?」
 サンジ君とゾロ。2人の関係もなんとなくわかってきた。大丈夫、これなら2人が望む呼び方をできる気がする。
「前の銃よりも感触が軽いから、大丈夫」
サクヤちゃん専用ってわけだからなぁ。ベンさんとヤソップさんは他に何丁も作らせては駄目だししたみたいだったな」
 その時、エレベーターのドアが開いた。
サクヤ~!」
 ルフィが飛び出してきた。学校の制服を着ている。ということは。
「ルフィ、学校あるの?」
「休む気でいたんだ。だからのんびり連絡いれたら、今日、テストだった~~~!」
 …やっぱりルフィだ。
 思わず笑うと真剣な顔のルフィが飛びついてきた。
「他のテストだったらどうでもいいんけどよ、今日のは駄目だ、外せないんだ~~!頼む、サクヤ!送ってくれ~~~!」
「今日は何のテストなの?」
「かくとーぎ!」
 『格闘技』。なるほど。これは実技がメインそうだから、絶対に今日、学校にいないと受けることが出来ないんだろう。
「わかった。行こう!」
「おお!」
 わけがわからないはずのサンジ君とゾロを巻き込みながら、わたしたちは大急ぎでエレベーターに乗った。


 一旦部屋に戻るとルフィは大き目のバッグを抱え、わたしはキーリングをつかんで今度は玄関から駆け出した。
 ルフィはエレベーターの中でも駆け足だった。気分だけは。
 ホールも一気に走って外に出ると、建物の横に回る。そこには小さなドーム型のガレージがあり、カードキーを差し込むと柔らかな音をたててシャッターが開いた。
「これは?」
 サンジ君が不思議そうな顔をした。
 中には流れるようなラインが綺麗な長めのボードとカーブを描いた持ち手が特徴の乗り物、ホッパーが何台か入っていた。
「ルフィ、シャンクスのを出してね」
 わたしは自分のホッパーを出して、キーを差し込んだ。ふと、その時に一緒にリングについているもうひとつの鍵が目に入った。それはレトロな形の絵に描いたような「鍵」の形をしたもので、古いものだ。フーシャ村の家の鍵。この街に来てからまだ一度も帰っていない懐かしい場所の鍵だ。
「で、サクヤちゃん、これって何?」
 ルフィがシャンクスのホッパーを引っ張り出してサンジ君に持ち手を握らせていた。深くて渋みのある赤いホッパー。シャンクスが片腕で自在に操っていた愛機だ。
「今からルフィを学校に送っていくんだけど…無茶とは思うけど、サンジ君、ちょっと乗ってみて」
「乗るって…こう?」
 サンジ君はボードに片足を乗せてエンジンをかけた。様になっている…のは一瞬で、あっという間にひっくり返った。
「なんだ、サンジも俺の仲間だ」
 ルフィが笑った。
「じゃあ…ゾロは…?」
「こいつが乗れるかよ」
 サンジ君の口調がとても悔しそうだった。
 ゾロは無造作に足を乗せてエンジンをかけた。そして、軽々と浮いた。大丈夫そうだ。
「なんだよ、何でお前浮いてんだよ…」
「じゃあ、サンジ君はゾロの後ろに乗ってね。ごめんなさい、急ぐから話は後で。ヘルメットをかぶってね!」
わたしのホッパーは白い。赤い髪の人間は髪に負けない思い切りの良い色を選ぶか、そうでなければ白を選ぶしかない気がする。わたしが選んだのは艶のある白で、ヘルメットも同じだ。
 ルフィがポンッと後ろに飛び乗って腰にちゃんとつかまったので、右足で足元のスイッチを踏んだ。ヘルメット内臓のマイクでゾロにスイッチのことを伝える。
 2台のホッパーは一気に垂直に浮上した。
「うひょ~~~~~~!」
「え…ちょっと、ちょっと待ってサクヤちゃ…」
 ルフィの歓声とサンジ君の悲鳴のような声が響き渡った。
 浮いたあとは左足の方のスイッチで加速する。体重の移動や持ち手の操作で方向と高度の調節をする。少し進んだだけでゾロが慣れてきたことが分かったので、合図して思い切り加速した。
「お前、あんまり力いっぱいつかまるな!」
「だ、誰がてめぇに…っておい、おい、ちょっと待てって…」
 無理やりつきあわせて、サンジ君にはかなり気の毒な想いをさせてしまっているらしい。あとで謝ろう。
「行け~~~、サクヤ!」
 ある程度の高さまで上がるとスピードを出しても危ないことはほとんどない。ホッパー人工はまだまだ少ないのだ。地面のロードを乗り継いでいけば大抵の用事は足りるし、エア系の乗り物はホッパーよりも車タイプのものが安全だと思われている。どちらも許可証をもらうのはなかなか難しいし。
 わたしはホッパーが大好きだ。エースも好きで、それに上手い。家族の中で一番速くて豪快な乗り方をする。
 家族の中ではなぜかルフィだけがホッパーとの相性が悪い。もっとも、走る速さとタフなところがルフィの特徴で、ロードを走って次々と渡っていけばものす ごい移動スピードが出る。それでも、今日のようにロードのコースに縛られている余裕がないときは空中を一直線に飛べるホッパーの出番となる。ルフィは エースやわたしの後ろに乗るのも大好きなのだ。
 見失うことはないだろうと思える距離にゾロたちとの間を保ちながら、わたしとルフィは学校に向かって飛んだ。楽しそうに笑うルフィはテストのことを忘れ しまっている感じだ。いや、違う。テストを前にわくわくしているのだ。「格闘技」。どんな科目なんだろう。

