「絶対、俺から離れるな、 サクヤ」
エースの頬を流れた一筋の血が雫になってコンクリートの床に落ちた。
「お前には指一本触らせねぇ。守りきれないなら兄貴やってる意味なんてねぇからな」
駄目だよ、エース。
エースが身体に受けた傷は全部、後ろのわたしをかばっているから受けたもの。もしも1人きりだったならこんな風にやられることもなく、血を流すこともない。わたしから距離をとれば思い切り身体もナイフも使えて戦闘力も上がる。
だから、エース。
思った時、またエースの声が聞こえた。
「命が残ればいいなんて考えるな。俺はお前の髪の毛一筋もこんな連中には触らせたくない。だから…頼む、そこにいろ。俺の背中を見て安心してろ」
横顔を流れる血は止まらない。見つめているとどうしても涙が滲んでくる。こんなじゃいけない。今、こんな時に涙を流しても何にもならない。
わかってる。
でも、エース。熱くなった胸の奥が苦しいよ。わたしは怖くなんかないよ…自分の事は。ただ、目の前で傷ついていくエースが…見ていることしか 出来ないのが苦しいよ。
エースが着ている白いシャツにまた赤い筋が1本増えた。
それでもきっとエースの唇は笑ってる。
心の中にはっきり見えるから、わたしも唇を噛んで涙を止めた。
家族であること、妹であることは時に複雑な気分になることもあるけれど、ほとんどの場合はその幸運に感謝する。朝一番に顔を合わせ、一日の最後に帰って来るのを迎えることが出来る。それ以上の幸運はないと思う。
毎年やって来るこの日も、これまでは朝食の時にチョコレートの箱を渡すことが出来た。妹から大好きな兄へ。一番最初にエースに渡し、それからルフィとシャンクスに渡すのが癖になっていた。シャンクスは家にいないことも多いから予定を確かめておいて滞在先へ送ることも多い。でも、エースとルフィにはいつもちゃんと渡すことが出来ていた。
でも、今年は。
朝、エースの姿はなかった。昨夜から戻っていないのだ。携帯電話を確かめたけれど、着信もメールもない。珍しいことだったけれど、きっと相変わらずの忙しさなんだろう。
今日も帰ってこないかもしれないな。
思うとすぅっと心の中が寒くなった。
気持ちを落ち着けるために紅茶を淹れた。これを飲み終わったらパンを焼いてシナモントーストでも作ろうか。きっと匂いに気がついてルフィも起きて来る。そうしたら今年は、ルフィに先に箱を渡そう。
それでも。
もう一度携帯電話を確かめた。何もないことはわかっているのに。
熱い紅茶を一口飲んだ。鼻の奥に熱さがしみて涙が滲んだ。
その時。
短いメロディが流れた。メールが届いて事を知らせてくれる音。この音が鳴るのはエースのメールのときだけだ。
急いで画面を開いたので一瞬、手からすべり落としそうになった。
すぐ来い。港。第4埠頭
とても急いで打ったような短い単語の並び。
胸がぎゅっと苦しくなって、唇がどうしようもなく綻んでしまうのがわかった。
ホッパー禁止とは書いていないから急いで飛んでいけばいい。鍵を掴むと走った。途中で思い出してリボンがかかった箱をジャケットのポケットに入れた。
エースに会える。
今年もチョコレートを渡すことができる。
嬉しくて息が弾んだ。
「何だ?お前…確か、エースの妹…だったよな?」
「すっげェ赤い髪。誰だよ、エースの女を手に入れればあいつを思うままにできるとか言ったやつ」
「まあよ、どっちでもたいして変わりはねェよ。あいつは馬鹿みてェにこの妹を可愛がってるって噂なんだろ?」
ホッパーから降りた途端に倉庫の陰から男達が現われた。その中の金髪男1人にだけ見覚えがあった。最近、見習いという形で働きはじめたのだとエースが言っていた男。一度だけロードの駅で顔を合わせたことがある。
罠だったのか。
急いでホッパーのエンジンをかけた。地面を蹴ろうとした時、何人かに飛びかかられた。
ホッパーよりも銃を握るべきだった。
思ったときにはもう遅く、そのまま倉庫の中に引きずり込まれた。
エースは。
それだけが気になった。
あのメールは確かにエースの携帯電話から届いたものだ。まさかエースに何か…
思ったとき、金髪男のポケットから垂れ下がっている見慣れたストラップに気がついた。ウッドビーズを組んで作ってあるエースの電話のストラップ。つまり、この金髪男は電話をエースから盗むために仕事を探すフリをして近づいたということなんだろう。
「素直に言うことを聞けば手を出すのは我慢してやるぜ。お前、今からエースをここに呼び出せ。兄貴にその可愛い顔を見せてやれ」
耳元に男の息がかかり、ぞっとした。ジャケットを脱がされ手を後ろで拘束された。その時、手首と腕をゆっくりと撫ぜられ、身体が震えた。
