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ゆ・び・き・り

 覚えている。
 まだ何にも知らなかった幼い頃。人間というよりも何かほかの生き物みたいに大人たちを戸惑わせていた『無口な幼児』時代。
 いや、幼児というよりも多分、赤ん坊時代をちょっと脱したくらいだったはずのわたし。
 わたしはとにかく人に懐かなかった。そう聞いた。合せ貝の殻よりも固くすべてを閉ざしていたから、どれほど言葉がわかるか、とかちゃんと口をきけるのか、ということもわからなくて困ってしまったのだという。
 ごめんなさい。今なら以前よりも余計にわかる。心配してくれる人、戸惑う人、じれったがる人、怒る人。きっといろんなものがぶつかりあってしまっただろう。
 今、自分の故郷だとこんなに強く思えているあの村。フーシャのみんなは本当にそろって個性的で面白い大人たちだから。


 何もかもうまくいかない日、というのはあるものだ。
 外に通学しているルフィとは違って在宅学生をやっているわたしの勉強は、モニタ画面と音声で講義を受け、自分なりに理解して必要なら情報を調べてレポートを出す、というやり方になる。これにはマイペースで取り組めるという魅力的な利点と同時に自分が置かれている状況がリアルに判断しずらいという欠点が伴う…と個人的に思う。ええと、つまり、自分の進度とかレポートなどに対する評価は学校が示してくれる数値などのデータで把握するしかないということ。もちろん、ルフィの成績だって学校側は数値で示す。でも、クラスメートとの会話や教師との直接の会話みたいな日常は、もしかしたらその数値以上のものをくれているのかもしれない。
 在宅学生には将来研究者として生きていくことを目指す学生が多いと聞く。あと、働きながら勉強する学生、持病や怪我が理由の人、通常の教育では足りなくてコースを追加するため、など。まだまだ他にもたくさんの理由があるんだろうと想像できる。
 わたしの場合…考えてみると特にはっきりした理由って、実は、ない。進学先を決める時、「家にいたい」という気持ちが強かったから選んだ…それだけだったと思う。シャンクスとエースに話すと2人とも疑問ひとつ言わずに賛成してくれたから、それからちゃんと考えたこともなかった。あの時、一番大騒ぎだったのは、そう、ルフィだった。わたしが同じ学校に行くのを当たり前のことだと思ってたんだろう。驚いて目をまん丸にして、ものすごく寂しがってくれた。3日間、おやつを食べなかった。ルフィが大好きなおやつを食べない、というのはわたしにも一大事だったから、一瞬、同じ学校にしようかと本気で迷った。
 「家にいたいから」なんて理由、あまり真剣みがないように受け取る人だって多いはず。実際、自分だってどうしてそう思うのかなんて、よくわかっていない。それならこだわる必要もないかな。
 気持ちが盛大にグラグラしはじめた時、エースが言った。
「『自分のために決めた自分のこと』を邪魔すんのか?ルフィ」
 ルフィはまた目を丸くした。その隣でもしかしたら、わたしも。懐かしい響き。真剣な響き。なんだかとても胸に響いた。
 ルフィはじっとわたしの顔を見て、それからエースの顔を見た。次に、自分の両手を持ち上げるようにして眺めた。そして突然、ニッカリ笑った。いつもの笑顔だった。
「悪い、サクヤ。俺、間違ってた。俺、お前と一緒に学校行けるって思ってたし、今までも滅茶苦茶楽しかったから、そのまんまおんなじだといいって勝手に思ってた。手、つないでロードに乗ったり、遅刻しそうになってホッパー出してもらってお前にしがみついて冒険したり、お前の成績見てすげェって喜んだり、仲間集めて屋上でおやつ食ったり、体育で助っ人しようとして追い出されたり、学校から反対に向かって歩きそうになるのを引っ張り戻してもらったり、お前に絡んだ変なヤツをぶっ飛ばしたら何でか知らねェけど2人一緒に校長室に呼ばれたり、俺、字より声の方が覚えれるからテストの前の晩はずっとお前にまとめたノートを読んでもらったり、帰りに待ち合わせしてケーキ山盛り食いに行ったり…」
 気がつけば、黙ってわたしたちの様子を見ていたはずのシャンクスは、お腹を抱えて笑いながらその笑い声を必死に殺していた。
 エースはため息をつくと小さく口角を上げ、ルフィの頭に拳骨をひとつ、ふわりと落とした。