 学校の建物が視界の中をぐんぐん迫ってきた。淡いブルーの校舎はどこも曲線で構成されていて、高さの違う棟がランダムに組み合わさったような面白い建物だ。
「あ、いた!お~~~~い、ナミ~~~~~~!」
 ルフィの声とともに空から真っ直ぐに降りていくと、オレンジ色の髪の女の子が振り向いた。
「驚いた。…ルフィ?」
「あ、そうか」
 ルフィはホッパーから降りるとヘルメットを脱いだ。
サクヤ、こっちはナミだ。友だちだ」
 慌ててわたしもヘルメットを脱いだ。
 ナミというルフィの友だちは、陽気な瞳で微笑んだ。
「はじめまして。お話はいつも聞かされてるわ。いい腕してるわね、ホッパー」
 声の感じもとても明るい。笑顔も、スタイルも何もかもが眩しかった。
「はじめまして。あなたもホッパー、好き?」
「前にちょっと貸してもらって乗ったことがあるだけだけどね。ほらルフィ、テスト遅れるわよ。サクヤさん、またね!また、必ずね!」
 慌てて走り出す2人を見送っていると、ゾロたちのホッパーが降りてきた。
「間に合ったのか?あいつ」
 ゾロはヘルメットを脱ぐとゆっくり首を回した。
「大丈夫みたい。ごめんなさい、無茶ばかりさせて。サンジ君、あの…大丈夫?」
「大丈夫って、そんな、サクヤちゃん」
 ヘルメットを脱いだサンジ君の顔にはどこか必死な感じの笑みがあった。
「お前、帰りはもう少し遠慮してつかまれよ。しがみついてくるなよ」
 …それは、今言ってはいけない言葉のような気がする。
 ゾロ、余裕の笑み。
「ば、バカ言うな!俺はしがみついたりなんかしてねぇ!いいさ、誰がてめぇの後ろに乗るか。今度はサクヤちゃんに頼むさ」
「…いいけどよ。お前が力いっぱいしがみついたら、サクヤがどんだけ操縦が上手くても落ちちまうぞ」
 言葉に詰まったサンジ君の様子はかなり気の毒だった。
「ロードで…戻ろうか?」
 サンジ君の目つきが変わった。その顔には悲壮な決意が浮かんでしまっていた。
「気を使わないでくれ、サクヤちゃん。俺はボディガードとして君を守る立場の男だ。こうなったらクソ剣士の後ろだろうが何だろうが、胸を張って余裕で乗ってやるぜ」
 サンジ君の言葉はもうそのまま受け取るしかない感じだったから。ものすごく気の毒だけど。
 わたしたちは再び、ホッパーに乗って宙に上がった。
 帰りは急ぐ理由はなかったからはじめはのんびりと飛んでいたのだが、なぜか途中からゾロが一気に加速して、2台のホッパーは並んでずっと進んだ。
 その間、ヘルメットの中で聞いた声といえば…
 このホッパーでの往復はわたしの中にできあがりつつあったゾロとサンジの2人の印象にさらにはっきりした色をつけるものになった。


