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秋 宵

 夕方になると風が冷たくなってきた。
 いつの間に季節が変わっていたのだろう。不思議だった。
 ルフィとナミと一緒に海へ行って大騒ぎした夏。まだボディガードの役目から開放されないゾロとサンジ君も一緒だったから、予想以上の賑やかさだった。良かった。おかげでエースが一緒じゃないことを忘れていられる時間があった。お土産に形のいい貝殻を拾って戻ったら、フーシャ村を思い出すと言って笑ったエース。そういえば子どもの頃は心にピッタリ来る気に入った貝殻を見つけることが出来るまで、ずっとエースがつきあってくれたんだった。
 夏中忙しかったエースは涼しくなってからも同じだった。
 ルフィが学校に行きはじめて、わたしは立て続けにレポートを仕上げた。
 サンジ君は新らしい料理をいくつか創作した。
 ゾロは刀を一本ずつ砥ぎに出した。
 それでも。
 エースは夜中に帰ってきてすぐベッドに倒れこみ、朝早くに出かけて行く。
 最初のうちは一緒に朝食を食べながら普通に会話するのが一日で唯一の楽しい時間だったけど、早朝に家を出るようになってからは起きなくていい、と言われた。
『お前、夜、待ってるだろ?いっつも。だから朝は寝てろよ。睡眠不足はいろんなモンの大敵だからな』
 こう言われたら寝てるしかない。いつもちゃんと目は覚めているけれど、起きていったらエースに心配される。
 エースが出て行った気配がしてすぐにそっと起き出せば、テーブルの上にはちゃんとルフィとわたしの分の朝食がのっている。
 エース。
 何だかどんどん足りなくなっていく…わたしの中のエースが。
 声も笑顔もちっとも忘れていないのに、それでも足りない。
 大人になるってこういうことなのか。
 滅多に帰ってはこれないけれどここはシャンクスの家だから、もしかしたらエースがそのうち自分の場所を持つこともあり得るんだ。
 突然気がついてしまった可能性に心がギュッと締め付けられた。
 苦手だ、この頭の中の空転が。マイナス思考は趣味じゃない。
 テーブルにつくと綺麗に焼けたオムレツのバターの匂いがした。サンジ君が作ってくれるものにはスパイスが利いた具が入っていたり一工夫したソースがかかっていてとても美味しいけれど、やっぱりオムレツはエースが焼いてくれるシンプルなプレーンが好きだ。あったかくていい匂いがして柔らかい。子どもの時からの一番好きなメニュー。ずっとスクランブルしか作れなかったエースが突然綺麗な形のオムレツを焼いてくれた時の驚きとわくわくした気分をよく覚えている。喜んであっという間にたいらげたルフィと勿体無くてじっと眺めていたわたし。あの時エースは、あったかいうちに食べないと味も気持ちもつまらなくなるぞ、と言った。一番美味しい時に食べさせてくれようとするエースの気持ちがわかって、慌てて大急ぎで食べたら笑われた。
 だから、今だって。
 透明プラスチックの蓋をよけるとオムレツからまだ湯気が上がった。
 いただきます、と呟いた。
 ちゃんとあったかいうちに食べてるよ、エース。
 涙をこらえたら鼻の奥がツンとした。


 突然大掃除を始めていたわたしを見たサンジ君はちょっとだけ首を傾げた。それでもすぐに、丁度いいや、と笑ってキッチンを磨きはじめた。ゾロは何も言わずに重たい家具を動かすのを手伝ってくれた。
 全部スッキリ綺麗にしよう、心の中も一緒に。
 ルフィの部屋を覗いたら洗濯する必要がありそうなものが沢山散らばっていたのでかき集めて洗濯も始めた。
