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流 血

 もう少し足が動けば。
 身体の揺れを抑えられれば。
 少女は背中を温かなものが流れ伝う感触に唇を噛みしめながら、懸命に歩いていた。
 ロブ・ルッチ…彼の部屋に辿りつけさえすれば。
 一足進むごとに逆に遠のいていく感覚がもどかしい。崩れ落ちそうになる身体を支えている力が段々全身にうまく伝わらなくなっていく。
「ルッチ…」
 小さな呟きとともに細い身体は地に伏した。薄い闇の中で銀色の髪だけが少女がそこにいることを静かに告げていた。




 ガレーラカンパニーはもともと1つの会社組織だったわけではない。バラバラだった7つの造船会社がまとまったもので、それをまとめているのはアイスバーグのカリスマ性と個人的技量の高さという、思ってみればひどく曖昧で形がないものだけなのだ。
 カクたちがウォーターセブンにやって来たのはちょうど会社がまとまる形を模索しているごく初期の頃だったから、すんなりと寄せ集めの大工たちの中に溶け込むことができて好都合だった。1番ドックという組織の中のいわば花形部署に配属になり、気づけば町の人間たちにも名前を覚えられ出していた。単純な町、単純な組織。カクは面白がりながらも時たまその光の眩しさに目をそむけたくなったりもした。
 光があれば闇がある。そのことを意識したのはカリファが何者かに襲われるという出来事があったからだ。アイスバーグの個人秘書という多忙な仕事も傍から見れば華やかなものに見えるのか。残業した帰り道、カリファは1人の男に襲われた。懐から取り出した刃を向けて突っ込んできたその男をカリファは蹴りのひとつで片付けたという。吐き散らしていた言葉から推測するに、その男は7つの会社のどこかに属していた人間で、ガレーラカンパニー設立の時に解雇された余剰人員であるらしかった。小さな闇がそうとは知らずに大きな闇に挑んで蹴散らされたようなものだ。実力がバレないように蹴る力を加減するのが難しくて悔しかったと笑うカリファの笑みにカクは強く惹かれた。そんな笑みさえ美しいと思った。
「ん?」
 1つの屋根から次に飛び移りながら、カクの視線は眼下の小路に気になるものを見つけていた。灯りに照らされて浮き上がっている銀色。動かないそれはどう見ても人間の髪だ。そしてそれはカクがよく知っている少女のものにそっくりだった。
「…リリアか?」
 着地した時、カクはすでに確信していた。背中に広がる紅の染み。唇から漏れる荒い呼吸。カクはすぐに細い身体を仰向け、抱き上げた。
 少女の口から音が零れた。耳を近づけて聞き取ったカクの顔に複雑な微笑が浮かんだ。
「馬鹿じゃな。ルッチは今夜はまだ戻っとらんかもしれんぞ。お前もそのことを知っとるじゃろうに」
 腕の中で震える細い身体にカクはじっと視線を落とした。ブルーノの店を出てルッチの部屋に向かっている途中で襲われたのだろう。ここからなら本当はルッチの部屋に行くよりも店に戻った方が距離は近い。ブルーノも確実に店にいる。それを知りながらなお、この少女はルッチのところへ向かった。そんな愚かさがカクには貴重なものに思えた。彼にはない、許されない、本能の我侭。
「少し、我慢しろ。わしが何とかしてやるからのう」
 カクは少女を抱きなおして走り、宙に跳んだ。




