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裸 木

 教えられた道を辿って着いたその屋敷は、門を通ってからそこに至るまでの道の長さが人の想像を超えていた。広い敷地の奥まった場所。そこにある石造りの建物はどっしりと重々しく、まるで大地にうずくまっているように見えた。
 風が吹くと地面から枯葉が浮いた。
 ルッチは傍らを歩く少女の銀色の髪に絡みついた赤朽ち葉に視線を落とした。
 屋敷を囲む木々の中には裸木が多かった。通り過ぎる風の空気を切る冷たさにも影響されない表皮を晒しながら、その内側に生命を眠らせている忍耐の化身。それともこれは忍耐と待望の姿というよりも実際の死に近い姿なのだろうか。春まではまだ先が長い時間を、死の一歩手前ギリギリの状態で眠っているのか。どちらにしても今はもうその状態に慣れ目覚めの時こそが驚きなのかもしれなかった。
 リリアは小さく白い息を吐いていた。細い全身が目の前の建物に威圧されてた。病み上がりのこの痩せた少女はこれまで山の中の丸太小屋しか知らないで生きてきた。街で初めて店やホテル、酒場、自警団詰所などを見た時も驚いたが、この建物が発する空気にはそれとは比べ物にならないほど圧力があった。
「クルッポー」
 ルッチの肩の上からハットリが少女に声を掛けた。それはまるで『気にするな』とでも言いたげに聞こえ、リリアは視線を上げた。すると真っ直ぐにリリアを見つめるハットリの丸い瞳と、無表情に建物の全景を測るようなルッチの視線の動きが見えた。
 上から下まで黒ずくめのルッチの姿に合わせるように今日のハットリは白い体の上に黒いコートを羽織っていた。その中の首に巻いたネクタイは赤。いつもはルッチが自分の身支度よりも先にハットリの世話を終えてしまうのだが、今日はなぜかそれをリリアに任せて黙って眺めていた。リリアはハットリに触れることができるのが嬉しくてならず、恐らく今日中に来るはずの別れのことを考えないでいる助けになった。
 観察を終えたルッチは手を伸ばして呼び鈴の鎖を引いた。その鉄の感触は手袋をはめた手にも冷たく凍りついた。
 リリアは耳を澄ました。けれどほんの小さな音も外に漏れ出すことはなく、果たして誰かの耳に何かの音が届いたのかどうかもわからなかった。
 やがて、ルッチが半歩後ろに身体をひいた。それと同時に重厚な鉄の扉が音もなくゆっくりと開いた。中から姿を見せたのは白髪混じりの髪を丁寧すぎるほどにぴったりと撫で付けた、物静かで姿勢のいい1人の男だった。
「どちら様でいらっしゃいますか。主とお約束されているわけではないと存じますが」
 絵に描いたような執事だ。ルッチは思い、それからさらに心の中で言葉を続けた。この典型的に見える執事はほんのわずかだけその外見に似合わない種類の目の表情を持っている。監視、洞察、追及、排除。どれもが少しずつ感じられる。この屋敷にはそれだけ守らなければいけないものがあるということか。
 執事の方も彼の前に立っている奇妙な2人連れを観察していた。
 黒い髪、黒い瞳、黒い服装の正体不明な男は、彼から見ればまだ青年と言っていい年頃のようだった。その『年齢』があてはまるのは、あくまで外見だけだろう。それは感情の存在を消した表情からわかる。執事は心の中で何種類かこの男に当てはまりそうな職業・身分を引っ張り出した。しかしすぐにどれも否定した。男は実年齢よりも遥かに冷徹さと玄人ぶりを身につけているように見えた。肩にとまっている鳩らしい鳥と男の連れらしい華奢で貧しそうな少女の方に激しく違和感があった。くすんで輝きを失っている銀色の髪のこの少女はどういうわけでこの男と一緒にいるのだろう。恐らくその身体に着ているボロの下はすぐに裸身に違いない。ブーツの上の膝もむき出しでいかにも冷え切った肌の色を見せている。
 男が身体のすぐ横にこの少女が立つことを許しているのは、もしかしたら少女が耐えている寒さを緩和するためなのだろうか。そういう気遣いをしそうには見えない男だったが。
「約束はしていない。町長と自警団の団長にここに行くように言われただけだ。下働きに使える娘を必要としてるかもしれないと聞いて来た」
 執事の耳は男の声を聞いて納得していた。そうだ、こういう男はこういう声でこういう話し方をするのが似合っている。似合わないのはその年齢だけだ。すぐにでも死刑執行人になれそうな男だ。
「下働き…この子をでございますか?この館では今はまだ特に人手が欲しいとは思っていないのですが…」
「こいつには身寄りといえる人間はいないから住み込みで働くことが出来る。俺は通りすがりの人間だ。この街まで連れてくるのが別の人間との約束だった」
 つまりこの男の役目は終わっていてさっさとこの少女と別れて自分の道を行きたいということだろう。執事は少女の顔を見た。黙って立っている少女は黙って2人の話を聞いていた。その顔に一瞬通り過ぎたのは悲しみに近い何かだったかもしれない。
「これは私の一存では決められないことでありますな。で、今、主は数日の予定でここを離れております。他に決められる人間はここには…」
 ルッチは執事のためらいがちな口調に、ただ待った。どうやら職業意識に気持ちを引き裂かれているらしい様子に唇を歪めた。街からはるばる歩いてきた人間をむげに追い返すのも、正体不明な人間を屋敷の中に入れるのも、どちらも出来れば避けたい行動なのだろうと推測した。
「奥様に…」
 言いながらすばやく動いた執事の視線をルッチは無表情に受け流した。観察したいだけするがいい。得られるのは妙な組合せの得体の知れない人間だちだという確信だけだろう。
 執事はルッチの冷めた表情を眺め、ドアを大きく開いた。
「ともかく中へお入りください。お茶を一杯召し上がる間に奥様に用件だけでも伝えていかれるとよいでしょう」
 丁寧になった執事の声音を面白がるようにルッチの瞳が一瞬動いた。塞いでいた戸口の前から身体を動かして扉を押さえる執事の前を数歩進んだルッチは、リリアが動き出さない気配に振り向いた。少女の紫色の瞳はじっと扉の中を見つめていた。ルッチにはその気持ちを推し量ることはできなかったし考える気もなかった。ここ数日中には忘却する相手だ。興味を持つことに意味はない。得もない。病を癒し細い身体を温めて眠った数夜の方が予定外の行動で彼にとっては不運だったといえるのだ。
リリア
 少女の名を呼ぶルッチの声にはあたたかさも冷たさもなかった。
 そういえばまともに名前を呼んだのは今が初めてかもしれないと気がついた。見ると少女は驚いたような顔をして瞳を見開いた。それから何かにひかれるような足取りで彼の方に進んできた。




