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銀 風

 その街には見た目も声の豊かさも船大工としての腕前も、すべてを備えた男がいるのだという。そう、あの海列車を造り上げた大工たちの1人でもある。
 そしてその男にも陰の中でもがいた日々があったのだという。
 そういう男が相手だからこそ、少女が心も身体も持てるすべてをその人のために役立てたいと願う1人の男が、仲間を率いて旅立たなければならなかったのだ。通常は厳しい期限つきの時間との戦いの任務が多い中、ほぼ自由裁量に等しい時間を与えられたその任務の大きさと、彼らにかかった期待の重さを考えながら 少女はその塔の部屋をぐるりと見回した。
 この部屋を自室として使っていたその男、ロブ・ルッチ。彼が旅立ってから半年が過ぎた。正確に言えばルッチの部下でも同僚でもなく、その島では何の身分もないに等しい少女は、もちろん、上司への報告の際のルッチや仲間の声を聞くこともない。送られてくる文書を読むこともない。接点を失ったこの半年で、随分多くのことが遠くなった気がした。それでもどれだけ遠くなっても忘れることはできない。できるはずがない。彼がなぜ自分を彼のそばに置いておいたのかは今でもわからないが、少女はその時間の一刻一刻を精一杯過ごしてきたのだから。
 ブラウスの胸ポケットに忍ばせた1枚の白い羽根。時々それを引っ張り出して大切な小さな友だちのことを想う。あの友達に出会わなかったら少女は今もまだ山の中のあの小さな村にいなければならなかったかもしれない。そして…どうなっていたかはあまり想像したくない。
「おいこら、やっぱりここか、リリア
 いかにも騒々しい声が響いたかと思うと、変わった形の眼鏡を額にかけた一人の男が戸口から顔を出した。
「ジャブラさ…」
 言い掛けて慌ててやめたリリアだった。
 リリアはルッチのことを『ルッチ』と呼び、カクのことは『カク』、カリファのことも『カリファ』と呼ぶ。それ以外のCP9のメンバーには最初から『さん』をつけて呼んでいた。ルッチたちが出立した後になぜか突然ジャブラはそのことを怒り出した。てっきりルッチたちにも『さん』をつけろということなのだと思ったのだが、よく聞いてみると実は逆だった。ジャブラは彼を呼ぶときには『さん』をつけるなと命令した。リリアにしてみれば不思議な命令だったし、なぜかなかなかうまくいかず、この半年間一体何度注意されたか分からないほど失敗を重ねていた。
「…今、何かくっつけたか?」
 急いで首を横に振ったリリアに向かって鼻を鳴らすと、ジャブラはリリアの前に歩いてきて真上からじっと見下ろした。肩に流れ落ちる銀色の髪と彼を見上げるアメジストの瞳。任務のために2週間ここを離れていたジャブラは、珍しいものでも見るように無遠慮でありながらどこか遠慮がちな視線を送った。
「少しでかくなったじゃねェか。育ち盛りってやつか?」
 返事のしようがない問いに黙って男の顔を見上げていると何となく頬が赤くなったように見えた。
「バ、バカ!どうでもいいんだよ、そんなこと!それより、お前、準備してすぐにウォーターセブンへ行けとよ。長官の命令だ」
「…え?」
 言葉の響きを意味に結びつけることができなかったリリアは震えはじめた自分の手を見下ろした。
「…ウォーターセブン?あのウォーターセブン?」
「ああ、そうだよ!ルッチやカクたちが行った、あのウォーターセブンだ」
 身体の中で心臓が躍り上がった。心の中に歓喜が溢れた。それを上手く表現することが出来ない少女は、ただ、自分の両手を合わせて握りしめた。
 リリアの様子を眺めていたジャブラはまたひとつ鼻を鳴らし、とっておきの言葉を引っ張り出した。
