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fiorire

 誕生日の花というのがあるらしい。
 そして花言葉というものもあるらしい。
 生まれた日がわかれば自分の誕生花も花言葉もわかる。
 つまり、生まれた日がわからなければ、そのどちらもわからない。




 浴槽に張った水の表面は小さな波一つ立たずにただ透明に己を透かして陶製の内側を見せている。
 ツ…
 気まぐれに投げ込まれた一輪のユリはその一瞬芳香を強めながら綺麗な円形の波紋を描いた。
「面倒だな」
 呟いたルッチが腕に抱えていたそれをすべて続けて放り込むと、見えていた水面がすべて白と緑、その他の淡い色彩に埋め尽くされた。




 ここウォーターセブンには『花占いの日』という初夏の1日がある。ルッチがその事を知ったのはちょうど1週間ほど前、アイスバーグが1番ドックの職長たちを集めて『仕事』の依頼をした時だった。花占いの会場にガレーラカンパニーの代表として出席して市民と交流する…つまりはいつものファンサービスのようなものね、と後でカリファは笑った。アイスバーグという男は社長でもあり市長でもある。ガレーラカンパニーという会社とウォーターセブンという町に気持ちと身体のありったけを注ぎ込んでいる男だ。今回の任務のターゲットでもある男。任務が長期戦を余儀なくされそうなのはひとえにこの男の個性と内側に隠された慎重さにある。
 『花占いの日』。その日付を聞いたときにルッチは唇を歪めた。よりにもよって。
 それでもルッチは思っていたのだ。ただそこにいていつも通り立っていればいい。誰が彼に何を求めようと素知らぬ顔で流してしまえばいい。
 そのルッチの予定が知らない間に狂いはじめたのは、もしかしたらカクと一緒にブルーノの店にランチを食べに行った日からかもしれない。それはルッチとしては認めかねることではあったが。