 大きな暖炉のある1室に2人を通して執事は姿を消した。
 リリアは部屋の中を何度も見回さずにはいられなかった。
 赤々と燃え上がる炎は勢いがありながらいかにも従順に暖炉の中におさまり、滑らかな石の床に敷かれた厚みのある絨毯が足音を吸い込む。優美なアーチを描いた縦長の窓のガラスは曇り一つなく外をすぐそこにあるもののように見せ、ずっしりと襞になったカーテンがその自然の絵を縁取る額になっている。艶のある黒檀を土台にした家具たちは、ある物は時の流れを織り込んだような布を張られてソファとなり、他にも表面を磨き上げられてテーブル、棚、壁を飾る絵画の額など様々な形をとっていた。この建物の外観と同様に空気を圧する室内。その安定感も重々しさもリリアには初めてのものだった。
 外にあれだけ生えている木を使うのではなくてわざわざここよりも温暖な地域に育つ黒檀を使う。そのことの意味がルッチにはわからなかった。いや、無意味なのだ。好みといってしまえばそれまでなのだが。

 2人は暖炉の前で身体を温めながら視線を合わせた。
  リリアの瞳は訴える光とともにハットリを見つめ、ルッチが僅かに顎を振ると嬉しさに頬を染めながら手を伸ばして指先にハットリを呼んだ。
 本当にハットリが不思議なほどなついている。ルッチは少女の血色が戻った透けるような肌と形の良い唇を見下ろした。
「主人が留守をしておりまして大変失礼しました」
 執事が扉を開くと同時に聞こえてきたのは物静かな女の声だった。
   リリアは反射的にハットリを腕の中に抱いて女を見た。
 ルッチは今立っている姿勢は変えずに視線だけを女に向けた。
 少し蒼ざめたようにも見える肌を赤褐色の長い髪が縁取り肩から下はゆるやかに編まれて落ちる。緑色の瞳はルッチを見た瞬間に見開かれそこから動こうとしない。女が身に着けている衣類はいずれも落ち着いた深い色合いのもので上等な質を伺わせるが、なぜか僧衣のような印象も与える。
「レネーゼ・クレドール様。この屋敷の奥様でいらっしゃいます」
 主の妻が名乗ることも忘れて立ちつくす横で執事が代わりに一礼した。
 レネーゼはその声に我に返った様子だったがその視線は次に少女とその腕の中の鳩に捕らわれた。そして、再び無言のままルッチに目を戻した。
 ルッチは彼に向けられた年上の女の視線を半分無視するように執事の顔を見た。執事の眉間にかすかに寄った疑問の縦皺の方が面白みがあった。
 リリアはレネーゼを美しいと思った。何不足なく満たされているこのくらいの年齢の大人の女を見たのは初めてだった。顔かたちも声も動作も…これが上流の世界では当たり前の上品さなのだと思い、気後れのようなものを感じていた。何もかもがひどく違った。
 ルッチの無表情は彼がこの女を見て何を思ったのかをまったく示さなかった。ただそこに見た何かを確認するようなすばやい一瞥の後、ほとんどわからない程度に口角を上げた。リリアには勿論忠実な執事にも見えなかったもの。そんな何かを見て取ったのかもしれなかった。
「…主人は早ければ明日戻ります。お話は私もお伺いしますがこの家のすべてのことは主人が管理しております。よろしかったらとりあえず今夜はここにお泊りください。アルバートにお部屋を用意させます」
 囁くように一気に言い終えた女の口調にリリアは不思議そうな顔をした。
 ルッチは執事の驚いた顔を見て予想通りだったことに心の中で頷いた。この女は今、ひとりでルッチとリリアを客人とすることを決めたのだが、それは恐らくこれまでにはなかったこと、これまでの慣習を破ったことなのだろう。
「お話を伺う前に失礼とは思いますがお湯を使われてはいかがですか。一休みされた方がよいように思います」
 レネーゼが2人に向かってというよりも執事に向かって言いながら懇願するような視線を向けると、執事はようやくきびきびとした動作を取り戻した。
「お部屋にご案内いたします。すぐに湯の準備もさせますので」
 リリアは躊躇いながらルッチの顔を見た。
 ルッチはしばらく考えながら女と執事の顔を眺めていたが、やがて小さく頷いた。その瞳は最後に確認するように女の顔を見たが、その視線を受けた女は目を伏せた。その姿から何か答えを得たのか、ルッチは執事の後について部屋を出た。リリアはすぐそのルッチの後を追った。よくわからないまま、それでも何かがこの先に待っているような気がしていた。




 ここにいていいのだろうか。ここを使っていいのだろうか。
 湯気が満ちた浴室の中、香り溢れる白い泡に満ちた浴槽の前でリリアは呆然と眺めていた。この泡は豊富な湯を隠してしまっているが、その湯だけでも少女にとっては信じられないほど贅沢な使い方だった。
 着替えだと渡された衣類に視線を落とす。滑らかな布地の感触と光沢のある白さが眩しかった。これは到底彼女が触れていいはずはない上質のものだと畏怖を感じた。山の中のあの賊たちの頭でさえこんな風にただ肌を柔らかく包むためだけにあるようなものは身に着けていたことがない。
 リリアは心をよぎった山の記憶に小さく身震いした。少女が旅立った時には白い雪が何もかもを覆って視界からも心からもすべてを遮断していた。けれどその下には生きていた者たちの遺骸が眠っている。春になったら訪れるはずの自然による侵食をただ待っている。
 不意に寒さを意識したリリアは着替えを壁際の棚にのせ、身体を何とか衣類らしく包んでいた襤褸を脱いだ。汚れた手足とバリバリした髪、痩せっぽちの身体。目に入る身体の各部を意識しながらつま先からそっと湯に入った。焼け付くように感じられた湯に全身鳥肌がたった。それでも肩まで沈めた時には甘い香りの中で 開放感を覚えていた。その開放感のすぐ裏側には戸惑いと不安があった。リリアは膝を抱えて周りの音を探った。
 ルッチは部屋の中を見回しながらゆったりと腕を組んでいた。クレドールという名前は記憶の中に知識としてあった。
 ジャック・クレドール。元海軍将校が海を遠く離れたこの場所で自分の土地の中の一番奥に館を建てて暮らしているということか。
 ルッチはさらに記憶の中を探ったが特別な功績も醜聞も見つからなかったのでそこで思考を打ち切った。恐らくこの館の主人はCP9という組織の存在を噂でしか知らない。顔を合わせるに不都合はない。
 ルッチはシルクハットをベッドの上に置いて苦笑した。こういう場所に短時間でも留まることによる不都合な点がこの帽子だった。彼は本当は脱ぎたくなかった。任務中は身体の一部と化しているものだからかもしれない。
 その時、人の気配を感じたルッチは扉に目を向けた。突然の客が何不自由なく過ごしているかを執事が確かめに来たのかもしれなかったが。それとも。ルッチは音なく歩いて行って扉を開けた。驚いてすぐに数歩下がった女の視線をただ受け止めた。
「お花を…部屋に花をお持ちしようと…」
 語尾が細かく震えたレネーゼの声にルッチは特に何も答えなかった。
 館の女主人がわざわざ、この時間に、一輪挿しに入れたとってつけたような切花を。この女はなぜ彼に興味を持ったのだろう。主人不在時にはしっかりと執事に守られ、そうでないときには恐らくそれ以上に主人に守られ堅固な館の中で『愛』という名がついたものを注がれている…そんな存在なのだろうと推測できるのだが。そしてそういう人間にはあまり似合うとは思えない、女になりきれていない幼さがこの館の女主人から見てとれる。
 どういうことかは知らないが、興味はない。面倒事もご免だ。ルッチが視線を離すとレネーゼは小さく唇を噛んだ。その時、部屋の奥から大きな水音が聞こえ、ハットリの羽ばたきと鳴き声が続いた。
「くる、くる、くるっぽー」
 緊急事態を告げる声だ。少女に何があったというのか。
 ルッチはハットリが宙で待つ浴室の前まで進み、扉を開け放った。ハットリがすぐに浴室内に滑り込んだ。
 湯気の立ち昇る浴槽の中、頭の天辺までずぶ濡れのリリアの姿があった。少女は激しく咽ながら両手で目をこすっている。
 湯の中で眠って頭まで沈み、湯と泡を吸い込んで慌てて覚醒した。わかりやすい状況にルッチはあきれながらタオルを手に取った。
「こするだけ無駄だ。どうせ髪から雫が入る」
 ルッチがタオルでリリアの頭を包み込むと白い身体は驚いて硬直した。その隙にルッチは手加減せずにしっかりと長い髪の水分をふき取った。そのうちふと白いタオルの中でしっとり輝く髪の銀色と細い首筋の白さに気がついた。高価な入浴剤は効果も抜群のようだ。これはもうほとんど別人だ。タオルの隙間からまだ驚いているように大きく見開かれた瞳がのぞいた。2粒のアメジスト。ルッチは宝石のようなそれを改めて評価した。ついさっきまで棒切れで作られた粗雑な人形そのものだったところに見た思いがけない将来の可能性。それは多分少女の境遇においては幸運とは呼べないかもしれないが。
 リリアの瞳は無言でルッチを見つめていた。そこには恐れはなく、ただ驚きだけがあった。
 ルッチはほんの数秒、手を止めてその瞳を見返した。
「あの…すぐに別の湯をお持ちするようにいいつけてまいります」
 背後から響いた声にルッチはレネーゼがいたことを思い出した。振り返ると女の緑色の瞳は吸い寄せられるようにタオル越しに少女に触れるルッチの手を見つめていた。
「いや。もう落ち着いた」
 ルッチが言葉を返した時にはすでにレネーゼは背を向けて歩きはじめていた。その背には赤褐色の髪が大きく揺れていた。




