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behind, beside

 切っ掛けがよくわからないまま始まる、ということは日常でままあることかもしれない。例えば、それが『恋愛』の類であれば、切っ掛けがはっきりしていることの方がむしろ珍しいかもしれない。
 しかし、この場合は。
 エースは、入り江に入ってすぐにその姿に気がついた。今はもう大分見慣れた感のある、細いシルエットと風を受けて流れる長い髪。彼に手を振ることもなく、静かに立って待っている姿。多分、その顔には感情表現が苦手そうな、それでも抑えきれない微笑があるだろう。
 「ただいま」と反射的に声をかけてしまうようになったのは、いつからだろう。相手はもちろん恋人なんかじゃなく、懐かしい義兄弟たちでもなく、意外と家族に近い時もあった山賊たちでもなく、海軍のジジイでもなく、海賊ですらないのに。
 まあ、慣れってヤツは恐ろしい…ただ、それだけのことだとエースは思った。
 顔見知りにちょっと毛が生えたような…それだけの存在だ。それ以上でも、それ以下でもなく。間には一定の距離がある2人。だから、かえって気軽に「ただいま」なんて言えてしまうのかもしれない。
「エース」
「ただいま。間に合ったのか、今度も」
 ボートを降りた自分のもとへ走ってくる娘の顔に予想通りのものを見つけて、エースはまた反射的に「ただいま」を言ってしまった。
「ギリギリ。お昼に着いたの」
「…道理でまだ少し青白い顔してるわけだ。揺れたんだろう、船。沖合いの波を乗り越えるのに、結構パワーがいったぞ」
 娘は小さく身震いした。一体今回はどれだけの回数、吐いたものだか。
「メシ、行くぞ。どうせ、お前、しばらく何にも食ってないんだろ」
 嬉しそうな顔で頷いたところを見ると、船酔いは何とかひいたらしい。歩き出したエースの隣り、およそ30センチほどの距離をとって並んだ娘は、エースの顔を見上げ、彼の足元まで視線を動かした。
 傷が増えていないかどうか、確かめている。
 最初は煩わしいと感じたこの視線にも、何となく慣れてしまった。言葉で煩く訊いてこないところは、まあ、楽だ。
 そういう彼自身も、自然に娘の全身を一瞥してしまっている。
「ゼロ…お前、痩せたぞ。」
 だからどうというわけではないが。
「船旅が少し長かったからかな。さっきまで、お腹がすいてるのかどうかもよくわからなかったし」
「腹の虫も船酔いか」
「うん。全体的に降参って感じで」
「何だ、そりゃ」
 一緒に食事をした後は、街を歩く。ティーチの情報を得られる手ごたえを感じたら、宿をとる。そして、納得いくまで情報を探す。この街の滞在時間は短くて半日、長くて1週間というところか。
 娘はエースが次の目的地を決めるまで、街にいる。先回りになるか追いかけることになるかは、運次第だ。その後の情報によっては、目的地が変わることもある。そうなると今のところ移動中の娘に直接連絡をとる方法はないから、とりあえず新しい目的地を宿に残す。後は予定変更前の目的地に着いた娘の勘次第だ。ある程度待って来ないと思ったら、ひとつ前の街まで戻って伝言がないか確かめ、新しい目的地に向かったエースを追う。エースが娘のために待つことはない。追いつけなくなってしまったら、それはそこまでということで、最初からそういう約束だ。
 こんなことが、再会のあの日から続いている。
 なぜ続けているのか、エース自身、よくわからない。
 恋人でも家族でもない2人は、できるだけ別々の部屋を取る。相部屋になっても、なるべく互いのプライバシーを守る。
 一緒にティーチを探すわけでもない。この探索は2番隊隊長としてのエース1人の問題なのだから。
 数回の食事と宿に戻ってから寝るまでの時間…会うたびに娘が得られるのはそれだけだ。たったそれだけのために、なぜ。
 だが、それを深く問うことを、結局していないエースだった。
 娘の方からも説明はない。
 再会の日、娘はただ、一緒にいたい、とエースに言った。
 そう言えば、俺は最初こいつのその言葉を、ただの誘いだと思ったんだったな。
 エースの口元を小さな笑みが通り過ぎた。


「お前と…っていうより、どんな女とも寝る気はねェよ。寝るってのはガキを作るってことだ。間違って出来ちまったら、そのガキに恨まれるだろうよ。貰いたいなんて一つも思ったことのねェ鬼の血が身体中に流れちまってることを、おまけにそいつのおかげで自分が生かされちまってることをな」
