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洗濯日和

 ガラス戸を通してルーフバルコニーに目を向けると、さっき干した洗濯物が風を受けて翻り出しているのが見えた。
 日に日に高くなっていくように感じる青い空と、そこにパステルでモクモク描かれたような白い雲。それから、揺れてたなびく白いシャツ。わたしたち3人は自宅にいる時よく白いTシャツを着るけれど、今一番大きく揺れて視界に存在感があるのは、一番大きなエースのシャツだ。あのシャツをガバガバと着て裾が切りっぱなしの細身のジーンズはいてリズミカルに歩く。そんな時のエースのシャツの襟ぐりや裾の動き方が好きだ。
 と思った時、携帯電話が短く鳴った。
 エースからのメール。
 あ、と思った。

 ポーン:a4→a5

 やっぱり、来た。
 朝起きた時から何となくそんな予感があって、風が抜ける心地よい場所にテーブルを出してチェス盤を広げておいた。
 涼しいから紅茶はやっぱりホット。大きなポットにたっぷり作った。
 あとは手元に携帯電話を置いて、のんびり楽しめるパズルの本を広げて。
 今日来るとは限らない、いや、いつ来るのかわからないメールを待つ心持ちは、予感が当たることへの半分の期待と来なくてもともなのだと自分に言い聞かせる平常心のバランスが面白い。
 エースとはじめたチェス。多分広い意味での「通信チェス」の部類に入るのかもしれない。国際ルールなどはまったく知らないから、とにかく自由に自分の次の手を伝え合う。待ち時間は無制限。ネットや本を調べるのもよし、チェスに自信ありの知人に相談するのもよし。とにかく次の手が決まるまで相手はのんびり待って文句は言わない。
 顔を合わせないこのチェスは、もう半月、続いていた。
 こんなに長くエースに会えないのは初めてだった。ただそれだけだったらきっと陥ってしまいそうなネガティブ気分…うん、想像がつくけれど、そこからこのチェスがわたしを救ってくれている。
 待ち時間の間の日常の中で、ネットで講義を受けたりレポートを書いたり、起床、食事、入浴、睡眠なんかを繰り返す間に、ちょこちょことチェスの勉強をする。きっとエースも空き時間があったらこうしてるんだろうな、と思えるのが嬉しい。そしてその時間が少しでも重なっていたらいいなと思う。そうすれば実際にいる場所の距離がどれだけ離れていても、互いに相手が見えなくても、テーブルを挟んで向かい合っている時の空気に包まれている気がするから。
 わたしに微笑を向けた次の瞬間にとても真面目な表情に切り替わるエースの体温まで思い出すことができるから。