「これであいつが来れば簡単すぎてつまらねェくらいだが、来なかったら来ないで…まあ、あいつがかなり思い知るだけのことはしてやれそうだな」
「あれじゃねぇ?むしろよ、そっちの方がいい気分かも」
「違いねぇ」
下卑た笑い声に嫌悪と怒りを感じた。
ああ、まただ。
女だから、腕力が弱いからエースを傷つける目的に利用される。
今感じている怒りの半分は自分に対するものなのかもしれなかった。
逃げ出そうとせずにすぐに銃を握ってこの男達に向けていたら、少しは事態は違っていただろうか。少なくとも何人かを動けないようにすることはできただろう。そして、もしかしたら自分も撃たれていたかもしれない…わたしは咄嗟にそれを恐れたのだろうか。
慌てて家を出たから、銃はジャケットのポケットに入れた。いつものようにちゃんと足にホルスターをつけていれば。
何から何までが自分の弱さに等しい気がした。湧き上がるのは後悔ばかり。今のわたしにできることは男達の言いなりにはならないことだけ。
絶対にエースに電話したりしない。
ただ、それだけだった。
それでもエースの居場所は金髪男にわかってしまっているから、そんな抵抗は少しも役には立たなかった。勝ち誇ったように用件を告げる男の声に目を瞑りながら、男が持っている電話の向こうのエースの声を少しでも聞き取れないか耳を澄ませた。
来ないで、エース。
願う気持ちのどこかに隠れている少しの嘘に気がつかずにはいられなかった。結局わたしはどんな形でもエースに会いたいのかもしれない。このまま二度と会えずに終わることだけは考えたくなかった。そんな自分をやはり弱いと思った。
エースはいつもと同じ歩き方で真っ直ぐ倉庫に入ってきた。違ったのは口元にあるはずの笑みが見当たらないことだけ。でも、それもすぐに浮かんだ…わたしの顔を見た時に。それがあまりに自然だったから、座らされていた床から普通に立ち上がろうとしてしまった。
「コラ、お前は俺らの手の中だってことを忘れるんじゃねぇ…って…」
わたしの腕を掴んだ男が息を呑んだのがわかった。
エースの目。そこに宿る眼光。全身を取り巻く空気に焔のような揺らめきが見える気がした。その厳しさに圧倒された男達はバラバラと道を開けた。腕を掴んでいた男も一歩下がり、誰もが急がずに歩いてくるエースの姿を追っていた。
「…悪い。遅くなっちまったな」
ジリジリと男達に取り囲まれる中、エースは笑って手を差し出した。
「…エース」
エースに強く手を引かれて思わず温かい胸の中に飛び込んでしまった。
エースは片手でわたしの頭を一瞬ぎゅっと抱いてくれた。
「俺は逃げねぇ。だからいいか、てめぇら、絶対こいつに手を出すなよ」
頭の上で聞こえたエースの声は低く、反射的に身体に力が入った。
「もう大丈夫だから…サクヤ」
囁いてくれたエースの声はとても優しかった。
足元には動けなくなった男達の身体がいくつも転がっていた。その中には多分ほとんど命を失いかけているものもあるだろう。そのことに同情を感じるわけもなく、恐怖もなかった。
ただ、エースを見ていた。
守ってくれているその姿を見つめて力いっぱい拳を握っていた。
相手を倒すのが目的ではなく後ろのわたしを守るための戦い方をしているエースの身体には時間とともに傷が増えていく。床に流れた血で足を滑らせて一度膝をついた時、エースはまるで自分を奮い立たせるように声を出して笑った。エースは強かった。一歩も退かなかった。それなのにその身体に傷が増えていくのが辛くて涙が滲んだ。
エース。
心の中でずっと名前を呼んでいた。それしかできることはなかった。
「…数だけは集めやがって…」
時々肩で息をしているように見える姿に胸を締め付けられた。それは男達にもわかったようで、慌てた感じで攻めていたのを止め、今までよりも遠巻きにわたしたちを囲んでじっと様子を窺いはじめた。中で嫌な感じの笑みを浮かべだした金髪男にエースは顔を向けた。
「ちょっと余裕がなくなってきたんじゃないの?エースさん」
からかうような男の声にエースは首を振り、胸を張った。
「残念だけどな、てめぇらにももう時間はなくなっちまった。もう少し手早く事を進めておくべきだったみてぇだな」
「はぁ?」
男が反論しようと口を開いたその時、倉庫のシャッターが文字通り吹き飛んだ。半分は切り飛ばされ、もう半分は蹴り上げられ…何が起きたのかわからない男達はその破片の行方を確かめようと自分の周りを見回した。その時にはもう、流れるように走りこんできたサンジ君の足が2人を壁まで蹴り飛ばしていた。
「サクヤちゃん、大丈夫ですか?」
サンジ君と目が合うと、やわらかな微笑が返ってきた。
「早かったな。悪いが、後は任せた」