「そんだけ妹をつきあわせたら、十分ハッピーだろうが。ったく、校長室なんて俺の耳には入ってねェぞ。今まで妹に面倒見てもらった分、そろそろ解放してやれ。サクヤがいろいろゆっくりする時間を必要としてるんだ。お前は兄としてちゃんとそれをやって、早く会いたいなら迷子にならずに真っ直ぐすっ飛んで帰ってくればいい」
「そっか。そうだよな。」
 ニコニコ笑うルフィの頭をエースの拳がグリグリした。それはいつもこっそりわたしがうらやましがっている光景そのもので、気持ちがストンと落ち着いた。
 そうだった。
 自分のために決めた自分のこと。
 わたしはちゃんと自分で決めたんだから。
 あの日の記憶がまたわたしを頑張らせてくれる。
 1時間ほど前に切ったモニタの電源を入れた。ここが、わたしが選んで決めた学校なんだ。
 ヴィジュホンのボタンを押す指先が少し、震えた。
 受付をしてくれた相手に話し出した声は、もう少しだけ震えてしまったかもしれない。


 夕食は、シャンクスがどこかの島から送ってくれた巨大な魚を目にしたサンジ君に火がつき、魚料理づくしの大パーティみたいだった。
 途中で帰ってきたエースは大歓迎され、抱えてきたワインは次々と栓が抜かれた。
 ゾロの隣に座ったわたしはその綺麗で豪快な飲みっぷりを鑑賞するつもりだけだったけど、そのゾロがなんだかどんどんグラスにワインを満たしてくれて、不思議なことにエースもサンジ君もそれを止めなかったから、結局たくさん飲んでしまった。
 食べて、飲んで、笑った。
 いつも通り速いペースで皿を空にしながら、ルフィが最近来た転校生の話をしてくれたんだけど、ゾロとサンジ君にはわたしが通訳しなくちゃ言葉が聞き取れなかったし、通訳しながらやっぱり笑いたくなるしでだいぶ腹筋を使った。
 とうとう目が回りだしたので、お皿を下げてから1人でベランダに出た。散々騒いだ後だから、きっと誰も不思議に思わなかったよね。寝椅子に座って身体を伸ばしたら、自然と深いため息が漏れてしまった。楽しかったよ、すごく楽しかったんだけど。でも、今、ちょっと暗い感じにホッとしてる。
 うまくいかない日、あるよ。
 今までもあったし、これからもある。
 今は気持ちが凹んでいても、一晩過ぎて朝になると、きっとずっと軽くなる。
 わかってる。
 大丈夫、わかってる。
 泣かないよ。もうそれほど、子どもじゃない。
 ドアが開いた時、エースだとわかった。
 エースはただゆっくりと歩いてきて、わたしの寝椅子の横で胡坐をかいた。
 今真っ直ぐに顔を見て笑えないのは、まだまだ修行が足りないな。そんなことを思ったとき、不意に右手の小指が温かさに包まれた。わたしの小指とエースの小指。見下ろすと静かにわたしを見上げるエースの視線があった。
「覚えてるか?指きり。」
 熱い固まりが喉元にこみ上げた。覚えてる、このエースの手よりまだずっと小さかったエースの手。それでもやっぱりあの時のわたしの手よりずっとずっと大きかったエースの手の、その小指。そっと絡められたその意味がわからなくて首を傾げたわたしに、その意味を教えてくれたエースの声。
「…わたし、全然口をきかなかったんだよね?」
 エースは小さく笑った。
「昼間は特にな。自慢しちまうと、あの頃お前が口をきく相手は俺だけで、それももっぱら夜だった。明るい間はお前、じっと固くなってただ相手の顔を見てるんだ。大人はそんなお前をほっといちゃくれない。あの手この手でお前を喋らせよう、笑わせようって頑張ってたな。」
 多分、その頃はまだ、大人が当番を決めて順番にわたしたちの面倒を見てくれてたから、余計にたくさん心配してくれたんだろう。わたし自身にはその記憶はあまりなくて、ちゃんと残っているのはエースとルフィと3人で暮らしたあの小さな家の記憶からだ。
「お前を病院に連れていかれた時は、怒ったなァ」
「病院?」
「知能検査ったって、あの頃の俺はそれがどんなもんだか知らなかったし、知ってたとしてもお前にはそんなもの全然必要ないってわかってたしな。で、入院させて1週間かけて検査するって話になって、どっかの島から医者と看護婦がお前を迎えに来たんだ」
「…全然、覚えてない」
 今度は、エースは声を上げて笑った。
「そりゃあ、そうだ。お前、行かなかったからな。俺と一緒に隠れたんだ。医者たちが諦めて帰るまで」
 隠れた…?