 娘は目を丸くして、しばらくエースの言葉を考えているようだった。その様子から、どうやら一夜の相手として声をかけられたわけではないとわかり、まあ、そうだろうなと思ったことを覚えている。これは一応『再会』という場面だし、前に会った時は彼は10才だった…ということは、娘は多分、もう少し幼かっただろう。大体、再会した瞬間に互いに互いを認識したことが不思議だ。その瞬間まで、エースは娘のことを1度も思い出したことはなかったのだから。
「…あなたと『一緒にいる』ってことは『寝る』こと…なの?それなら、わたしは、それ、いらない。たまたま女ってだけで、今までいいことなかったし、『寝る』やり方も知らない。だから、いらない。ただ、行けるとこまでついて行きたい。どうしても無理になったら、ちゃんと諦めるから」
 今思い出しても、娘は最初からひどく真剣だった。そして、今だからわかることだが、普段の数倍の数の言葉を、必死に口にしていた。
「わからねェな。あのなぁ、お前、海賊になりてェわけじゃないんだろ?」
「うん。船に乗ると酔うし」
「酔うだぁ?なら、ついて来るってのは最初っから無理。だろ?」
「うん。一緒の海賊船には乗れない。乗ったら迷惑かけるだけ。…けど、今、あなたは1人で動いてる。だから、次の行き先さえ教えてもらえたら、追いかけて行けるし、早めに出て先に行ってられるかもしれない」
「…それって、結局、船に乗らなきゃだめな時もあるってことじゃねェか」
「でも、酔ってるとこは見せずにすむ」
「バカか、お前」
「もしも…もしも、いつか、もう1度会えたら、絶対に頼もうってずっと思ってたから。あの時は、何もわからない、考えられない子どもだったけど」
「何もわからず、考えずに生きてられたってことなら、お気楽な身分だな。あんまりそうは見えなかったが」
 イースト・ブルーの忘れられないあの国、あの街で。何もなければすれ違っただけで終わったはずの遠い日の出会い。
「…『ゼロ』だもの、わたし。だから、あそこに存在できた。いろいろ考えてたら、きっとゴミ山に放り出されてた」
「『ゼロ』?…まあ、確かにお前、そんな感じに呼ばれてたな、名前」
「…名前じゃなく、管理番号なんだけど…うん、名前はないからしょうがない…」
「名なし?」
「…自分でつけたら変な名前になりそうだし、人の名前を真似するのも…やっぱりダメだから」
「ちょっと見はマトモ過ぎるくらいに見えるのに、いろいろ変なヤツだな」
「自分が変なのかどうか、わからないくらいにね」
 そう言って淡く微笑したゼロの顔を見た時、エースはなぜか「好きにしろ」と返事をした。理由は今もわからない。
 ただ。
 覚えているのはゼロの表情に見た小さな葛藤。名前を持たないその娘は自分の存在意義を見つけられないでいる、という確信。
 それから。
 エースから答えを貰ったゼロの表情が驚きから眩しいほど真っ直ぐな喜びに変わった瞬間。


「たいした情報はねェな、この街には」

 エースの呟きを聞いた途端、ゼロはポケットから取り出した組紐で長い髪を後ろでまとめ始めた。出発の準備。どうやら、今が日暮れであることにはお構いなく、出立するつもりらしい。髪をきっちりと縛ってエースを見上げる視線は、次の行き先を問いかけている。
「しばらくこの先は陸を行く。南に進むつもりだが…」
 そこまで聞いた娘は踵を返し、すでに足を踏み出していた。
「こら。お前、すぐに立つ気か?俺はもうひとメシ食って寝て、朝になったら動くぞ」
「次の街が遠かったら遠いだけ、先に出ておかないとすぐに抜かれて置いて行かれるだけだから!」
 確かに。エースはさらに開きかけた口を閉じた。自分が何を言おうとしたのかわからないが、確かにエースとゼロが同時にスタートしたら、結果は見えている。
 スタスタと歩き出した後姿を見ながら、エースは短く笑った。
 慌しいヤツ。
 こんなことがこれから先ずっと続くとは到底思えなかった。
 終わりが来ることがわかっているから。だから…なのかもしれない。
 何が、どうだと。自分に訊いても答えはさっぱり浮かばなかったが。


 南に向かって進むエースの歩みは、軽く、力強く、速かった。
 ちゃんと歩かないと手加減したことになっちまうからな。
 そう思うたびに、苦笑した。別に何の勝負をしているわけでもなく、どちらにせよ自分のほうが優位なことは明らかだ。なのにそう思ってしまうのは、多分、ゼロが歩くその真剣でバカらしいほど一生懸命な後姿がつい頭に浮かぶからかもしれない。
 これまでに幾度か見かけたあの姿。
 そう、ほら、あんな風に。
 エースは前方に小さく見え始めた後姿に目を細めた。
