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雨音ワルツ

 早く帰りたいのにな。
 空はまだ暗くて雲が重たげに固まっている。ダメだ。まだまだ降りそうだ。
 いっそずぶ濡れになってもいいからロードの駅まで走ろうか。
 ああ、ダメだ。わたしが今抱えているのはエースとルフィが大好きなパン屋さんの大きな袋。これは濡らすわけにはいかない。
 このパンを買うのが出かけたそもそもの目的だったし、目標は寝ている2人が目を覚ますまでに急いで戻ることだったのに。


 朝、起きたら居間のソファにエースが寝ていた。嬉しくて躍り上がりかけた身体をギュッと抱いて我慢した。テーブルの上に走り書きしたメモが載っていた。

 明日、1日休み。ゾロとサンジ休暇。映画?本屋?美味い店?…

 言葉の続きが斜めに引かれた線で終わっているメモ。そこまで書いて睡魔に負けてしまったんだろう。床にペンが落ちている。ルフィとわたしが大好きな場所を書いてくれたエース。こんなに疲れているのに。
 昨日が学校の体育祭とかだったらしいルフィがまだ起きてこないのはわかってた。片腕をソファから落としながら眠っているエースも、これならしばらく起きない。今日は3人揃って遅めの朝食を食べられそうだ。
 そこまで考えた時、焼きたてのパンの香りをとてもリアルに想像した。表面がパリッとした皮で覆われた香ばしさいっぱいのパンがあったらエースもルフィも喜ぶかもしれない。パンと紅茶とオレンジジュース。エース特製のオムレツ。想像を進めたら自分のお腹の空ろさを感じた。食いしん坊だ、我ながら。
 それで張り切ってロードに飛び乗って3駅先で下りた。多分空はとっくに重たく曇っていたんだろうけど、わたしは全然気がついていなかった。エースとルフィが好きなパンをトレー2つに山盛りにするには結構時間がかかったし、会計してもらう間もしばらく待った。無理もない。多分普通の3人暮らしの家なら1週間分はあるだろう。帰ったらすぐに食べてしまうのだからと包装はできるだけ簡単にしてもらったけど、店で一番大きな袋にいっぱいになった。いい香りと美味しい予感がいっぱいの幸福な袋。抱えたわたしの顔には思わず、の笑みが浮かんでたと思う。
 この袋を持って帰ったら、エースがいる。なんて贅沢な気分。
 幸福に酔っていたせいだろう。頬に冷たい雫を感じた時、ひどく驚いた。あり得ない事のように思った。
 走ったほうがいいかな。そう判断して足を大きく踏み出しかけた時、降りが一気にひどくなった。バケツをひっくり返したような、というのはこういう雨のことを言うんだろう。袋をしっかり抱えなおすと急いでまだ開店前のカフェの濃い緑色のひさしの下に滑り込んだ。そこでじっと立ち尽くしたまま、ただ空を眺めていた。雨は止まなかった。まだまだ降りそうだった。


