Ruri&ゆうゆうかんかんモバイル

名前変換


憧 憬

 一緒に大きなスクリーンの映画を観て
 大好きなカフェでお茶を飲みながらゆっくりした時間を感じて
 口元が思わずほころんでしまうくらいおいしいご飯を食べて

 そんな憧れがなんだか唐突に強くなってしまった。
 馬鹿だな、と思う。
 原因はエースのジャケットのポケットからヒラリと落ちたペアチケットだ。それは数日後に公開予定のもので、人気ある原作をかなり忠実に映画化したものとして前評判が高い作品のものだった。
 エースはどんな人と一緒に行くのかな。
 想像しはじめて、慌ててやめた。きついだけだ。ふっとおぼろげに浮かび上がった金色の髪の女性の姿を消す。
 でも。
 自分も、とエースにねだることはできない。
 エースはきっとかなえてくれるけど。
 かなっても、それは兄としての家族サービス。
 最近とても忙しそうなエース。家族サービスする時間があったらたっぷり睡眠をとったほうがいい。
 だから、言わない。
 …言えない。


 問題の映画公開初日の今日。
 映画に関する話題は絶対に避けなければいけない気分になっていた。なのに、こういうときに限って。
サクヤ~、これ、知ってっか?お前、こんな本、読んでたよな」
 久しぶりに3人揃った朝食時。ルフィが1枚のチラシをテーブルに載せた。
 ちらりと見て、思わず唇にあてていたカップから淹れたてのコーヒーをゴブリと飲み込み、熱さで涙ぐんだ。
 チラシはその映画のもので、タイトルが派手に目立つ。
「なんかさ、学校でナミがくれたんだ、このチラシ。サクヤが好きそうじゃないかって言ってたぞ」
 そう。原作を何度も読んで読むたびに好きになって。それだからルフィもタイトルを覚えていたんだろう。それにナミさん、鋭すぎる。
「あ、これね。これ、うん、そうだね」
 思わず反射的にチラシを取り上げてしっかり握り締めた。自分の口が何を言ったかよくわからない。
 そっと見ると、エースは少し首を傾げる風な感じでトーストを噛んでいた。
 大丈夫、だったかな?
「なあ、サクヤ
 エースの声。背筋が縮んだ気がした。
「お前そんなに焦って飲んで、舌、火傷してねぇか?かなり熱いぞ、まだ」
 エースが不思議そうな顔をしてたのは、ほとんど猫舌のわたしのコーヒーの飲み方だったんだ。ちょっと気が抜けた。
 そういえば、ヒリヒリする。
 エースは立ち上がると皿をシンクに下げ、わたしの後ろを通りかかった。
 ドンッという大きな音とともにオレンジジュースのボトルが目の前に置かれた。
「ゆっくり飲んどけよ」
 エースの大きな手がわたしの髪に触れて過ぎた。
 どうしてだろう。一瞬、キャップを捻り開けてボトルごとジュースを飲もうかと思った。


 ルフィが学校へ行ったので、わたしも2つほどたまっていた課題を仕上げてしまうことにした。モニターのスイッチを入れておいて下書きのメモを探した。デスクの上には見当たらない。おかしい。
 記憶を辿ると、在り処に思い当たった。雨の日に、エースが借りていった本の間。紙切れを挟んだ覚えがあった。

 エースの部屋にはまだ気配があった。ドアをノックすると携帯電話を耳にあてた姿で開けてくれた。着替えの途中だったんだろう、上半身は裸のまま。タトゥがくっきりと浮かび上がっている。
「ああ、わかってる。今日だろ?場所も時間も忘れちゃいねぇよ」
 電話の相手に返事をしながら、目線で問いかけるエース。電話の相手が女性だと直感的に感じたわたしは、気をとられて身体が固まっていた。
 ああ、懲りてない。
 口だけ動かして「本、見せて」と伝えると、エースはにっこり笑った。電話に向かって話しながらベッドの方に歩いていき、ちょっとしてから戻ってきた。
 わたしの顔の前でヒラヒラ動かされるエースの手は、探していた紙の切れ端をつまんでいた。
 いつ気がつくかな~って思ってたんだぜ
 エースのいたずらっぽい表情がそう言った。
「ありがとう」
 受け取ってドアを閉めることしか出来なかった。
 いろいろ刺激的過ぎる兄だ…と思うしかなくてため息が出た。
 椅子に深く座り込んで紙切れの上に目をやったけれど、自分で書いたはずの文字がなんだか読めなかった。
サクヤ、俺、ちょっと出るぞ」
 ドアを開けておいた戸口からエースが顔を出した。
「うん。いってらっしゃい」
 キーボードを打つふりをして、振り向かなかった。
「帰りは…ああ、後で電話入れるな」
「わかった」
 瞬間的に、頭の中で夜にかかってくるはずのエースの電話が先取り再生された。