「ごめんなさい」
 呟きとともに浴室から姿を現したリリアの姿にルッチの口から短い笑いが漏れた。
 幾重にも折りたたんだ白いブラウスの袖とほとんど床に引きずられたスカートの裾。頭の上にハットリをのせた少女の姿はそのまま畑の中で案山子に使えそうに見えた。もっとも案山子としては背丈が小さく、服からようやく脱出しているような手足と顔は新たな感じの素材の美しさがこぼれていたのだが。伸び放題の髪を整えてきちんと身体にあった服を着せれば誰もこの少女が山賊と暮らしていたとは思わないだろう。閉ざされた世界にいたためにまだ世の中のことを何も知らず、それでも物事を吸収する能力はかなり高い。ルッチはここ数日の道中でそれを見抜いていた。もう風呂で溺れることもないだろう。
 ルッチは歩きにくそうに邪魔な裾を踏みながらよろめいている少女が転びそうになったのを首根っこを捕まえるようにして持ち上げて椅子の上に下ろした。これでは何もかも歩き出した赤ん坊と同じだ。そしてその赤ん坊は恥じ入りながらまたあの宝石に似た瞳で彼を見上げている。何か彼がその名前を知りたいとも思わない感情のようなものをひそかに宿して。
「バカヤロウ」
 少女は微笑した。それはまだ本人も慣れないぎこちないものだったが、いつもハットリに向ける無邪気さをほんの少しだけ含んでいた。




「それでこのリリアという少女をここまでお連れになったのですか。あなたはとても親切な方ですのね、ロブ・ルッチ様」
 道で行き倒れていた少女をただ拾ったのだルッチ説明し、レネーゼは賛意を示すように大きく頷いた。その少女がそれまでの生活についての記憶の多くを失っているという話にも疑問を感じた様子はなかった。馬鹿がつくほど素直な人間だ。自分で思考するということを忘れているとしか思えない。ルッチはお目付け役の方に視線を向けた。手際よく3人の前にカップを並べた執事は礼儀正しく、彼自身の感想はひとつも表情に出していない。
 ルッチは頬を染めた女の顔から視線を外した。
「では主人が戻ってからこの子のことは改めて話すといたしまして…今夜はあなたはこのお部屋に、この子は空いている使用人部屋に寝かせましょう。主人が出かける時はいつも…あの…使用人たちに休暇を与えるものですから、部屋はいくつでも空いておりますわ」
 広い屋敷の中が静まり返っているのはそういうことだったのか。ルッチは納得した。それにしても自分が不在の時は執事以外の使用人を外にだすというのは…それは館の主のどんな感情を意味しているのだろう。
リリアは唇を引き結んだ。不安が喉元を昇ってくる。
「まだこいつを雇ってもらえると決まったわけでもない。とりあえず今夜は俺と一緒の部屋でいい。鳥の世話を任せているんでな」
 ルッチの言葉をどう受け取ったかはわからなかったが、執事は顔色一つ変えず、レネーゼはめだたないため息をついたように見えた。
 ルッチは視界の隅に紅潮した少女の顔を確認した。安心したように身体のこわばりをといてハットリの頭を撫ぜてやっている様子から、自分が『予防線』としての役割を与えられたことにまったく気がついていないことがわかった。それは言わば案山子のようなものだったのだが。
 ルッチは唇に小さく笑みを浮かべてレネーゼの顔を正面からまっすぐに見た。
 予想通り、館の女主人は慌てて俯いた。
 ハットリの頭から顔を上げたリリアの瞳は、ただ2人の間のその瞬間を映した。




