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凛 花

 自分の目が見ているものが信じられない、とか、一瞬理解できない、という現象をものすごく実感しながら体験した。同時に、実は見てはいけないものを見ているんじゃないかという思いが湧いて、反射的に身体を縮めた。
 どうしよう。エースに待ち合わせ場所変更のメールを送ろうか。
 でも。
 迷っている自分の気持ちがよく見えた。
 もしかしたらエースがすぐそこまで来ているかもしれない。
 もしかしたらまた携帯電話の充電が切れているかもしれない。
 もしかしたら…
 いや、本当はただ、今見えている笑顔…少し離れた席に座っている人の笑顔をもうちょっと見ていたいだけなのだ。サラサラと音をたてそうな銀色の長い髪の後姿と向かい合って座っているその人、ロロノア・ゾロの。その笑顔はこれまでに見たことがないだけでなく、この上なくやさしくてあたたかかった。


 ゾロに大切な人がいることは、以前、サンジ君から聞いていた。ほんの少しだけ。それ以上話すことをゾロが許すはずもなかった。
 時々、その人のことを想像した。
 ゾロとサンジ君がわたしのボディーガードとしてうちに来てくれてからどれほどの時間がたっただろう。決して短いとは言えないその間、多分、ゾロはその人と会えていないはずだ…これはわたしの直感でしかないけれど。うちから帰った後に会おうと思えば会える距離にいる人なのかもしれないけれど、でも、多分、違う。サンジ君の言葉から感じたものとゾロの表情、それはその人がかなり遠い場所にいることを示していたと思う。そう、例えばシャンクスのところ…本来ゾロとサンジ君がいる予定である場所の近くとか。
 だから、時々気になった。
 ゾロはその人に会いたい気持ちをどれだけ心の中に抱えているのか。
 ゾロの帰りを待っているはずのその人はどれほどの切なさを我慢しているのか。
 もしも、わたしだったら。
 エースが仕事でしばらく離れた場所へ行ってしまったら。
 考え始めるといつの間にか気持ちが深く深く入り込んでしまって、まるで自分のことのように想像してしまっていた。
 ありがとう、ゾロ。
 そんな時、いつも心の中でゾロにお礼を言った。ゾロと、そして名前も顔も知らないその人に。


 そして、今。
 ゾロと向かい合って座っているあの後姿が、多分その人なのだ。
 あのゾロがまるで少年のような…そう、エースが家にいるときによく見せるような笑顔を見せている。そのくせ、笑顔の合間に見せる視線は強くて何か熱を帯びた異性の気配があって、表情のその小さな変化にわたしはすっかり魅せられてしまっていた。
 あのゾロが。あんな風に。
 その時、ゾロが顔を上げてこっちを見た。
 バレた?
 慌てて目を伏せ、気がつかないことを祈った。絶対に邪魔はしたくなかった。大切な大切な時間のはずだから。
 そして、次にわたしが顔を上げたとき、幾つかの物音ともに、何かが終わっていた。
「そこの赤い髪のお嬢さん…」
 あまり良い感じを受けない男の声が聞こえたと思ったら、次に軽い足音と呻き声が聞こえた。
 顔を上げたわたしが見たもの。
 それは腕を頭の後ろに捻り上げられている大男の姿と、その後ろでサラリと揺れた銀色の髪だった。
「なんだ、お前…」
 男は必死で腕を振りほどこうとしているが、銀髪のその人は手を離さない。力的には圧倒的に大男の方が強いはずなのに、男はどうにもできない。わたしは立つこともできないまま、目の前の光景に見とれた。
「今、赤髪と言ったのか?お前は」
 悠然とした足取りで歩いてきたゾロが自分よりも背の高い男を斜めに見上げた。その眼力に圧倒された男の顔はまるで半べその子どもみたいになった。
「赤い髪を赤いって言って何が悪いんだよ。何だよ、ちょっと声を掛けただけじゃねェか」
 …話す口調も、声まで何だか子どもみたいだ。
 ゾロは苦笑した。すると、彼の全身から放たれていた鋭い空気が消えた。
「離してやっていいぞ。ただのアホコックもどきだ」
「それは、サンジ君が気の毒かも…」
 呟きながら男の手を離すと、その人は一礼した。
「ごめんなさい、勘違いをしてしまって」
 白くて透明な肌。強い光を湛えている緑色の瞳。今度はその人の目に圧倒されたらしい大男は、何かペコペコ頭を下げながら後ずさりして行った。
「…ええと」
 かろうじて、わたしの口はそれだけ言った。
 ゾロとその人とわたし…3人は短い視線を交わし、小さく息を吐いた。
「…あのね…」
 また口を開いてみたものの後は続かず、見上げるわたしと見下ろす2人は小さな笑みを交わした。
 ゾロは静かな仕草でその人を先に座らせ、それから自分が座った。
「エースさんと待ち合わせか?」
「うん、あの…このお店の紅茶が美味しいって聞いて」
 すると、銀髪の人がやわらかく微笑して頷いた。
「美味しかった、とても」
 どうやらこの人もたくさんおしゃべりをするタイプの人ではなさそうだった。でも、笑顔がとても魅力的だった。
 とても強くてとても綺麗…サンジ君の言葉を思い出した。ほんと、その通りだ。
「あの…ありがとう。でもあの男、とても大きかったのに…」
 かなり正直に不思議そうな顔をしてしまったのだろう。ゾロが笑った。
「関節をきめられたらそう簡単には動けない。こいつの身の軽さは半端じゃねぇから、移動するスピードはまず勝てねぇだろうな、俺には」
 驚いた。
 なんてやわらかな顔で言うんだろう、ゾロは。
 『勝てない』なんて、ゾロが一生口にしそうもない言葉だと思っていた。なのに、今それを言ったゾロはむしろ嬉しそうで、何だか誇らしげで。
 頬を染めたその人の表情も、何か全部が眩しくて、わたしは呼吸ひとつするにも緊張してしまった。
「落ち着いたか?」
 頷くと、ゾロは立ち上がった。
「じゃあ、まあ、夜までには戻る。アホコックにも言っといてくれ」
「あ、でも!あの、今日はサンジ君1人でも…」
 ゾロはまた笑った。
「気遣い無用だ。俺は、満足してる。不満なんてねぇ」
「でも…あ、なら夕食を一緒に…」
 首を振りながら歩き出したゾロに続いて立ち上がったその人は、そっとわたし顔を覗いた。
「待ち人来る…かしら?」
 振り向くとエースが笑顔で手を振っていた。
 慌てて振り返るとその人とゾロはもう自分達のテーブルに戻っていた。席に座る時、ゾロがその人の背中に触れた。見上げる視線と見下ろす視線。互いを包みあうような深さがそこにあった。
「…いい場面、見ちまったな」
 エースはポンッとわたしの頭を叩いてから、向かい側に座った。
「あの人…ゾロ…あの…」
 まだドキドキしている気持ちと直結してしまっているようなわたしの言葉に、エースは噴出した。
「落ち着け。ゾロの恋人っていうあの人のことは、ベンにちょっとだけ聞いてる」
「…ベン?」
「ああ。ベンは一緒に行動したことがあるらしい。切り込むよりも守るのが得意な強い女性だと言っていた」
 そう、きっとその通りだ。
 頷くわたしにエースは目を細めた。
「誕生日、今日だったんだな、ゾロ」
「え?」
「こっちにきて少し経った頃にな、誕生日にだけ半日休暇をくれって言ってた。なんだ、柄じゃねぇぞってちょっと面白がってたんだけどな。まあ…納 得ってことだ」
「誕生日だけ…」
「そこら辺はきっちり分ける人間なんだろ。ゾロも…あの人も。まあ、その分、思いっ切り嬉しそうだけどな」
 肩越しに2人の様子を見たエースは顔一杯の笑顔になった。
「さて、紅茶だ、紅茶」
「うん。あのね、迷ったから利き茶ができるセットにした」
「無茶苦茶面白そうだな。あと1時間、まだまだこれからだな」
 そう。エースは今夜は夕食はいらないという連絡をくれた。そして、1時間あるから前から2人で行ってみようと話していたこの店で紅茶を飲もう、と誘ってくれた。そんな風に自由に使える少ない時間をわたしに分けてくれるエースが嬉しくて、今日のわたしは贅沢者の気分なのだ。
「ゾロにも、まだ時間、あるね」
「ああ。それに、時間の長さより気持ちの濃さ、みてぇなものが大事だろ?あの2人にこれ以上邪魔が入らないように祈ろうな」
「うん」
 丁寧に淹れられた紅茶が香りがとても良く、種類をあてるのに夢中になったわたしたちは、少しだけわざとゾロたちのことを忘れていた。
 ゾロと紅茶。いつもはちょっと似合わない気がしていたけれど、今日はとても似合う気がした。