『あ、サクヤ、今日、俺外で食事するからお前とルフィの夕飯なんとかしろよ』
『悪い、サクヤ。今夜帰れねぇからちゃんとロック確認しとけよ』

 ああ、何やってるんだろう。
 振り向くとそこにはもうエースの姿はなかった。
 こうなったら。
 髪をきっちり縛り上げて、オレンジジュースのボトルとグラスをトレーにのせて。
 わたしは意地でもレポートを2つ書き上げることにした。負けるものか。って、負けたくない相手の正体がなんだかよくわからなかったけど。いや、違う。わかってる。相手は私自身。自分の中の気持ちだ。
 絶対、勝つ。


 携帯電話の音に手を止めると、もう、とっくに昼を過ぎていた。でも、まだ1時前だ。早過ぎる気がする…この電話。
 でも小さなディスプレイに浮き上がっているのは確かにエースの名前だった。何かあったのかな。
「エース?」
 最初に伝わってきたのはざわざわというたくさんの人の気配だった。
「なんだ、いたのか、よかった」
 いつもの通りに明るいエースの声が流れてきた。
「すぐ出てこれるか?そうだな、あと30分くらいでここに来いよ」
 30分?
 ここ?
「そこ、どこ?」
 エースは街で一番大きくて最新設備の映画館の名前を言った。
「ロードで来いよ。ホッパーはとめるとこが全然ねぇからな!」
 切れた。
 30分。映画館。
 映画館。あと30分…29分。ここからだとギリギリだ。
 考えている暇はなく、バッグをつかんだ。

 動くロードの上を、かなり必死で走った。ああ、今だけルフィの脚力とスタミナが欲しい。ルフィならきっと15分で着く。
 それでもやがて目指す映画館の大きなドームが見えてきた。最後の力を振り絞ってダッシュする。半分転びかけながらロードからおりると、目の前に大きく扉を開いた映画館があった。通路から中まで続く赤い絨毯。その先は10以上の部屋で様々な作品が上映されているはずだ。大きくて、とにかく広い。エースは一体この中のどこにいるのだろう。
 その時目に入ったのは、朝ルフィが見せてくれたチラシがそのまま巨大になったポスターだった。…もしかして。
 今日公開のその映画はメインのスクリーンで上映されることになっているようで、行ってみると入り口の前には恐ろしいほどの人の列が出来ていた。100人?200人?それ以上?どうやら少しずつ前に進んで入場しているらしい。
サクヤ~~~~!!」
 遥か彼方のどこかからエースの声が聞こえた。同時に携帯電話が鳴った。
「エース、どこ?」
「前、前!お前が見てる列の前から3番目!走れ~」
 走れといわれても人がいっぱいで無理だ。それでも謝りながらなんとか通してもらってエースのところにたどり着いた時は、汗だくになっていた。
「お、ギリギリ~」
 列の一番前にエースが立って、手を差し出していた。つかまるとひっぱられ、警備員らしい女性の前に立たされて念入りなボディチェックをされた。隣りでエースも男性からチェックを受けている。
 でも…。
 なんだかわからないままチェックが終わり、背中を押されて中に入った。
「わ…」
 あまりに巨大なスクリーンに圧倒されて足を止めると、背中がエースにぶつかった。
「飲みモンとか何も買えなかったな~。悪い、サクヤ
 エースに導かれるままに中央上段のシートに座る。無意識で歩いていたから、ちょっと誰かの足を踏んでしまったかもしれない。
 まだ何も言えないでいると、エースが笑った。
「そんなにへばったのか?なるべく待ち時間少なくしてやろうと思ったんだけどな。もうちょっと早く呼べばよかったな」
 突然、心臓が復活して加速した。
「エース、朝から並んでたの?」
「正確には昨日の夜からだ。俺じゃねぇけど、4人交代で」
 え。
「なんだか公開初日は普通に並んでも絶対に観れねぇって情報が入ってな。探しても前の晩ぐらいからしか並べる奴がいなかったから、ダメかもなって思ってたんだ。だからお前には言わなかったんだけど。だからさ、ルフィの奴がチラシを出した時は焦ったぜ~」
 うん、焦った、わたしも。
「ま、よかったな、入れて」
 ニッコリするエースの顔。
「しっかしお前、レポート書いてる最中にそのまんま走ってきたろ。なんか…こう…乱れてるぞ」
 確かに。
 Tシャツとスエットだし、Tシャツはエースのお下がりだからダブダブだし。髪はきっと茫々だ。
 そう言えば、エースの方はビジネスの時のスーツ姿だ。激しくアンバランスなわたしたち。
「せめて、これ、ほどけよ」
 エースがポニーテールをほどいて、手櫛で髪を梳いてくれた。
 わたしの心臓は意志では制御不能になっていた。
 夢に描いていたのとは状況が少し違うけれど、憧れの映画、映画館。隣りに座るエース。
「エース…」
「お、そろそろみたいだな。ホント、ギリギリだったな~」
 場内の照明が徐々に落とされた。
 どちらも巨大でクリアな映像と音が広がると、とても話を出来る状態ではなくなってしまった。
 そのまま、光の中で繰り広げられる世界に吸い込まれた。