 きっちりと縛り上げた長い髪が後ろに少しなびいている。ペース配分などおよそ考えてはいなさそうな、力いっぱいの全力歩行。旅と言うより、それこそ親の敵を追い求めているような。或いは、長い間探し続けたものへのゴールへの最後の歩み。
「ぶっ倒れても、知らねェぞ」
 呟きは無自覚の微笑に終わり、エースは足を速めた。
 揺れる髪が陽光を受けて様々な色に変化するのが、ハッキリと見え始める。ゼロの身体的特徴の一番が、その『色彩』だ。髪の色と瞳の色…それが光の加減で移り変わる。悪魔の実を食べでもしたのかと思ったがそうではなく、体質だという。自分の意思で色を決めることが出来れば面白い能力かもしれない。でも、それは無理らしい。
 もっとも…光任せばかりでもないのではないかと、エースは思う。もしかしたら感情に影響されるところもあるかと。あの日に見た恐怖に包まれたゼロの目と髪は、漆黒の闇の色をずっと保ったままでいたから。そして、エースと向き合う時、瞳は空の青に、髪は純粋な白銀に変わることが多いから。その色の意味は知らないが。
 視界の中でゼロの姿は次第に大きくなる。用心深いゼロがエースの気配に気がついていないはずはない。それでも振り向かずに歩き続けているのが、らしい。
 らしいから、真横に並ぶまではエースも声をかけない。
「先、行くぞ」
 その時初めて、ゼロの真剣な表情は崩れ、唇がカーブを描く。その笑みは本当に明るい。まだまだ諦める気はないと告げているようで、エースの口角も小さく上がった。
「うまいメシ屋、見つけておく」
 そんな風に声をかけたことはなかった。ゼロはちょっと瞳を見開き、それから大きく1度頷いた。
 白銀の長い髪がふわりと揺れた。
 今度は背中を見せることになったエースは、また少し足を速めた。


 街に着いて3日。宿の戸口に立ったエースは、外に眼をやり、小さく息を吐いた。
「エース…やっと追いついた…!」
 無様と言うべきか、見事と言うべきか。
 ボロボロになったゼロの姿がそこにあった。茫々というしかない髪。薄汚れた顔。埃まみれの身体。あちこち破れた衣服。
 確かに、この辺りは辺境に近く、同じ国の中でも町と町の間には長い距離がある。しかし、いくら徒歩の旅とは言え、隣町から歩いてきただけではこんなにはならないだろう。エースはゼロの顔を見た。
 満面の笑顔。
 初めて見せるその顔のまま、ゼロはエースを見上げて立っている。
「お前…」
 どうした、何があったと尋ねるのは容易い。そして、返ってくるのは多分、不思議そうに首を傾げるゼロの姿だけだろう。
 エースは帽子を脱いだ。
「湯でも水でも、サッサと浴びて来い。メシ、行くぞ」
 汚れた上衣の襟首を掴んで宿の中を進みながら、エースは帳場に視線を向けた。下働きが慌てて湯を汲みに奥へ姿を消すのを確認し、2階に上がる。本当は宿代を清算して次の町へ向かうところだった。もしかしたらという予感が彼を戸口に佇ませ、そうしているうちにゼロが着いた。本当にギリギリだ。
「エース、あの…」
「今、誰か、湯を持ってくるから、浴びたら下りて来い。下にいるから」
 部屋に放り込まれたゼロの青い瞳を見ながら、エースは扉を閉めた。
 雑魚寝部屋じゃなくてよかった。
 苦笑交じりのため息をつきながら、階段を下りた。
「悪いな、あいつの支度ができたら、ちゃんと出て行くから。追加料金、いるか?」
 帳場の男は首を横に振った。
「いえいえ、結構ですよ、お客様。それより…お連れ様、本当に大丈夫ですか?失礼ですが、ちょっと見のご様子では、このままうちにお泊りになって休まれた方がいいのでは」
「生憎、俺の連れってわけでもねェんだが…まあ、泊まるかどうかはあいつが決めるだろ。俺はメシを食い終わるまでの仮初めの連れってところだ」
 エースは帳場のカウンターに背中を預けながら、ぼんやりと宿の人間たちを眺めた。 客、従業員、犬、猫、歌う鳥。来るものと去っていくものを常に受け入れ送り出すこの場所には、いつも新しい風が流れている感じがする。当たりの宿だったと思う。宿によっては火拳と呼ばれる自分の素性を意識して隠さなければならないことも多い。ゼロもそうだ。外見の不思議さが思わぬ障害となることも多い。
「あの…お客様」
 気がつくと、従業員が1人、エースの前に立ち、軽く頭を下げて注意をひいた。
「どうした?」
「お連れ様が、ええと…とてもお静かなのですが」
「うん?」
「いえ、あの、最初はお湯の音や動く気配がドアの外からでもわかりました。で、今、お湯は足りたかどうか声をお掛けしに行きましたところ、部屋の中から何も音は聞こえないし、お返事もなくて…」