 いかにも睡魔に襲われている証拠のあくびを漏らしながらベッドのなかでもぞもぞと寝返りをうつ少女の姿を無意識に視界に入れながら、ルッチはグラスを置いた。いちいち少女の顔を覗きに飛んでいくハットリの律儀さが不思議だった。ハットリとこの少女はいつの間にか互いが互いの保護者であろうとしているように見える。自然と浮かぶ苦笑は、気づかないうちに興味を覚えている彼自身に対するものでもあった。
リリアはとうとう起き上がった。あまりに柔らかく全身を受け止めるベッドの上では、目を閉じると何かどこまでも落ちていくような感覚が生まれて恐怖に近いものを感じてしまう。
 山の生活ではないも同然のつぶれきった布団に寝ていた。自由になったあの日から2晩は木の床に敷いた毛布の上でルッチの腕の中で眠った。この街へ着くまでの道中はルッチのコートの中で野宿した。リリアはルッチが本当は人と肌が触れ合うほどの距離にいることを嫌悪していることを本能的に感じていたから、なぜ彼がここ数日の夜にその体温を分け与えてくれたのかわからなかった。リリア自身も最初にルッチがそばに来た時には恐怖しか感じなかった。それでも客観的に見れば不自由この上ない寝場所で過ごしたはずの数夜、少女は夢を見ることもないほど深く眠った。それなのに今、疲れきっている身体を休めることができない。贅沢な湯で身体をほぐし、生まれて初めて口にした味わい深い料理に胃袋を満たされ、堅固な建物の中で外敵から守られ、他に望めるものは多分何1つないというのに。
 リリアはルッチの視線を避けるように目を伏せて床に下りた。そしてひんやりと足の裏に冷たくあたるその場所にうずくまって身体を丸めて横たわった。
「…何をしている」
 思わず椅子から腰を浮かせたルッチはすぐにまた座ったが、その目は少女の姿を注視していた。
「柔らかいと何だか落ちていきそうで…」
 目を開けたリリアはルッチにきまり悪そうな視線を向けて呟いた。
 ルッチはしばらく黙っていた。
「好きにしろ」
 ルッチの冷ややかな言葉になぜか安心したように少女は目を閉じた。やがてすぐに規則正しい寝息が聞こえはじめた。
「…動物でもあるまいが」
 ルッチは必死にベッドを覆っている一番上の寝具を引っ張りながら羽ばたいているハットリの様子に唇を歪めた。
「羽が抜けるぞ」
 立ち上がったルッチがゆっくりと近づくと、ハットリは咥えていた寝具の端をルッチの手に渡した。ルッチはそれを無造作に軽く引いて寝具をリリアの身体の上に落とした。乱れた髪の隙間から見えた白いうなじにふと顔に触れた時の少女の肌の感触を思い出した。彼の顎の鬚に触れた時、眠りながら少女はくすぐったそうに首を動かした。その様子は獣の仔にちょっと似ていたかもしれない。
 まだ当たり前の人間であることに慣れていない柔弱な生。
 このままこの閉鎖的な建物と住人たちにのみ込まれるのだろうか。
 気配を感じたルッチは扉を見た。ノックの音も足音もない。けれどその向こうには確かに人の気配があった。殺した息づかいを感じながらルッチはゆっくりと 帽子を脱いだ。
 ある種類の人間は彼に身体を開かれることを望み、またある種類の人間は彼を抱きたいという欲求を感じる。ルッチはそのことを知っていた。そうあるように計画され錬磨の時期を通り過ぎてきた身体だ。当然のことだ。自分の身体を任務の一部に使うことに抵抗を感じたことはない。精神的、肉体的にそれらを超逸しているという自負していたからプライドを傷つけられることもなかった。
 けれどあの女は。
 ルッチはレネーゼの姿かたちと表情を思い起こした。『奥様』でありながらほっそりした身体に青臭い硬さを感じさせる女が彼に不自然な執着を見せるのはなぜなのか。もし彼の周囲に漏れているきな臭さや危険の匂いに惹かれているのだとしたら余計に面倒なだけだ。
 ルッチがベッドに腰掛けて無言で待っているとやがて気配は離れて行った。ルッチは足元で眠るリリアを見下ろした。この少女を起こして目撃されてもいいと思うほどには女は自暴自棄になっているわけではない。思った通りだった。
 リリアの唇が動き、何かはっきりしない言葉を呟いた。
 ルッチは服を脱いで身体を横たえた。寝具の中にはまだわずかに温もりが残っていた。
 灯りを消したハットリがルッチの顔の上を旋回した。そしてその意味に気がついたルッチが頷くとふわりと少女の身体の上に着地した。
 静寂の中で久しぶりに身体を伸ばし、ルッチは彼が戻るべき場所のことを考えた。任務自体が予定よりも早く終了したのでこれまでのところそれほど遅れはない。それでも随分と彼にとって違和感で一杯の時間を過ごしてきたように思った。こんなことは組織に属して以来初めてだ。
 明日、もしも館の主が戻らなくてもここを出た方がいい。任務の障害になった山賊たちを葬った時の満足感が薄れはじめている。指先から伝って流れた血の匂いとあたたかさよりも幼い体温とどことなく甘い肌の匂いの方が強く身体に残っている気がした。それは彼にしては少々滑稽な図といえないか。
 ルッチはベッドの端に頭をずらして床を見下ろした。暗がりの中、小さな寝息と細い身体から放たれている熱の存在を感じた。これに人間としての形を与えてみるのも面白かったかもしれない。素材としては上等な部類だ。ルッチは自分の気まぐれを思った。同僚たちの中にもそれを面白いと思う者がいそうな気もした。それとも明日には別れるということが彼の感情に影響を与えているなどということがあり得るだろうか。明日には気に入った玩具を返さなければならないことを知っている子どものように。それはあくまで想像上の気持ちでしかなかったが。
 ルッチの口から低い笑い声が響いた。彼は自分の爪が必要な時がきたら何の躊躇いもなく少女の喉を引き裂くだろうということを知っていた。そしてそうしながら同時にこの小さな生を終わらせることを惜しむだろうとも思った。いつの間にか少女の存在は細いけれどしっかりとした楔になって彼の心を繋ぎとめていた。
 だからといって何が変わるものでもない。
 ルッチは顔を仰向けて目を閉じた。
 その唇に含んだような笑みが浮かんだ。




 朝になったことを空気に感じたリリアはすばやく起き上がった。途端に舞い上がった白い鳩の姿に驚いてすばやく辿った記憶の中で、ようやくもうこの場所が山の中ではないことを思い出した。滑らかで冷たい石の床の上で軽いのにあたたかな寝具に包まれて。水汲みも怒鳴り声もない。そして数夜無言で少女の身体を包み込んでいた大きくてあたたかな存在もなかった。
 リリアは静かに立ち上がった。
 カーテンの隙間から差し込む朝の光が寝台に横たわっている姿の頭部に明るさを投げかけている。閉じられた瞳、黒い髪、僅かに呼吸の気配がある鼻と唇。少女はその寝顔に見とれた。いつ頃からか幼い心はルッチに強く惹きつけられていた。雪と鮮血が舞うあの日の記憶はあまりに鮮やかな印象を残し、その死と引き換えに生を与えられたことを今もどこか信じられない。最初にその腕の中に抱き寄せられた時には体中が凍りつくような錯覚に襲われたが、やがてぬくもりがそれに勝って安心感と心臓の高鳴りを同時に与えられた。
 綺麗だ、とリリアは寝顔を見ながら思った。
 ただ、そう思った。
 他人の視線を感じながら目を開けることには純粋な不快感があった。ルッチが眉を顰めながら見上げると少女は頬を染めて俯いた。雰囲気を読むのが早い…少女のことを評価しながらルッチは苛立ちが消えていることに気がついた。見事なまでに紅潮したリリアの顔を面白がりたい気分が勝っていた。
「床の寝心地はよかったか?」
 起き上がったルッチの剥き出しの上半身からリリアは慌てて目をそらした。その様子はとても荒くれ男たちの中で生きてきたようには見えない。ルッチは発見した無垢に唇を歪めた。
「くるっぽー」
 目の前に舞い降りたハットリに向いたルッチの視線は柔らかかった。
 手を伸ばせば届く範囲に存在するほんのちっぽけな命。そのあり方が少女も似ていた。