 濡れた血にはかまわずそのままリリアをベッドに寝かせ、カクは上衣のボタンに指をかけた。脱がせ、消毒して傷口を押さえる…早くしないと少女の命の雫がさらにこぼれ落ちてしまう。しかし、カクは小さく息を吐いて指を離した。開いた襟元から覗く少女の白い肌の滑らかな美しさに畏怖を覚えていた。
 やはりな、と心のどこかで納得する。エニエス・ロビーで最初に会ったときにももちろん綺麗な子どもだと思った。精神性が高そうな印象とハットリがその細い肩にのっていたことへの驚き、黙ってルッチの顔を見上げたときに瞳に差した光への小さな賛嘆、そんなものが全部混ざり合っていた出会いだったと思う。けれどあの時にはリリアの色白の肌にはこの艶やかさはなかった。そう…このウォーターセブンに少女が4人とは半年遅れでやってきた時もなかったと思う。
 原石に内包された美を磨きだしたのがルッチの手だとすれば、自分がそれを露出させるのは冒涜といえるかもしれない。カクは考えた後そっと少女の身体をうつ伏せにした。元は白かったブラウスの紅に染まっているその中心に2筋の裂け目があった。そこに指を入れて裂け目を広げると、2本の傷が見えた。盛り上がり肌を伝い落ちる血の筋は細いがまだ続いている。カクは新しいタオルをあてて傷を圧迫した。
「お前にこんな傷をつけた奴がいることを知ったら、ルッチはどうするかのう」
 カクの横顔にはその男に対する同情の色は少しもなかった。
 こぼれた少女の声を聞いた時、カクの顔にはまったく違うやわらかな笑みが浮かんだ。
「大丈夫じゃ、リリア。ちょっとそのまま目を閉じておれ。わしがひとっ走りして必ずルッチを連れてくるからのう」
 カクはタオルをあてた上から裂いたシーツを巻きつけてしっかりと縛った。




「珍しいな、お前がここに来るのは」
 少し前に戻っていたらしいルッチは、身体をガウンで包み濡れた髪を拭いていた。
 カクはルッチが視線で示した酒への誘いを首を振って断った。普段、カクは滅多に自分からルッチの部屋へは来ない。用事があればルッチは自分でカクの所にやってくる。用事がなければカクが行ってもルッチが喜ぶはずもない。わかっているからカクは一見受身的な態度に甘んじている。
リリアが襲われたんじゃ、ルッチ」
 ルッチの手の動きが一瞬止まったように見えた。
「…お前の血ではなかったのか、それは」
 低く言ったルッチの目はカクの上着に染みた色を見ていた。
リリアのじゃ。今…」
 カクが言葉の続きを遮ったのは凍りついたようなルッチの表情だった。血の跡を見つめて黙って立っているその姿の後ろで何か大きなものが爆発した気配と、それとは対照的に静まり返って見える顔の清冽な美。
「…静かに逝ったのか」
 ルッチの言葉にカクはようやく我に返った。
「待て待て!結論を早まるな。リリアは無事じゃ。傷ついて多くの血を流したが命はある。とりあえず応急的な処置はしたが、ちゃんとした手当てが必要じゃ」
 ルッチは黙ってカクの顔を見た。それからすぐに背を向けてテーブルまで歩き、酒を注いであるグラスからゆっくりと一口飲んだ。
「わしはお前を迎えに来たんじゃ。リリアの意識はまだ戻っとらんが、それでも何度もお前の名を呼んでおったのでのう。何か着替えもひとつ持ってやってくれ。その方がリリアも嬉しいじゃろ」
 ルッチが手を伸ばすと籠から飛び立ったハットリが指先に下りた。
「これを連れて先に戻れ。俺は…すぐに後から行く」
 少しでも少女を1人にするなと。
 カクはハットリを受け取って頷いた。まだ何か言いたいことがある気がした。けれどルッチの背中はそれを拒絶していた。