「…ああ」
 どうなったかは、大体想像がつく。あれだけ外見がボロボロなのだ、体力が残っているわけもない。
 食い気よりそっちが勝ったってやつだろうな。
 エースは困った風の従業員にニヤリと笑いかけ、階段を上がった。
 とはいえ。
 …まあ、この役目を他人に任せるわけにはいかないだろう、やっぱり。
「…ったく」
 俺はお前の兄貴でもオヤジでもねェんだぞ。いや、たとえ兄貴やオヤジだって…
 エースは覚悟を固め、ゆっくりと扉を開けた。
 もしも、ゼロが…いや、大丈夫そうだ。
 身体に一糸纏わない状態だったらという不安はなくなった。大きな盥の横で身体を丸めて転がっているゼロの後姿は、ちゃんとタオルを巻いていたから。しかし。エースは動きを止めた。
 背中のあれは…縫い傷のようだ。中央を真横に一文字に走るその縫い傷は、その傷の原因が事故ではなく、人為的なものであることを告げていた。
「結構、古いな」
 静かに近寄り、指先でそっと傷をなぞる。
「…こんなのを背中にしょってる割に、無防備だな」
 エースの呟きにほんの小さな反応も見せず、ゼロは深く規則正しい寝息をたてている。洗い立ての長い髪は銀色に輝き、肌は純白に戻っている。やはり、ゼロは日焼けをしないのだ。なぜか納得した気分で、エースはゼロの頬に触れ、指先にあたたかさを感じた。
「無茶なヤツばっかりだ」
 呟きながら細い身体を抱き上げたエースの心には、もう一つ、別の姿が浮かんでいたのかもしれない。
 どうして、なぜ、こんな自分を必死になって追いかけてくるのだろう…そういう疑問を持った相手は、考えてみれば2人目だ。
 タオルが解けないように慎重にゼロを寝台に寝かせ、エースは床に胡坐をかいて座り、寝台に寄りかかった。
「夜が明けるまで、だぞ」
 そして多分、ゼロはこのまま夜明けを過ぎて朝を迎え、再び夜を迎える頃まで、眠り続けるだろう。
 結局、いつもと同じ追いかけっこだ。
 エースは微笑し、もう1度ゼロの頬を指で突いた。
「やわらかいな」
 もう何年も前によく抓り上げた『弟』の頬も、こんな風にやわらかかっただろうか。
 まあ、あいつは、ゴムだからな。
 不意に訪れた追憶に目を閉じたエースの口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。


 やっと、追いついた。
 今回も、大丈夫だった。
 ホッとして目を開けたゼロは、自分を包み込む周囲の暗さに、一瞬息を止めた。
 暗い。どうして?
 娘の記憶にまだとてもリアルなのは、少しだけ驚いたように見えるエースの顔が陽光を受けて眩しい、その光景なのに。
 起き上がりながら、ゼロは顔を歪めた。全身がメリメリと音を立てている錯覚。タオル1枚身体に巻いて眠っていたことへの安堵と焦り。一気に加速しようとする恐怖。
 ゼロは懸命に記憶と空気に感じる匂いと動き、音を分析した。
 ここは、宿の部屋らしい。
 だから、ここは、今は、大丈夫だ。
 だけど。
 確認し、ゼロは長く息を吐いた。ここにエースの気配はない。いない。この部屋だけではなく、宿の中には、いや、この街にはもういないのだろう。
 わかっている。そういう約束だから。そういう旅だから。それぞれが進む自分の道。目的は別。それぞれに探す者、求める者を追う道…それが重なる瞬間こそ、ゼロが求めているものなのだから。
 寝台から下りて手探りでゆっくり進むと、足が大きな盥の縁にあたり、水が零れる気配がした。冷め切った湯。まだ熱かったそれを頭から浴びたときの気持ちを思い出す。あれは…そう、感謝だ。今回の道中で身体にこびり付き降り積もった全てをその熱さが消してくれているようなあの感じ。清潔な石鹸の泡に包まれた時、無意識に落としてしまった涙。
 思い出したゼロは反射的に手を顔にあて、濡れていないのを確かめた。
 泣き顔じゃあ、様にならない。
 しかし、考えてみれば、服もない。そこら辺の床に脱ぎ捨てたはずのボロをもう1度着る気にはなれない。そこに積もっているものが、今回はちょっとだけ重過ぎる。
 思案の末、ゼロはまた手探りで寝台に戻り、その上に畳んである薄い毛布を身体に巻いた。扉を細く開け、廊下から漏れ入る明かりを頼りに無様なりに形を整える。それから、こっそり顔だけを出して外の様子を伺おうとした時、部屋の前に立っていた子どもと目を合わせ、驚きのあまり本気で飛び上がった。
「起きた?よかったぁ、すんげェ、待った」