 早く、帰りたいな。帰りたいのにな。
 苛立っていくこの気分が嫌だ。せっかくのお休みで、家には幸せそうに眠っているはずのエースとルフィがいて、わたしは腕いっぱいにいい香りのする焼きたてのパンを抱えているんだから。今降っているこの雨だって空からの恵みの雨なことは変わらないはずなんだから。あの懐かしい村で幼かったルフィとわたしの遊び相手をしてくれたたくさんの水溜り。あれを作ってくれたのも雨だし、村の農作物をいつも一気に大きくしてくれたのも雨なんだ。
 こんなに大きな街にいると雨のあったかさが遠くなるね、エース。
 今も、雨の中を帰って来た日はいつもお風呂に入らないって言って笑うよね、ルフィ。この街ではエースよりもサンジ君に怒られた回数の方がそろそろ多いかもしれないね。
 そんなことを考えているうちに、雨が少しだけ小降りになった気がした。ひさしの下から頭を突き出してみると、うん、確かに当たる雨の数が減っている。チャンスかな。腕の中の袋を見下ろすとちょっと躊躇われた。パリパリの感触を2人に楽しんで欲しいから、包んでくれようとしたビニール袋は全部断った。きっととても濡れやすい。
 でも、チャンスなんだ。
 ロードにさえ乗ればあっという間に家のそばまで戻れる。そこでまた雨に会うのかもしれないけど、でも、家には近づける。エースの傍に帰れる。
 わかってる。こんな時のわたしは「帰る」ことにただ夢中になってしまいがち。小さい頃から無茶して大雨の中を走って帰ったらちょうど家に着いた頃には雨が上がった、ということがよくあった。ずぶ濡れでドアの前に立ったわたしをいつもエースは笑いながら迎えてくれた。大きなタオルでグルグル巻きにしてくれて、髪を乾かすのを手伝ってくれた。
 そう。わたしはそうやってエースが迎えてくれることがとても嬉しかった。ずぶ濡れになったことがエースに自分から甘える理由になってくれて、わたしは心の中に湧いてくる甘さを噛みしめながら普段より少しだけ口数が増えてエースの言葉や手を求めることが出来た。
 なんだ、わたしは今もただ甘えたいだけだったかな。
 思わず苦笑した。
 エースが家にいると思うと、すぐこうだ。幼い頃のままだね、これじゃ。
 でも、今は美味しいパンを2人に食べさせるのがわたしの「使命」だ。大袈裟なこの言葉、あの頃に流行ったね。これを使うとまるで呪文みたいに苦手なことや面倒なことも楽しくできたよね。
 紙袋をしっかり持ち直した。
 「使命」だ。できるよ、ちゃんと。2人にパリッパリのパンを持って帰るから。
 だから、もうちょっと。わたしはゆっくりとひさしの奥に身体を引っ込めた。
 パシャン。
 早朝のまばらな人通りの中、ひとつの足音が大きく響いた。誰か、カフェの前で立ち止まったかな?
 パンの袋から目を上げた最初に見えたのは切りっぱなしのジーンズとサンダルを履いた2本の足で、その瞬間、それが誰だかわかった。
 え、いいの?
 最初に思ったのがそれで、なぜだか身体も口もうまく動けなかった。
「見つけた、サクヤ
 広げた傘を片手にわたしの方を覗きこんだエースの顔はいっぱいの笑顔になった。
 心臓が跳びはねた。
 黙って目を丸くしてるわたしを見てエースは笑みを深めた。
  「びっくりさせられたんなら、一応成功。ちょっと感動なんてしてもらえてたら、大成功。俺の朝一番の使命は、お前をさりげなく雨から守ること、だからな」
 うわ、「使命」だ。
 びっくりして、笑ってしまった。
「懐かしいね、使命」
 エースも笑って手を振り、わたしを傘の中へ呼んだ。
「一日中使命だらけだったよな、昔。ああ、でもさ、時々心の中でこっそり自分に使命を与えてたりしねェ?今朝の俺みたいに」
「…うん、ある」
 ついさっきのわたしみたいに。
 傘の中に並んだわたしたちはゆっくり歩いた。わたしが抱えている大きな袋を見たエースは、多分手を差し出しかけたけれどすぐに引っ込めた。わたしの「使命」を感じ取ってくれたんだ。嬉しかった。わたしがちゃんと自分で持って帰ったパンを2人に食べて貰うのが使命だから。
 どうしてここに、とは訊かなかった。携帯電話を持って出たから、目を覚ましたエースは家の中で見つからないわたしの居場所をすぐに探すことができただろう。わたしは2人を起こさないために携帯電話を鳴らさなかったし、エースはこっそりわたしを見つけるために携帯電話を鳴らさなかった。すれ違わなかったのは大きな幸運だ。
「降りが弱くなってきたなぁ。やっぱり傘1本だけで正解か」
 呟いたエースの声に頷きそうになった。1本だけだからこうやって一緒に並んで傘に入れる。これも大きな幸運だけど、エースには言えないね。
 気がつけば確かに雨は小降りになっていて、雨音がひとつずつ聞き分けられた。小粒な音の中に時々街路樹や電線から落ちる大粒な音が混じって、どことなくリズミカルだ。
 見上げるとわたしを見下ろしていたエースと視線がぶつかった。エースの顔には楽しそうな笑みが浮かんでいて、多分、わたしの顔にも似た感じのものが浮かんでたと思う。
「お前が美味そうな匂いの宝物を抱えてなかったら、一緒に踊っちまうんだけどな」
 タン、とエースの左足が高い音をたてた。
 タン、タタン。
 タン、タタタン。
 タタタタタタ、タン。
 傘に落ちてくる雨音に合わせて、エースの足が小さく踊る。ワルツのようにゆったりしたかと思えば、すぐに軽快で早いタップに戻る。
 わたしは紙袋を守るために足でステップは踏めなかったけれど、代わりに頭をちょっとだけリズムに合わせて揺らした。あまり小刻みには動かせないから、ずっとずっとワルツのリズムだったけど。
 右、左。また、右。
 タン、タタン。タタタン、タン。
 エースは傘を反対の手に持ち直して空いた手をそっとわたしの背中にそえた。
 タン、タン、タタタン。
 背中に感じるエースの手の温度が、本当に一緒にダンスしている気分をくれる。
 タタタ、タタン。
 このままもう少し雨が降って欲しいと願う自分の勝手さが恥ずかしい。でも、もう少しだけこうやってエースと一緒に並んでいたい。もう少しだけ。
 やがて、エースは傘を高く上げてクルリと1度だけ大きく回った。
 傘から弾けた雫が、また傘に当たって軽やかなリズムを奏でた。


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