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仮想人

 今ここに立つまでは、たくさんしたいことがある気がしていた。
 でも、不思議。
 いざとなるととっておきの何かが浮かんでこない。
  とびきり美味しいものを食べるとか、一度着てみたかった雰囲気たっぷりの服を着るとか、熱い砂浜を海まで走るとか、憧れのアーティストに会いに行くとか。ポツンポツンとは浮かんでくるのにどれもどこか違う気がして。
 おかしいな。昨夜は興奮であまり眠れなかったくらいなのに。

 このまま突っ立っていると、ジリジリ照り付ける日差しに焼き尽くされてしまう。
 夏。
 暑さで自分の中の何かが解 放される感じがする。
 もしかしたら、何か。
 何かが、あるかもしれない。
 そんな風に思わせてくれる。
 今日だけ。1日だけ。そんな何かをつかまえることができるだろうか。
 とりあえず、走ってみよう。走って冷たい海に足を浸すときっととても気持ちがいいだろう。
 砂を蹴って一気に進むと足の裏が焼け付いた。
 もうすぐ、海だ。
 逸る気を抑えていたつもりなのに、大急ぎで回転しているはずの足より気持ちが先に行ってしまった。
 何に躓いたわけでもないのに足がからまり、もんどり打つ感じに倒れたわたしは、そのまま海に突っ込んだ。
 目、鼻、耳を海水が襲ってきた。痛い。冷たいよりもとにかく痛い。多分膝までもないはずの波打ち際で倒れているはずのわたしはパニック を感じていた。
 どうやったら海から抜け出せる?
 手をつくと下の砂が崩れた。
 ガブリ。開いた口に海水が入り、また慌てた。
「泳ぐ練習には少しばかり気が早ェな」
 笑いを含んだ声が聞こえた。襟首を掴まれ、海から引き剥がされた。ホッとすると膝の力が抜けた。そのまま砂の上に座り込みそうになったわたしを、日焼けした腕が抱えて止めた。
「随分危なっかしいな。また海に飲み込まれちまうぞ」
 面白がるようなその声の中にある真っ直ぐな響きに背筋がシャンとした。
 腕。わたしの重さを全部軽々と支える腕の中。
  ゆっくりと振り向くと陽気な笑顔があった。日焼けした肌に散らばる雀斑。こんなに近くで男の人を見るのは初めてなのに、怖くなかった。
 あなたは 誰?
 塩辛い喉と口から出てこなかった問いを聞き取るように、一瞬真面目な顔になったその人はまたすぐに笑った。
「ポートガス・D・エース。明日にはここを離れる旅人ってやつだ。人探しの真っ最中だから」
「…エース?」
 耳が聞き慣れない感じの部分を全部とばして囁くとエースは頷き、笑みを大きくした。
「着替えはあるのか?そこの海の家まで連れてってやる」
 片腕でわたしを抱えたまま歩き出したエースの笑顔の無邪気さに心惹かれた。
 わたしより背が高い。
 わたしより声 が低い。
 わたしよりこんなに力が強い。
 なのに、こんなに真っ直ぐだ。
 ぼんやりと見とれていたわたしは小屋のすぐ近くまで来た時にようやく自分が着替えなんて持っていないことを思い出した。
「あ、あの…ありがとう。ええと…着替えは持ってないし、でも、きっとそのうち乾くから」
 エースは足を止め、わたしを見下ろした。
「ああ、確かに手ぶらだな。でも、まあ、やっぱりシャワーで海水を洗い流した方がいい。髪がゴワゴワになるぞ。綺麗なのに、勿体無 い」
 …綺麗?
 聞き慣れない言葉に首を傾げているわたしを地面に下ろし、エースは肩に掛けていたバッグの中をゴソゴソと探った。
「ほら。あんまりピンとしてねェが、まあ、洗濯だけはちゃんとしてある。着替えて来い。婆さん、シャワー借りるよ。あと、俺は無茶苦茶腹が減った」
 衣類らしいものを手渡され、小屋の中に押し込まれた。閉まるドアの隙間から小柄な老婆と軽口を叩きあいながら離れていくエースの後 ろ姿が見えた。
 なぜだろう。距離があいていくのが嫌だった。
 これが寂しいという気持ちなの?
 ちょっとあり得ない気がした。


