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makeup

 よく人から白いと言われる肌。宝石の名に例えられる紫色の目。表情に乏しい唇。これにどんな色を加えれば、変身することができるのだろう。
 少女は鏡の中の己の顔に向かって小さなため息をついた。
 無理だ、と思った。化粧をした経験がない人間がいくら道具を与えてもらっても、何の役にもたたない。
 例えばカリファなら。リリアは化粧をする前のカリファの素顔を知っている。知的で清々しいすっきりとした顔立ちのカリファは色の魔法でCP9の一員の仮面をかぶる。髪型も変化させればここウォーターセブンでは誰もが認める社長秘書だ。
 もしも変われるならどんな風になりたいだろう。
 少しでも大人に見えるように。ほんの少しでも釣り合えるように。肩に鳩をとまらせた、黒をまとったあの姿に。
   リリアは再びため息をついた。このままだと今夜、あの絵描きに顔をメイクされることになる。それは考えただけで嫌だった。今でも他人の手が怖かった。




 その絵描きはもう3日間、昼食と夕食を食べにブルーノの店を訪れていた。
 3日目の昼、たまたまランチを食べに来たカクとルッチが見たのは、カウンターに座ってにこやかに笑っている1人の男と戸惑った顔をしているリリア、少し離れたところで腕組みをして立っているブルーノの姿だった。
「ああ、その表情もいいなあ!途中でこの街に寄ることにして本当に正解だった」
 男が身を乗り出せばリリアは半歩後ろに下がる。恐らくそれを繰り返していたのだろうということは、カクにもルッチにも容易に想像できた。
「ランチ2つじゃ、ブルーノ。なんじゃリリア、困った顔をして」
 カクはその見知らぬ男の隣りに座り、挨拶代わりに帽子のつばに指を触れた。そのカクの隣にルッチは無言で腰を下ろした。2人を見た リリアがすぐに水のグラスを持って小走りに近づいた。
「このお客様が…」
 言葉を選ぶためにリリアが口を閉じた時、男がパッと立ち上がった。
リリアさんのご友人ですかな?失礼、僕は怪しいものじゃありません。ただの旅の絵描きです。聞いてください。そして、変な話じゃないとわかったら、ぜひ僕に協力してください。この人はシャイ過ぎる。僕は3日前に海を描くためにこの街に来ました。朝早くから夢中になって描いていたので気がつけばあっという間に昼でした。何か美味いものを食わせてくれてちょっとばかり安い店はないかとあちこち覗いてここにたどり着き、そしてリリアさんに会ったんです。一目でわかりましたよ、この人が僕が求めていた人だと。海と少女、海と娘、大きな自然の傍らに立つ大人になろうとしているい無垢の魂。で、すぐに絵のモデルになってくれるように頼んだんですが、あっさり断られました。初対面じゃ無理もないと思い、それから食事は全部この店でとってます。どうにかしてリリアさんを描きたい。でも、明日の朝には次の街へ行かなくちゃならないんです。食べていくためには描きたいものだけ描いてるわけにもいかなくて。だから、じっくりモデルになってもらうことは残念ですがあきらめました。でもしっかりリリアさんの印象は心に焼き付けましたよ。あとたった1つのお願いが、写真を撮らせて欲しいということなんです。細かな部分を思い出すために…そしてこの旅のいい思い出として。少しだけメイクをして写真を3枚…いや、5枚。それだけが僕の望みなんです」
 一気に喋る男の言葉をカクは目を丸くして聞いていた。
 一方ルッチは、男の方には目も向けずに黙々と食事を進めていた。
「そうじゃのう…」
 カクは画家とリリアの顔を順番に眺めながら腕を組んだ。