 朝食の席には現れなかった女主人が姿を見せたのはルッチがリリアを連れて食堂を出た時だった。
「ちょうどよかった。あなたに見せてあげたいものがあって…」
 レネーゼが見ているのはリリアの顔だった。手を差し出している相手もリリアだ。少女は軽く息を弾ませている女を不思議に思いながら見上げた。子どもらしい直感でレネーゼがルッチの言動に強く意識を向けていることを知っていた。なのになぜ、こんな笑顔を自分に見せるのだろう。
 黙っているリリアに向かってレネーゼがさらに伸ばした白い腕をルッチは無表情に眺め、リリア自身は一歩身体をひいた。その腕の肌の白さと華奢な手指、ほのかに漂った上品な香り。すべてが眩しかった。自分がそれに近づいていいのだろうか。まして、触れることなど。少女の顔には迷いが見えた。
「きっと気に入ると思うのよ」
 この女の目にはリリアの感情などひとつも映ってはいないだろう。ルッチはレネーゼの手が幼い手をとらえることに成功した場面を皮肉な気分で眺めていた。
 赤みを帯びた長い髪を躍らせながらレネーゼが2人を連れて行ったのは書斎だった。リリアは壁を埋め尽くしている本の存在に圧倒されたように戸口で立ち止まった。そんな少女に対する苛立ちを隠しきれず、レネーゼは少女の手を強くひいた。
「さあ…これよ」
 それは恐らく館の主人が読書や執務にあたるときに座るどっしりとした机の上に置かれていた。小さな明かりとりの窓しかない書斎の机の上には灯がともったランプがのっていた。そのランプの温かみのある光の中に淡い白さで輝く長方形の箱型の何かがあった。その周囲から浮かび上がるような輝きは箱の表面を覆っている艶やかで複雑な模様の重なりが発しているものだったが、ルッチはそれが複数の貝殻らしく見えることに気がついた。同じ色合いの貝を揃えて傷が入っていないものだけを選んで材料に使ってある贅沢品。元海軍将校が持つにはふさわしい品物だといえるかもしれなかったが他にこれの類のものを見たことはなかっ た。
「音が出るのよ…ちょっと弾いてごらんなさい」
 レネーゼは少女の瞳が目の前の美しさに吸い寄せられているのを見て微笑した。そして静かに箱に手を掛けて蓋を開くような動作をすると、箱の上面が半分から折れてその下から鍵盤らしい規則正しい配列が現れた。その鍵盤たちは箱の外側よりもさらに明るく輝き少女を魅了した。
「こうしてね、息を吹き込みながら指で押すの。いい?」
 レネーゼは箱の側面に立っている細いパイプに口を寄せて呼気を吹き込むと同時にいくつかの鍵盤を指で押した。空気の中で弾けるような音色が心地よい旋 になって室内を満たした。
 目を丸くしてその奇跡を見つめるリリアの手をレネーゼはそっと鍵盤の上に導いた。
「これはね、空から来た楽器だと言われているの。本当はこの吹き込み口には巻貝のようなものがついていて息を吹かなくても演奏ができたんですって。それはちょっと信じられないけれど、とても綺麗なものでしょう?」
 一瞬指先を触れてすぐに離した後、リリアは再び鍵盤に触れた。躊躇いがちなその動きとは対照的にうっとりとした表情が少女の感情を表していた。
 レネーゼは古びた革表紙の本を楽器の隣りに置いた。
「これは一緒に見つかった楽譜なの。美しい曲がたくさん書かれているわ。私たちは席を外すから、好きなだけ弾いていいのよ」
 女は少女の方に顔を寄せたままルッチを見ようとしなかった。ルッチは女の肌が彼を意識してぬくもるのを感じ、それを無視するかどうか考えた。
 まんまと女にのせられたリリアは、彼に初めて見せる表情を浮かべながら嬉しそうに楽器を見つめている。それは彼にはそのままにしておきたいのか、それともすぐにひねりつぶしてしまいたいのかを迷わせるような子どもの顔だった。
 音もなく背を向けて書斎から出たルッチの後をレネーゼが静かに追った。気配を感じたリリアは一瞬顔を上げたがすぐにまた楽器を眺めた。
「子どもに玩具を与えておいて何をするつもりだ?」
 レネーゼが書斎の扉を閉めるとルッチは振り向いて女を見た。視線を返した女の顔には必死な色があり、ルッチはそれを気に入らなかった。
「あなたには温室をお見せしますわ。この季節でも何種類か見事な花が咲いているんです」
 先にたって歩きはじめたレネーゼはルッチが後をついて来ないことにすぐに気がついて足を止めた。
「お願いです。私、あなたとお話がしたいのです」
「話ならここでもできるだろう」
 レネーゼのすがる様な瞳を見返したルッチは、廊下の少し離れた場所にひっそりと立つ執事の姿に気がついた。監視にしてはおおっぴらで丁重な視線はただ黙って2人を見守っている。
 この感情を読ませない男を少し驚かしてやるのもいいだろう。
 ルッチの中に悪戯心がおこった。
「温室はどこだ」
 女の顔に光がともる様子をルッチは皮肉な顔で眺めた。
 2人が歩きはじめたとき、途切れ途切れのぎこちない音階が響きはじめた。




 温室の中の空気は確かに外の季節とはちがう温度と湿度と匂いを持っていた。ルッチは温室の入り口から3歩入ったところで足を止め、中の様子を眺めた。形良く刈り込まれた株たちはさらに暖かな季節を待ち、棘のある薔薇たちは艶やかな葉を見せ、その中には複数の色の花が見えた。外とは切り離された場所で保護されながら懸命に形のよさを見せている花の甘い香り。乾いた冷たい風に舞う枯葉とは対照的な存在はルッチの中に何の感動も呼び起こさない。自然の摂理に逆らわずに潔く命を終えた葉の方が彼には許せた。人が己の都合に合わせて捻じ曲げた生命に野生の美はない。本能もない。
 ルッチは立ち止まった女に視線を向けた。この薔薇のように保護されて閉じられた世界にいる女は果たして彼の前にその本能を晒そうとしているのだろうか。何か思いつめた顔で振り向いたこの女は。
「…教えて欲しいのです、男女の営みを。私がそれを受けるのにふさわしい女であるかどうかを…」
 女の声はかすれて宙に吸い込まれた。
 まだ朝早い、透明なガラス張りのこの場所で。ルッチの口元に皮肉な笑みが浮かんだ。いかにも育ちの良いこの女をこんな風に乱すなら、この館の主である元海軍将校はどこか偏った人間なのかもしれない。それともこの女がおかしいのか。ルッチは真正面から自分を見つめる緑色の瞳を見返した。
「頼む相手を間違えていると思うが。『奥様』にはふさわしい相手が決まっているはずだ。なぜそれを破る必要がある?どちらかの好みが正常ではないのか?」
 頬を染めた女の顔に必死の色が浮かんだ。
 ルッチは黙ってレネーゼが近づくのを許し、白い手が彼の上着に伸びる様子を眺めた。
「好みなんて、そんな…。私には知りようがないのです。あの人は私にそれは優しく唇を触れてくれるけれど…それが与えてくれるすべてなのですから。でも私はあの人に自分に足りないものを聞くことができない。きっとあの人を傷つけるか怒らせるかしてしまうから…!」
 男が女を抱かない理由。
 ルッチの頭にいくつかの状況が浮かんだが、女の外見や雰囲気を考えてそのうちの数個を消去した。この女は美しい部類に入るしその身体は健康そうで己の自然の欲望を伝えることができるはずだ。その気がある男を誘惑することは容易いだろう。まして神に許された夫が相手であれば遠慮する必要がどこにあるというのか。
「お願い…!私のどこがおかしいのか教えて。あなたならわかるはず。あなたのような危険な感じがする男の人なら」
 近寄った女の白い手がルッチの胸を這い上がった。必死に張り詰めた女の神経には自分の手が触れている男の感情を探る余裕はないようだ。ルッチの肌から静かに放たれている殺気と皮肉を表す微笑を浮かべた唇の形を無視したまま、レネーゼはただどこか飢えたように彼に触れ続けている。
 煩わしい。勝手な思い込みも甚だしい。
 ルッチはすばやく左手で女の両手を戒めた。
「死にたいか」
 短い呟きを聞いて瞳を見開いた女の唇を乱暴に塞いだ。掴んだ女の両手首で細い身体を半分宙吊りにしながら、その反応を無視してただ冷静に侵した。
 唇を離した時、女の身体は小刻みに震えていた。美しく施された化粧を崩しながら落ちる涙には温度を感じなかった。
「…こんな…」
 この女は今の彼の行為と夫の口づけを比較したはずだ。そしてルッチの唇の容赦なさに自分の間違いを知ったかもしれない。
 ルッチは女の手を離すと短い一瞥を投げ、背を向けた。
「だって…あなたはあの子には…」
 『あの子には』何だというのだ。女の囁きが通り過ぎた。
   偶然少女を保護している人間という姿の中に彼の本質を見つけたつもりでいたのなら、そしてそこに己もたやすく侵入できると考えたのなら。
「それこそが間違いだ」
 ルッチは背中越しに言葉を吐いた。
 レネーゼは視線を落とした。今の彼女にはルッチの姿を目で追う気力もなかった。どこで何を間違えたのか。混乱した気持ちでしゃがみこんだ女は両手で頭を抱え、泣いた。