 わたしの髪の色は濃い。濃くて赤い。他に同じ色の髪の人間を見たことがない。もっとも、わたしが見た他人の外見など数がとても限られているから見たことがなくても当たり前なのかもしれないけれど。とにかくわたしはこの髪の色があまり好きじゃない。
 長く伸ばしっぱなしの髪は洗うと重い。
 驚いたことにシャワーは水ではなくてちゃんとお湯で、頭から浴びると肩がヒリヒリした。多分、これが日焼けなのだ。火傷の一種らしいから本当なら水を浴びるべきなのかもしれない。
 エースが貸してくれた袖の長いシャツはわたしにはとても大きかった。着ると裾が膝の上にきて、ちょうど短いワンピースのようになった。両方の袖を何度も折り返した。折る度になぜか恥ずかしくなり、外に出るのが躊躇われた。出る決心がついたのは、どうやら外で順番を待っているらしい人声が聞こえたから。どの人だろう。浜辺には何組か人の姿があった。みんな暑さをまったく気にしていない感じに間の距離をとても短く取っていた。さっき、わたしの身体を持ち上げてくれたエースのように。
 思い出すと頬が熱くなった。
「なんかすげェ色が白いな」
 日除けの大きな屋根の下、テーブルの1つにエースがいた。脱いだ帽子を置いて食事中らしかったが、帽子の横にはすでに空になった皿が何枚も重ねられていた。
「さ、座った座った。あんたにも焼きソバを持ってきたからね。あとは冷たい麦茶でも飲みな。あと、そこの兄さんはどうやら見た目よりずっと恋人を大事にする人間らしいから、褒美に一皿無料サービスだ」
「はは、気前いいな、婆さん。料理も上手い。今日はついてる」
 老婆の言葉に何も疑問を感じなかったらしいエースは早速新しい皿に手を伸ばした。でも、わたしは。
 『恋人』
 その言葉が耳に引っ掛かっていた。
 言葉として聞くのは初めてではない気がするけれど、わたしには意味がよくわからない言葉。でも、不思議に胸が躍る。ふわりと訪れた直感が、もしかしたらわたしの求めていたとっておきがこれなのかもしれないと心の中で囁いた。
 恋人。
 そうなのだろうか。
 これを知ったらわたしは、もう他の何も望まないですむだろうか。
「うん?」
 エースが動かしていた口を止めてわたしを見上げた。
「座って食べな。色白はいいけどあんまりガリガリじゃあすぐに波に持ってかれちまうぞ」
 エースの顔が表情の一つ一つがあたたかくてとても明るかった。
 頼んでみようか。
 どう言えばいいのかよくわからないけど。
「あの…エース。『恋人』をしてくれる?今日1日だけ…」
 エースは目を丸くした。
 失敗だ。多分、言い方がどこかおかしかったのかもしれない。それとも、わたしは『恋人』を願う資格に欠けているということなのかな。それとも…
 すっと伸びてきたエースの手がわたしの手首を静かに掴み、椅子に座らせた。
 表情がキラキラ光の色を変えているみたいに見えた。
 面白がるように、エースの唇が小さく笑った。
「いいぜ。俺は明日ここを発てばいいんだし。お前、なかなか面白そうだしな。…ただな、半端な男には今俺に言ったみたいなことを言うなよ。あっという間にその場で押し倒されちまうからな。はは、俺に当たったお前も、今日はついてるってことだ」
 …押し倒す?なぜ?
 また意味がわからなくてちょっと困った。そして、どうしてかものすごく恥ずかしくなってしまった。
 顔を熱くしながら俯いたわたしの髪にエースの指先が触れた。
「懐かしいな。お前のこの髪とよく似ている髪の男をずっと前、知ってた」
 同じ色の髪の人間がいたんだ。
 その事がなぜか胸を締め付けた。
 頬に触れたエースの指が、わたしが零した涙を拭った。泣いているつもりはなかったから驚いた。
「…おかしなヤツだな、やっぱり。ほら、とにかく腹ごしらえしろ。ここの婆さん、なかなか美味いものを作るぞ」
 そうだ。せっかく作ってくれたものを無駄にしちゃいけない。箸でつかんで口に入れると香ばしい味わいが広がった。美味しかった。
 ふと見ればエースはテーブルに肘をついたままうとうとと突然の居眠りをしていた。


「ところでさ、お前、名前は?」
 店を出るとエースが自然に手を繋いでくれた。驚いているところに問われた質問にまた驚いた。今までずっと名乗っていなかったのか、わたしは。礼儀知らずもいいところだ。
「あの、わたしは」
 慌てたわたしをエースは笑った。
「焦るな。別に本名じゃなくてもいいぜ?一日限りの恋人だ。名前も好きなやつにすればいい」
 そう言われると、名前を言いにくくなってしまう。でも、エースはとっくにちゃんと名乗ってくれたのだから。
「…フィラ。わたしが持ってる名前は一つだけ」
フィラか。覚えやすくていい名前だ。響きもいい」
 エースの言葉はわたしにどんどん勇気をくれる。わたしはずっと気になっていることをきいてみることにした。
「エース、あの…恋人ってどんなことをするの?」
 ブホッ。
 エースが咳とも何ともつかない音をたてた。
 歩くのをやめたエースは黙ってわたしの顔を見た。最初は笑いながら、それから少し真面目な顔になり、やがてやわらかく微笑した。
「今手を繋いでるだろ?これが大体最初にやることだな。俺の体温、わかるだろ?俺のお前の手の平の熱がわかる。こうやってちょっとずつわかりあってくってのが俺は好きだ」
 手の平から分かり合う…それはとても魅力ある言い方だった。
「エースは前にも恋人をしてたことがある?」
「お前、なんか言い方が可笑しいな。恋人ってのは1人じゃできねェんだ。相手がいるから恋人。確かに俺は、まあ、いくつか熱い思い出ってのを持ってるが、お前は…なさそうだな」
 一つ頷いた。あるわけがない。大体、恋人というものの正体もはっきりわかっていない。
「初めて、か」
 繋いだエースの手に少し力が入った気がした。
 でも、見上げるとエースの顔には変わらない笑みがあった。
「やっぱり今日は俺も運がいい」
 その言い方がとても胸に響いた。
 今日一日にしたいこと。
 エースに『恋人』を願ったことは間違いじゃなかった。そう思った。