「絵描きの魂とかそういう話は、わしはよくわからん。まあ、あんたがリリアをそんなに高く評価してくれとるなら…どうじゃ、リリア。写真だけ撮らせてやっても悪い事はないじゃろう?」
「そうですか!」
 まだ返事をしない少女の前、男は立ったままカクの手を握りぶんぶんと上下に振った。
「じゃあ、撮影は今夜、この店で!僕、手持ちのメイク道具を全部リリアさんに預けていきます。お好きなように自分を彩ってみてください。今から無茶苦茶楽しみにしてます!」
 画家は誰の返事も待たずに持ってきたいくつものカバンのうちの小ぶりのものを1つカウンターにのせた。
「楽しみです、ほんと。あ、もしもメイクに迷ったら僕に任せてくれてもいいです。最高に綺麗にしてあげますよ。自信、ありますから。じゃ、僕、海の残りを仕上げてきます。夜にまた来ますから!」
「いやぁ…」
 ようやくカクが口を開いた時には、画家が飛び出して行った戸口でドアが大きく揺れていた。
「にしても、恐ろしく喋りが立つ男じゃ。おまけにせっかちなんてもんじゃないのう、あれは。芸術家というのは、みんなあんなに変わっとるのかのう。いつか任務に使えるかもしれん」
 面白そうに呟いたカクは、前に立つリリアの顔を見て微笑した。
「綺麗に撮ってもらえるといいのう、リリア
「…カク…」
 リリアの顔には強い非難の色が浮かんでいた。
「どうしてそういう話になるの。わたし、そういうのはあまり好きじゃない…」
「確かに少し軽率すぎやしないか?カク。俺たちは…」
 言いかけたブルーノの言葉を遮るように、カクはすっと片手を上げた。
リリアは組織の人間じゃないんじゃ。そうじゃろう?わしらの方がそれを時々忘れとる。確かにリリアはこの店にいてブルーノが活動中の店番なんかをしとる。ただ、それは普通の店の普通のアルバイトと立場は変わらないもんじゃ。わしはそう思っとる。リリアはもっといろいろ経験していいんじゃ。楽しんでいいんじゃ。リリアを止める権利を持つのは、ルッチだけじゃ」
 自分たちには縁がなかった人間社会の中の様々な物事を、喜怒哀楽の感情を。カクは束の間、目を閉じた。人間たちの中にある愚かに見えるものすべてを軽蔑し、自分たちから切り捨ててきたつもりだった。手を血に染めても守らなければならない正義の存在を、今も信じている。だから進む道はひとつしかないことに変わりはない。ただ、あの日、ルッチが連れてきたやせっぽちの少女を見たときから。カクは自分がその少女に何かを託してきたのかもしれないと思った。捨てても捨てても顔を出す『人間』の部分を。
「確かにそうだ。だが、そうは言ってもこの街では俺たちとリリアは一蓮托生だ。そうきっぱりと割り切ることもできないだろう。…ルッチ?」
 答えを促すように名を呼んだブルーノの声に、ルッチは3人を一瞥した。
「興味はないな。どっちでも構わん」
 ルッチの言葉にカクは笑顔を浮かべた。
「ほら、了解が出たぞ。ったく、ルッチ、お前はもう少し親バカになってみたらどうじゃ。リリアが綺麗じゃと言われとるんじゃぞ」
「『親』とは誰のことだ」
 音もなく立ち上がったルッチは3人に背を向けたまま外へ出て行った。
「ふむ…やっぱり『親』はだめじゃったか。別の呼び方をしてやってもよかったんじゃがのう」
 悪戯っぽく微笑むカクに、リリアは何も言えなかった。




 何をどう塗ったら変わることができるのか。
   リリアはすぐそばに転がっている口紅を手に取った。キャップをはずすと鮮やかな紅の色が現れた。この色は強すぎるだろうか。そっと先 を唇にあてた。鉛筆で曲線を描くように指先を進めると、あとにはあまりに濃い色が残った。焦って拭き取ろうとしたが鏡を見るとまだ色の残滓があった。悲しいほど滑稽な顔に見えた。
「ん…」
 唇を舌先で湿してもう1度拭いた。それでもまだ派手な色が拭いきれていない気がした。
「…こっちを向け」