 一息でこれだけ言って笑った子どもの様子から、どうやら相当待たせたらしいことがわかる。一体いつから、どのくらい。尋ねるかどうか迷っているゼロの前に、子どもがその両手に抱えていたものを差し出した。
「これ、あの兄ちゃんの服。お客さんにあげるって」
「…え?」
 渡されたそれは、確かに見覚えのある色と柄のシャツだった。一番はっきりと覚えているのは、あの、再会の日に、確かにエースが着ていたということだ。
「でも…」
「じゃね。オレ、腹へっちゃって」
 パタパタと駆け出した子どもの姿を見送り、再びシャツに目を落とす。
 いいのだろうか。
 ついて行けるところまで、ただ追うだけ…それだけならいいと、許されているとわかっていた。その他を望んだことも頼んだこともない。小銭1枚の借りも貸しもない。それを守ってきたから、自分の旅は許されていると思っている。
 ゼロは綺麗に畳まれたシャツの表面をそっと撫ぜ、自分がそこに残るはずのないエースの体温を想像した気がして、顔を熱くした。
 ありがたい。今は素直にそう思ってしまおう。
 着ると膝上まで包んでくれるこのシャツ1枚でこんなに心強い。
「ありがとう、エース」
 次に追いついたら、必ずちゃんと本人に言わなければ。
 できるだけ早く、追いつかなければ。
 ゼロは両腕を持ち上げながら軽く足踏みをし、眉を顰めた。たくさん眠ったはずなのに、痛みがあまりひいていない。ということは、2日も3日も眠ってしまったわけではなさそうだ。
 さあ、旅の準備をしよう。
 胸を張って行こう。
 ゼロが下りていくと、帳場にいた宿の主人らしい男が笑顔を向けた。
「お目覚めですか。すぐに湯は片付けさせます。今夜はこのままお泊りですか?うちは食べ物はお出しできませんが、隣りの料理屋はなかなか評判がいいですよ。先に行かれたお連れの方にも、気に入っていただきました。あと、あのお客さんからお客様に伝言が…」
「ありがとう、でも、ちょっと外に出ます。伝言は戻ったら。…この街には、診療所とか研究室とかそういう感じの場所はありますか?」
「お怪我でもされましたか?それはいけない」
「あ、いや、そうじゃなくて…旅を続けるにはお金を何とかしないと」
 主人は首を傾げ、それでもカウンターの上に置いてある手描きの地図を広げた。
「この街に医者は1人だけ。ここのこの道を真っ直ぐ行った小高い丘の上に診療所があります。ただ、腕は確かでも、時々あまり良くない噂が…」
「その方がいい」
 ゼロの言葉にますます疑問に満ちた表情になった主人に軽く頭を下げ、ゼロは地図を畳んだ。
「戻ったら伝言を聞いて、すぐに出発します。それまでに幾らお払いしたらいいか、計算しておいてください」
 伝言を後にしたのは必ず戻るという約束の代わり…それに気がついた主人は大きく頷き、歩き出したゼロの身体がグラリと一揺れしたのを見て、手を伸ばした。
「…大丈夫。しばらく食べてないだけで…」
 外に出たゼロの鼻腔を、隣接した料理屋から漂う食欲をそそる香りが直撃した。
 うまいメシ屋、見つけておく…そうエースは声をかけてくれた。
 エースとご飯、一緒に食べたかったな。
 今度はそれも目標にしようと決め、ゼロは自分を奮い立たせるための微笑を浮かべた。


 今夜も、野宿でいいか。
 エースは遅い夕食を終え、支払いをすませた。
 宿をとるかギリギリまで迷ったが、今夜もゼロの姿を見ることはないだろうと勘が告げた。
 あれから2つの街を過ぎた。
 ゼロは、来なかった。
 終わったのかもしれない…そう思った。
 最初から、あいつには厳しい旅だったろうしな。
 最後に見たボロボロな姿を思い出す。あれはどう見ても身ぐるみ剥がされたというか、あの破れた服以外の全てを奪われた感じだった。なのに。
 初めて見た満面の笑顔。肌の白さがまったくわからないほど汚れていたが、思い出として覚えておくならあの顔がいいかもしれない。
 エースは歩きながら、一夜を過ごすのに良さそうな場所を探した。
 元々、野宿と食い逃げが当たり前の追跡行だ。ゼロと再会してからは、そろそろ追いつかれるかもしれないと思うときだけ宿をとった。過ぎてきた2つの街ではそれぞれ最後の夜だけ宿に泊まった。でも、この街ではやめた。
 元のペースに戻るだけだ。
 金も節約できる。
 無駄な足跡を残す必要もなくなる。
 それから。
 エースは、自分がなぜ心の中で指を折って数えているのか不思議だった。
 お前…もう歩いちゃいないのか、ゼロ。
 浮かぶのは、真っ直ぐ前を向いて歩き続ける真剣そのものの後姿。考えてみれば、それ以外にゼロの何を知っているだろう?