 きっかけは今、目の前に広げているこのチェスセットだった。
 先月。雨の季節がはじまっていた。降っている雨がとても細かったので傘を差さずに通りの両側にズラリと並んだお店のショーウィンドウを眺め歩いていた。顔や髪にしっとりと霧のような雨粒がなじんでいくのがわかって、でもそれがとても気持ちよかった。こんな雨は好きだ。思わず空気の中に緑の草木の新しい匂いを探してしまう。もちろん、この大きな街では見つからないんだけれど。
 髪が重くなってきて少し調子に乗りすぎたかなと気づいた時、目に入ってきたひとつの窓の違和感に足を止めた。
 窓枠もその周りの壁も、いや窓ガラスの色さえその店が通り過ぎてきた長い時間を感じさせるような…古色を帯びた、でも良い感じを受ける店構えだった。その全体的にセピア色な印象と、何と言うか一線を画した感じの輝きが窓ガラスの向こうにあった。ガラス越しの時間のフィルターがかかった陽光を受け止めて撥ね返し、輝いていた。
 同じガラスなのにね。
 それは盤も駒もすべてがガラスで出来ているチェスセットだった。
 何だか目が離せない輝き。
 わたしはびっくりしていたんだと思う。何に、と考えると答えは浮かばないけれど、確かに。そして、唐突に憧れた。一目惚れ…うん、きっと。お店に並んでいる中の真っ赤なホッパーに駆け寄るようにして自分用に決めたシャンクスのことを、ふと思い出した。ああ、あの時のシャンクスもこんな気持ちにつかまったのかもしれない。まだまだ自分とは無縁な見上げるようなウェディングケーキを見たときのルフィみたいに。滅多に見かけない食材に出会ったサンジ君みたいに。それから…
 エースは?
 エースが何かを欲しがる光景を思い出そうとしてみた。でも、浮かばなかった。笑顔はたくさん浮かぶ。穏やかなもの、面白がっている時のもの、興奮を隠せずに目を輝かせているもの。でも、その笑顔たちはどれも、いつもルフィやシャンクスやわたし…その時にエースのそばにいる人に向けられたものだ。
 そうなんだ、考えてみれば。エースはいつもわたしやルフィの願いを叶えてくれた。物に限らず毎日の中の全部。朝に交わす挨拶、慣れた手つきで作ってくれる朝食。わたしたちはずっとエースに全部貰ってる。
 でも、エースは?
 エースには欲しくてたまらないもの、あるのかな。
 我慢したくないけど我慢するのもある意味楽しい、みたいなもの。
 エースのそれは一体どんなものだろう。
 チェスセットの輝きに見とれていたはずなのに、いつの間にかエースのことを考えるのに夢中になっていた。
 気がつくとガラスの向こうで、「お爺さん」と呼ぶのがぴったりな風貌の人が少し首を傾げてやわらかく笑っていた。
 …恥ずかしかった。
 

 正確には盤はガラスと鏡でできていた。普通の駒の白黒がガラスだとクリアとスモークで分けられ、盤の白黒はガラスと鏡で分けられていて。触れるのが怖いようなその駒の感触は思ったよりも軽くて冷たかった。一緒に仕入れに行った孫がとても気に入ってしまったから2セットだけ仕入れたんですが、と店長さんは言った。ひとつはそのままお孫さんに贈ってもうひとつはまず店の真ん中のテーブルに置いてみたんだそうで、でもそれだとどうも周りから浮いてしまって馴染まなかったと。それで思い切ってショーウインドウに置いてみたら、まるで張り切って胸を張ったお孫さんのように見えたんだそうだ。そうかもしれない。話を聞きながら眺め、想像すると口元が緩んだ。
 そんな風に可愛がってもらってるものなら買えないな。
 頭の中でお財布の中に入っている金額を数え、いや、でも1週間は考えなくちゃ、と冷静を装ったりしていた浮かれ気分をごくりと飲み込んだ。
 いやいや、どこかのお宅で歓迎されたくて張り切ってるんですよ、とわたしの表情を読んだ店長さんが明るく笑い、これはとても逆らえる言葉じゃないねとすぐに思い直した。現金だ、我ながら。
 そう言えば、チェスをしたこともないしルールも知らない。それを言うと店長さんはさらに笑った。こういうのがご縁というものでしょうねと言われ、また納得してしまった。
 嬉しくて、箱に収められていくひとつひとつを目で追いかけた。とても丁寧に梱包してもらったけれど、これはホッパーでは帰れないと思った。広場の駐車場まで戻ってホッパーの荷台を引っ張り出して箱をしっかりバンドで固定した。ホッパーを押して歩くわたしを見て、何人か人が故障かと聞いた。ロードに乗せると、まだちょっと珍しいホッパーを見せてくれと言われた。初対面の人が苦手なわたしが普段よりも笑顔を見せることが出来たのは荷台にのっている箱のおかげだったと思う。残念ながら誰も中身を尋ねてくれなかったけど。
 帰るといそいで箱を部屋に持っていき、そっと開けた。
 携帯電話を引っ張り出して写真を撮り、それを添付してエースにメールした。勢いのままタイトルも本文も書かずに写真だけで送信してしまった。慌てて説明のメールを打っていると返事が来た。