 全身を黒で包んだルッチの姿の懐かしさに、思わず小さく息をのんだカクだった。黒いシャツとスラックス。スーツではないからネクタイの白もない。カクが身体を捻って奥を示すとルッチは音もなく戸口をくぐり歩み進んだ。
「ポッポー」
 銀髪が広がる枕の上でハットリが身体を丸めていた。頭をリリアのそれにくっつけながらルッチを見上げた丸い瞳には悲しみの色があった。
「見せてみろ」
 ルッチは袖を捲くり、細い身体に巻きつけられた布をほどいて外した。カクが施した止血は効果があったらしく傷口からの出血は一応止まっていた。
「湯も沸かした方がいいな?」
 水を張った容器と何枚かのタオルを運んできたカクにルッチは小さく頷いた。
 湿したタオルで静かに肌に触れ、血を拭った。次第に2本の傷が白い肌にくっきりと浮かび上がった。
「ル…チ?」
 うつ伏せの横顔が揺れた。無言で見守るルッチの前で瞼が開いて紫色の瞳が彼の姿を求めた。
「動くな…傷の処置が終わるまで待て」
 冷ややかにさえ聞こえる口調とは裏腹にルッチの指先が少女の唇に触れた。
 視線を動かしたルッチはその時初めてリリアの手に握られたナイフに気がついた。右と左、両方の手に握られたその刃には僅かではあるが血痕が見て取れた。
 抵抗したのか。そして、負けたのか。それでもこの様子だと相手もただではすまなかったようだ。
「これはもういい、リリア。離せ。そいつはもう近くにはいない」
 ルッチがナイフに触れると少女の手は震えた。握ったままこわばってしまった指をルッチは黙って1本ずつほどいた。血まみれの手を片方ずつ冷水の中で洗った。ナイフはただ床に落とした。
 水から上げたリリアの手がルッチの手を握った。ナイフを離してしまったことへの名残か、それともルッチ自身を求めているのか。ルッチの唇が歪んだ。どちらにせよ人を切り裂く刃を握っていることに違いはない。ルッチは少しの間そのまま少女に片手を預けておいた。
 残る片手の爪を1本差しこんで上衣を切り裂き、背中をすべて露にした。拭いきれずに紅が残っている部分をすべてゆっくりとした動作で清めた。リリアの手にこもる力が伝わってきた。切りつけられた刃の感触が蘇っているのだろう。無言で落とした触れるか触れないかの口づけを少女の肌は感じ取っただろうか。また少女の手に力が入った。
「湯が沸いたぞ。おお、リリア。難儀なことじゃったのう。ここはわしの部屋じゃ。もう警戒せんでよいぞ」
 ルッチはカクが持ってきた大きなプレートの上を一瞥した。容器の中で湯気を上げている湯、そして消毒薬等の薬と道具。
「…針は消毒してあるか?」
「ああ。糸も未開封のものが1つあったから大丈夫じゃ。じゃが…やはり縫わねばならんかのう?」
 カクは眉をしかめてリリアの傷を見た。
「これだけの長さだ。縫わなければまたすぐに開く。縫った方が治りも早く残る跡も薄い」
「そうじゃのう」
 プレートを置いたカクは次にスツールを2脚抱えて戻ってきた。
 ルッチは腰を下ろすとリリアの顔を見た。
「傷を縫っている間はカクの手を借りていろ」
リリアの瞳が揺れた。従順にルッチの手を離した後に微かな震えが見える少女の手をそっとカクの両手が包み込んだ。
「力いっぱい握っても平気じゃぞ。鍛え方が違うからのう」
 微笑みかけたカクに少女の唇が小さな曲線を描いた。




 一針ごとにルッチは何を思っているのか。
 カクは正確な動きで傷を縫い合わせていくルッチの指先を眺めていた。針で肌を貫かれる痛みに小さく痙攣する細い身体の反応を気にかけている風はない。ただ集中力の高まりを感じさせる空気がルッチを取り巻いていた。
   リリアは目に溜まった涙をこぼさないように懸命にこらえていた。初めの数針は唇を噛むだけでこらえていたが、やがてカクの手を強く握るようになった。握ってはすぐにゆるめ、また握る。カクはリリアに微笑を向けた。
「我慢しないでずっと力を入れていていいんじゃよ、リリア。おかしな話じゃが、わしは嬉しいわい。覚えとるか?最初にお前と会ったとき、わしはお前の年頃の子どもに何をどうしてやったものかまったく思いつかなくて、頭を撫ぜてやろうとした。そしたらお前はひどくわしの手を怖がって…と言ってもそれをあからさまにするお前ではないから、ただ身体をがちがちに硬くして綺麗な目に涙を溜めてわしが手を離すまで耐えとった。あの時は少々驚いて内心傷ついてる自分が不思議じゃった。なんせお前はCP9No.1のルッチの手にしっかりとつかまっていたんじゃからのう。なんでわしだけダメなんじゃ?と思ったが、逆だったんじゃな。あの時のお前はルッチ以外の手は誰のものでも受け入れることができなかったんじゃ」
 カクはそっと少女の手を撫ぜた。
「もっと痛がっていいんじゃよ、リリア。泣いてもいいんじゃ。ここにいるのはルッチとわしだけなんじゃから」
 懸命に微笑したリリアの額の汗をぬぐってやりながらカクは囁いた。