「まずは服を何とかしねェとな」
 エースが言った。それから通りを見回した。その視線を辿って、ようやく意味がわかった。何とかするというのはどこかの店に入って服を買うということなのだろう。
 でも。首を傾げるとエースは笑った。
「俺の懐具合なら心配無用だ。贅沢なことはできねェが、まあ、普通に楽しくやれるだけのものは持ってる」
「…あのね、エースから借りてるこの服はどこか変なの?」
 エースは目を丸くした。
「変なのってお前…シャツそのものは変ってるわけじゃない。たが、夏っぽくはねェし。何より必要以上にお前の足とか見せちまってるだろ。お前を連れてる俺は羨ましがられるだけだから悪い気はしねェがな」
 足。
 見下ろすと見えるわたしの足は白かった。白すぎて、エースや通りを歩いている人から浮いている気がした。これがダメなのだろうか。
 わからないわたしの顔を見たエースは足を止めた。ふわり、と髪を撫ぜられた。
「恋人ってより保護者の気分になってきたぞ。まあ、ここはビーチのすぐ隣りだからその格好でも中に水着を着てるだろうとみんな思うだろうからな。お前の服が乾くまで一歩きしながら待つか」
 わたしのずぶ濡れになった服はさっきの海の家に干してもらっている。夕飯を食べに来る頃には乾いているだろうと老婆は言っていた。
 わたしは黙ってエースの手の温度を感じていた。大きな手。初めて感じる他人の素手。意識すると心のどこかがむず痒くじっとしていられない気分になって唇が自然と微笑もうとしてしまう。
「どうした?基本的には大人しいんだな、お前。んで、突然びっくりするようなことを言う」
 びっくり?
 わたしが見上げたのとエースが少しだけ屈んだのが同時だった。近づいてきたエースの顔、そして唇が額に触れる直前まで思わず身体を硬くして凝視した。キス、というものだと思った。額へのキス。でも、名前がわかったところでカチコチになった体の中で突然速くなった鼓動は勢いを増すだけ。キスと一緒に髪の間をやわらかく梳いて通ったエースの指先の感触は背筋を真っ直ぐに伝わって全身に広がった。
「…初めてって顔してるな」
 こくん。何とか首だけは動かすことが出来た。
 エースの指先は頬の上を辿り唇の上をすぅっとかすめて離れた。
「お前の緊張が俺にもうつっちまった。どれ、お日様にのぼせる前に一休みするか」
 また手を繋いだ。ほんの少し離れていただけなのに、手の平のあたたかさが懐かしい気がした。そして、とても嬉しかった。
 エースは帽子を脱いでわたしの頭にかぶせた。
「保護者モード復活」
 呟きが聞こえた。笑い声が続いた。
「俺の調子が狂いっぱなしだなんてお前にはわからないんだろうな。ほんと、何ですんなりお前の言葉を受け入れて手を差し出しちまったのかな。俺は旅の目的を果たすまではこんな風に女と手を繋いだりしねェはずだったんだぞ」
 ドクン。胸の奥で大きな音がした。
 迷惑をかけているのだろうかという不安と。
 エースの笑い声のあたたかさに自分の幸運を信じたいと思ってしまう願いと。
「そんな顔するな。俺は楽しいぜ?今。お前もだろ?」
 あったかい手、声、笑顔。
「うん」
 とても素直に頷けた。
 ねえ、エース。この気持ちは何かな。嬉しいのにどこか苦しくて、でもいっぱい笑いたくなる。こんな気持ちになっていることをあなたに伝えてもいいのかな。どう伝えたらわかってもらえるんだろう。
 自分の中にいっぱいなものをどうしたらいいかわからなかった。
 見上げたエースの横顔が口笛を吹いていた。


 ずっと手を繋いで歩いた。
 綺麗なお店に幾つも入った。
 冷たいジュースが喉を落ちる時の素晴らしさを知った。
 氷を細かく削ったものに甘い液体をかけたものを食べた。あまりに鮮やかな色に見とれてしばらくはただ眺めていた。青い、青い色。頭の上に広がる空のように。砂浜の向こうに見える海のように。
 何もかもが初めてで、その初めてが嬉しくて。
 この嬉しさは全部エースのおかげだと思った。わた しが時々してしまう…多分おそろしく可笑しな質問にも楽しそうに答えてくれて、わたしが困ったり不安になる前にキュッと手を握ってくれる。そうすると胸の真ん中が熱くなって、気持ちもあたたかく、熱くなる。

 ゆっくりと過ぎていた時間がいつの間にか加速して、2人で一緒にいた時間がどんどん増えていた。その時間と一緒にいっぱいになってくる何かをどうしたらいいのか、わたしは迷っていた。
「疲れたか?お前、あんまり外には慣れてねェみたいだもんな」
 頷くとエースは足を止めた。
「のんびり日も暮れてきたし、最初の海の家に戻るか。お前の服もとっくに乾いたろ」
 そうか。
 わたしは自分が着ている鮮やかな色のシャツを見た。そう言えばこれはエースに借りたものだった。服が乾くまでの約束だった。でも、どうしてかとても…何というか、嫌だった。ずっと着ていたい。どうしてこんな風に思うのかわからないけれど。
 クスッ。
 小さくエースが笑った。
「そんなに気に入ったのか?それ。ちょっといい柄だろ?それとも…少しばかり自惚れてもいいってわけかな」
 終わりの方を囁くように言ったエースは首を傾げるわたしの手を引いて再び歩きはじめた。
 エースが言ったとおり、空の色が 青からやわらかな色に変わり始めていた。
 ズキン。
 胸の奥が小さく疼いた。目が覚めたときには朝だったのに、それがこんなに早く夕暮れになってしまうんだ。残っている時間はあとどれくらいになったんだろう。目に見える場所に時計がないことにホッとしながら、自分の腕時計からつとめて目を逸らした。
「海に落ちる夕日、見れそうだな」
 水平線から離れて浮かぶ雲から太陽が見え始めていた。はっきりと見える赤い弧。
「浜に行ってみるか?」
 エースと一緒に戻ると、今度は浜の砂はひんやりと冷たかった。あんなに熱かった砂が。屈んで指を伸ばしてみても、やっぱり冷たかった。

