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長い昼

 この島に、夜はない。
 不夜島と呼ばれるエニエス・ロビーにそびえたつ司法の塔の一角。その、部屋というにはいささか狭い空間にはもう何十時間か変わらぬ明るさが満ちていた。部屋の半分以上を占めている簡素な寝台の上で少女はひとり静かに熱意に顔を輝かせていた。
 そして。
 まだ誰も、そのことに気がついてはいなかった。




 無表情な顔にどこか不機嫌そうな気配を漂わせた男は肩に真っ白な鳩をとまらせ、腕の中にはいっぱいの書類を抱えて歩いていた。そこへ鼻が特徴的な男が廊下の反対側から歩いてきた。そして、顔をあわせたその男のいろいろを読み取って、顔に穏やかさと無邪気さをあわせもつ笑みを浮かべた。
「なんじゃ、ルッチ。随分たくさんの書類じゃのう。3日もかかるとは珍しい。戻るのが遅れた分の方がもしかしたら多いんじゃないのかのう?」
 正確にはロブ・ルッチの帰還は任務に発つときに予定されていた日、その当日ではあったのだ。予定通りの完璧な任務遂行。それはいつもなら彼らの上司が大げさにルッチを誉め称え、それに対して彼は冷ややかな一瞥と静寂を返す、というお決まりの一場面で締めくくられるはずだった。けれど、実際の彼の帰還は驚きと困惑とみなぎる好奇心に出迎えられた。彼が連れ戻った1人の少女。輝く白銀の髪と紫水晶の瞳を持ったその少女について彼は寡黙なままだったので少女の過去・現在・未来についての彼の所見を求める書類と申請関係の書類が山積みされたのである。
「ところでなぁ、ルッチ、リリアはどこにいるんじゃ?あれから顔を見かけんが」
「知らんな。俺は部屋でずっとこれと向き合っていたが」
 腕の中の紙の束を顎で示すルッチにカクは首を傾げた。
「変じゃのう。てっきりお前と一緒だと思っとったが」
 とはいえ、実際はまだカクには幼い少女と一緒にいるルッチの図というのを想像するのは難しかった。真っ直ぐな視線の奥に子どもとは思えない感じに感情を秘め隠した少女ではあったが。
 首を傾げたまま離れていくカクをルッチは見えないほどの笑みを浮かべて見送った。カクの傾いた首の角度は、ルッチの拾い物に無意識のうちに関心を奪われていることを示している。予想通りだった。




「あら、ルッチ」
 長時間の煩わしい問答を終えてルッチが上司の部屋を出た途端、やわらかくてほのかな香りとともにすらりとした女が彼を見上げて目の前に立った。知性が光る表情と細い腰とはアンバランスな豊かな胸。流れ落ちる長い髪。彼が属する組織の紅一点であるカリファは誰かを探すように彼の背後を覗いた。
リリアはどうしたの?続きを教えたいと思ったんだけど」
 何の続きを。ルッチはその問いを口にしなかった。
 ルッチが少女を連れ帰ったその日、彼は上司の部屋に行く前に一時少女をカリファに預けたのだ。その後上司に会わせるために少女を連れに戻った時、少女は旅の汚れをすっかり落とし食事を与えられ、手には数冊の本を持って微笑んでいた。少女を送り出したカリファの顔にはそれよりももっと深い微笑があった。そのどちらも彼が初めて目にした気がした。
 やはり、こいつも。簡単に当たりすぎる予想は面白いというより滑稽だ。
「俺は知らない。書類にかかりきりだったからな」
「そう。…とてもあなたらしい、のかしら」
 答えずに歩きながらルッチは背中にカリファの視線を強く感じた。




「…リリアだったら、俺は知らないぞ」
 現れた大男の視線の意味を先回りして答えたルッチに、ブルーノはさらにもの問いたげな表情を浮かべた。
「食堂には現れた気配はない。勿論、部屋に食事を持っていった形跡もない。あの子どもに食事ができる場所と方法を教えてやったのか?ルッチ」
 ここからは随分遠い施設での日々。訓練を終え消耗しきったカクとカリファの食事を揃えてやっていたブルーノの姿がルッチの記憶に蘇った。食べ物を与え飲み物で潤し…この男は言葉よりも行動に奥深いものを秘めている人間だ。まだ幼さの残る少女の存在はこの男の記憶も呼び覚ましたのだろうか。与え癒すことを知っているブルーノ。時々ルッチは自分が彼とは正反対の性質であることを意識することがあった。そしてそれに満足していた。同じものを持っているのならどちらかが不要ということだ。それぞれに身に帯びた色は異なっているにこしたことはない。属するのが闇の一色であるとしても。
「そう言えば、忘れていたな」
 笑みを浮かべたルッチをブルーノは小さな驚きを隠して見つめた。
「機嫌がいいようだな」
「冗談か?」
 首を横に振りながら離れていくブルーノは恐らく少し先で立ち止まってこっちを振り返るだろう。予感にルッチは笑みを深めた。