「知る必要もねぇし、今となっちゃ、知る機会もねェな」
 呟いたエースは、右肩にかけたザックの重さを確かめるように、軽く上下した。
 広場を横切りながら、公園を囲む木々に目を向ける。久しぶりに木の上で眠るのもいいかもしれない。懐かしい色をした夢を期待して。
 一国一城の主になった気分で、サバイバルな毎日を兄弟たちと駆け抜けた季節。木の上のあの小さな小屋は、どこよりも安全で快適だと信じていたものだ。
 海賊になりてェっていうんなら、まだどうにかしてやれたかもしれねェがな。
 ゼロは何を思ってエースを追いかけていたのか。
 エースは首を振り、考えてもわかるはずのない答えを求めるのをやめた。
 ただ…生きていろ、ゼロ。
 追われているうちに、もしかすると、思ったよりあの存在を懐の中に入れ始めていたのかもしれない。エースは、苦笑した。やはり彼は、彼の存在を必要としてくれる者に、ちょっとだけ弱い。兄弟たちも、彼が作った海賊団の連中も、オヤジの船の仲間たちも…一旦懐に入れてしまった人間のことになると、彼の心には紅蓮の焔が燃える。それは、滅多なことで表に出したりはしないが、決して消えることなくエースの内側を焼いている。もしかしたら…もう少し長くゼロに追われていたら、あの娘のこともそんな風に感じ出していたかもしれない。
 もしかしたら、で終わってしまったが。
 やがてエースは1本の大木に目をつけ、足を向けた。
 その時、おかしな格好をした姿が目に入った。木々の1本1本に何か紙を貼り付けているその姿は、だんだら模様の『衣装』としか見えないものを身に着け、大げさな大きさの先の尖った靴を履き、シャンシャン賑やかになる鈴がいくつもついた帽子をかぶっている。
 見世物小屋か、サーカスか。どうやらその類の客寄せのチラシを貼っているらしい。
 エースは何の気なしに近づき、ひやかし半分、チラシを眺めた。
「…ん?」
 動かしていた視線をピタリと1点で止めたエースの周囲で、吹きすぎる風が小さく渦巻いた。
「んーと、」
 わざとのんびりした口調で呟くエースの首の後ろが、チリチリと微熱を帯びた。すっと伸ばした指先で、チラシの文字をなぞる。そこには『カメレオン人間---奇跡の七色変化』という1行があった。
「…おい、あんた」
 手を止めて振り向いた道化師は、にこやかな笑顔を振りまいた。次の瞬間、その表情はこわばり、顔が厚いメークの下でも青ざめたのが見えた。
「この出し物…女か?」
 コクン、と小さく頷いた道化師は、1歩後ずさりしようとし、背中を木に触れた。
 エースは、ひとつ息を吸った。
 覚えている。
 あの気取った人間ばかりの腐った町で偶然見つけた出し物の一座。見るからに怪しげなテントのひとつにそっと近寄ると、強い薬の匂いがした。
 そこで…
 吸った息を吐き出し、エースは道化師に顔を近づけた。
「女、というより、小娘じゃないか?ガリガリの、痩せっぽちの」
 もしも、そうだったら。
 あいつはあの町で、黒い髪と瞳のまま、それを変えることができなくなったことを怒られ、鞭で打たれていた。
 何の感情も漏らさない顔で、ただおとなしく、震えていた。
 血の気のない真っ白な顔には絶望はなく、かといって希望もなく、細い腕に注射針を刺されていた。
 人としてそこにいることの意味も、価値も、幼いゼロは貰っていなかった。『珍獣』として黙って檻の中にいて、悪戯に恐怖心を煽る派手な口上とともに見世物になること…それがゼロに望まれた全てであり、そこから逃げられないでいた。恐らく、逃げることなど考えたことがなかったのかもしれない。きっと外のことなど、ひとつも知らなかっただろうから。
 エースにどう答えるべきか迷っている道化師の様子が、答えそのものだった。
 エースの背中が強張った。瞳には隠しきれない怒りがあった。
「あいつはやっと逃げ出した時、口の利き方も忘れかけてたんだぞ…人間をやめかけて、それでも自分で理由がわからないまま泣いてたのに…」
 また、あそこに連れ戻されたのか。
 エースの全身を熱波が駆け巡った。
 道化師は声なく、唇だけを動かした。
「どこだ」
 エースは色彩豊かな衣装の喉元を掴んだ。
「連れて行け…ゼロはどこだ」
 身体が熱い。
 エースは唸った。
 とっくに懐の奥深くに転がり込んでたんだ…あいつは。
 自覚とともに怒りを新たにし、エースは唇を噛んだ。
 命があるだけ、じゃあダメなんだ、お前は
 エースは道化師の目の動きから方角を見定め、完全に圧倒されて脱力した身体を引きずりながら歩き出した。
「無茶なんだ…お前は、全部が」
 囁きとともに、一層足を速めた。


 道化師は声のないまま、ヒョコヒョコと前を行く。
 エースは足早にその姿を追いながら、つとめてゆっくり呼吸を繰り返した。
 わかっている。自分でも予想できないほどカッカとしたこの状態のまま何をどうしたとしても、碌なことにはならないだろう。
 道化師は律儀にも時々振り向いては、エースがついてきていることを確認する。ただの道案内のように…罪のない。ひとつひとつの表情を大きく見せるための派手なメイクがかえって今はその表情を隠してしまい、その顔にあるはずの感情を読ませない。恐れか、怒りか、狡知か、それとも。