 最後の一針を終えて糸を切ったルッチは確かめるように傷の表面を指で辿った。
 カクはリリアの全身から力が抜けたのを見届けると立ち上がった。
「わしは向こうで飲み物を作るから、用があったら声をかけてくれ」
 手を離す前に一度力を送るとリリアの手もそっと握り返してきた。ようやく普段に近い微笑を浮かべたリリアの顔を見てカクは安堵の思いに包まれた。刃に切られた恐怖と痛み。ルッチが新たに与えた針の痛みは、ほんの少しだけその記憶を薄めたかもしれない。もしかしたらルッチの思惑もそこにあったのか。カクはルッチの横顔を思い返した。ひとつの崩れもなかったポーカーフェイス。けれどカクが行くまで片手を少女に与えていたルッチ。以前のカクには想像もできなかった光景だった。
 わかってはおったがのう。
 カクは思う。ルッチがリリアをウォーターセブンに呼んだと知ったときから予感はいつも彼の胸の中にあった。ルッチが自分が拾ってきた華奢な少女にいつか己の内側にしまいこんである魂を預けるだろうということが。一般人の普通の形の幸福は望めるはずがない2人だと思った。けれど、異常な状況だからこそ出会うことが出来た2人だとわかっていた。
 互いに夢中じゃからのう、ああ見えて。
 カクの唇に浮かんだ笑みにはやわらかさと一緒にどこか孤独感が漂っていた。
「着替えるぞ」
 カクが離れるのを待ち、ルッチは静かにリリアの背中を撫ぜた。そして細い上体を抱き起こした。もはやボロ切れとなった上衣の残骸を剥がすと脇腹から腰にかけても血が流れた跡 が残っていた。タオルをあてるとリリアは小さく震えた。
「自分で…」
 言いかけたリリアの唇をルッチは自分の唇で覆ってふさいだ。記憶している感触を確かめたと思ったとき、少女の頬を伝う涙に気がついた。恐怖に凍り付いていた感情が溶け出したのだったらいい。そう思った。
 唇を重ねたまま白い肌を洗った。まだ幼さの残る胸の頂に一瞬唇を移し、すぐに持ってきた白いシャツで身体を包んでやった。
「ルッチ…」
 堪えきれずに胸にすがりついたリリアを両腕で抱いた。時折、あっけないほど簡単に奪えるだろうと予想する少女の命。それが彼ではなく他人の手による場合を考えたことがなかったのが不思議だった。そして今実感しているその可能性はルッチの中の何かを小刻みに震わせた。
 この少女はやはり危険だ。
 ルッチの理性はそう囁く。
 失えば恐らく一生忘れることの出来ない存在になるだろう。
 本能が少女を抱く腕の力を増やす。
「少しだけ…待っていろ」
 無理矢理に腕を下ろしたルッチはリリアの身体をうつ伏せに寝かせた。
「すぐに戻る」
「…行くのか?やっぱり」
 カクは手に持っていた新聞をテーブルに置いた。
「お前は残れ。あいつのそばに…いろ」
 『いてくれ』とルッチの声に頼まれた気がしたカクは微笑して頭を掻いた。
「慎重に動け、とお前に言う必要はないとはわかっとるが。その黒い服を見てすぐに行くつもりなのはわかっとったし。先ず、カリファから情報をもらうといいかもしれん。この間カリファに蹴り返された馬鹿者と同じ犯人な気がするんじゃ」
「そうだな」
 傍らを通り過ぎたルッチの身体が起こした微風は冷気をはらんでいるように感じられた。