「これは別に長官がお前をほんのぽっちりでも認めたっていうわけじゃないぞ。ルッチだ。あの野郎がお前を呼んでるんだとよ。ったくよ、あいつはここにいる時は何から何までお前にやらせてたからよ、いざ1人になったら自分じゃ何もできなくて慌てたんじゃねェの?笑っちまうよな」
 そんなわけはない。ルッチは1人で何でもできる。リリアはそれを知っている。
 長官に…リリアにとっては少々滑稽に見える時がある謎の男だが…リリアの存在が認められるよりもルッチが呼んでくれたことの方が比べものにならないほど嬉しかった。思わず大きな笑顔をジャブラに向けると男は顔全体を紅潮させて逃げるように出て行ってしまった。そんなに自分は変な顔をしたのだろうか。今だったらジャブラのことを『さん』をつけないですらっと呼べる気がしたのに。
 ルッチの部屋を出たリリアは平常時は走ってはいけない廊下を走り、そのままの勢いで階段を駆け下り、半分目が回った状態で笑いながら地下にある小さな自室に飛び込んだ。急げば確か海列車に間に合うはずだ。自分のものと呼べるものはほとんどないので荷造りは簡単だ。小さなバッグを肩にかけて少女は一目散に駆け出した。
「…あんな小娘が何の役に立つっていうんだ?…まさか、カリファの色仕掛けに落ちないあの男にあの小娘を使って…とかいうんじゃないだろうな!おお、もしかしてそれもありか?」
 高い部屋の窓から離れていく小さな姿を見下ろしていた男は盛大な独り言を呟きながら首を傾げていた。そしてそれを聞いたジャブラがおそろしく顔を顰めたことにはまったく気がついていなかった。




 青い海原を奇跡のように渡って行く海列車。
 乗るのは初めてではないリリアだが、これほどに心晴れ晴れとした気分で乗ったことはなかった。窓からの景色が晴天の下の青い海の広さを初めて教えてくれた気がしていた。
 エニエス・ロビーからの乗客は司法関係、それから囚人の護送に向かうと思われる海軍兵士など役人たちばかりが乗り合わせているように見えた。その中には 見たことがある顔がないでもなかったが、彼らにとってはロブ・ルッチのいわば『身内』扱いされている少女はそうそう気軽に話かけることができる対象ではなく、リリアにとっての彼らは接点がない限りどこまでも堅く畏怖を感じさせる役人なので、どちらにとっても互いにどうしていいかわからない相手だった。
 リリアはただ1人の旅を楽しむことに決め、ひたすら窓の外に目を凝らした。目的地が決まっていてそこに自分を待つ人がいる。もしかしたら、呼ばれた理由はあまり喜べないものかもしれないが、それでもこういう経験は初めてだった。そのリリアの気分を盛り上げるような、美しくて壮大な眺めが前方に見えはじめた。水の都、ウォーターセブン。街全体がひとつの大きな噴水のように見える想像を超えた眺めにただ見とれた。
 列車がステーションに滑りこみはじめた時になって初めて、リリアは自分がかなりの間違いをやったことに気がついた。こんなにも大きな街のどこかにルッチがいる。カク、カリファ、そしてブルーノ。知っている人間はたった4人だけ、それも今この街でどういう人間としてどんな世界を持っているのかまったくわからない。勿論、その居場所も。
「ええと」
 降りたホームに1人佇めば傍らを過ぎる人々は一瞬いぶかしむ様な視線を落す。けれどそれ以上少女の事情に踏み込もうとする者はなく、 リリアは考えながらゆっくりと視線を巡らせた。見ればホームに続いて待合室と思われる広い空間が見えていた。これから出る列車を待っているらしい人の姿と身につけた華やかな色。とにかくあそこへ行けば街の地図くらいあるだろう。探す地名を持っていない場合、それはほとんど観光気分に近い探索となるだろうが。
 歩き出したリリアはふと、ホームの端に目を向けた。そこにこちらに背を向けて海を眺めているらしい人影を見つけた。スラリとした輪郭以外は影になっているために確認できないが、その姿に向かって少女に一歩足を踏み出させたほどのある人に似通った雰囲気を持っていた。しっかりした肩幅とすっきりと広い背中の線が懐かしいものに思えた。けれど、髪の形が違っていた。