 エースは前を行く姿の重力を感じさせない足取りをじっと目で追った。すると、エースが止まったことに気がついた道化師も足を止め、早く来いとでもいうように小さく首を振る。
「逃げるんじゃねェのか。おかしな奴だな」
 呟きに答えるようにシャンシャンと鈴が鳴った。ついて来い…確かに男の全身がそう言っている。エースは右の拳を軽く握り固め、再び足を踏み出した。
 落ち着け。
 ただその言葉を自分に言い聞かせながら足を進めていくと、やがて町外れの空き地が目の前に開けた。そこでは大勢の人間たちがたくさんの灯りで闇を切り開きながら作業をしていた。中央には今建ったばかりらしい大きなテントがそびえ、その周りをたくさんの木箱が囲み、何台もの馬車がテントの陰に誘導されていく。
「ウーッ!」
「おい、コラッ…」
 道化師は一声上げると笑顔で走り始めた。
 仲間を呼びに行かれたか。
 エースは足を止め、広場全体を眺め回した。道化師はどうやら馬車の中の1台を目指しているようだ。言葉らしい単語を発せずただ声だけを上げているところを見ると、元々話はできなかったのかもしれない。それにしても、さっき見せたあの笑顔はなんだ。よほどの腕自慢が仲間にいるのか。特殊能力の持ち主とか。
 エースは道化師の後を追い、まっすぐに歩いた。何人もの男たちがエースに視線を向けた。しかし、不思議と声をかけるものもなく、警戒もされない。ただ、エースが背中にしょっているオヤジのしるしを見た何人かが、軽く口笛を吹いたくらいだ。
 余所者には慣れてるんだな、この連中は。
 なぜだろう。エースはふと、船の仲間のことを思い出した。はっきり敵と見定めるまで、いや、敵と決まった後でも相手と対等に向き合って受け止める…船のあの空気に似たものがこの場所にも感じられた。
 エースは力をこめていた拳をほどいた。
 道化師は、小さな馬車を覗いてから首を振りながら飛び出し、今度はテントに走って中に姿を消した。
「ウーッ!ウーッ!」
 近づくと、天幕の外まで道化師の声が響いてきた。
 行くか。
 エースは入り口を通り抜け、そこで思わず足を止めた。
「こら、落ち着け、ビル、落ち着けったら。ちゃんと教えてくれねェと、わかんねェだろ。」
「どうした、何かいいことでもあったのか?」
「おーい、ゼロ!お前はまた恥ずかしがっちまうだろうけど、お前のステージ、この位真ん中寄りに作っていいか?怖かったら、またマスクかぶってもいいからよ!」
「お前、目玉だからな~。みんな、すげェ喜ぶし」
「でも、わたし…」
「だ~いじょぶだって!何にも喋らなくていいし、無理にポーズ決めなくていいし。いやぁ、やりたくなったらドンドン決めてもらっていいけどさ!」
 笑顔と笑い声。テントに溢れるその中の中心に、ゼロがいた。
 1度大きく瞬いてから見直しても、そこにゼロがいた。相変わらず不器用そうな、それでも心からの笑顔を零しているゼロが。
「ウーッ!」
 道化師が、ゼロの袖を引いた。
 ゼロが顔を動かし、そして道化師が動かした指先を辿り、その視線がエースのそれと静かに重なった。
 ゼロが瞳を見開いた瞬間、瞳は澄んだ青になり、髪が銀色に輝いた。その変化は何よりも雄弁で、その場の全員がゼロに目を向け、次にエースの姿をみとめた。
「…エース?」
 囁いたゼロに答えようと口を開いたエースは、声が出ない喉に焦った。
 何もかもが想像と違っていたが、それでもこんなに驚く理由になるか?
 驚きながら安堵し、それだけでいっぱいになってしまうなんて。
 こんなの…ありか?
 エースがようやく彼らしい笑顔になると、ゼロも微笑し、駆け出した。
「エース!どうして?でも…嬉しい」
 駆け寄ったゼロは自然と両手を差し伸べていたが、エースの前まで来ると、慌ててそれを引っ込めた。
 やっぱり、抱きついてきたりはしねェよな。
 エースは口角を上げた。
 相変わらず不器用に感情表現が下手なヤツ。なのに、顔だけは本当に嬉しそうに輝いていて。
「何なんだよ、お前は」
 エースは心のままに、でもできるだけ静かに手を伸ばし、ゼロの頬に指先を触れた。
 色白の頬が赤く染まった。これは体質とは関係ない…わかっているエースは笑って指を離した。


「でもお前、見世物小屋は大嫌いなはずだろ?」
 ゼロが使っている小さな馬車には寝台がひとつだけ備わっていた。今、そこにはゼロが、そしてエースは隣りの床に毛布を敷いて寝転がって いた。
 テントの中の片付けを手伝ったら酒と食事と一夜の宿を提供する…一座の座長が出してきた話をエースはすぐに受け、ついさっきまで食堂テントで宴会騒ぎを楽しんできたのだ。ずっと物静かだったゼロも、自分からイキイキと身体を動かし、うまそうに食事を平らげた…それをちゃんと自分の目で確認し、エースは自分で驚くほど上機嫌だった。それでもゼロと2人で馬車の中に落ち着くと、確かめたいことがいくつも浮かんできて、エースは起き上がってゼロと目の高さを合わせた。
「血を買ってくれたドクターが、前にこの一座の医者をやってて…」
「…ちょっと待て」
 また想像外の言葉を聞いて、エースは眉を顰めた。