「心配するな、リリア。ルッチは消しに行ったんじゃ。殺めに行ったわけではない。他人の目からは同じことに見えてもわしらにはその違いが見えるはずじゃ」
 ハットリが羽で少女の髪を撫ぜていた。
 身体を起こすのが苦痛らしい少女にカクはスープを飲ませていた。スプーンですくった中身が小さな唇を通って消えていくのを見るのはどこか快感だった。少しずつ血色が戻ってきたその唇を愛らしいと思った。
「大丈夫、何もなかったことになる。その傷も時間が過ぎれば薄くなる。ルッチが何をどう感じているかはわからんが、もしもわしがルッチでもやっぱりそいつの行方を追ったじゃろう。自分よりも弱い者に狂気をぶつけるその根性は到底許しがたいもんじゃ」
「カリファの時も…そう思った?」
 真面目な顔で尋ねるリリアにカクはフッと力を抜いた微笑を見せた。
「そうじゃな。カリファは強い女じゃが…しっかしそいつもカリファに反撃された時は焦ったんじゃろうな。目を白黒させたかもしれん」
 半分だけのカクの答えの続きをリリアはもう訊かなかった。エニエス・ロビーにいた頃からずっと感じていたカクの中のある想い。それはリリアが勝手に想像しているだけなのかもしれないが。
 カクは笑った。
リリアにはかなわん。わしはお前が大好きじゃよ。どれだけ血に染まってもお前は無垢じゃ。ずっとそのまんまでいて欲しい」
 リリアは布団から引っ張り出した自分の両手を眺めた。ルッチが洗ってくれたこの手にもう血の色は残っていないだろうか。命ある身体に切りつけた感触がまだ生々しく刻まれているこの手に。
 カクはカップを置いて少女の両手をそっと握った。
「忘れろとは言わん。忘れなくても丸ごとそっくりわしらはお前を受け入れる。お前がこの手で自分の命を守れたことを祝福するだけじゃ」
 カクは少女の額に口づけた。




 放っておいても長くはもたないだろう。
 ルッチは饐えた匂いのこもった部屋で床に身体を投げ出すように横たわっている男の変色した顔を見下ろしていた。愚かとしかいいようがない。ルッチは床に転がった酒のボトルを見た。リリアの細いナイフがえぐった傷を甘く見ていたのか、それとも最初から生きながらえるつもりはなかったのか。男は傷の手当てをせずに限界まで酒を飲んでいたようだ。そして今はもう、助けを呼ぶ力も残っていない。
 手を下しさらに残りの血を絞り出す必要もない。判断して踵を返したルッチは数歩進んでふと足を止めた。
 違う。
 彼にとっては手を下す価値が残っている。なぜならこの男にはあの少女の白い手で命を奪われる価値などないのだから。
「残念だが、苦しみを止めてやる」
 ルッチの爪が一閃し男の顎が力なく落ちた。
 ルッチは細い命が耐えるまで無言でその残骸を見下ろしていた。




 カクの部屋に戻ったルッチは眠っている少女の枕元に一輪の薔薇を置いた。
「らしくないのう、ルッチ」
 微笑を含んだカクの声にルッチは僅かに眉を顰めた。
「カリファからだ」
 嘘ではなかった。男の死を告げるために立ち寄ったカリファの部屋でなぜか目に留まった花瓶の中の小輪の花。そのルッチの様子を見たカリファがその花をリリアに渡すように彼に託したのだから。
「そうなのか?やはり女じゃな、カリファは。よく気が回る。で、その男はどうした?」
「俺が始末した」
 ルッチの口調が必要以上に強かった気がしてカクは首を傾げた。
「抵抗された跡はないようじゃな」
「そんな力は残ってなかった」
 リリアの顔にかぶさっている光る髪をルッチはそっとかき上げてやった。その様子を見ていたカクはようやく状況に得心がいった。
リリアが目を覚ましたらちゃんと教えてやらなければいかんな。どうやら少し熱が出てきたらしい。わしらと違って痛めつけられることに免疫がない身体じゃからのう」
 今は動かさない方がいいということか。
 ルッチは黙ってスツールに腰を下ろした。
「毛布はいらんじゃろ?わしは向こうのソファで寝るから、何ならリリアの隣りで添い寝してやれ」
「…馬鹿なことを」
 互いの顔を見なくてもそこにある表情が見える気がした。
 そうだ。ルッチはそういう人間だった。幼い頃、心の迷宮に迷い込んだカクの手を引き上げてくれたのはルッチだった。
 カクは微かな記憶が蘇ってきた胸に片手をあてた。
「おやすみ、じゃな、一応」
「…フン」
 灯りを消すとルッチの後姿が窓明かりの中に浮かび上がった。しばらく眺めてからカクが背を向けようとしたとき、その姿が動いたように見えた。身をかがめて少女の寝息を確かめたのだろうか。カクは声を出さずに笑いながらソファに寝転び、靴を蹴り脱いだ。


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