 リリアは足を止めた。ルッチは任務のために髪を切るだろうか?いや、切らないだろう。放っておけば自然に伸びるものだと誰もが知っているそれを敢えていじることはしないはずだ。何より多分ルッチはここ数年定着しているあの髪の長さを気に入っている風があった。だからあれは、この街用の身分を纏ったルッチではない。
 リリアがいろいろ思っている間に人影は振り向いていた。コツコツと靴音をたてて近づく姿には、やはり他にルッチを思わせるものは何もなかった。近づくにつれてその男の風変わりな髪型とひどく目立つジャケットの色が目に映りはじめる。ここにいるから見つけてくれと言わんばかりのその外観はルッチとは正反対だが、その全身に強い意志が感じられた。
 男は視線を合わせたまま歩き続けたが、やがてその歩調はゆるみ、ゆっくりと足を止めた。
 いくら何でも人気がなくなったホームで1人の少女が自分を凝視していたら、黙って通り過ぎるわけにもいかないだろう。ましてその少女がどこか心惹かれる外貌を備え、彼がすぐ前まで近づいても視線を逸らさずに小さく微笑したとなれば。
「ンマー、この街の住人かな?それとも…」
 アイスバーグが口を閉ざしたのは先刻到着したこの列車がどこから発車したものであるかを思い出したからだった。自身があの懐かしい日々にその作成に携わった奇跡の列車に乗せられて、大きな懐かしいあの姿が連れて行かれた目的地。あそこからやって来る者としてこの少女はあまりに似合わない。海軍?役人?いや、あり得ない。海列車を見物に来たのだろうか。晴々とした表情はその目的の方が似合っている気がした。
 リリアはアイスバーグの思考をほぼ正確に読み取った。確かに、エニエス・ロビーから来たということは余り人に知られない方がいいかもしれない。
「旅行者だけど海列車をもう一度見たくて。人も探しているし」
 リリアが微笑を大きくするとアイスバーグは納得したように頷いて笑みを返した。
「ンマー、人探しか。それならうちにはそれを得意としている秘書がいるぞ。一緒に来るかね?」
 それはちょっとまずいかもしれない。どうやら大物らしいこの人物をどうやって振りきろうか考えはじめたリリアの後ろから凛として涼やかな声が響いた。
「こちらでしたか、アイスバーグさん。会議の欠席は伝えておきました。きっと時間内にはお帰りにならないと思いましたので」
「ンマー、さすがだな、カリファ」
 いかにも有能そうでそのくせどこか扇情的なその声を聞いたときから身体を硬くしていたリリアは聞きなれたハイヒールの音が横に並ぶのを待った。
「こちらは?アイスバーグさん」
 無関心よりもほんの少しだけ興味があるようなまさに完璧のその反応に、演じるべき役割を悟ったリリアは肩の力を抜いた。
「人を探しているらしい。手伝ってやってくれるか」
 カリファを見るアイスバーグの顔には秘書に対する信頼があった。見返すカリファの顔には上司への崇拝があった。これがカリファのこの街での半年後の姿なら、さすがと言うべきなのだろう。リリアは黙って2人を眺めた。
「わかりました。アイスバーグさんは先にドックへ向かわれてください。相談事を抱えた職長たちが騒いでいましたから」
「わかった。ンマー、君、このカリファに任せればすぐにその人は見つかるだろう。また何かあったら今度はお茶にでも誘ってくれ」
 片手を振りながら離れていくアイスバーグを見送った後、残された2人はようやくまっすぐに視線を合わせた。
「驚いたわ、リリア。随分早く着いたのね。ルッチからあなたを呼んだ事は聞いていたけど、来週になるかと思っていたわ。…髪が伸びたわね。背も高くなったかしら。」
 そう言いながら曲線を描いた美しく彩られた唇を見つめるリリアの頬に赤みが差した。連絡を受けてからすぐに飛び出してきた自分の様子がカリファには想像がついているに違いなかった。