「随分な数だったんだな」
 浴室の入り口に立ち、他人事のように言うルッチの横顔には小さな笑みが浮かんでいた。
   リリアは色々な感情が入り混じった気持ちのままルッチと花を見ていた。沢山の人がルッチに花を差し出した。1番ドックの職人としてそこにいたルッチはただ素直にそれを受け取るしかなく、内心ひどく苦い笑いを浮かべているのがわかった。それでも腕を埋めていく花々とルッチの対比がリリアにはとても珍しく美しいもののように見え、目を離すことができずにずっと眺めていた。
   リリア自身は生まれて初めて何人もの人に誕生日のことを尋ねられた。知らないのだと言うのがなにか憚られて誰に対してもただ首を横に振った。そのリリアの横にはアイスバーグの客だと言う材木会社の若い重役がいた。1週間ほど前にアイスバーグとカリファに案内されて店に食事をしにきたその男はリリアに執心し様々なものと引き換えにリリアの時間を手に入れようとした。幸いその場に居合わせたカクとブルーノがカリファと一緒にさりげなくリリアを守ってくれた。それでもリリアは花占いの会場に職長たちと一緒に参加することを約束させられてしまった。誕生日のことを何度も聞かれたのもその時が最初だった。
 カクと一緒に来ていたルッチはずっと無関心な顔でランチを食べてワインを飲んでいた。男が並べた花、宝石、悦楽、富…そのどれよりもリリアはルッチの無関心を心に受け止めていた。
「どうした、リリア
 ルッチが振り向くと花々の芳香を強く感じた。会場から部屋に戻る間にルッチの肌と白いシャツに移ってしまっていたのだろう。
「お前はあのまま1本も受け取らなかったのか」
 よくパウリーと店に来る青年が一番にリリアに淡い色のバラを差し出し、誕生日をきいた。ブルーノの店に酒を運んでくれる酒屋の店員が真っ白なユリを渡そうとした。その2人を先頭に他に何人かの姿がリリアの周囲に集まった。その全員に謝りながら首を振ると我が物顔にリリアの手を取ったアイスバーグの客が唇を触れようとした。嫌悪と恐怖にとらわれたリリアが力一杯振り払うとなぜか周りから拍手が起きた。
   リリア自身は全身に冷や汗がふきだした状態で本当はそれどころではなかった。無造作につかまれた手は白い雪が積もっていた山でのあの日のことを簡単に思い出させてしまった。リリアは今でも他人に触れられるのが苦手だ…それがルッチでないのならば。
 会場を出た時はルッチはすでに姿を消していた。それでもなぜかリリアはいつの間にかルッチの部屋の前に歩いてきていた。いないかもしれない、という予想は外れて部屋のドアには鍵がかかっていなかった。そしてドアを開けると花を抱えたままのルッチが立っていて、遅いぞ、と一言無表情に言った。
「こういう花は、ルッチのほうが似合うね」
「…馬鹿なことを」
 人の視線がある間は花を捨てるわけにはいかなかったのだとルッチは言った。そうして部屋まで持ってきてしまったらしい花をどうするか。ルッチにきかれたリリアは、ただ、花には水が必要だろうと答えた。するとルッチは リリアに浴槽に水を入れるように言った。そして花を投げ込んだ。
「渡された花の想いに答える場合は自分の誕生日の花を返すんだって」
 教えられたとおりのことをリリアが呟くとルッチは聞こえる程度に鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しいな。潮風に取り巻かれた町では花は育ちにくい。花が貴重だというところから発展した風習だろうが、色恋ざたに結び付けるとはいかにもこの町らしい」
「うん…そうなのかな」
 この1週間、ずっと誕生日について考えていた気がする。誕生日がなくてもこれまで不自由を感じたことはなかった。山ではリリアの誕生日を気にかける人間はいなかったし、ルッチに出会ってからはリリアはずっとルッチの庇護下にある。本当のところ、1週間前までは誕生日というものの存在をリリアは自分に関係があるものだとは思っていなかった。
 たとえ今誰かがリリアに誕生日を教えてくれてもそれは何の役に立つわけでもない。リリアが誕生日の花を渡したいと思うはずの相手はきっとそれを欲しがらないことは明白だ。
 それでも。
 人は無いものねだりが上手いとリリアは思う。上手いから自分で気持ちを追い詰めてしまう。バカヤロウ、だ本当に。
 ルッチは目を伏せたリリアの顔に視線を落とした。この静かな顔が歪んで表面を恐怖が通り過ぎた場面を彼は見ていた。それでもリリアは彼の方を見なかった。あの時、不自然に彼の方だけを見なかった。そして今、ここにいる。誕生日と言うつまらないものに心をとらわれて。
「目を覚ませ、バカヤロウ」
 身体をすくい上げられて驚いたリリアはむせるような芳香を吸い込んだ。ルッチの体温とともに強くなった気がする甘い香り。
 腕の中の少女をゆっくりと水の中に下ろしながらルッチは笑みを深めた。最初に足の指先が水に触れたとき身体を震わせた少女は自然とルッチの腕を強く掴んだ。水の底に座らせて腕を抜くと瞳を大きく見開いて唇を震わせながらまだ驚いたように彼を見上げる。
「脱がせてからの方がよかったか?」
 リリアは大きく首を横に振った。顔を赤らめたいのだろうが水の冷たさがそれを許さない。
 花の中にすっぽりと埋まって頭だけ出している少女の姿は葬儀中というよりも作り物の華奢な人形のように見えた。ちゃんと体温が残っているのかを確かめるようにルッチは指先で少女の冷えた唇に触れた。
「誕生日など何の役にも立たん。それでもお前は欲しいのか?」
 触れた指先の温度を大切に感じていたリリアは、1度自分から唇を離すと、自分からそっとルッチの指に唇を触れた。
「それが答えか」
 ルッチは指を下ろして少女の顎を持ち上げた。
「お前にはもう誕生日をやってある。書類上、ないともっと面倒なことになりそうだったんでな」
 少女をエニエス・ロビーに連れ戻った時に目の前に積まれた書類の山。思い出したルッチはため息をついた。そのルッチをリリアは次の言葉を待ってじっと見つめた。
「6月2日、今日だ。…面倒だから同じにした」
 誰と?
 聞こうとしたリリアの口を塞ぐように身体をかがめたルッチが深い口づけを落とした。冷たい水と花の香り、そしてどこまでも包み込まれるような唇の感触。全身の感覚が鋭敏になって眩暈を感じたリリアは目を閉じた。
 こういうのも悪くはないか。濡れた衣類を脱がせる手間をふと思ったルッチは苦笑しながら再び唇を重ねた。リリアの冷えた肌がひどく敏感になっているのを感じていた。幾度か彼の腕の中で堪えきれない声を上げたはずの少女に清浄のしるしである花々が似合って見えた。それも悪くはない。そう思った。




 その夜、書籍によって6月2日には様々な誕生花と花言葉があることを知ったリリアはその中に見知ったひとつの花を見つけた。それは浴槽の中から抱き上げられた時に反射的に掴んでベッドまで持っていってしまった花だった。ルッチは何も言わずそれを枕元に置いてからリリアのずぶ濡れの服に手をかけた。
 ルッチが与えてくれた誕生日の花。そして恐らくルッチ自身の誕生日の花。
   リリアは本のそのページに栞を挟んだ。
 しばらく枕元に置いて寝よう。
 灯りを消した少女の顔には幸福な微笑が浮かんでいた。


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