 目指すマンションの屋上が見えるようになった。同時にこっちに向かってくる黒い影に気がついた。かなりのスピードで進んでくるあれは。
 ゾロに合図して、そのまま屋上に降りた。
「誰だ?あの野郎」
 次第に大きくなるにつれてはっきりとしてくるその姿。サンジ君とゾロはほとんど同時に右足を静かに動かして足元をかためた。2人の周囲の空気が一瞬にして冷えた。
「あの人は大丈夫。分署の署長」
 口に2本の葉巻。風にはためく上衣の下の筋肉質の身体。13分署署長、スモーカー。
 警察の署長ときいても2人は構えをとかなかった。
「かなり飛ばしたらしいなぁ、お嬢ちゃん。暴走ホッパーの目撃情報がいくつも来てるぞ」
 スモーカーはわたしたちの前でホッパーを止めて、空中から見下ろした。
「けむ・・・・・」
 思わず言いかけて、慌てて口を閉じた。署長の顔を見るとついついルフィが彼を呼ぶときに使うニックネームが出そうになる。
 スモーカーはじろりとわざとらしい視線をくれた。
「連れが違うんじゃねぇか?兄貴と弟はどうした。そこの2人は客か?」
 この街の警察のモットーは「市民こそ主」という不思議なものだ。現在の本部長が来たときに手土産に持ってきた。時々、怖いくらいに丁重な態度の警察官に会う。不気味だ。
 スモーカーはその本部長が来る前から13分署の署長だった。当然、彼は以前からのやり方を変えなかった。彼の中には多分、彼が信じる彼だけの「正義」の形がある…シャンクスが前にそう言っていた。シャンクスと、そして最近のエースはスモーカーとはなんとも微妙な関係なんだと思う。
 スモーカーはゾロのジャケットからのぞいている刀を眺め、煙草に火をつけながら軽くトン、と靴を鳴らしたサンジ君に視線を落としながら煙を吐いた。
「なんだか、物騒な感じの客だなぁ。まあ、いいか。お嬢ちゃん、鍵を貸してくれ。一応番号を控えなくちゃならねぇんだ」
 スモーカーはきっととっくにゾロとサンジ君のことを調べている。今日わざわざホッパーのことを理由にやって来たのは、直接2人を見るためなんだろう。
 スモーカーにキーリングを渡すと、彼は番号を手帳に書いて、それからふと視線をとめた。
「なんだ…まだ持ってるのか」
 古い鍵のことを言っているのが分かった。
 ああ、そうか。この街に来てスモーカーに最初に会ったのはこの鍵が原因だった。
 スモーカーは静かに煙を吐くと、キーリングを投げてよこした。
「街はずれの倉庫で乱闘の跡が見つかってる。被害者はいないから、加害者もいないわけなんだが。いいか、兄貴と弟に伝えろ。どっかの連中が勝手に狙ってくるだけでも、ことが起こったら100%の被害者なんていない」
 スモーカーのホッパーが上昇した。
「なんだかわけのわからねぇ野郎だったな」
 振り向かずに離れていく後姿を見ながら、サンジ君が煙草を捨てた。


 ホッパーをガレージにしまった後。
 ゾロは地下に降りた。トレーニングマシンを試してみるのだろう。
 サンジ君は買い物に出かけた。ホッパーの上から気になる店を見つけたといっていた。ずっと目を回していたのかと思ったけれど、それだけじゃなかったみたいだ。
 わたしは、お気に入りの紅茶を淹れた。
 今日はルフィもエースも帰ってこない。
 湯気が昇るカップの隣りに、キーリングを並べた。
 ルフィは学校。
 エースはどこにいるんだろう。
 今日は2人、素敵な女性に会った。
 大人っぽいクリス、元気いっぱいのナミ。
 ナミとは友達になれそうな気がした。
 クリスは…どうだろう。
 古ぼけた鍵を指でなぞると、なんだか温かい気がした。
 子供の頃、はじめてこの鍵をもらったとき、失くすのが怖くてずっと首から下げていた。お風呂のときもベッドに入るときも。それだけ、わたしにとっては特別のものだった。
 まわりの人と同じように普通の鍵として扱うことが出来るようになったのはいつだっただろう。
 自分に帰る家があることが当たり前に思えるようになったのは。