「同じことを考える人間って案外多いもんだよな」
 砂浜には結構沢山の人がいた。
 数はそう変わらないのだけれど、昼間とはどこか雰囲気が違った。そう、家族連れらしいグループがいない。男性1人、女性1人という組み合わせが圧倒的に多い。そして。
「はは、お前には目に毒か?まあ、余計なものは見ないでお日様だけ、見てろ」
 そう言うとエースは先に砂の上に座り、そっと手を引いてわたしを隣りに座らせた。
 並んで座る、手を繋ぐ…そこまではわたしとエースも他の人たちと同じ。でも。わたしはついつい何組かを順番に見つめてしまった。互いの腰に回した腕。髪を撫ぜる手。肩を抱き寄せる腕。触れ合う…唇。
 それはその2人の周りだけ温度が高く見える光景だった。あんな風に触れたいと思い合うのはどんな気持ちなのだろう。繋いでいるエースの手をとても好きだと思うわたしにも少しだけ同じ気持ちってあるんだろうか。
「ったく…ほら、ちゃんと夕日、見てろ」
 エースが肩を…抱いた。そっと引き寄せられると同時に額に唇の感触があった。
 ああ。もしかしたら、そうなのかな。
「…エース、恋人ってああいう風に触れたくなるものなの?」
「まあ、普通はそうだな。安心しな、『ごっこ』の恋人にはおでこのキスが限界だ。これ以上はしねェから」
 わたしの頭にエースの頬が触れていて、この状態だとわたしからエースの顔を見ることはできなかった。
 ズキン。
 胸がさっきよりも強く痛んだ。
 エースの言葉が痛かったのだ。
 とても優しい口調なのに。
 ゆっくりとやわらかく言ってくれたのに。
 ズキン。
 痛みが止まらない。
 『ごっこ』というのは…嘘ということだよね。うん、わかる。だってわたしは『恋人』がどんなものかを全然知らない人間で、エースとは何時間か前に偶然会えたばかりで、そんな人間から突然せがまれてもきっと本物になんてなれないんだ。
 ズキン。
 でも、痛い。
 笑いたいのに笑えない。
 早く何か言わないと、きっとエースは変だと思うよね。
 だから早く、何か…
「…エース…」
 ようやく名前を呼べた。
 それと一緒にあたたかいものが膝に落ちた。涙だとわかって驚いた。
 名前を呼べたらまた痛くなった。
 どうしてなんだろう。
 落ちる涙をわかられたくなくて、ぬぐうことができなかった。
 涙のせいで夕日がぼやけて大きく滲んでしまった。
 それでもただじっとその明るさを見つめていたら、エースがわたしの肩を離した。すぅっと涼しくなった。それを寒いと感じた。
「ったく…」
 呟きが聞こえたと思ったら、エースの両手がわたしの顔を包んだ。左右の頬いっぺんに涙をぬぐわれた。
「不器用な泣き方するな」
「…こんな風に泣くのは多分はじめてだから…泣き方、わからない」
 もっと大げさな泣き方ならしたことがあるはずだと思う。泣くことで自分をその場から切り離すために流した涙と零した声。だけど、今のわたしはここから逃げ出したいわけではなくて、ずっとずっとここにいたいから。
 エースは困ったようにわたしを見て、やがて薄く笑った。
「あのな…俺はさっきから『本気』とかそういう言葉が胸の中でチラついて正直、迷っちまってたんだが。お前が望むことに全部応えたいと思うくらいお前を気に入っちまってるし、本物の恋人みたいに抱きしめたいとも思うぜ、男として。けどな、お前がほんとにそれを望んでいるのかがわからねェから。お前も、どうやらいろいろ、びっくりすることまで初めてみてェだから、自分の中のいろんなもの、よくわからねェんだろ?」
 深く、頷いていた。
 うん。その通りなんだ。
 わたしはエースと一緒にいたい。離れたくない。わかっているのはただそれだけ。
 見上げるとエースはわたしの顔から手を離し、頭を掻いた。
「どんだけ試されてるんだか、俺の理性」
 わたしはエースを困らせているのだろうか。心配になったが、でも、エースはまた笑ったから。安心して笑顔を返すとエースはまた手を繋いでくれた。