 残る同僚たちのあからさまにむき出しな好奇心を氷のような沈黙で次々に撃退して。珍しく少々疲労感を覚えたルッチは自室に入ると帽子を脱ぎ捨てた。グラ を持って並んでいる酒に視線を走らせたがどれにも気が向かなかった。
「ポッポ~」
 一声鳴いたハットリが宙に舞い上がった。椅子に沈み込んだルッチの前でハットリは浴室に通じる扉に向かってまっすぐに飛んだ。そして羽ばたきながら彼の注意を引こうとした。
「…そういうことか?」
 ルッチの声には苦笑と彼自身は認めたくない驚きが混ざっていた。彼の自室には奥に浴室がついているのだが、そのさらに奥にはそれまで使っていなかった小部屋があった。壁に小さな窓がひとつだけついた物入れにでも使えそうな部屋だったのだが、彼はそこに余っていた海軍兵士用の簡素な寝台を運ばせたのだ。それは彼が気まぐれで連れてきた子どもに与える部屋は多分他には許されないだろうとわかっていたからでもあったが、他を探すのが面倒だったというのが大半の理由だった。あの少女は近くに置いても不思議と煩わしい存在ではない。戻ってくる道中でそれだけはわかっていたからではあったが。
 浴室の奥に進んだ時、確かにルッチは扉の向こうに人の気配を感じた。カクたちにわかるはずはなかった。ルッチはまだ誰にもここを リリアの部屋にしたことを言っていなかったのだから。そして誰も彼が子どもをそばに置くだろうとは思わなかっただろう。
 無言で開けた扉の奥。窓から差し込んでいる光の中に銀色の頭と細い体が浮かび上がった。寝台の上で振り向いたリリアは見たことがないほど嬉しそうな笑顔になった。
リリア
 確認するように呟きながらルッチは状況をすべて見て取っていた。
 寝台の上に座り込んだ少女の周りは数冊の本に囲まれていた。手にも1冊の本を広げていて振り向く前の頭の角度がそれに熱中していたことを教えている。散らばっている本の中の1冊は読み方の教本であるとすぐにわかるものだった。つまり、少女はずっとここで。
「読めるようになったのか?」
 大きく頷いた少女の瞳は喜びと興奮で輝き、唇は今にも知ったばかりの言葉を音にして送り出したそうに端が震えていた。けれど少女はただ本を抱いたままじっとルッチの顔を見上げていた。騒がしさを嫌うルッチの性質を感じ取って我慢しているのだろう。そう…だから、やはりこの子どもはこれほどの近い距離にあっても不思議に邪魔にはならないのだ。改めてそれを確認したルッチは少女の目の下の薄い隈に気がついた。
「ずっと読んでいたのか。眠っていないのか?」
 リリアは窓を見た。
 その意味を知ってルッチは思わず笑わずにはいられなかった。この島に夜はない。その当たり前のことをあえて少女に教える者は誰もいなかったといいうことだ。そしてこの部屋には時計もない。集中して文字の世界に潜り込んでいた少女には、長い昼も歓迎だったかもしれない。
「…バカヤロウ」
 3日間飲まず食わずで睡眠もとっていないはずの少女は幸福そうに笑っていた。
「こっちに来い。お前の分も食事を運ばせる。お前に会いたがっている人間が何人かいるしな」
 驚いたように瞳を見開いた少女は立ち上がろうとして一声うめき、拳を握って俯いた。座り続けていた両足は感覚を失い言うことをきかなくなっているのだろう。
 ルッチは短くため息をついた。
「今襲われたらお前は何の抵抗もできずに命を落とすぞ」
 ルッチが手を伸ばして片腕でリリアを抱え上げると、少女の手がルッチの上着を強くつかんだ。足の痛みに耐えているのか。彼の言葉に驚いたのか。腕の中の温度がすでに記憶に刻まれてしまっていることに気がついたルッチは小さく舌を打った。
 書類上は少女がロブ・ルッチの私的な所有物になったことを、ルッチは少女本人にも誰にも告げなかった。いつまでも首を傾げさせておけばいい。彼の口もとに浮かんだ笑みはどこか満足そうに見えた。


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