 記憶の端にヒラヒラするものがあり、わたしはまた指きりをしたままの手を見た。
「そうだ。あの時、お前と指きりしたんだ」
 指きり。わたしは大切なのに悲しいくらい小さな記憶を懸命に辿った。


 エースがわたしの顔をじっと覗いていた。わたしはその顔と、指きりしている2人の指を交互に見つめていた。わたしにはその意味がさっぱりわからなかったのだ。エースはしばらくわたしの顔を眺めてから、とても大きな笑顔になった。
「しらねェか、ゆびきり」
 ゆ・び・き・り。声なく唇で呟いたわたしの頭を、エースの手が撫ぜた。
「そうだ。なんでこうやるのか、オレもしらねェ。これは、やくそくのしるしだ。とびきりダイジなやくそくのな。オレはそうおそわった」
 約束、は知っていた。していい事、悪いことを教えてくれる大人と、いくつかこれをした。というか、わたしは約束をしたつもりになっているけれど、大人にそれを伝えられないままだったから大人にとってはしてないのと同じなのかもしれない。だから、いつも困った顔になるのかも。
 キュッ。
 エースの指が少しだけ力を強めた。
「やくそくだ、サクヤ。オマエの中に『イヤだ』とか『コワイ』とか『なきたい』とか、そういうのがいっぱいになること、あるよな?がまんできておわるんなら、いいんだ。ころんで血がでていたくても、オレたちはないたりしない。それとおんなじだ。でも、なんだかダメだってなったら、イヤなものがすげェいっぱいになっちまったらな…」
 エースは指きりした手を小さく揺らした。
「オレには、いえよ。オレにはちゃんと、きこえるから」
 その時のわたしの中にたまっていた『イヤなもの』がどんなものだったのかは覚えていない。大人を困らせる気はなくて、でも口を開きたくなくて、そうするとまた色々と心配されて想像されて、でも本当はそんなんじゃなくて、ただ、ただわたしの中にわたしを震わせる冷たいものがあるだけなのだと…それはただ、『怖さ』なのだということを、自分だけが知っていた。自分が何を怖がっているのかわからないまま怖い、というのは、到底大人にうまく説明できる状態ではなくて。だから、黙っているしかなかった。
 自分でも、よくわからないのに。
 いや、ただ怖いだけだから。
 時々、どうしていいかわからないくらい、怖くなるから。
 記憶によれば、わたしはあの時、エースと指きりしながら大泣きした。
 泣いて、泣いて、とにかくいっぱい泣いて。
 でも、指きりした指は離さなかった。


 指きり、を思い出すのと一緒に大泣きの記憶が蘇り、とにかく恥ずかしくなった。
「お医者さんが…怖かったのかな、多分、あの時」
「医者だけじゃなかった。基本、大人を全部怖がってたんだ、お前は。でも、大人にはなかなかそれがわからねェ。いいヤツほど見当違いな心配してお前をかまおうとするもんだから、俺はとにかくお前を連れて逃げるしかなかった。面白かったなァ、あの時。ルフィはどこに置いてっても絶対に大丈夫だから、マキノか誰かの玄関先に放り出していけたしな。海の洞窟とか、山の中とか。山賊に出会いかけたりしながらな。まあ、最後はシャンクスに見つかって、しかたないから胸張って戻ったけど」
 そうだったのか。ちっとも覚えていなかった。
 それにしても…。わたしほどじゃなくても、エースだってあの時、十分幼かったはずだ。
 つまり、かなりの大冒険というか大胆な行動だったわけで。
 エース。