「血って…お前のか?」
 ゼロは少しだけ困ったような表情を浮かべ、すぐに微笑した。
「ええと…この体質は、なかなか研究したくなるものみたいで。あと、何か怪しい薬を作るのに使いたい人もいるし…」
「…って、お前…」
 戸惑うと同時に納得できる気もした。自分の後を追うゼロの旅…そのための旅費をずっとどうやって得てきたのか。今までは気にしないように、気にかけないように頭の片隅に押し込んできたこと。考えないように、心配しないように、深く関わらないように…それがゼロ自身を尊重することだという都合のいい理由を並べて。
「何が原因にしても、この身体はいつも人間扱いしてもらえなかった。自分でも人間じゃないと思いかけてた…エースに会うまでは。でも、あそこからエースが逃がしてくれて、こんな風に変わってても大丈夫だと思ってくれる人も、本当にたまにだけどいるってわかって、いつかエースにもう1度会いたいと思って…そしたら、この身体に流れてる血が今度はわたしを助けてくれた」
 ポツリポツリと、ゼロは語った。エースは、時々言葉に迷いながら必死なその姿を、黙って見守った。
「…見世物になるのは…やっぱり怖くて。だから、この一座に会うまで、1度も自分からは近寄らなかった。声をかけられたこともあったけど、すぐ、逃げた。…檻と鞭と注射…今でも怖くてたまらない。でも、ドクターがあわせてくれたここの座長さんは、自分の奥さんが魚人でいろんなことがあったから見世物の一座を作ろうと思った人だった。ちょうど、移動する先の街が南で、わたしが行きたい方角と一緒で、馬車で行けば楽で早いし、手伝えばお金も稼げるって言ってくれた。エースに追いつくまで一緒に行っていいし、無理だと思ったらいつでも抜けていいって。…迷ったけど信じてみることにして、そしたら、本当に一座には色々な人がいて、わたしでも大丈夫で、ステージの隅に場所を貰ったら、ほんの少し、役に立てた」
 話し終え、ゼロは頬を紅潮させたまま、笑った。かすかに息を弾ませたその姿に、エースは目を細めた。
「強くなったんだな、お前」
「もう1度エースに会いたい…ずっと、いつも、そう思ってるから」
 反則的に殺し文句だな、これは。
 エースは、心の中で苦笑した。何の飾りも気負いもなく、当たり前のことのようにゼロは言う。それが余計に心にきて、だから、簡単には返す言葉が見つからない。
 ああ、そうだ。
 エースは枕元に置いたザックを引き寄せ、手を中に突っ込んだ。
「…これ、お前にやる」
 手のひらに載せたそれを無造作に差し出すと、ゼロは目を丸くした。
「それ…」
「ほら、手を出せ」
 エースは、細い手首をそっと掴んで手のひらを仰向けにし、そこに子電伝虫を載せた。
 ゼロは静かに身体を起こしながら、自分の手の上のそれをじっと見つめた。
「俺が持ってるヤツと結構距離がある間は使えねェが、ある程度近づいたら、話せる。そのうち…試してみな」
「エース…」
 ゼロの瞳に浮かんだ涙には気がつかないふりをし、エースはポケットから小さな白い紙切れを出し、子電伝虫の隣に追加した。
「これもついでに持ってろ。役に立つ時もあるかもしれない」
 首を傾げたゼロにそれ以上は説明せず、エースは勢いよく寝転がった。
「朝になったら、俺はもっと南へ行く。お前はどうする?この一座にしばらく落ち着くか?」
 子電伝虫と紙を大切そうに枕元に並べた後、ゼロも身体を横たえ、エースの顔を見た。
「ううん…明日1日だけ手伝ったら、わたしも発つ」
「勿体無い…お前にとって、結構安心できる場所なんじゃねェのか?ここは」
「また出会うこともあるかもしれないし、そしたらとっても嬉しいと思うけど、でも、今は少しでも早く追いかけたいから」
「…そうか」
 我ながら少々間が抜けた返事だと思い、エースは笑った。ゼロのやわらかな視線がくすぐったく、同時にありがたいと感じた。それを今伝えることは、しなかったが。
「こんな風に並んで寝るのも悪くないな。次に会ったら、またやるか?金がなかったら野宿だけどな」
 嬉しそうに頷くゼロの顔を眺めながら、エースはひとつ、あくびをした。
「目をつぶれ、ゼロ。できれば眠るまで見ててやりてェが、俺の限界も近そうだ」
 言われるまま素直に目をつぶったゼロを、素直に可愛いと思った。これまでに隣で眠ったことがある義兄弟や海賊たちはみんな男だったから、寝顔を気に留めたこともなかったし、見たいとも思わなかった。この初めての感情は、慣れなくてくすぐったいどころではなく、けれど、大事なものだと思った。どうやら、また自分をこの世に生かしてくれる理由がひとつ、増えたらしい。
「…エース?」
 目をつぶったまま、ゼロが彼の名を呼んだ。
「…大丈夫だ、眠れ、ゼロ」
 あたたかく、穏やかに、安らかに。
 エースは心の中で囁き、そっと身体を起こした。
 もしも、ゼロが目の前で眠りに落ちたら。
 エースは微笑した。
 柔らかな頬を、またひとつ、指で突いてやろう。
 こんなことを考えていれば、もう少しだけ睡魔に勝てそうな気がした。


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