 シャンクスの部屋はまた少し誰もいない気配が漂いはじめていたので窓を開けて光と風を入れた。
 エースの部屋は。
 最初に前まで行った時は躊躇ってドアを開けなかった。何かまた遠くなった気分になるものを見つけてしまうのが怖かった。
 でも。忙しいエースは部屋が綺麗になっていたら少し気持ちよく眠れるかもしれない。『妹』の特権をここで使わないでどうする。
 そっとドアを開けるとベッドの上に広がっているスーツ類に思わず笑った。いつの間にか枚数が増えたエースのスーツ、ワイシャツ、ネクタイ。私から見れば全部が大人の道具。
 クリーニングに出した方が良さそうなものを集めて抱え上げると、生地から煙草の匂いを感じた。もしかしたらエースは外では煙草を吸うのかな。匂いの種類はひとつじゃない気がした。煙草の強い匂いの陰にちょっとだけ感じた甘い香り。エースのコロンとは違う種類の甘さ。香水はやはりわたしにとっては大人の道具に思えた。

 大掃除が終わった時にはもう、お茶の時間はとっくに過ぎて夕方になっていた。
 学校から帰ってきたルフィがゾロとサンジ君相手に楽しそうに騒ぎ始めたので、先にお風呂に入ってしまうことにした。へとへとでドロドロの身体をお湯に沈めるととても心地よかった。
 お気に入りの入浴剤をボトルから振り出すと、バスルームに香りが広がった。
 カモミール、アップル、そしてミント。
 さっきの香水の匂いとは全然違う種類の甘さに嬉しくなって頭の天辺までお湯に沈んだ。
 入浴剤とお揃いの石鹸とシャンプーで全身を洗った。相変わらずの痩せっぽち。赤い髪。久しぶりに鏡に映っている自分を眺めた。背は十分伸びたけど、体型は身軽で中性的なまま。
 まあ、この性格にはこの方があってる。
 お湯を含んで重くなった髪を両手で絞った。
サクヤ~?風呂かぁ?」
 ドアの外でルフィの声がした。
「どうしたの?ルフィ」
「あのな、エースから電話~。出れるか?」
「う、うん!」
 ドアをほんの少しだけ開けて右手を隙間から差し出した。思わず震えてるその手にルフィが電話をのせてくれた。
「ありがと、ルフィ!」
 ドアを閉めると電話を耳にあてた。濡れた髪が邪魔で少しだけ手間取った。
「…エース?」
『…ちゃんと一応鍵かけて風呂に入ってたか?ゾロとサンジ、いるんだろ?』
 ええと。予想外の言葉に目を丸くしているとエースが笑った。
『ま、いいか。それよりサクヤ、お前、大急ぎで髪乾かして出て来い。場所の地図、これ切ったらメールしとくから』
「え?外?」
『そ。…でな、今日はゾロとサンジもルフィも置いて来い。こっそり抜け出して…できるか?』
「うん、多分。でも…」
『じゃ、後で』
 電話は切れた。
 後で。
 エースの声がまだ耳の中にある。
 と、電話が鳴った。メール。きっとエースからだ。
 とりあえず髪と身体にタオルを巻いてバスルームから出た。小さな携帯の画面に表示された地図から読み取ることができたのは大まかな位置取りだった。中心街から少し外れたあたり。この辺は…どんな場所だったか。地図の後ろに一言メッセージがついていた。
 ホッパー禁止!
 ふむ。頭の中でその場所へのロードの乗り継ぎ方を考えながら強くしたドライヤーで髪を乾かした。
 エースはどんな場所にいるんだろう。
 どうしてわたしを呼んだんだろう。
 何を着ていけばいいのだろう。
 いや、待て。そっと抜け出すのは服装が普段と違っていては難しい。手早く髪を梳かすと、クローゼットから前にエースがくれたTシャツを引っ張り出した。
 普段とお洒落の中間くらいだろ?