 書斎に近づいても音が聞こえて来ないことにルッチは眉を顰め、そんな自分に対して唇をゆがめた。
 扉を開けると中から流れてきた空気の中に熱を感じたような気がした。温度のあたたかさではない、気持ちの高ぶりのようなもの。見れば少女は大きな椅子の上で身体を丸めながら一心に手に持った本に集中しているようだった。小さな眉間に皺を寄せ、時々ページの向きを変えながら呟きをもらす姿からは湯気が立っているようにも感じられる。
 すぐ傍らまで近づいたルッチの気配にようやくリリアは顔を上げた。その瞬間に少女の顔を通り過ぎた表情からルッチは彼がこの光景を誤解していたことを知った。確かに少女はその革表紙に守られた紙束に誰かが熱心に記したものを夢中で見ていたのではあった。けれどその文字と記号が意味するものを、少女は読み取ることができないのだ。
「…読めないのか」
 紫色の瞳に涙が溢れた。知りたいと願って見つめ続けた少女の前で記された文字は魔法の呪文のように思えただろう。どうにかすれば願いがかなうかもしれないと。少女はどれほどの間これに祈りをささげていたのだろう。
 リリアは首をふるふると小さく動かした。それは少女自身も驚いた自分の突然の涙に対する防御でもあった。
 懸命に微笑もうとするリリアの顔を見下ろしながらルッチはため息をついた。
 親指、人差し指、中指、そしてまた親指、中指。
 ルッチの指は本の中の最初の説明に従って順番に5つの鍵盤を押した。
 目を丸くして息を止めた少女の前で短い音たちが美しい流れを作った。
 ルッチが楽器から手を離すとまだ幼い手がそっと伸びた。白い指がルッチが残した軌跡を正確に辿った。少女の唇から深い息が漏れた。少女はもう1度、それからまたもう1度、繰り返しその5つの音を奏でた。
 音の世界に没頭し始めたリリアの紅潮した頬を見下ろしているルッチの肩に、ハットリが舞い下りた。音に合わせて静かに首を振っている気配にルッチは苦笑した。そして、黙って顔を上げた。書斎の入り口に立った男は床に影を落とし、その堂々とした体格と姿勢は元海軍将校にふさわしかった。黒い髪、褐色の瞳、日焼けの残る肌の色。
「何をしている…」
 男の口から漏れた声は怒りを多量に含んでいた。その視線はルッチを通り過ぎてリリアに向けられた。まだ彼の存在に気がついていない少女はまたひとつ、鍵盤を押した。
「触るな、と言っている!それはお前のような者が触れていい物ではない。それ以上それを汚すな」
 憤怒にとりつかれた男にようやく気がついたリリアは、反射的に指を離し椅子から立ち上がった。大股で近づいた男は少女の身体を手で振り払い、美しく滑らかな楽器の蓋を閉めて腕の中に抱え込んだ。
 リリアの大きく見開かれた瞳はまだ男の腕の中の楽器を見つめていた。ついさっきまで少女を囲んでいた奇跡の音色との突然の別れに耐え切れないように。
 少女の顔には驚きの表情があった。
 突然与えられ、それと同じく奪われてしまった宝物。
 これから時間が経つとともに喪失感が追いついていくのだろう。
 ルッチは少女の顔から男に視線を移した。
 黙っていれば冷静沈着な海軍将校に見える男の噴出した感情の痕跡。ルッチの皮肉な視線の前で男は急速に常態を取り戻した。
「アルバートの話ではこの娘を雇って欲しいそうだが」
 リリアは男の正体を知って身体をかたくした。それから静かにルッチの顔を見上げる様子を男はじっと見つめた。
「無理にとは言わない。必要ないなら次をあたるだけだ…あなたがジャック・クレドールという名でありここの主なら、の話だが」
「名乗らずに失礼した。確かに私はジャック・クレドールでここの主だ。この少女については…」
 ジャックは改めて少女の全身を時間をかけて眺めた。そして最後に少女の瞳に視線を据えた。
 リリアは思わず小さく1歩下がった。
 身体を半分ルッチの後ろに隠した少女を見つめる男の唇に笑みが浮かんだ。
「心配には及ばない。この子はこちらでひきとろう。早速部屋を与えて仕事の内容を執事に考えさせよう」
 ジャックの合図にこたえて現れた執事はリリアの前に進んで手で上を示した。
「さあ、お前の部屋はこっちだ。今日はまだ誰も戻っていないが明日になったら使用人はみんな帰ってくる。それまでにお前の仕事も決めておこう」
 リリアの体が小さく震えた。予想していたはずではあったが、突然な別れだった。
「ルッチ…」
 少女の口からこぼれた声にルッチは答えなかった。
 ハットリがリリアの肩に下りて翼で少女の頬を撫ぜた。
「人助けとは実に親切で立派なことでしたな。ここからの道中、気をつけられるがいい。…何か他に私に話はおありかな?」
 ルッチの凝視。それを受け止めていた男が最後に視線を揺るがせて小さく逸らした時、ルッチの口角が僅かに上向いた。
「時間を無駄にするつもりはない。あなたの時間もな」
 そのまま身を翻して歩み去るルッチの姿をリリアはただ目で追った。次第にかすんでいくその後姿が自分の涙によるものだと気がついたとき、少女の唇は震えた。
「くるっぽ…」
 黒い姿を追って飛んだハットリは、数度空中で少女の方を振り返った。
 微笑もうと努力した少女の顔は感情が入り混じってひどく歪んでいた。