 綺麗なセットだな。サクヤ、嬉し過ぎるんだろ。本物はもうしばらく見られなさそうだけど、その時を楽しみにしてる。

 お見通しだね、エース。
 打ちかけていたメールはキャンセルした。このセットを見ながら、顔を見ながら話をしたかった。
 エースはしばらく帰れないんだ。夕食の後、思いながら駒のひとつに指先を触れていると携帯電話が鳴った。
 エースからのメールにあったのは最初の一手。エースもルールを知らないから夕食時に馴染みのお店のマスターに相談したと書いてあった。これからのんびり、じっくりお互いに手を進めていこうと。
 このチェスセットで最初のゲームをエースと。手で両方の駒を動かすのはわたしだけど。
 嬉しい。すごく嬉しい。
 湿っぽくなりかけていた気分が一瞬で消えた。
 ああ、本当にエースから貰ってばかりだね。
 甘い気分を抱きしめながらベッドに入った。明日はチェスの本を探そうと自分に誓いながら。


 エースのポーンをa4からa5に動かした。それは、待ち時間の間にわたしが予想していたいくつかの次の手を見事に全部かわしていた。予想といってもまるっきりの初心者がちょっと本やネットの知識を齧ったくらいの結果だから知れているけれど、それでも何だか嬉しかった。この間よりも長かった待ち時間も、きっとエースが一生懸命に次を考えたせいだと思ってしまえる。
 ねえ、エース。
 だいぶお互いの駒が減ったよね。
 わたしはこのガラスの駒たちを目の前で見ることが出来るけど、エースはどうやって状況を眺めているのかな。
 紙に書いたりしてるかな。もしそうなら、きっとその紙、ポケットの中で皺だらけになってるかもしれないね。
 次を急ぐ必要はなかったから、カップにもう1杯紅茶を注いだ。
 またTシャツが風に揺れた。
 あのシャツが乾いたら、こっそり自分の部屋に持っていってしまおうかな。パリッと乾いてお日様の匂いがするシャツはほとんどエースそのものだもの。自分で着たり抱きしめるなんてできないけど、でも枕元に置いておきたい。眠る時も目を覚ます時も真っ先に真っ白な匂いを感じられるように。
 Tシャツは大きく揺れてほとんど一回転しそうになった。
 洗濯バサミが飛ばされちゃうのも時間の問題かもしれない。本当に我が家はみんな「自由」という言葉が似合う。きっとこの言葉についてくる真剣なものをそれぞれのやり方でちゃんと受け止めているからだろう。シャンクスもルフィも、そしてエースも。それぞれの笑顔で。
 わたしはまだそこまで強くなれないから、ここにいる。
 だけどやっぱり、幸福だ。
「いい空だ。洗濯日和だな」
 飛び上がった。そうしたら駒が転がりそうになり、エースの大きな手がそれをそっと押さえてくれた。
 エース。
 いつの間に。確かに気配を消してこの家に「侵入」するのはエースだけの得意技だけど。
 多分、目をまん丸にしているわたしに、エースは笑い出すのを堪えてるようだった。
「やっぱりな、そろそろ差し向かいって感じでやりたかったから。間に合ってよかった~」
 満面の笑み。エースのそれを見ていると、動悸が速くなった。
 似てる、かもしれない。近いのかもしれない。
 何かを欲しがってる時のエースの顔に。
 ここにあるのは・・・「時間」だけかもしれないけれど。
 わたしがいつも欲しがってしまう「一緒にいる時間」。
「ん?どうした?。サクヤ
 あと、名前を呼んでくれるエースの声と。
「にしても、すげェ綺麗なセットだな。写真より数段上だ」
 話したいと思ってきたことを聞いてくれるエースの耳と。
 こんなにたくさん貰っていいんだろうか。
 早く返事をしたいのに、唇がまだ震えていた。
サクヤ