 そんな言葉と一緒にもらったそれは、生地にさり気なくシルクが混ざっている。細かくてビーズに見えてしまう模造パールの柔らかな光と、襟元の流れるようなラインのカットがとても綺麗だ。下はジーンズでもせめて上はこれを着ていこう。そして薄地のジャケットを小さく畳んで脇に抱えて…。
「あのさ…悪いんだけど、途中まで、送らせて?」
 無事にそっと玄関まで来れたと思った瞬間に背後から声がして、半分飛び上がるように振り向くと、サンジ君が立っていた。
「大丈夫、ルフィの相手はあのクソマリモがしてるから。腕相撲してるからしばらくもつよ」
「あの…ええと…」
 私が言葉を探してるうちに先に立ったサンジ君がドアを開けてくれた。
「ほら、行こ?早く行きたいでしょ、サクヤちゃん」
「でも、どうして?」
 エレベーターの中でサンジ君は微笑んだ。
「これでもさ、ちょっと気になってたの、俺たち。この頃なんだか段々元気なくしてくみたいだったからね、サクヤちゃん。それがさ、さっきサクヤちゃんに電話が来て、でもってすごく嬉しそうな顔してそっと出て行こうとするからさ。ほんとは気がつかなかったフリをしてあげたかったけど、マリモが睨むし。ボディガードとしてはギリギリ必要最低限まではやっぱり譲るわけいかないよね」
 …全部バレてるということだ。頬が熱くなった。
「あの…ごめんなさいというか、ありがとうというか…」
 サンジ君は笑った。
「すげェな。こんなにイキイキさせちゃうんだ、サクヤちゃんのこと…エースさんは。見違えちゃうほど」
 もう、何も言えなくなった。何をどこまで気がついているんだろう、この人は。聞いてみたい気もしたけれど、やっぱり怖くてできなかった。


 結局サンジ君は目的地に一番近いロードの乗降場まで送ってくれた。
 ロードから降りて歩いていくともうすっかり夜の気配が漂いはじめていた。どうやらこの辺りはこじんまりしたお店がぽつぽつと、間にゆとりをもってきままに並んでいる静かな区画のようだった。趣のある街灯が道を照らしてくれているので怖くはなく、中心街とは違う薄闇の情緒を楽しみながら歩いた。
 そう言えばエースはお店の名前を書いてなかったな。
 電話してみようか、と思いながら歩いていると、ふと目に入ってきたものがあった。
 一軒の店の入り口の柔らかな灯りが照らし出す中に静かに佇んでいる一匹の猫。純白と金色に近い黄土色が混ざった毛並みが光を受けて艶やかに光っている。物思いにふけるような首の角度と背中の丸みに惹かれてそっと歩み寄った。
 ゆっくりとわたしを見上げた猫の瞳の驚くほどの深い青。
 膝を落として躊躇いがちに手を伸ばすと、いいよ、という顔で目を閉じて喉を鳴らした。指先に触れた感触はとても滑らかだった。
「お前はここの猫?ちょっと名前、知りたいな」
 話しかけると薄く目を開けた。まるで全部わかっているようだった。
「やっぱちゃんと引っかかったな、こいつに」
 頭の上から降ってきた声はエースのものだった。見上げると店の中から笑顔で歩いてくる姿があった。
「ほら」
 差し出された手に反射的につかまると、そっと身体を引き上げられた。エースの大きな手。とても熱かった。
「いらっしゃい!待ち人来る、でよかったですね、お客さん。かなりの別嬪さんだ」
 柔らかな明かりが満ちた店内にはカウンターしか席はなかった。そのカウンターの中で微笑んでいるのがこの店の主人なのだろう。穏やかな雰囲気のある初老の男性で、藍色の作務衣に身を包み、深い笑みを湛えていた。
「そりゃあ、自慢の妹だから。どこにでも胸張って出せる、でも誰にもやらない…自慢のね」
 エースの言葉の意味を考えているうちにストン、と椅子に座らされた。
「ほう、妹さんですか。それはちょっと驚きだ」