エースの声はこれがただの待ち合わせのようにのんびりしていた。
サンジ君は煙草を落として足で踏みにじった。
無言で小さく頷いたゾロはもう一本刀を抜いた。
2人が一瞬背中を合わせてから左右に分かれたとき、エースが振り向いた。そして、ジャケットを探すわたしに首を振った。
「2人に任せとけ。お前が銃を持つ価値はない。もう見るな、サクヤ。あんまり気持ちがいいもんじゃねぇし、それに…」
一歩二歩と近づいたエースは腕を広げて首を傾げた。
「…少しだけ安心させてくれ」
そっと身体に回されたエースの腕は、僅かに震えていたかもしれない。
殴打する音、ぶつかり合う金属音、怒声、呻き声。その全部が遠くなって代わりにエースの胸の鼓動に包まれた。
「エース…」
シャツを濡らしてしまった涙に気がつかれてしまっただろうか。そっと身体を離そうとしたエースの動きに慌てると、大きな手が頭を撫ぜた。
「じゃなくて。熱い涙は歓迎だけどな、よく考えたら、俺、ちょっとばかり血まみれだからさ。お前についちまったら大変だ」
首を横に振ってエースのシャツにしがみついた。身体が今更のように震えはじめた。
エースは今度はさっきよりも強く抱いてくれた。
「お前がいいなら…今だけ甘えさせれもらうか。心配したか?ごめんな」
謝らなければいけないのは、全部わたしで。
軽はずみで、弱くて、何も出来なかったわたしで。
でも、口を開こうとした時、エースの唇が頬に触れた。驚いて見上げると頬を離れた唇が一瞬、わたしの口の端に触れた気がして…通り過ぎた。
「ちょっと待て」
エースの腕が離れると寒さを感じた。いつの間にか戦闘は終わり、ゾロとサンジ君の靴音が近づいてきていた。
「さすがだな。腕が立つ。あのな、この事はルフィには内緒にしてくれ。済んだ事でもサクヤのことだとあいつ、暴走しかねないからな。それから…一足先に帰っててくれるか。俺はサクヤと後から戻る。はは、このくらいで疲れるなんて情けねぇけど、少しだけ休んでく」
「…大丈夫ですか?とは訊きませんけどね。じゃ、まあ、旨い夕飯でも作っておきますよ」
どこか納得していない様子のゾロを引きずるようにしてサンジ君は倉庫を出て行った。
「さて、明るいところに出て海でも見るか」
エースが手を繋いでくれた時、多分、緊張して一度大きく震えてしまった。それでもエースは何も言わずに歩き出した。途中で床に放り出されていたわたしのジャケットを拾って肩に掛けてくれた。外の光の中ではシャツと頬の血の色が一層鮮やかで、痛々しかった。
「大丈夫、深い傷は一つもない。浅いくせに派手に色がついてるだけだ」
埠頭にはわたしのホッパーがぽつんと転がっていた。エースはそこまでわたしを連れて行って横倒しになったホッパーの上に座らせ、自分は足元で胡坐をかいた。
「夕べは連絡しないでごめんな。携帯がないことには気がついてたんだが、事務所かどっかに置き忘れたと思って心配してなかった。あのな、何よりもこれがさっきの騒ぎの大原因なんだ。だから、お前は何にも気にするな。あれだろ?俺からのメールだと思ってこんなとこまで来たんだろ?まだまだ兄離れしてないってわかったから、今日は自惚れちまうことにする、な」
銃のこととか。
ゾロかサンジ君に一声かけるべきだったとか。
後悔の種は山ほどあった。
でも、エースの言葉で家を出て来たときの気持ちを思い出した。
とても嬉しくて。
誰にも内緒でそっと出かけたくて。
エースの顔を見たら何を言おうか、どうやって箱を渡すきっかけを作ろうか、とか…そんなことばかり考えていた。
「朝、家にいられなかったことがかなり悔しかったからなぁ。なあ、サクヤ・・・・あのな、今年も…俺、貰える?」
頷くことしか出来なかった。急いでポケットから引っ張り出した箱は、ちょっとリボンが曲がっていた。エースはリボンを直そうとしたわたしの手ごと箱を両手で包んだ。
あったかい。
あったかくて、また、どうしてだか涙が出てくるよ。
白いシャツにも顔にも血が流れていて、それでもエースは痛いなんて一言も言わないから。いつもの通りに笑って、優しくて、大好きなエースのままだから。
眩しくて、苦しくなるよ。
「ありがとう」
エースは箱をしばらく眺めた後で胸のポケットに入れた。
「もう、これで、今日は何にもいらねぇな」
大きく両腕を上に伸ばしたエースは小さく呻いて苦笑した。
そんなエースのすべてが大切で、わたしもそっと心の中で呟いた。
ありがとう。
出会えたことに。そして、こうして一緒にいられることに。
やがて、ホッパーの上で腰に掴まるエースの腕にどうしても熱くなってしまう顔を見られないようにスピードを上げた時、遠くから警察のサイレンの音が聞こえはじめた。