「でね…恥ずかしいんだけどこの街のどこへ行けばいいのか確認してくるのを忘れたの」
 一瞬目を丸くしたカリファは小さく笑った。
「あなたらしくもない。そんなに急いで来たの?…そんなに会いたかった?ルッチに」
 カリファの声に含まれた静かな響きは憐憫なのだろうか。正義の名を背負った殺し屋集団の一番の実力者である非情な男を密かに慕う幼さに向けた。リリアは口を引き結んで首を横に振った。
「わたしにも何かできることがあるっていうのが驚いたし嬉しかったの。…ジャブラさんが言ってたみたいなルッチの身の回りのあれこれっていうんじゃないよね?」
 望まない振りをしながら本当はそれを望んでいるのかもしれない。カリファはポーカーフェイスが得意な少女の顔を探るように見つめた。
「ブルーノが酒場を開いているのだけどなかなか繁盛していてね、あなたが手伝いに入ればもっとこの街にもガレーラカンパニーの職人たちにも溶け込めて情報量が増えるだろうとルッチは考えたのね。ブルーノが1人で動かなければいけない時の店番がいれば、そしてそれがあなただったら一層便利だし」
「ガレーラカンパニー?」
 聞き返したリリアと聞かれたカリファは同時に苦笑した。
「本当に慌てて出てきたのね。まずは酒場に行きましょう。ブルーノからゆっくり事情を聞くといいわ」
 美しく、強く、理知的で女らしく。そんなカリファがなぜ自分を見る時にとても優しい顔をしてくれるのか。その顔を見るとリリアはいつも恥ずかしいような誇らしいような気持ちになる。この任務につく前に長かった髪を切ったカリファ。若々しくなった姿はとて も眩しかった。




 酒場の扉には『準備中』の札が下げられ、表も裏もドアには鍵が掛けられていた。
「タイミングが悪かったわね」
「大丈夫。ここに座って待つから」
「この街にはいろいろな人間がいるわ。気をつけて」
 裏口の石段に腰を下ろしたリリアの方を数回振り向きながら、カリファは仕事に戻っていった。
 石段に座って見上げる空はどこまでも青く、表通りから人の賑わいが伝わってくる。これがあのアイスバーグという男が自分を注ぎ込んでいる街なのか。あの奇妙な服装からは想像がつかないが、それだけの意志の強さと影響力は一体どこから来るのだろう。カリファに訊けばわかるのだろうか。
 壁にもたれて空を眺めていたリリアは店に近づく大勢の足音を聞いた。昼間から飲みに来た客だろう。店が閉まっている事は客にもブルーノにとっても残念なことだ。ぼ んやりと思ったリリアの前に人影が落ちた。見ると壁に手をついてこちらを覗きこむ男の姿があった。着ているTシャツの胸に描かれた髑髏のマークは海賊 の印。ここは造船の街だから海賊が客として滞在する事もあるのだろう。つとめて冷静に考えながらリリアは小さく拳を握った。これまでの短い人生の中で一番忘れてしまいたい記憶の中の山賊たちの姿が重なってくる。そしてその事が手の中に冷や汗をかかせる。
「店は休みか、お嬢ちゃん?久しぶりの陸だ。俺たち全員一杯やりたくて仕方がねェんだがな」
 口の中の噛み煙草をクチャクチャやりながら弱い者を見下すギラついた視線。横柄な口調。どうやらこの海賊はリリアが一番苦手なタイプのようだった。1人がこうなら多分この海賊団全体がこんな感じだろう。関わらないに越した事はない。そう決めた。
「ごめんなさい、わたしもこの店の主人を待ってるだけであとはわからくて」
 腰を浮かせたリリアの前にその男が立ちふさがった。
「お前も待ってるってのか。そいつはいい。一緒に仲良く待とうじゃねェの。店が開いたら何杯でも奢ってやるぜ」
 そんな危なそうな誘いにのる人間がいるだろうか。筋肉質の身体の横をすり抜けるようにして立ち上がったリリアはすばやく男との間に距離を取った。
「何だ?こいつは俺が何か恐い事でも言ったってのか?」