 鍵盤を押す長い指。
 ゆっくりと次に移るその動き。
 頭の上に感じた静かな息づかい。
 心に刻まれた5つの音。
 歩きながらリリアは繰り返しその光景と音を頭の中で再生していた。
   リリアが文字を読むことができないと知った時にルッチの顔に浮かんだ表情も、再生されるシーンに時々割り込んできた。あの時少女はただ悲しかった。読むことが叶わないという事実を何とかひっくり返したくてたまらなかった。少女の胸の中に渦巻くその狂おしいほどの感情の波はルッチの顔を見た瞬間に動きを止めた。続いて与えられた5つの音は、少女の心を静め例えようもない幸福で埋めた。
  リリアがその幸福な記憶を辿り続けていたのは別れによって生じた隙間を埋めるためのものであったかもしれない。そそしてそれは少女の身に備わっているはずの防衛本能を鈍らせていたのかもしれない。館の屋根裏に少女を導いていた執事が木の扉の前で立ち止まった時に初めて、リリアは自分の後ろにさらに足音が続いていたことに気がついた。
 重々しい靴音。
 ジャック・クレドール。
「こちらです。部屋は整えておきました。どうぞ…お心のままに」
 扉を開けると同時に一礼して下がる執事の姿は、動きはじめた少女の本能に警告を発した。執事が話しかけている相手は少女ではあり得ない。でも、なぜこの大きな建物の主人である人間が新しい下働きに過ぎない少女と一緒にこんな場所まで来る必要があるのだろう。これから何をしようというのだろう。
 リリアは目を伏せたまま場を去っていく執事の姿にまた警告を感じた。何かが怖かった。なぜか逃げ出したい気がしていた。でもどこへ。山から逃げてきた少女には行くあてなどあるはずもない。
「さあ、中に入るんだ。少し話をしよう」
 伸びてきた男の手が肩に触れる前にリリアは部屋の中へ入った。天井が低いことを除けばそこは少女の目にはとても良い部屋であるように見えた。階下の部屋で見た豪奢さはなかったが寝台、机、椅子、何段も引き出しを備えた物入れ…少女にとって必要以上のものが揃っているように見える。
「見たところ、家内の衣類を身に着けているようだが。自分の服を持っていないのか?」
 リリアは恥ずかしさに頬を染め、ただ頷いた。
 ジャックは上から下まで少女の全身を眺め、改めてその小さな色白の顔を見た。色づいた頬と深い紫色の瞳の組み合わせは効果的な眺めだった。恥らう様子に男の胸の奥の希望が高まった。
「確かめておきたいことがあるのだ。いや、心配する必要はない。お前の答えによって仕事を与えるのをやめる、ということはないからな。ここに仕事はいくらでも見つかるだろう。ただ…もしかしたらお前はとても大切な仕事をできるかもしれないのだ」
 ジャックが向かい合う2人の間の距離を1歩つめた。
 リリアは全身を緊張させて言葉の続きを待った。
「お前はもう…男を知っているのか?」
 リリアは質問の意味を掴みかねて僅かに首を傾げた。その様子にひとつ頷くとジャックはさらに言葉を重ねた。
「お前の身体に触れた男はいるのか、という意味だ。男に抱かれたことはあるか?」
 瞬間、ルッチの腕の感触とぬくもりがリリアの身体の表面を風のように流れた。しかし、この男が言っているのはそういう意味ではないのだろう。もっと…リリアにはまだよくわからない意味なのだ。山で感じた恐怖と赤い血に彩られた意味。
 リリアは反射的に激しく首を横に振った。それを見たジャックは満足げに深く頷いた。
「そうだろう、そんな気がしていた。あの男はそういうタイプの人間には見えなかったしな」
 ルッチ。
 リリアは胸の中で呟いた。
 目の前の男の瞳の中に見た色は冷たい恐怖の記憶を呼び覚ます。
「お前にはできる…私のすべてを浄化してくれ。お前は神がくれた大きなチャンスだ」
 迫ってくる大きな体から逃れるために後ずさりしたリリアは背中が壁についてしまったのを感じた。男の言葉の意味はわからなかったが何をしようとしているのかはわかった。あの冷たい雪の中での続き。肩と腕をつかんだ大きな手の圧力はあの日に感じたものとそっくり同じだった。
「…い、やだ…!」
 抱きこまれた腕の中は暗くて暴力の気配に満ちていた。性急に少女の身体をまさぐり全身を押し付けてくる男のすべてが怖くて、嫌悪に身を震わせた。
「1度でいいんだ。こうなる前に戻してくれたらもう2度と抱いたりしない」
 重ねられた唇の湿度に鳥肌を立てながらリリアは男の身体を強く押し返した。少しも動じない大きな体格を拳で殴った。唇に噛み付いた。その痛みに僅かにひるんだ男の腕にも噛み付いた。もしも季節がもっと暖かく男が腕をむき出しにしていたらその肉を食いちぎっていたかもしれない。男は自分の腕を包む上着の袖に残された跡を見て目を細めた。少女が必死で自分を守っている理由に全く思い至らない様子は、常軌を逸していた。
「ただ1度をなぜ拒む。終わればすべて楽になるものを」
 山賊と館の主人。声も話し方もまるで違うが、やろうとしていることはまるで同じだ。
 男の手に口を塞がれた少女の瞳に涙が光った。
「楽になるのはお前だけだろう。それに、その子どもを抱いてお前が本当に解放されるとも思えんな。はた迷惑な思い込みはやめておけ」
 その時2人の耳に入ってきた低い声は場違いなほど静かで、感情を見せない響きを持っていた。しかしジャックにとってそれはどこか冷たく背筋を震わせるような効果を持っていた。
 声を聞いたリリアはその瞬間に全身に溢れた力を振り絞って男の腕を跳ねのけてかいくぐり、戸口に立つ姿の方へ走った。残された男はどこか呆然とした表情で視線を動かした。
「なぜ…あんたが…」
 ルッチは皮肉な笑みを浮かべてジャックを見た。飛びついてきた細い身体に視線を落とし、ただそのままにしておいた。すぐにハットリが少女の肩に下りて慰めはじめた。ジャックの目にはその光景が完璧な1枚の絵に見えた。
「間違えたというのか…?その少女はやっぱりあんたのものだと?」
「何をどう誤解しようが構わんが」
 ルッチはすっと手を伸ばした。1本の指がまっすぐにジャックの額に向いた。ジャックはまるで銃口で眉間を狙われているような錯覚を覚え、全身に汗が噴出すのを感じた。
「何を…あんたは何を…」
「元海軍将校としてあまり無様な姿を晒すな。みっともない」
 ルッチはジャックの腕を抱え上げた。その動きをリリアもジャックも目で追うことはできなかった。それほどにすばやい動きだった。
「何だ、私をどうすると…どこへ…」