 ポン、と頭の上にのったエースのあったかい手。
「エース」
 名前を囁くのが精一杯だった。何か爆発してしまいそうだった。
 エースはくしゃっとわたしの頭を大きくかき回した。
「ただいま」
 見上げるとエースの目がじっとわたしを見下ろしていた。目が一瞬いつもよりも煌めいた気がしたけど、すぐに大きな笑みがそれに替わった。安心させてくれると同時に心がくすぐられる笑顔。
「…やっぱり今回はちょっと長かったね」
 だけど楽しかった、と言おうとした時、エースはまた頭を撫ぜてくれた。大きな手が離れ際にわずかに頬に触れていった。
「チェスの手を考えてる時、一緒にいたぞ?この中身はな」
 そう言って自分の胸に手をあてたエースの姿が眩しかった。
「やっぱこっちだろ、お前のそばに行くのは」
 そう言うエースの顔はほんの1秒、真面目になった。
 そんな全部が真っ直ぐに胸の奥に届いてしまうこと、あなたは本当に知らないのかな。
 楽しそうに笑い、エースはわたしのカップから紅茶を一口飲むと向い側に座った。
「さて、続き、続き。あと、お前がこいつに惚れた様子をじっくり聞かせてもらわなきゃな」
 続きといってもそうすぐに何も調べずに次の手が浮かぶわけもなく、わたしたちはひとつのカップの紅茶を分け合いながらこのチェスセットを手に入れた日の話をした。エースは時々目を細めながらたくさん頷いた。
「わかるなぁ、そういう時の感じ」
「エースもある?ものすごく欲しいものが自分のものになって浮かれるなんてこと」
「今も浮かれてる。帰ってこれたし、間に合ったから」
「ん?」
サクヤ、待っててくれたみてェだし。俺にもかなり長かったから、実は」
「…エースには『自由』がすごく似合うのに」
「俺を自由にしてくれてるのは、信念とかいう奴と…まあ、おんなじくらい大切なものもあるから。あのな、帰る場所があるから『自由』って言葉、使えるのかもしれないぞ」
 そうなのかな。
 それなら、エースの帰る場所がもうしばらくこの家だといい。みんなと一緒にわたしも待っていられるこの家なら。
 エースはルークをひとつ持ち上げて、手のひらで静かに転がした。
「持った感じもしっくりくるな。指紋、つけちまうけど」
 消さないでおきたい…エースの指紋。手のひらも、指先も。全部に魅せられる。
「…浮かれさせるな、これ以上」
 エースの呟きが聞こえた。
 我にかえったわたしがちゃんと焦点を合わせた時、もうエースの顔にはいつもの面白がる表情があった。
「紅茶、淹れなおそうか」
 エースが言い、わたしが慌てて立ち上がろうとすると頭の天辺をぎゅうっと押えた。
「いい、いい。急ぐ必要ねェし。ついでに冷蔵庫覗いてランチの材料も確かめてェしな。ゾロとサンジには連絡して休暇、やったから」
 いつの間に。
 ということはエースと一緒にゆっくりお茶を飲んで、ランチを食べて(エースの手料理!)…
 嬉しい顔をするなという方が無理だ、という顔になってしまったはずのわたしにエースは目を細めた。
「だから、ゆっくり次の手、考えな。すぐ戻る」
 歩いていくエースの姿は見慣れた小さな揺れとリズムを刻む。
 見ているわたしの心も弾む。
 さて、と。
 盤を見た。駒に集中したいけど、まだ気持ちが弾んでしまう。
 初心者なりの最高の手を考えなくちゃ。
 時間はたくさんある…それって夢みたいだ。

 ガラスの向こう、乾いたよ、とTシャツが揺れた。
 ガラスの駒たちが明るい光の中で艶やかに輝いた。
 キッチンから陽気な口笛が一節、流れ過ぎた。


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