 にやりと歪む唇の形がひどく醜く見えた。
「…わたし、出直しますから」
 言いながら地面を蹴ったリリアの足は鍛えられたスピードで小路を駆けた。
「おうおう、速いねェ。俺たち海賊は陸だとちっとばかり分が悪いっつぅことか?」
 男の声には予想外の余裕があり、その理由はすぐにわかった。リリアが抜けようとした小路の出口を数人の男たちがふさいでしまったのだ。足を止めたリリアの背後からゆっくりと足音が近づく。逃げる場所はない。完全に挟まれてしまった。
「んだぁ?見た目はまあまあイケるがまだガキじゃねェか」
「贅沢言うな。いい思いをさせてくれようっていう大事な女だ。陸に上がった最初の女は格別の味がするもんだ。最初はほれ、こっちも余裕がねェからよ、ちっとばかり乱暴にやっちまうかもしれねェが。何回か回れば一緒によがって天国にいけるって」
 自分を挟んだ前後の会話を耳に素通りさせながらリリアは右手をジャケットの背中の内側に入れた。体温とは違う温度が硬い感触を伝えてきた。
「睨むなよ。金だってたっぷりやるぜ。一回いかせてもらえるたんびに金貨を一枚ずつやろうじゃねェか。豪勢な話だろ?」
 その時素早く男の前に突き出したリリアの手には銀色の輝きがあった。
「通して」
 言いながら繰り出す短剣の切っ先の狙いは確かで、慌てて下がった男の喉元から一筋の赤い流れが石畳に落ちた。
「野郎!」
 隙を狙って小路から出ようとしたリリアの肩を硬い拳が力任せに殴った。
 かわし損ねて拳の圧力の半分ほどを受けたリリアの身体は壁に強く叩きつけられた。一瞬目の前が暗くなった。それでもリリアは短剣を離さず、伸びてきた手を狙って切り結んだ。飛んだ血が頬を濡らした。その時、足元に滑り込んだ男の両足がリリアの片足を強く挟んだ。
「よし、離すなよ!」
 頭部をかばいながら倒れこんだリリアの身体に男たちの手が伸びた。引き裂かれる布の音、素肌に直に感じる空気、野卑た笑い声。そのすべてが埋もれかけていた記憶と重なってリリアの感情を大きく揺らし、絶叫が喉元を駆け上った。しかし、その声は発せられないまま止められた。
「こうなったらもう、タダ働きだぜ。腰はちゃんと振ってやるからよ」
 顔を両手で押さえつけた男の唇がリリアのそれを覆っていた。不快な感触と噛み煙草の匂いが少女の絶望を追いたてる。いくつもの手がリリアの手足を地面に縫いつけ、服の隙間から入りこんで上半身をまさぐる。さらにスカートの内側に手が侵入しはじめたとき、リリアは身体に残るすべての力を振り絞って上半身を起こし、目の前にある男の顔に向かって頭突きをくらわせた。
「こいつ!」
 男はどうやら鼻血を流し出したようだったがリリアの額にも強い衝撃が残り、思わず一瞬目を閉じた。
「いい加減におとなしくしやがれ!」
 口元を殴られて再び倒れながら目を開けたリリアは、その時幻を見たと思った。懐かしい白い姿。空で羽ばたく白い鳩。赤いネクタイをして大きく空を旋回している…まるで自分の存在を教えるように。
「…ハットリ?」
 突然脱力した少女の身体に戸惑った男たちは顔を見合わせた。
 もしもあれが、あのハットリの姿が幻でないのなら、もう恐れる必要はない。リリアの瞳に力が宿った。なぜならハットリがいるところには必ず…
「うわぁ!」
「何だ、何だ、てめェ!」
 リリアの周囲を囲んでいた男たちの壁が次々と嘘のように宙を飛んだ。その様子をスローモーションで瞳に映していた リリアは、やがて彼女に歩み寄って上から見下ろした無表情な視線を見上げてほぅっと息を吐いた。
「どこのどいつだ、てめェは!人の女に手を出しやがるとタダじゃおかねェぞ!」
 白い鳩がランニングシャツを着た男の肩に舞い下りた。
『こいつがいつ、お前の女になった?陸に上がった海賊はせいぜい干上がらないようにおとなしくしていることだ』