「おかげで、それからしばらくして俺たち3人のあの家に住むことになったんだ。子どもの居場所をコロコロ変えるから心が安定しないんだ、とかそういう理屈。案外、当たってたかもな。俺たちはあの家に落ち着いて、大人のほうが交代で覗きにくるようになった。お前が昼間に喋りだして笑顔を見せだした頃なんか、すごかったぞ。あきれちまうくらいの大騒ぎだ。お前が誰の名前を最初に呼んだか、とかな。そんなの、わかりきったことじゃねェか」
「…うん?」
「俺の名前。お前が最初に呼んだ名前だ」
 うん。覚えてるわけじゃないんだけど、それははっきり確信できた。エースの名前以外、あり得ない。
 あるわけが、ない。
 エースはあの時のように、指きりした指をやさしく揺らした。
「だから、な。いっぱいいっぱいになってどうした?サクヤ。まだ、言えねェか?」
 言われて、気がついた。
 わたしの中から溢れかけていた動揺と落胆。1度は何とかしようとしてみたけれど空振りに終わった挫折感。今日1日そんなものでいっぱいだったのが、いつの間にか、消えていた。ああ、そうじゃないか。確かにその何ともモヤモヤした気分はまだわたしの中にあるけれど、それじゃないものが代わりにいっぱいになっている。
 あったかい。
 あったかくて、強い。
 エースの指きりと言葉がくれた、いっぱいのあたたかさ。
「エース。」
 今度は、わたしの方から指をキュッとした。
「言えるか?」
 やさしい、やわらかな声に、笑顔で首を横に振った。
「ううん、言わない。まだ、できることがあるから。それがちゃんと見えたから。ありがとう、エース」
 あの時、幼かったわたしは、自分を受け止めてくれるエースのあったかさのおかげで大泣きすることができた。
 今。今夜のわたしは、変わらないエースのあったかさに包まれて、笑顔で首を振ることができる。
 エースは目を細め、そっと指を外した。
 わたしは反射的に、自分の右手を胸に抱いた。
 久しぶりの指きり。
 エースにこれを教えたのは誰なんだろう。
「いい子だ…無理だけは、するな。大人になるのを、急ぎすぎるな」
 言ったエースの顔には、不思議な笑みが浮かんでいた。見ると胸の奥に小さな痛みのようなものが走る笑み。
 それを見た時、わたしの手が勝手に動き、今度はわたしの方から指きりをしていた。
「…これは、何の約束だ?」
 エースはわたしの目を覗いた。しばらく覗いて、頷いた。
「そっか、今度約束するのは、俺か」
 わたしも頷いた。頷いていた。具体的なものを何も、言葉にのせることはできなかったけど。
「わからない…よくわからないんだけど、約束して、エース」
 無茶な話だ。でも、エースは笑わなかった。ただ、指きりした手を静かに持ち上げ、わたしの指先に唇を触れた。
「約束する。大丈夫、俺は変わらないし、いなくなったりもしねェから」
 わたしはもう1度頷いた。
 今度の指きりは、やっぱり安心できて幸福なのに、どこか切なかった。
 本当は、言いたいことが、溢れ出しそうな気持ちがある。
 でも、言えないその気持ちを含めて、わたしはやっぱり幸福だ。
 きっと、誰よりも幸福だ。
 エースは軽やかな足取りで離れて行く。
 その姿が部屋の中に消えるまで見送って、寝椅子に背中を預けた。
 ゆ・び・き・り。
 右手を持ち上げて月明かりにかざし、小指にそっと唇を触れた。


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