 映画館を出てもなんだかボ~ッとしていた。
 半分夢うつつのまま、エースに手を引かれて歩いた。
「しょうがねぇなぁ」
 苦笑いするエースの声で我に返ると、こじんまりしたカフェの中にいた。慣れた様子で注文するエース。よく来る店なんだろう。
「ほら、下だけでも着替えて来いよ」
 紙袋を渡された。
「これ、何?」
「開ければわかる。ほら、行って来いよ」
 行けというのは多分、ドレッシングルームのことなんだとわかった。
 紙袋の中にはジーンズが1本、入っていた。新しい。値段のタグは外されていたが、一目で分かった。わたしには高級すぎる品物だ。カットの具合がとてもすっきりしている。手触りもいつもはいているものと全然違う。
 はいてみてさらに驚いた。ぴったりだ。
「エース、これ、どうしたの?」
「なんだ、いい感じだな」
 エースは満足そうだ。
「映画見てる間にさ、ここに届けてもらっといたんだ。あとは俺のジャケット、貸してやるよ」
 ウェイターがやってきて、わたしたちの前に紅茶を2つ置いた。よい香りがする。
「まだちょっと時間あるからな~。ゆっくり飲んで大丈夫だ」
 時間。
 外は日が暮れ始めていた。店の窓から、忙しげに通り過ぎる人々の姿が見える。
 エースと同時にカップに口をつけた。
 どうしよう。言える言葉がないくらいこの時間が嬉しい。
 5分くらいだろうか。
 わたしたちはそのまま黙って紅茶を飲んだ。
「帰ったら、あの本貸してくれよな。映画の原作の」
 最初に口を開いたのはエースだった。
 それから今度は2人で映画の感想を話して盛り上がった。エースがチェックしていたポイントとわたしのポイントは不思議と重なる部分が多く、ああでもない、こうでもないと話が広がった。途中で紅茶をお代わりした。
 外が暗くなった頃、エースは携帯電話の時計を見た。
「そろそろかな」
 何だろう。目が合うと、エースは服の上からお腹を叩いた。
「腹減ったろ?ものすごく旨い店、見つけたんだ。祝いに食いに行こうぜ」
「お祝い…?」
「そ!俺の誕生日」
 エースの誕生日!
 今年は、というか去年の暮れからずっとエースは忙しかった。だから年が切り替わる瞬間も、新年初日のエースの誕生日もエースはぐうぐう眠って過ごした。ああやって眠りだすといつ起きるかわからないエースだったから、わたしとルフィはささやかなプレゼントを準備してエースが起きるのを待つことしか出来なかった。ケーキも、ご馳走も準備できなかった。これまでの年はわがやの台所を一手に引き受けていたエースの誕生日だけ、わたしとルフィがなんとかかんとか お祝いの食卓を整えていたのだけれど。
「俺、寝ちまったろ?あん時は悪かったな。だからさ、今日はお前とルフィに思いっきり旨いもの食わせてやるよ」
 引っ込め、涙。
 ひきしまれ、顔。
 溢れそうな気持ち、あの部分だけは絶対に見せちゃいけない。
「普通は反対だよ、エース。どうしてお祝いされる側のエースが映画を見せてくれてご馳走してくれるの?」
 笑うとエースも笑った。
「だってなぁ、、映画のタイトルをはじめに知った時どうしてもお前を連れて行きたくなったし、あの店ではじめてメシ食ったら死ぬほどお代わりするルフィを見たくなっちまったんだ。誕生日には願いがかなうもんだろ?」
 エース。ああ、やっぱりかなわない。
「ルフィの奴、すっ飛んでくるぞ。『メシ~~~!』ってな」

 一緒に大きなスクリーンの映画を観て
 大好きなカフェでお茶を飲みながらゆっくりした時間を感じて
 口元が思わずほころんでしまうくらいおいしいご飯を食べて

 今のこの上なく幸せな状況は、憧れていた夢とはちょっと違った。違ったけれど、今の方が夢より何倍も素敵な気がする。
 走ってくるルフィを早く見つけたくて、エースと一緒に窓の外を眺めた。
 時々、空から落ちてくる白いものが見えるようになった。
 雪だ。
「ルフィ、喜ぶね」
「だな。またはしゃいでうるせぇな」
 微笑を交わしながら人を待つ優しい時間。
 このまま、もう少し、続いてほしい気がした。


Copyright © 2012 北国のあき/NorAki All rights reserved.