 身振り手ぶりも豊かに話す鳩の姿にあっけにとられた海賊たちはすぐに気を取り直して険悪な表情をかき集めたが、冷ややかな視線を向けたその男が一歩足を踏み出して構えるとぴったり揃ったタイミングで背を向けて走り出した。
 白い鳩がリリアの顔の横に舞い下りて頬に片翼を触れた。柔らかな感触に微笑んだリリアは再び自分を見下ろしたあたたかみのない顔を見上げて呟いた。
「久しぶりに聞いた…ハットリの『声』」
 最後に聞いたのはリリアがルッチと出会ったあの事件の時だったはずだ。
「最初の挨拶がそれか?リリア
 耳慣れた口調。懐かしい声。
「…ランニングシャツと刺青…」
「…何を見ているんだ、お前は」
 そうでもしなかったらただひたすらにルッチの顔を見つめてしまっただろう。心の中でため息をつきながらリリアはゆっくりと身体を起こした。半分以上露になった胸を片腕で庇い立ち上がろうとすると腰と足首に走った痛みがそれを妨げた。そう言えば壁と石畳に激突した。どちらも少女の身体が適う相手ではなかった。無表情に見下ろすルッチの視線を意識しながらリリアは必死で身体にいうことをきかせた。ここで立てなかったらエニエス・ロビーへ戻れと言われるだろう。それは絶対に嫌だった。
「…海賊は、怖いね」
 立ち上がった後身体のふらつきを隠すために壁によりかかったリリアの肩にハットリがとまった。
「ナイフは後で磨いておけ」
 拾い上げたそれを渡すためにルッチはリリアのすぐ横に立った。その距離にあるとルッチを取り巻いている雰囲気のようなものに全身が包みこまれる。リリアは無理矢理微笑んだ。
「カリファにここにいることを聞いたの?」
「あいつとは今日はまだ顔を合わせていない」
「…そう」
 首を傾げたリリアの顔にルッチの手が静かに伸びた。
「え…?」
 ルッチの指に顎をつかまれると痛みがあった。そう言えば思い切り殴られた。ひどい顔になっているだろう。
 しかしルッチの目は顔ではなく別の何かを見ていた。
「何?ルッチ」
 一瞬何が起こったかわからなかった。首の後ろを素早い気配が通り過ぎた。
「髪が伸びたな」
 言われたときにはその伸びた分の銀髪はパラパラとリリアの身体と石畳に落下していた。計算された角度で目にも止まらない速さで通り過ぎたナイフ。恐らく髪は一筋の乱れもなく切りそろえられているだろう。落ちた髪が風にのって舞い上がり光を反射した。
「それとも俺の爪の方が良かったか?」
 瞳を見開いているリリアに向いたルッチの顔に微笑のようなものが浮かび、あっという間に消えた。
「…確かに髪を切るにはぴったりのタイミングだったんだけど…、驚いた」
 呟いたリリアを見たルッチはポケットから1本の鍵を取り出した。
「まあ、いい。中でブルーノを待て。何か適当なものに着替えてからな」
「うん…」
 リリアは用心深く足を踏み出した。ちょっとぐらついたが転ばずに済んだ。安心して踏み出した次の一歩は大きく身体が揺れた。
「愚図愚図するな。観客が来るぞ」
 リリアの腰に手を回したルッチはそのまま片腕で軽々と少女の足が空中5センチで空を切る高さまで細い身体を持ち上げた。
「痛い!…いや、何でもない…です」
 ちらりと冷えた視線を送ったルッチは少女をを抱えたまま鍵を回し、裏口のドアを開けた。運ばれる振動に揺れた髪の毛の先が リリアの頬にあたる。この感触は久しぶりのものだった。リリアは指で髪の長さを確かめて微笑した。
 半年前にルッチたちが任務に出た時、リリアは今度再会するまで髪を切らないことを決めた。それを知ったところでルッチは何も思わないだろうけれど、今髪を切ってくれたのがルッチであることが嬉しかった。だからすべてを内緒にしておこうと思った。
 風が吹き、落ちていた銀色の髪が舞い散った。
 店の床に無造作に細い身体を落としたルッチの指が、腕についた一筋の髪を風に乗せた。


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