「…お前が自分から言わないんならあえて訊こうとは思ってなかったんだが。お前、俺に『今日一日だけ』って言ったろ?それもちょっとひっかかってた」
 うん。わたしは頷いた。
「時間がそれだけしかないってことなの。ただ、それだけ」
 エースは眉を顰めた。
「どこかへ行っちまうとか?まさか死ぬわけじゃねェだろ?」
 わたしは笑った。とても素直に笑えた。
「ええと、半分ずつ、かな」
「うん…?」
「明日の朝になったら、またわたし、眠るんだよ。身体を治す方法が見つかるまで…一番長くて10年間。だから、ちょっと死ぬのと似てるし、半分ずつ」
 エースはとても驚いたんだと思う。でも、その驚き方はわたしが想像していたものとは違っていた。朝目を覚ましてから話をした何人かの人ともまったく違っていた。
 ああ、そうなのか。
 瞳を見開いて囁いたエースはただじっとわたしの顔を見ていた。それから静かに腕を伸ばして、わたしの身体をぎゅうっと抱いてくれた。
「お前、俺より遠くまで旅をするんだな。ものすごく遠くまで」
 エースの腕に包まれて、顔を胸に軽く押し付けられて。わたしは何も見えなくなってしまったけれど、なぜか身体が震えだした。
 あったかい。ものすごくあったかい。こんなにあったかいと氷が溶けるようにまた泣いてしまうかと思った。でも、どうしてだろう。段々と気持ちが落ち着いてきた。
「すごい…今は何にも怖くない」
  本当は朝から怖かった。ずっと怖かった。眠りについたのは5年前。身体の奥に巣くっている病気の治療法が見つかるまでと、両親がわたしを夢の世界に送り出してくれた。治療法が見つからなくてもとりあえず5年で一度目を覚まし、両親と1日過ごしてからまた眠る…そういう予定だった。でも、誰もわたしを迎えには来なかった。眠っているわたしにはほんの一晩と変わらなかった5年という時間は、現実ではとても長く、どんなことが起きても不思議ではなかったのだ。両親は死んでいた。災害に巻き込まれたのだと言う話で、それでも何もかもをわたしのために残してくれていた。だから、わたしはまた身体が治る日の夢を見ながら時間の旅を続けることができる。できてしまう。
 次に目覚めるのは10年後…その間に治療法が見つからなければ。
 5年でこんなにたくさん驚くことがあったのだから、10年後というのはまったく想像できない世界なのだろう。
「…俺の、一番近くにいたいか?それがたった数時間でも」
 たとえその後には何も残らなくても。
 エースの言葉の続きが聞こえた気がした。
「一緒にいたい。エースと」
 エースの腕がさらに強く抱いてくれた。
「俺も同じだ。もっとお前の近くにいたい。裸になって肌がぴったり触れるまで」
 裸?
 その言葉に小さく反応してしまったわたしの額にエースは口づけを落とした。
「その反応は、正しい。ほんとにお前は…怖くなるくらい可愛い」
 驚いた。
 全身が…頭の先からつま先までカァッと熱くなった。
「俺の部屋に来るか?ちょっとすげェぞ」
 笑ったエースは真っ直ぐにわたしの目を見た。
 明るくて楽しそうな口調とはどこか違う表情がそこにある気がした。きっともしかしたら他の人なら分かる意味がそこにはあるのかもしれないけれど、わからないわたしはただ、瞳を見返した。わからないのに鼓動がどんどん速くなった。
「すごい…の?」
「ああ。馬鹿と何とかは高いところが好きっていうらしいから、俺は相当な馬鹿なんだな、多分」
 エースの言葉のひとつひとつが気持ちを高めてくれる。
 どこへ行くの?エース。それは、どんなところ?
 エースは 立ち上がってすっと指を差した。浜の向こう、入り江を作っている東側の高い崖。エースの指はその天辺を指しているように見え、そこには1本の木が立っているのがなんとか見えた。見えたのはそれだけだった。
「木?」
「行けばわかるさ。疲れたら…いや、疲れちまう前に言えよ。負ぶってやる」
 負ぶう、というのは背中に乗せて運んで貰うこと。言葉的にはわかるけど、経験はない。
「ああ、負んぶも初めてか?だったら早速経験しねェ手はねェな」
 エースはわたしの前で膝を落とし、背中を向けた。
「ほら、乗っかれ」
  戸惑った。というか、困った。わたしはエースの服装を説明しただろうか。いかにも旅慣れて見えるエースは帽子をかぶり…その帽子は今はわたしの頭の上にあるのだけれど…しっかりとした靴と膝丈のハーフパンツを穿いている。あとは首と手首に何本か装身具を巻いたり下げたりしているのだけれど。
 エースの背中。その真ん中には刺青があった。誰か人間の顔をモチーフにしているらしい一見ユーモラスでもありどこか迫力がある刺青。そして、刺青をこんなに詳しく観察できるということは…そう、エースの上半身はシャツも何も着ていないのだ。肌が直接そこにあった。
 わたしは 自分の肌は見たことがある。診察や検診のため医師たちの前に晒したことは数え切れないほどある…多分、自分が記憶している以上に。でも、他人のものは見たことがない。もしかしたら両親のものは見たことがあったのかもしれないが、思い出すことはできない。
 エースの背中。わたしのものよりきっと随分広い背中。
 触っても…いいのだろうか。
 触ったら…どんな感じがするんだろう。
 好奇心とか何か他の気持ちでいっぱいになって、胸の奥がぎゅうっとなった。
「…まだ、歩けるよ」
 なのに口から零れたのはこんなぶっきら棒な言葉と声で。我ながら悲しくなった。だって、わたしは本当は。
「照れるな。俺にもうつっちまうだろ」
 笑ったエースが振り向いてわたしの手を掴むとエースの肩に掴まらせた。エースは色んな笑い方を知っているんだな、と思った。気持ちを楽しくさせてくれたり、安心させてくれたり、そして、苦しくさせてくれる。そんな風に思ったときには、わたしはもう背中の上にいた。
 エースは 温かかった。あまり手を動かしてはいけない気がした。手の下の肌はすべらかだった。
「背中の上だと、ちょっと高いだろ」
「うん」
 思わず声が弾んだ。エース一人分。それだけの高さのはずなのに、目に入るものがどれも全然違う見え方をする。振り仰げば空はまだまだ遠いけど。
「安心した。お前、ちゃんと体温、高いのな。それから、胸ん中をドキドキさせてる」
 うわ。
 わかってしまってる、エース。当たり前なのかな、こんなに近くにいるから。こんなに、こんな風にエースに近いから。
 でも、エースは?
 わたしもエースのことがわかるかな。
 目を閉じてエースの温度を感じようとしてみた。あたたかい…どうもわたしが感じるのはそれだけで、嬉しくて仕方がないのにちょっとがっかりした。
 じゃあ、心臓は?
 鼓動を探ろうとすると頬がエースの背中に触れた。ああ、やっぱりあったかい。
「俺も熱いだろ?お前と同じだ」
 同じ、なのかな。そうなら嬉しい。
「しっかり乗っかってろ。ちょっとばかり速く歩くぞ」
 反射的にしがみつくと、エースは笑った。
 タッタッタ。
 砂浜から道に上がったエースの足が靴音をたてはじめた。わたしの背中の上で髪が踊った。
 負んぶってすごい。エースが力持ちなのか、わたしの身体が軽いのか。エースの背中をずっと意識しながらそんなことを考えていた。


