「ほんと、いい男だよね、エースって。あたし、大好きで困っちまう!」
心臓がドキンと大きく鳴った。
早朝の光が眩しい中のいつものパン屋、いつもの時間。
顔馴染みの気のいい店員。
「そりゃあよ、エースはすげぇもんな!まだ、俺、勝ったことねぇし」
目をキラキラさせて答えるルフィの姿にホッとしながら、何かとてもうらやましいと思った。
わたしはダメだ。
平気な顔で返事なんて…できない。
この店員が女性であることを初めて強く意識した。
『大好き』という言葉が頭の中でグルグル回る。
「ね、エース!今夜、どっか連れてってよ。6時には上がれるから」
また胸が痛んだ。
エースはどんな顔をしてるんだろう。
怖くて見ることが出来なくて、棚に並んだパンに無理矢理目を向けた。
うちから歩いて10分ほどのベーカリー。
朝のこの時間にはちょうどその日のレシピの大半がずらりと焼き上がるから、外の店の姿がギリギリ見えない辺りでも香ばしい香りに鼻腔をくすぐられる。焼き立てを買って帰って朝食にするのもいいし、店内にはこじんまりしたテーブルと椅子のコーナーがあるから、そこで無料のコーヒーを飲みながら早速食べていくのもいい。今日はどちらにしようかとのんびり話しながらここまで歩いてきた。
顔馴染みのこの店員はもうわたしたちの好みを覚えてくれていて、笑顔と一緒にお薦めを教えてくれる。ここで食べていくことにすると決まって特別に紅茶を淹れてくれる。少しだけふくよかなその体とふんわりとした頬の辺りの輪郭にぴったりの飾らず気取らない素敵な人だ。
彼女がエースに向ける瞳がいつも嬉しそうに輝いていることには気がついていた。
だから、予感はあったのかもしれない。
だから、余計に心臓がこんなに速くなったのかもしれない。
「いつも世話になってるし嬉しいことも言ってもらったし、こいつは断るわけにはいかねぇな」
ズキン。
体の内側に響いた。大きく、小さく。
羨むっていうのはこういうことなんだ。
わかりすぎるほどわかる。。
デートの約束もそうだけれど、一番羨ましいのはあんな風に『大好き』という言葉を使えること。
勇気さえ出せばこの言葉をエースにまっすぐに向けることができること。
わたしがこれを言えるのは心の中でだけだから。
羨ましくて、眩しい。
結局パンを選んでいる途中でさらに焼き上がってきたソーセージパンを、これが大好物なルフィがすぐに食べたがったので3人でテーブルに座った。甲斐甲斐しくエースの世話を焼こうとする姿がやっぱり眩しくて、わたしはほとんどパンとそれがのっている皿を眺めていた。
口を動かして噛みしめても味がひとつもわからなかった。
一生懸命に職人さんが焼いたものなのに、と思ったら罪悪感でいっぱいになった。
美味しい時にはどんな顔をするんだったか。
やってみようとしたらなぜか涙が零れそうになった。
馬鹿だ。
慌てて熱い紅茶を飲んだ。
ちゃんと先に寝てないとエースが心配する。
夕方エースが出かけてから、わたしとルフィは食事をしてお風呂に入った。それからルフィの学校の宿題を手伝って、コメディ映画を1本観た。
笑えてた…と思う。
なんだかルフィはいつもよりわたしにくっついている気がした。眠気が勝って手で目を擦りだすまで一緒にいてくれた。ルフィは特別なことは何にも言わないし、わたしもルフィにはこの気持ちを話すわけにはいかない。だけど、一緒にいるとあたたかかった。
互いにおやすみなさいを言って部屋に入ると、ベッドに上がって膝を抱えた。
大好きな本を何冊か選んで手にとってはみたけれど、予想通り、ちっとも文字が頭に入ってこない。
エース。
気がつくと心の中で名前を呼んでる。
落ち着かないだけじゃなくて自分がひどく醜いものをいっぱい抱えている気がする。
嫉妬、独占欲、自己憐憫。
どれも苦手なのに、今、自分の中にある。
ちゃんと寝ていないとエースが…
だけど、やっぱり無理だ。
膝に頭をくっつけて身体を丸めた。
今、どこにいるんだろう。
どんな顔をしているんだろう。
何を話しているのかな。
それとも。
それとも…
襲われた衝動のまま布団をひっぱって頭からかぶった。
思い出す。
子どもの時にこうやったのは、いつも理由がわかりそうでわからないままただただ怖い夢を見たときだった。ちょっとでも声を出したらエースを起こしてしまうから、いつも大急ぎで慌てて布団をかぶった。それでも10回のうち7回くらいはいつの間にかエースに見つかって、そんな時、決まって布団越しにエースのやわらかな声が聞こえてきた。
「今度はどれくらい怖い夢だったんだ?」
そう、こんな風に話しかけるエースの声。
こんな感じに…でも、あれはフーシャ村にいた頃だから、多分声は…今のエースよりもきっともっと少年ぽくて…今聞こえたのとは違って…
あれ?