「驚かれるとちょっと困っちまうけど。あ、最初はさっきのあの酒、お願いします。よく冷えたのを。あと、こいつ、まだ飯食ってないだろうから、おいしく飲むのにピッタリのもの、見繕ってやってください」
「わかりました。最初からこんなに気持ちがいいお客さんが来てくれて、店を開けた甲斐があったってもんですな」
 エースと話が弾んでいたのだろう。2人の間に和やかな空気があってすぐにわたしも楽しくなった。
「店の前にいるあの猫、俺も最初あいつに惹かれたんだ。そしたらここ、今日開店で俺が通りかかるちょっと前に開けたばかりだって言われてさ。入ってみたらよく冷えた酒が美味くて、落ち着ける感じもよかったから」
 薄く色が入ったガラスの酒器が出てきた。エースはわたしの前に置かれたお揃いのガラスの猪口に酒を注いでくれた。
「家では一緒に飲んだことあるけど、外では初めてだろ?保護者つきだから、ちょっとだけ、な。はは、シャンクス、後で怒るだろうな~。最初にお前と外で飲めるのは自分だと思ってるだろうから」
 エースとルフィとシャンクスと。最近はゾロとサンジ君と。みんなで一緒に家で飲む賑やかな雰囲気とは全然違う空気にちょっと緊張した。
 でも、エースの顔に久しぶりに見る感じの微笑があったから。
 そっと猪口を唇にあてた。冷たい滑らかさがすぅっと喉を下っていった。
「美味いだろ?あとはちゃんと先に何か腹に入れるまでおあずけな」
「うん。でも…酔ったら怖い。緊張する」
 エースは笑ってわたしの頭をくしゃくしゃに撫ぜた。
「俺が一緒の時は安心しろって。もしも酔っぱらっちまってもちゃんと連れて帰ってやる。…ん、髪、いい香りがするな」
 エースの手が頭に、髪に触れる感じは随分久しぶりで懐かしかった。だから、速くなる心臓と熱くなろうとする頬を抑えるのが大変だった。
 エース。
 一緒にいるとあっという間に心がエースでいっぱいになる。
 自慢の妹、といつまで呼んでもらえるかわからないけれど、こういう時間のひとつひとつをしっかり大切にどこかにしまっておきたい。自分の中のエースが足りなくなった時にそっと思い出せるように。
 店の主が出してくれた食事も酒肴もとても美味しかった。わたしたちはそれから他愛無い会話を楽しみながらひと時を過ごした。


「でも…そういえば、エース、どうしてわたしだけ呼んだの?」
 帰り道。ロードの乗降場まで行く道をエースに手を引かれて歩いていた。そんなに酔っているつもりはなかった。ちゃんと普通に真っ直ぐ歩けていると思うけど、でも、もしかしたら危なっかしく見えるのだろうか。不安もあったからそれを理由にエースの手に甘えていた。ずるいな、と自分のことを思った。
「ああ、それはさ、ちょっと考えてみたら全員勢ぞろいしちまうと店の雰囲気を壊しちまうかもしれないって思ったし。ルフィなら店の食材を食い尽くしちまいそうだもんな。開店早々から大騒ぎじゃ悪いだろ」
「うん。そっか」
 笑うとエースの指がそっと額に触れた。
「まあ、それだけってわけでもないけど」
 見上げるとエースの表情が何だか眩しかった。だから、言葉が続かなかった。
 そのまま2人でのんびり歩いた。
 ロードに乗ろうとした時、ひとつ思い出した。
「あ」
「ん?どうした?」
 突然立ち止まってしまったわたしの肩を抱くようにしてエースがロードに乗せてくれた。
「猫の名前、聞くのを忘れた…」
「ああ」
 エースが肩に回した腕に少しだけ力を入れた。笑顔が近づいた。
「じゃあ、それは、次の時のお楽しみな」
 耳元で囁かれた声に心臓が跳ね上がった。
 きっと今夜はとてもいい夢を見ることができるかもしれな。
 ただ、とてもすぐには眠れない予感も同時にあった。
 多分一晩中エースのことを考える。
 今はもう寂しくない満たされた気持ちの中で。


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