 そこは、部屋というよりも小屋だった。
 崖の上に1本立っているものすごく大きな木の上。何本かの太い枝の上に乗っているその小屋は、 細い枝たちと木の葉にすっぽりと隠れていてただそばを通ったくらいではよくわからない。海側に垂れている何かを編んで作ったような梯子も、ちょうど木の幹と同じ色をしているから目立たない。
 秘密基地、みてェだろ。
 エースが言った言葉の意味を実は全部はわかっていなかったけれど、その響きだけで胸が高鳴った。
 今、この島ではエースだけが知っている場所。エースと一緒にここを使っている人はやはり旅に出ているのだという。近くを通るたびに互いにここに寄って小屋の無事を確認し、手入れをし、またどちらかが次に来る時のために備えるのだとエースは言った。
「この島はな、嵐の通り道になってるから1年に何回かはひどい雨風と雷に襲われる。でも、この木は俺が最初に来たガキの頃からずっとここにある。その強さに惚れて、ここにこいつを作ったんだ」
 ということは、わたしが最初にこの島に来た5年前にはもうここにこの小屋はあったのだろうか。あの時も季節は夏だった。もしかしたらエースも…ここにいたのかもしれない。
 多分目を丸くしていたわたしの頭をエースの右手がポンポンと叩いた。
「驚くのはまだ早いぞ。登ればもっとすげェから」
 今度のエースの笑顔は子どもみたいだった。


 壁一面に地図が貼ってある。
 驚いた。何枚も、何枚も、端を重ねあって貼られている地図は気まぐれのように傾いたり折れたりしているけ れど、きっとこの方がきちんと真っ直ぐ貼られているよりも味があるのだ。何列も真っ直ぐに貼られた検査結果を表す写真はデータという単なる標本のようで自分のものだとわかっていてもなかなか馴染めないから。
 1枚1枚の地図にはいくつもしるしや書き込みがある。これは全部エースか友人が行った場所なんだ。何枚かについて説明してくれたエースの表情がとても眩しくて、彼をとても大きく感じた。
 すごいな。
 わたしはまだこの島を全部歩いたことさえない。この島に来た時に体験したはずの長い旅も、眠っていたから記憶していない。
 すごいよ、エース。
 島ってこんなに色んな形があるんだね。
 海を渡るってどんな感じなのだろう。
 知らない場所を初めて歩くのって緊張するのだろうか。今朝、研究所を出たときのわたしみたいに。会う人会う人にどんな顔をしたらいいかわからなくて。
 ぐるりと見ると、天井にも数枚の地図があった。
「そのうち天井もいっぱいになるね」
 見上げたまま言ったわたしの後ろにエースが立った。
「…行きたいか?お前も。外へ」
 わたしはちょっと考えた。
「色々なものを見ることができたら素敵だと思う。でも、怖いことにも思える。わたしは何にも知らないし、眠っている間にまたどんどん時間に置いてきぼりにされるから」
 今朝だって。目が覚めたら『孤独な身の上』っていうのになっていた。知らないうちに自分以外のものが全部確実に変わっているんだ。だから、5年前に見たときと同じに見えた海を見つけて、安心できた。そしたら、エースに会えた。
 振り向こうとしたわたしをエースの腕が後ろからそっと抱いた。
「鍵、やるよ、ここの。俺はこんな調子だからいつどこでどうなっても不思議じゃねェ人間だ。でも、きっとこの木はずっとここに立ってるから。そして、運が良ければこの小屋もちゃんとあるはずだからよ。次に目が覚めたらここに来て…ほら、こっから海を見てみな」
 エースはわたしを静かに押して行き、円い窓をいっぱいに開いた。窓の外はそこだけ枝が切り払われていた。そして、ただ、青い海が広がっていた。一瞬、海の中に落ちていくような錯覚があって、思わずエースの腕にしがみついた。前はずっとずっと見える限りの海。そして、眼下にもどこまでも深く満ちている海。
「登るとすげェって言ったろ?」
 笑いながらエースはわたしの腰を抱いて持ち上げた。それだけで海はもっと近くなった。そして、もっとしがみついてしまったわたしを、エースはくるりと向きを変えて彼の方に向けた。エースより少しだけ高いところから顔を見下ろすのは不思議な感じだった。
「おいで。遠慮しねェで俺に抱きついてみな」
 最初は父親にあやされているような気分になった。ずっとずっと前にこんな風に持ち上げてもらったことがあったのだろうか。
 躊躇うわたしをエースはちょっと左右に揺らした。
「ほら、来いよ」
 まるで反射のように腕がいっぱいに伸びた。
 エースの首に腕を回して身体を寄せた。
 エースの肩に顎がのっかると、ちょうど口のそばに耳が来た。
「…持ってていいの?鍵」
 囁くと、エースの大きな手がわたしの頭を撫ぜ、そのまま指が髪を梳いた。
「ああ。いつでも、ここに来ればこんな風にちっとも変わらない海が見える」
「もしかしたら…また、会える?」
「俺とお前、両方の運が良かったらな。でも、会えなくても、今こうして会っちまったっていう事実はもうしっかりお前と俺の中に残る。それはずっと消えねェ」
 それからエースは、ああ、と呟いて笑った。
「そっか、お前は次も今のまま、このまんまのお前なんだよな。俺はよ、なんと10歳、年を食ってるわけだ。はは、うまい年の取り方しねェと、お前に気がついてもらえねェな」
 わかるよ、きっと。エースがどんなになってても絶対にわかる。
 思ったけれど何も言えなかった。ただ、エースの肩に顔を埋めた。自分の腕がぎゅうっとエースにしがみついてることに気がついて、慌てて緩めた。首が苦しかったよね、エース。
「もう少しだけ、お前に俺を覚えててもらうために…」
 エースの手がまた髪を撫ぜ、唇が頭に触れたのがわかった。
「手を繋ぐってだけじゃ足りねェよな、俺もお前も」
 額に唇も貰ったよ?
 顔を上げると目の前にエースの微笑があった。
 気がつくと柔らかなベッドの上に下ろされて、やさしく寝かされていた。
「肌と肌ならもっとあったかいぞ」
 唇にエースのそれが重なった。
 どうしてだろう。唇と唇のキスは額に貰ったものとは全然違う気がした。
 ゆっくりと、やわらかく、何度も、何度も。
 すぐに何度目のキスなのかわからなくなった。
 エースじゃなかったら、もしかしたら、きっと、ものすごく気持ち悪いと感じたかもしれない。そう冷静に考えているつもりなのに、心があたたかく膨れ上がって体に走るこの感覚をどうしたらいいのかわからない。 何かが溢れそうになって、堪えていたら代わりに涙が落ちた。
フィラ
 エースに名前を呼ばれると、それだけで嬉しい。嬉しいと身体が小さく震える。
「寒く…ないよな?」
 エースの手がわたしの胸のシャツのボタンを辿り、右手がシャツを床に落とした。
 直接肌に感じる空気と視線。
 飛び上がった心と一緒に身体がちょっとだけ宙に浮いた。エースは笑ってすぐに抱きしめてくれた。
 肌と肌。
 ああ、本当だね、エース。
「あったかい…」
 囁くとエースはもっと強く抱いてくれた。
 あたたかくて鼓動を高鳴らせているのに、同時にいっぱいの安心感を貰っていた。こんなに近くにエースがいる。体温も、香りも、呼吸も、声も、全部がわたしを包んでくれる。身体の重ささえ心地よい。いっぱいに満たされる。
「今はここにいるから…お前も、俺も」
 エースの髪は微かに海の香りがした。
 それともこれは窓から入ってくる風の匂いなのかな。
 目を閉じて、触れている全部で心をいっぱいにした。