 その夜。
 夕食のメニューはなぜかゾロの好物ばかりで(といってもゾロには好き嫌いは一切ないらしいのだが)、でも聞かれたサンジ君は目を丸くして『偶然だ!』と 言い張っていた。
 ゾロ好みのお米のお酒もたっぷり。
 ケーキはなかったが、なぜかお饅頭や綺麗な色と形の菓子が大皿ひとつ用意されていた。
 いけない、と思いながら、やっぱりあの人が一緒だったらと思わずにはいられなかった。
 ねえ、ゾロ。今、あの人のことを考えている?…寂しくはない?
「美味しかった?その店の紅茶」
 食後のお茶を持ってきてくれたサンジ君がわたしの耳に口を寄せた。
「…見た?クソマリモのデート。元気そうだった?あの子」
「え…?」
 見上げるとサンジ君は短くウィンクした。
「あのね、あの子もとても紅茶が好きなの。で、1週間くらい前に、俺、さり気な~く『紅茶が美味いと評判の店』の噂をマリモに聞かせておいたわけ。もしかしたら今日…ってさ。はは、効果バツグンだろ?で、サクヤちゃん、帰ってきたらルフィにそのの話を聞かせてたし、で、何だか切なくて可愛い目で時々あいつを見てるしさ」
「…いろいろ勘がいいね、サンジ君」
「俺たち、ずっと一緒にやってきた仲間だからさ。あの子、すげェ綺麗ですげェ強くて…マリモには勿体無ェ女性だから」
「シャンクスのところで?」
「いや…もっとずっと前から」
 そう言ったサンジ君の横顔に優しさと厳しさを同時に感じた。
 もしかしたら、もうあの人はこの街にはいないのだろうか。何となく、そう思った。
 ゾロにも、サンジ君にも、あの人にも、一緒に通ってきた時間、潜り抜けてきたいろいろな場面があるのだろう。きっとわたしには想像もつかないような。
「ゾロにおめでとうって言いたかったな」
「悪いね、今日は…」
「うん、わかってる。言うのはあの人1人だけなんだね。で、ゾロはそれが嬉しいんだ」
 サンジ君はホッとしたように笑って煙草を咥えた。
「でもさ、まあ…俺たちだけでなら、まあ、いいよね。勿体無ェけど」
 サンジ君がお茶のカップを差し出したので、自分のを小さく合わせた。
 目と目だけで『おめでとう』を交わした。
 ゾロが一瞬こっちを見た気がしたけれど、気のせいだったかもしれない。

 白くて清楚な一輪の花。真っ直ぐに背を伸ばして立っているその姿を、わたしはその夜、夢で見た。


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