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冬籠り 1

 雪の中、誘うように、導くようにぽつぽつと連なって一本の線になっているその足跡。
 無視しようにも平らに広がる雪原の中ではそれはどうしようもなく視界の中に侵入してくる。それはそうか、と女は思う。とにかく、進む方向が同じなのだから…電信柱に沿って、今は雪の下になってまったく存在が見えない小道の上を行くばかりだ。
 とは言え、素直に上を踏んでいくのは進むべき方向を指図されている気がして煩わしさを覚えた。しかし、避けて行こうという試みは最初の数歩で諦めるしかなかった。一見均一に見える雪野原の中で、人の足で踏み固められた部分は、実はその限られた狭い部分しかないのだ。少し足を下ろす位置をずらしただけで一度に膝上まで雪に沈む。下手をすると靴を奪われる。
 ため息まじりの白い息を吐いた女は、視線を落としてなるべく先を見ないようにして歩きはじめた。先を見なければいい。ずっと続いているのが見えるから呼ばれているように、急かされているように感じてしまうのだ。女は足の下で雪が鳴る音を聞きながら一定の歩調で歩き続けた。
 次に女が足を止めたのは、吹きはじめた強い風の最初の波を頬に感じたからだった。この場所で吹雪に出会ったら命が危ない。最初は無色の風が起こす地吹雪も同じだ。白い世界の中では人は冗談のように簡単に方向と感覚を見失う。それを知っているから残る距離を確かめようと思ったのだ。
「…何?」
 煙突から立ち上る煙が彼女を迎える準備が万端であることを告げている丸太の家が見えた。
 そして数メートル先に足跡の小道を遮る何かが。
 女はサングラスを持ち上げ、眩しい光の中で目を凝らした。足跡が途切れたところにあるのは、色が着いた、丸まった人の姿であるようだった。
「どうして」
 ざくざくと足を進めた女は、その人影を見下ろし2秒ほど足を止めていたが、またすぐに歩きはじめた。




「佐伯、雪の中に人が倒れていた。子どもが」
 頭からすっぽりと巻きつけていたショールを外し、その下から現れた毛糸編みのコートに身を包んだ長い髪の女。彼女を迎えたのは、落ち着いた色合いのセーターとスラックスに深い色の腰巻エプロンをつけた男だった。男は特に驚いた様子を見せず、ただ小さく眉を顰めた。
「それは心配ですね。ちょっと失礼します。後はお任せください、紫様」
 柔らかな声と物腰で軽く頭を下げた男は、紫がひとつ頷くのを確認してから静かに部屋を出て行った。
 紫は脱いだコートを受け取ってくれる人間がいなくなったので、のんびりとそれをソファの肘掛に置いた。ざっくりと太い毛糸で編んであるそれは、丸めても畳んでも皺にならないところがいい。
 エンジン音に引かれて窓を見ると、走り出したスノーモービルとそれに乗った黒い革のジャケットの背中が見えた。ほんの短い距離なのにきちんと防寒対策をとっている姿は、見送る者に不安を抱かせることがない。佐伯はそういう人間だ。その手に任せればすべてが万事うまくいくと、いつの間にか、誰もが、自然と知ることになる。
 これまでも、そしてきっとこれからも。
 そんな風に誰かに安心するというのは、運の良い子どもが自分の親に対して持つ感情に近いのかもしれない。
 ぼんやりと思いながら、テーブルの上に置かれたお茶のセットがのっているトレーに気がついた。紫が戻ったらすぐに熱い紅茶を出すことができるように。多分、家に近づく姿を見て湯を沸かしはじめていたに違いない。
 キッチンの出入り口に頭を突っ込んだ紫は、薄く微笑んだ。
 コンロの脇に置かれた薬缶の口から一筋の湯気が細くのぼっている。ちゃんと火を止めて出て行ったしっかり者。やはり。
 居間に戻った紫はふと、自分がなぜソファに腰を下ろさずにうろうろと足を動かしているのか、思い当たった。戻った彼女を出迎えた佐伯が言わなかった言葉があったのだ。
『おかえりなさい』
 ずっと聞いてきて当たり前になっていたあの響きを。
 ただそれだけのことに、身体が無意識のうちに反応していたのか。
 おかしくなった紫はソファに身体を預け、透明な香りがする煙草を唇に咥えた。
 子どもの頃に大人の目を避けてそっと指で煙草を摘んでみた…そんな記憶が蘇って小さく微笑んだ。