 逃れようともがく男に動じる様子はひとつも見せずルッチはそのまま男を連れて歩きはじめた。リリアはその後について行った。




 温室の中には泣き崩れたまま地に伏しているレネーゼの姿があった。
 ルッチはジャックの身体を中に突き飛ばすとそのままただ、扉を閉めた。
「ルッチ…?」
「ああいうのを似合いの相手、というのかもしれんな」
 ルッチは驚いた顔の少女を見下ろした。
「わかる必要もない。俺も忘れる」
 本当にすぐ忘れてしまうのだろうか。リリアはルッチの横顔を見上げた。あの2人のことも、この館のことも、そして… リリアのことも。
「主がご迷惑をおかけいたしました。お茶の用意が整っております。どうか、こちらへお越しください」
 背後に現れて深々と頭を下げた執事の姿にルッチは唇の端を上向けた。
「海の上でもあの男に仕えていたのか?」
「ずっとお守りしてきました。あなた様には大変感謝をしております。これで多分すべて…」
「興味はない」
「それでもぜひお茶を召し上がっていってください。失礼ですが、そちらのお嬢様にサイズが合うはずの衣類も用意させていただきましたので」
「『下働き』をお嬢様扱いか?」
「そうはならない予感がしております、今も」
 そう言って先にたった執事の後姿をルッチはしばらく眺めていた。
「アルバート・クレイ、という男がいたらしい。自分の主を守るために片足を失った男だ。…そうは見えないように訓練を積んだらしいな」
 リリアは言葉が出なかった。
 ルッチの顔に笑みが横切った。
「行くか。これから服は必要だろう」
 ルッチの興味をひいたのは最初からあの執事だったのだろうか。リリアは大人たちの間の見えない糸のようなものに困惑していた。
「忘れろ。考える価値はない」
 そのルッチの声はどこか穏やかだった。




「レネーゼ様のことを主はずっと…婚約する何年も前からずっと心に想っていたのです。年に1度か2度ここに戻ることが出来ればいいというくらいのお仕事につきながら。奥様はこの土地の隣りの地所に住んでいらしたご一族の出でして。清楚で美しく、その姿を心に決めていた主は職業柄様々な土地を訪れることも多かったのですがどの場所でも他の女性たちには目もくれず、その生き方を貫いておりました」
 無表情に椅子に座って時折カップを口もとに運ぶルッチとカーテンの裏側の即席の場所で着替えているリリアに向かって執事は淡々と語り続けた。
「ですが、婚約が整いそれを機に退職して土地に根づいた生き方をはじめた主には、ひそかな悩みといいますか、願望が芽生えた…といいますか。男ならばもしかしたら誰もが思うことなのかも知れません。つまり、主は結婚してその夜からはじまるレネーゼ様との夜の…営みを無事に行うことができるかどうか確信がなかったのです。それまでの人生でそういう機会を作ろうとせず誘惑もすべて退けられてきたゆえのことなのですが。そして…さらに言えば、主はレネーゼ様に喜んでいただきたかったのです。他の誰よりも満たされて欲しかった。本当にあの方がすべてなのですから、その願いも当然のことと言えましょう」
 そっとルッチの顔を見た執事はその顔に同意も何の変化も見ることができず、小さく息を吐いた。
「だから主は決心したのです…鍛錬あるのみ、と。軍人らしい考え方と言えましょう。それから遠い街にあるそういった関係の場所を訪れては…何といいますか腕を磨く…そんな日々がはじまりました。それだけならよかったのです。いえ、レネーゼ様から見ればそうは言えなかったのかもしれませんが、それだけならば結婚されると同時に主にはもうレネーゼ様おひとりがすべてになるのですから、きっと大丈夫だったのです。けれどそうはいきませんでした。結婚が近づくにつれて主の心を襲ったのは深い後悔だったからなのです」
 盛大に歪んだルッチの唇を無視するように執事は懸命に言葉を続けた。
「身も心も清純なレネーゼ様に対してご自分は…と主は悩みました。予定通りに結婚の式は行われましたが本当の意味で結ばれることは…主にはできませんでした。ご自分がひどく汚れてしまったように感じておられたのです。そのままレネーゼ様をご自分のものになさることはできない、と…それから主の苦しみはずっと続きました。そのうち…」
 躊躇う執事の前、ルッチの手が音をたててカップを置いた。
「男を知らない処女を抱けば汚れた自分の身体を浄化することができる…そんな戯言を信じるほどに追いつめられたというわけか。浅いな」
「はい。しかしこの館には対象になる人間はおりませんでした。そうして時間だけが過ぎていきましたが…でも、あなたとお嬢様がおみえになって…」
「…あんたは運にまかせてみることにした、と」
「はい…」
 ルッチは立ち上がった。慌てた執事が足を踏み出した時、カーテンの後ろからリリアが現れた。純白のブラウスに黒いスラックス、フードがついた短いマント。あつらえたように身体にあっているその衣類はどうみても旅をする人間にぴったりに見えた。色合いはルッチの服装と重なっている。
「あの…これ…」
 言葉に迷っているリリアの紅潮した顔に、執事は身分を忘れて笑顔を向けた。
「ぴったりですね。昨夜はかなり急いで仕事をしたので実は少し心配だったのです」
「あの…ありがとうございます。でもこれ…昨夜…?」
「実は別のタイプのものも1組作っておいたのですが」
 下働き用と旅人用と。そつのなさは職業柄だろうか。ルッチは自分に向いたリリアの視線に気がついていたが、目をむけることはしなかった。
「世話になった」
 言って背を向けたルッチに執事が呼びかけた。
「あの、じきに…主も姿を見せると思いますので。できれば…」
「湯気をたててるお前の主人と顔をあわせても向こうが困るだけだ。許してやれ」
 頭を下げた執事の顔には笑顔があった。
 数歩歩いたルッチの姿をリリアはただ見つめていた。心に浮かんだ懇願を言葉にする勇気が出なかった。そしてその時、ハットリが自分の肩にのっていることに気がついた。
「ハットリ?」
 ハットリはリリアの頬に頭をこすりつけた。その姿はとても満足そうに見えた。
「何をしてる。行くぞ」
 短い声にリリアの表情が輝いた。
 振り向いたルッチの顔には不機嫌な表情が浮かんでいた。
「気になっていたんだが」
 滑らかな動きで戻ったルッチの指が静かにリリアの長い髪をとらえた。
「少し重いな、お前には」
 ルッチの指が少女の首に触れた時、執事が微笑して近づいた。
「用意してあります。お使いください」
 執事からルッチの手に渡された銀色のものをリリアは凝視した。鋏だ。
「職業柄、か。無駄なことを」
「このままでは勿体無いと最初から思っておりましたので」
 意味がわからないまま立っているリリアの前にルッチの身体がかがみこみ、軽い音とともに髪に無造作に鋏が入れられた。そのままルッチが少女の身体を抱えるようにして1周し、鋏が次々と床に光る固まりを切り落としていく。最後に顔の前にかぶさる髪が落ちるとそこから大きな宝石めいた瞳が現れた。
 短く眺めた後に頷いてルッチは鋏を返した。リリアはそっと首を振ってみた。驚くほど軽かった。
 少女が首を振ると抜けるように白いうなじが光る髪の隙間から見え隠れした。驚きに見開かれた美しい瞳を遮るものは何もなく、視線の光をいっぱいに受けてそれを倍に反射した。
「まさにちょうど良い長さ、お見事です」
 作品を褒め称えるような執事の言葉に苦笑したルッチは、すぐにまた背を向け歩きはじめた。
「くるっぽ~」
 ハットリに声を掛けられて今度はリリアはすぐにルッチの後を追った。
 後姿。これまでいつも見失ってしまわないように必死でついてきた黒い姿。これからもそれは変わらないのかもしれないが、でも、何かがほんの少しだけ違う気がした。
 外に出た2人を冷たい風が取り巻いた。
 舞い上がった枯葉が1枚、少女の髪に落ちた。けれどそれは絡みつく暇なくそのまま地面に落ち、再び乗ることができる風を待った。


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