ドキン、と全身が大きく一度脈打った。
「サクヤ」
わたしの名前。
布団の向こうから聞こえるエースの声。
どうしよう。顔、出せないよ。
でも、このままだとエースが…
「…おかえりなさい」
そっと顔を出すと目の前にエースの顔があって驚いた。わたしの顔を覗きこむようにして大きな手で頭の天辺をポンポン叩いてくれた。
「…泣くほど怖い夢だったのか?」
そうじゃない。そうじゃないけど、涙の跡の理由は言えない。絶対に。
「ほら」
困っているとエースが顔の前に手を差し出した。その手の平の上でベッドサイドランプの灯りの中、何かが光った。
ガラス?
そのままじっと見ていると、エースはわたしの手を持ち上げてその中にその光るものを落とした。
「探した中じゃ、これが一番お前に似合いそうだった」
銀色の鎖と雫の形をしたガラスのペンダントトップ。
「綺麗…」
「露店がいくつも出ててな、手伝ってもらってずいぶんいろいろ探したんだ、お前に似合いそうなヤツ。はは、終いにはあきれられちまった。でもあきらめなかったからコイツが見つかった。これでよ、嫌な夢なんて忘れちまえ」
「ええと…エース、デートに行ったはずじゃ…」
エースは頭を掻いて笑った。
「食事はしたぜ?いつも旨いパンで世話になってるから、対抗して米料理の旨い店を紹介した。がっかりはさせなかったと思うし…ああ、でもそれから酒っていう気分にはならなかったからのんびり散歩してたら通り沿いに店が出てて。まあ、お土産探しがメインイベントになっちまったって感じだな」
「ルフィには」
「心配すんな。あいつには特製特大肉まんを買ってきた。起きたら驚くぞ。絶対に喜ぶな、あれ」
エースがぐっと顔を近づけた。
「少しは気分、治ったか?少しは…心配してたか?」
最後に囁くようにエースが言った言葉の意味を問い返そうと思ったとき、エースがまた笑い、顔を離した。
「気にするな。それより今度はぐっすり眠れ。眠るまでここにいるから」
肩に触れたエースの手に促されるまま枕に頭をのせて身体を伸ばした。
嬉しくて、恥ずかしくて、そして緊張していた。
エースが掛けてくれた布団の中で、ぎゅっとペンダントを握っていた。
「もうちゃんと眠れるから」
言うとエースはベッドの端に腰掛けた。
「それならいい。今度は俺を安心させてくれ」
不安?心配なの?エース。
一体何が…
「俺が勝手に子どもみたいになってるだけだから、気にしないで目を瞑れ。ちょっとだけ贅沢させてくれ」
何が贅沢なのかわからないけど、たくさんもらってるのはわたしの方だよ。さっきまでのいろいろが一度にどこかに吹き飛んで、今はほら、こんなに嬉しい。ここに、こんなに近くにエースがいるから。
「サクヤ」
エースの手が伸びて来てわたしの両目を覆った。
あったかい、エースの手。
このまま目を瞑っていたら眠ることができるのかな。今はまだとても無理に思える。どちらかというと、元気に部屋中を駆け回りたい気分。ピーターパンみたいに飛べそうな気さえする。
エース。
大好きなエース。
胸の中に湧き上がるもの込み上げるものを堪えながらじっとしていると、やがてエースの手が離れた。ドサッという音と一緒に足の上に温かな重みがのっかった。
そうか。エースの方が今夜もよほど疲れてたんだ。仕事とデートと。その合間にちゃんとルフィとわたしの相手もしてくれた。
目を開けてそっと起き上がると眠っているエースの後姿があった。
白いシャツを着た背中。
子どもみたいに。
さっき聞いたエースの言葉から、ふと、懐かしい遊びを思い出した。背中に指で文字を書いて何と書いたかあてる遊び。しりとりと同じでいつの間にか得意な言葉がそれぞれに決まっていた。ルフィが「み」と書けばその後ろには必ず「かん」の二文字が続くし、エースのは「うみ」だった。わたしはいつも考えすぎてなかなか書けなかったけれど、2人ともいつも笑ってそれを許してくれた。
口からはきっと一生出せない言葉。
そう言えば、わたしにとってはこの「大好き」というのはエースについてはいつからかとっくに1つの意味しかなくなっていたから、妹としての「大好き」もエースに言えたことはない。こんなに素敵な兄なんて他には絶対いないのに。やっぱり兄であってもエースは特別な存在だから。
指先がエースの背中に触れた。
ねえ、エース。今だけ、ほんのちょっとだけ、いいかな。
あの人みたいに勇気を出して素直になってもいいかな。
ずっとずっと贈りたい言葉だった。
でも贈っちゃいけない言葉だった。
いざ動かそうとすると指が震えた。その震えが手と腕を伝わり、全身に広がる。
大 好 き
一文字ずつをゆっくりと書いた。
見えない文字が少しだけエースの肌に透明に残るように。
ああ、そうだ。
思えば背中文字で遊んだ頃は、まだみんなひらがなを書いていたっけ。
思い出したら小さく笑えた。
一緒になぜか涙が落ちた。