 予想通り、吹雪になった。
 少年の身体を脇に抱えて扉を開けた佐伯は、部分的にテラコッタのタイルを張ってある玄関スペースで頭に着いた雪を払い落とした。居間との境界も兼ねて置いてある両面に棚を備えたオープンタイプのハーフラック越しに視線を走らせると、彼の主が無表情に煙草を指で弄びながら彼の方を眺めていた。
「煙草ですか、紫様。吸われますか?灰皿をお出ししましょう」
「いや、いいんだ。散歩の途中、突然自販が雪山から顔を出していて、何となく買ってみただけだから」
 多分、彼女が買わないまま雪に埋もれてしまったら、またしばらく客はこないだろうから。主の思考を頭の中で辿った佐伯の眼鏡の奥の瞳が、ほんの僅かに和んだ。もっともそれは、レンズの表面に付着した溶けた雪の水滴で、誰にもまったく見えなかったのだが。
「気が向かれた時のためにマッチも一緒に出しておきましょう」
「…それはいいが、その子ども、大丈夫なのか?病院へは行かなかったんだな」
「わたしで何とかできそうでしたので。申し訳ありませんが…」
 言いかけたときにすでにソファから立ち上がりのんびりと椅子に移動しはじめた紫に、佐伯は小さく頭を下げた。
「ちょっと寝かせておいて風呂に湯を張って参ります」
 少年はウィンドブレーカー上下にスニーカータイプの冬靴を履いたままソファに寝かされた。
 佐伯が静かに離れて行った後、紫は立ち上がって子どもの顔に視線を落とした。
 鼻の頭と頬が赤い。帽子をかぶっていなかったためか耳も真っ赤だ。髪の毛は濡れて額に張りついている。手袋をはめた手は…
 その時、少年は目を開けた。その開け方と開けた直後の表情から、恐らく少し前から少年は意識が覚めていたらしいことを紫は知った。小さな身体が震えはじめた。
 2人は黙って見つめ合った。
「うちに用があったのか?」
 一瞬大きくなった子どもの瞳が、答えを告げた。そしてその『用事』について、何かその子どもには隠しておきたいものがあるらしいことも。
「…いい。後は佐伯に任せる」
 紫は子どもに背を向け椅子に腰を下ろすと、手に持っていた煙草をテーブルの上にのせた。
 沈黙の中、窓の外の風の音とストーブの中で薪が爆ぜる音、子どもの荒い息づかいが実際よりも近い距離に聞こえた。子どもの視線を背中に感じながら座っているのは、気分が落ち着かなかった。
「手足を見てみようか。凍傷の心配がなかったらすぐに身体を温めたほうがいい」
 佐伯が戻ってきた途端、時間がやわらかく動きはじめた。
「…帰る。小父さん、俺、帰る!」
 焦りはじめた子どもに微笑みかけながら、佐伯は濡れて重くなっている手袋と靴を脱がせた。
「ああ、よかった、ほんの少し霜焼けになってるだけだ。おうちに電話しておくといいよ。吹雪が止んだら送って行くから」
 見なくても子どもの表情がだんだんと落ち着いていく様子が、紫にはわかった。
 そうだろう。傷を負って恐怖で我を忘れている動物さえも、やがて佐伯の手を舌で舐め、身体をあずけるようになるのだから。
 素直に後ろを着いて行く子どもを浴室に連れて行くと、佐伯はマグカップとココアの瓶、湯気がたつ薬缶を持って戻ってきた。
「…前、見えてるのか?」
 まだ水滴がついたままの眼鏡に向かって呟いた紫に、佐伯は真面目な顔で頷いた。
「それにどうせまた湯気で曇りますから」
 ティーポットに湯が落ち、爽やかな香りが広がった。
 眼鏡を外してハンカチで拭ってから、佐伯はマグカップにココアと砂糖を入れて微量の湯を注ぎ、小さな木べらで丁寧に練りはじめた。その手つきは見慣れたものであると同時に随分久しぶりに見た光景だった。そう言えば一時のココア・ブームで店からココアが姿を消した時…あれからずっとココアを頼んでいなかった。ココアが切れたことを告げる佐伯の声がいつも通り穏やかに事実を告げながら、どこか悲しそうだったのを覚えている。だから、あれから紫はココアのことは口にしなかった。
「健康食品ブームはすぐに対象物が入れ替わるんだな」
 佐伯は顔を上げて微笑んだ。
「多めにミルクを沸かしたんです。紅茶の方はわたしがいただきます」
 そう言って立ち上がった佐伯の後姿を、紫は黙って見送った。
 今練っていたのは最初から紫の分だったのか。そうだ。湯に入ったばかりの子どもの分を、今から作っておくはずはなかった。あと5分後?10分後?ちょうど良い時にもう1杯のココアが出来上がるはずだ。
 紫は窓の外に目を向けた。
 何もかもが白い渦に隠されていた。


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