 不意に背後から聞こえたため息まじりの声に驚いて立ち上がると、振り向きざまに顎を手で捕らえられた。
「全部、取ってやる」
 ルッチの黒い瞳を確認したと思った時には唇を深く重ねられていた。揺れるカーテンと足元を吹き抜ける風で、ルッチが入ってきた入り口が窓だと知った。
「ル…」
 名前を呼び終えることはできなかった。唇の表面をなぞるゆっくりとした熱い動きに鼓動が速度を増した。やがてリリアが呼吸を忘れかけた頃、ルッチは静かに唇を離した。腕の中に落ちてきた細い身体を抱き上げて椅子に座らせた。
「顔を上げろ」
 指先で顎を上向けたルッチは、数秒の間リリアの顔を凝視した。観察されている。そんな気がしてリリアが僅かに顔を動かした時、ルッチは右手に柔らかなパフを持っていた。
「ルッチ?」
 リリアの問いかけには答えず、ルッチは手に持ったパフでそっとリリアの肌を押さえた。
「お前の肌に色をのせる必要はほとんどない。邪魔になるだけだ」
 移動するパフを感じながらリリアはただ驚いていた。ルッチが自分に触れる場面として考えたこともないワンシーンだった。無知な少女から見てもルッチがメイクに精通しているらしいことはすぐにわかった。でもその技術と少女が知るルッチの間にはかなりのギャップがあるように思える。
 すばやく全体の肌を整えたルッチは指先に深い色をとりその指でリリアの瞼に触れた。淡くぼかした線で陰影をつけると瞳の色が際立って見えた。
 ルッチの指先が優しい。リリアは顔の上を動く手をじっと感じていた。やがて作業は唇に移動したが細い筆の動きとリズムが心地よかった。これは一種の魔法かもしれない。リリアは集中しているルッチの顔を見た。もしかしたら今自分は本当に綺麗になっているかもしれない。ルッチの顔を見ているとそんな風に思えた。
「鏡の方を向け」
 ルッチの手が椅子の上のリリアの身体をクルリと回した。
   リリアは鏡に映っている顔にじっと見入った。それは確かに自分の顔だった。けれど、どこか別人だった。綺麗だ、と思った。僅かな時間でこれを作ったのがルッチだということが嬉しかった。
 ルッチは手櫛でリリアの髪をやわらかく梳いた。仕上がったリリアの顔は技量が衰えていないことを確認させてくれると同時になぜかすぐに消してしまいたい衝動を呼び起こす。
「ルッチ…すごいね」
 自分の顔に見とれているのならその自惚れを笑ってやるところだが、リリアが感嘆しているのは仕上がった顔の美しさではなくてそれを作った腕らしい。視線からそれを知ったルッチは苦笑せずにはいられなかった。
「船大工しかやれないなら潜入任務をこなすことはできない」
「そっか…。あとはどんなこと、できる?」
 口を開きかけたルッチは苦笑を深めた。危なくリリアのペースにのせられるところだ。殺し屋が自分の過去をペラペラ喋る図は相当いただけない。
 ルッチは返事をする代わりに片腕で少女を抱き、床に立たせた。
「行け」
 軽く背中を押しやるとリリアが振り向いた。
「ありがとう、ルッチ」
 それから慌てたように背中を向けて走り去った少女の姿は、一瞬とても幼く見えた。
 礼を言いながら真っ赤に染まっていた頬が薄化粧の下で丸見えだった。細い肩の上で揺れる銀色の髪にまた心惹かれた。
 まったく…お前は。
 心のどこかにあった苛立ちは消えていた。化粧などない素肌の顔に浮かぶ柔らかさと艶やかさをあの画家風情が知ることは決してない。もしかしたら彼はリリアを覆い隠す仮面を作ってやっただけだったのかもしれない。
 ルッチはベッドに腰を下ろした。
   リリアが戻ってきたら抱いて宙を駆け彼の褥へ攫って行こうか。
 素顔のままの少女を見たいと、ただ思った。


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