 まだ完全に風邪が抜けていなかったのか、ちょっとの間うとうとしてしまった。
 ぼんやりした夢の中で、わたしは自分の心の中を恐る恐るのぞいていた。夢の中だと誤魔化したり隠したりするベールがなくて、きまりが悪いくらいよく見える。
 エースが休みだと聞いて舞い上がってしまった無防備な気持ち。
 クリスの女らしさへの意味のない敗北感。彼女の背中に触れたエースの手を見た時の嫉妬らしい感情。
 ルフィたちの前で涙を落としそうになった瞬間の戸惑い。
 エースと家族でいられる幸運をどうして忘れそうになるんだろう。
 ルフィがいて、シャンクスがいて、そこにベンとかヤソップ、ラッキーが顔を出してくれて。ゾロとサンジ君もいて。
 別のどんな形を望んでしまうのかもよくわからないうちに、心が浮いたり沈んだりする自分が情けない。
 夢の中でわたしは、もてあましているくせに大切な気もするその気持ちをしっかりかき集めて扉の奥に押し込み、鍵をかけた。手の中の鍵はあの懐かしい家の鍵と形がそっくりだった。
 ああ、これでいい。ちゃんとしまえた。
 これでまた笑える。
 そこまで思ったとき、夢から覚醒するときの独特の感覚で、心地良い温かさと額に触れた優しい感触を感じた。それから、かすかなコロンの匂いと、ぶつかり合うピアスの音。ひかえめに寄りかかってくる身体の重み。
 …だから。お願いです、勘弁してください。
 思わずそう言いたくなった。
 これじゃあいつまでも兄離れ、というかエース離れできない。
 せっかく鍵をかけたのに。
「エース、重い」
 目を開けると、目の前にエースの横顔があった。そばかすを数えられそうだ。
 静まれ、いろいろ。
 エースはゆっくり目を開けると笑顔になった。
「お前、かなり気持ちよさ気に寝てたからな~。つられた」
 それから、唇の両端を持ち上げるような笑みに変わる。
「ほら、早かっただろ?訳をきかねぇの?」
 きかない。絶対に。
 黙ってるとエースが笑った。
「ルフィは学校行ったんだな。あの2人は…「まあいいか。ところで、銃の調子はどうだった?撃ってみたんだろ?」
 お見通し、というわけだ。
「軽くて精度がいい…と思う。あとね、今日、署長に会った」
 エースの顔から笑みが消えた。
「スモーカー、何て言ってた?サンジとゾロのことを観察してたか?」
 スモーカーの様子や伝言(?)を伝えると、エースは腕を組んで背もたれに寄りかかった。
「あいつが見張ってる分には、まあ、かえっていいんだけどなぁ」
 しばらく椅子をゆらゆらさせていたエースは、横顔から真面目な顔で向き直った。
 こういうエースの顔はなんだか…苦しくなる。
「俺、その鍵、どこやったかな~」
「え…?」
 予想してなかった言葉に驚くと、エースがニヤッとした。いつの間にか…多分眠っている間にしっかりと右手に握っていた鍵を視線で示す。
「エース、鍵…」
「馬鹿。失くすわけないだろ」
 エースはわたしの隣に肘をついて顔を覗き込むと、もう片方の手で頭を軽く叩いた。
「今度、帰ろうな。うん、ルフィの学校が休みに入ったら」
 エースが「帰る」という言葉を使ったのが嬉しかった。
 鍵のことに気がついたのが嬉しかった。
 何か、口を開くと溢れてしまいそうだったから、ただ、頷いた。

 エースはポケットから引っ張り出した自分のキーリングをガチャガチャいわせ、顔全体で笑った。


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