 しばらくの間、そのまま肌を重ねていた。窓から入る海風と波の音を感じながら。エースに包まれながら。
 やがてエースが身体を離そうと動くのを感じた時、不意に思い出して思わず腕に力を入れてしまった。エースをまだ起き上がらせないために。
「どうした?」
 やわらかなエースの声を聞きながら、迷った。でも、結局は上手い言葉なんて浮かばない。このまま言うしかなかった。
「あの…あのね、わたしの体、多分あんまり綺麗じゃないの。チューブを繋ぐためのジョイントがまだ入ってるし、小さな頃から入れてたチューブの跡がいくつもあるから。だから…」
 エースの身体はとても綺麗だった。
 薄い傷跡のようなものがいくつも見えたし手にも触れたけど、それでもすべらかで綺麗だった。でも、わたしの身体は違う。青白い肌に黒ずんだ円い跡がいくつもついてる。鏡を見た時、標本のようだと思った。そしてそれは半分、当たっている。わたしの身体は確かにわたしものだけど、それだけじゃない。いくつもの 実験の対象になっている言わばモルモットだ。少しでも時間を先へ進むこと。それが実験の課題。
 エースは長いキスをくれた。それから頬と頬と触れ合わせた。
「心配するな。俺は油断できない男だからな、ちゃんとさっきシャツを脱がせた時に見てる。お前は綺麗だ。細くて真っ白で、まん丸の傷だってアクセサリーみてェなもんだ」
 アクセサリー?
 エースの言い方に思わず口元が綻んだ。
 エースはするりとわたしの腕を抜けて身体を起こした。
「ほら…こんなに綺麗だ」
 剥きだしの上半身が一気に加熱した。
 エースの視線と受けていると軽い痛みのようなものを感じた。
「真っ白な肌と真っ赤な髪。ほんと、綺麗だ…フィラ
 エースの指先が顎を撫ぜ、そのまま喉をおりて肩を撫ぜた。身体が震えた。
「この飾りも気が利いてる」
 不意にエースが顔を下ろした。
 脇腹の傷に温かなものが触れた。エースのキス。エースはそこから傷跡をひとつひとつ辿って唇を触れた。
 どうしよう。
 震えが止まらなかった。
 心も身体も熱くてたまらない。
「これが…『恋人』…?」
 エースはわたしの身体から唇を離し、微笑んだ。
「そう。これだけが恋じゃねェが、少なくも俺は恋人にしかこういうことはしねェよ」
 エースはわたしの隣に横たわった。並びながら互いに横を向いて相手の顔を見た。
 互いに頬に手を伸ばした。
 微笑みあった。
 裸の胸が少しだけ恥ずかしくなくなっていた。それよりもこうしてとても近くにいられることが嬉しかった。
 エースの手がまた 肩を撫ぜ、そのままわたしの身体の輪郭を手の平で辿った。あたたかさが通り過ぎると背中の真ん中がゾクゾクした。そっとそっとエースの手が見えている肌を少しずつ、全部撫ぜた。ゾクゾクとした感じと一緒に初めての心地よさが広がった。
 大好きってこういうこと?
 訊いてみようかと思った時、エースの腕に引き寄せられた。
「お前がここにいられるだけ、ずっとこうやって可愛がりたい。次に目を覚ます時、お前の肌が俺の手をすぐに思い出せるように」
 背中を撫ぜるエースの手の真似をしてわたしもエースの背中に触れてみた。エースは小さなキスをくれた。
「覚えとけよ、俺の肌も。こうしてお前を抱いてる腕も、キスしてる唇も、全部」
 何度も頷いた。
 忘れないよ、エース。あなたに会えてここにこうして一緒にいられたこと。言葉や微笑やあたたかさをたくさん貰ったこと。
 エースは指にわたしの髪を絡め、優しく引いた。
「『恋人』には本当はまだ続きがある。でも、そいつは少しばかり長い時間が必要なんだ。ちゃんとお前を満たすためにはな。中途半端だとただ苦痛を感じさせるだけで終わる。病気に弱ってるお前の身体を壊しちまうかもしれない。だから、俺はここから先には進まない。それよりもっと、俺ができるやり方でお前をいっぱいにしたい」
「もう、こんなにいっぱいなのに?」
 苦しいくらいに満ち足りているのに。
 エースの真面目な表情に微笑が揺れた。
「もっと欲張れ。俺はまだ足りない」
 もっといっぱいになれるのかな。
 続きってどんななんだろう。でも、時間が足りないとエースが言うんなら、それは仕方がないことなんだろう。だって、本当はもう、今が夢のようなんだから。今はもう『恋人ごっこ』じゃない。エースがこんなに近くにいてくれる。それ以上のことなんてあるはずないんだから。
「もう一度…抱きしめてもらっていい?」
 思い切って頼むとエースはわたしの顔を両手で包んだ。
「一度なんかじゃなくていい。何度だって抱いてやる」
 エースの腕の中にすっぽりと包まれる感じは、他のどんな時よりもとても幸せだった。ああ、この感じをずっと覚えていたい。長い眠りもこんな夢を見ることが出来たら、微笑んでいる間に過ぎていくだろう。
「こんなに…あったかいよ、エース」
 返事の代わりにエースはもっとぎゅっと抱いてくれた。
 いつの間にか、わたしの方が速かったはずの鼓動が重なっていた。
「泣くな」
 髪の中に囁いたエースの声は少しだけ震えていた。


 覚えている。
 エースの唇、指先、手の平、背中、熱い胸。
 最後に見たのは透明なガラスの向こうのエースの笑顔。そこから記憶が薄くなって、心も身体も眠りへと吸い込まれた。でも、最後に聞こえた気がした。「フィラ」とわたしの名前を呼ぶエースの声が。
 ありがとう、エース。
 今、あなたに貰ったたくさんを思い出しているわたしの寝顔はきっと口元が笑ってる。こんなに幸福な人間は起きている人の中にもそうはいないと思う。
 一日だけの恋人。でも、本物の恋人。今はそれぞれ、エースは広い海を、わたしは時間の中を旅している。

 覚えている。
 太陽の眩しさ、砂の熱さ、海風の匂いと波の音。
 今度目を覚ましたら一番に海の青さを確かめに行こう…この鍵を持って。不思議なことに、わたしは眠りの中にいるはずなのに右手の中に握っている鍵の感触を感じている。銀色の小さな鍵。エースの頭文字が彫ってある。
 この鍵はきっと記憶の扉を開く鍵にもなってくれる。鍵を見ればあの大きな木を思い出し、扉を開ければエースと一緒にいた恋人の時間を思い出すことができる。
 だから、今はもっと深く眠ろう。
 眠れば眠った分だけ目覚めの時が近づくのだから。

 ありがとう、エース。今は何も怖くない。本当はあなたに言いたかったけど、結局わたし、言えなかった。だから、今から眠りの底に着くまでずっと心の中で囁いていこう。

 大好きだよ、エース。
 どうしていいかわからないくらい大好きで、何度も頑張ったけれど伝えることができなかった。
 でも、もしかしたらあなたは知ってるよね。最初に繋いだ手の平からとっくに伝わってしまっていた気がする。まだ『ごっこ』だったあの時から。
 大好きだよ、エース。
 こうして囁き続けていたら、いつかあなたに届くかな。
 旅の中で色んな人と出あってイキイキと輝いているあなたがもしもふとわたしのことを思い出したら、きっとそれが声が届いたということなのかもしれないね。
 大好き…、エース…
 もう眠ってるのにどんどんまた眠くなっていく。
 大好き、エース…ありがとう。
 こんなに…いっぱい…ありがとう…
 エース…


「次の10年の間にぜひ治療法を完成させたいですな」
「そうですね。ちょっと風変わりな青年と一緒に戻って来た時には、正直驚きましたけど。でも、凄いわ。こんなに穏やかな顔で眠ってる」
「…もしかしたら、来るでしょうか、あの青年は…10年後」
「そういう約束はどうやら一言もしなかったみたいですけどね。どうしてかしら、そんな光景を見たいと願ってしまうのは」
「長いですよ…何かそんなささやかな楽しみでもないと、10年は」
「そうですね。その青年と無事に会うためには、私達も少しずつでも研究成果を発表して、ここから飛ばされないようにしないと、ですね」

 そんな会話を交わす大人たちの前で少女は眠っていた。
 最後のレベルの眠りに入る直前、少女の唇は微かに微笑み、右手の拳が小さく揺れた。


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