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a shower

 鼻の頭に小さくて冷たい感じがぶつかった。
「あ」
 空を仰いだリリアの頬に左右1つずつ粒があたった。
「雨か」
 呟いたルッチは眉を顰めた。身体の中に飼っている悪魔の属性が猫だからか、彼は雨を感じると一瞬肌の表面に嫌悪が走る。なんとなくそのことに気がついているリリアは視線を巡らしてどこかに雨宿りができそうな場所がないか探した。
「ルッチ」
 1軒のカフェを見つけてそっと遠慮がちに袖を引いた少女をルッチは黙って見下ろした。そうするうちにも雨脚は少しだけ強くなったようで、少女の銀髪の表面を大きな粒が転がり落ちる。ルッチの唇の両端がごく僅か、上向いた。




 美食の町。そう呼ばれるここには、味も質も最高の料理を求めて止まない人々が溢れていた。その熱気溢れる人々の中には隣町ではちょっと名が売れ出している1人の船大工ととある酒場のウエイトレスのことを知る者などいるはずもない。そのことが不思議な開放感となって道を歩くひどく対照的な姿の2人の足取りを軽くしていた…かもしれない。
 白と黒。
 男と少女。
 鍛え抜かれた無駄なく締まった身体と、色白のほっそりとした華奢な姿。
 2人の姿は実際のところ、見た者を振り向かせるほど印象的ではあったのだが。
「どういう顔をしてる」
 足を止めたルッチが振り向いたところに半歩遅れて歩いていたリリアの額が軽く触れた。山、エニエス・ロビー、ウォーターセブン。これまでに少女はこの3つの場所で長く時間を過ごしてきたのだが、今いる町はそのどれともまったく違う陽気さに満ちていた。どこを見ても珍しく、通りに漂ってくるのはそれだけで垂涎の料理の香り。圧倒された少女の顔には魅了されると同時に何かを警戒するような複雑な表情があった。まだ人の群れに慣れていない、人に対する怯えを捨てきれないその顔がルッチを見上げた途端に恥じらいを秘めた微笑に変わる。その瞬間を目の当たりにしてルッチは1つ、大きなため息をつく。
「手を」
 言葉とともに差し出したルッチの左手の意味はすぐにはリリアには伝わらなかったようだ。これ以上何を言えばいいというのか。苛立たしさと困惑が不慣れな甘さに味付けされる。
 やがてルッチの左手は少女の右手を捉え、大きく見開かれた紫の瞳が柔らかさを帯びるまで無言で小さな手を包み続けた。
 ルッチと手をつないで歩いている。リリアの意識はそのことだけに占領されていた。そっと見上げるとルッチの横顔には不機嫌に近い気配が漂っている。けれどなぜだろう。リリアはただ心地よい安堵感と速い胸の鼓動しか感じない。
 行くぞ。
 朝、目覚めたばかりのリリアが顔を洗い終えたかどうかという時に、ルッチが現れた。黒ずくめの服装に驚いていると箱を差し出された。開けてみると眩しいほどの白一色の艶やかな布地が見えた。ルッチが軽く動かした手からそれを着ろということなのだとわかった。着替えが終わると帽子を目深にかぶったルッチに連れられて建物の陰を通り抜けながらステーションまで一気に走った。服装と深くかぶった帽子、そして帽子の中に隠した髪。恐らくルッチの正体に気がついた者は誰もいなかっただろう。並んで座った海列車の客車の中でリリアは海を眺めながら最初にこの列車に乗ったときのことを思った。ルッチが今どこに行こうとしているのか、なぜ自分を連れているのかは聞かなかった。必要があればルッチの方から言葉にする。そうではない場合は教えるつもりがない時だ。そのことをリリアは良く知っていた。
 列車を降りたその町はとても大きかった。歓迎のしるしの酒が入ったグラスを差し出した男はルッチの一睨みですぐに下がって道をあけた。最初はルッチの背中を見失わないように懸命に後について歩いていたリリアは、やがて通りを飾る色彩と音を少しずつ観察できるようになった。上機嫌な男と女、ベンチで食後のうたた寝を楽しむ老人、両手から溢れんばかりの菓子を抱えた子どもたち。どの姿も生を楽しむ眩しさに包まれて見えた。
 ルッチは迷う様子もなく歩き続け、通りのはずれに建つ1軒の店に入って行った。小走りに追ったリリアはそこが少しばかり格式ばったレストランであることを知った。
 爪の先まで手入れが行き届いた手が整然と並べていくグラスと食器類。その無機質な美しさに見とれていたリリアはふと気がついて微笑した。
「…何だ?」
 これが列車を降りてから最初の言葉だった。
「ルッチと食事するのはエニエス…あの島以来だね」
 そう言えば、そうか。ルッチは記憶を辿った。確かにウォーターセブンに来てからルッチはリリアと食事をしていない。ブルーノの店でカウンターを挟んでいるときは客とウェイトレスで、ルッチの部屋にいるときはリリアが掃除をしているか…或いは気持ちが向くままに肌を重ねたことが数回あった。エニエス・ロビーにいた頃は時々衛兵に食事を運ばせて部屋で食べることがあり、そんな時にはなぜかこの少女を一緒に座らせた。今思ってもその理由はわからない。
「あそこよりは味はいいはずだ」
 ルッチは少女のグラスに少しだけワインを注いだ。リリアはそのルッチの手の動きに見とれた。これまではカクやカリファ、ブルーノのグラスに注ぐ同じルッチの手を見てきた。ハットリの小さなグラスにも。その手が今相手にしているのは自分のグラスだ。この幸運は何だろう。
 リリアは改めて不思議に思った。ルッチはなぜ自分をこの町に連れてきたのだろう。上等な手触りの美しい新しい服。ワインを注いでくれる手。
 ルッチの目はリリアの心の中の疑問を読み取っている。リリアはそれを感じた。
「気が向いた。それだけだ」
 短く言ったルッチがグラスを小さく上げた。慌ててリリアもグラスを上げると、不慣れな味を恐る恐る口に含んだ。




「おまえの瞳の石だな」
 食事の後で再び気まぐれに歩いていたルッチが足を止めたのは、とあるショーウィンドウの前だった。ガラス窓の中に飾られていたのは様々なカットを施された様々な色の石たちだった。ルッチの視線の先には卵形の深い紫色の石があった。それからその石と見比べるようにリリアの瞳に落とされたルッチの視線にリリアは胸の中に不思議なざわめきを感じた。これは何だろう。考えているうちにルッチは店の中に姿を消していた。
「気に入らなかったら捨てろ」
 手の中に落とされた白い箱。大切に握り締めることはできても上手い言葉が浮かばない。それでもルッチはリリアの表情から何かを見て取ったらしく、再び背中を向けて歩き出した。




 知らない町での気まぐれなそぞろ歩き。ルッチのそれは特に周囲を眺めて楽しんでいる気配は微塵もないのでまるでらしくはなかったが。
 そんな時に2人の上から降り注ぎはじめた雨粒だった。
「…ルッチ」
 躊躇いがちにもう一度名を呼んで雨宿りの場所を示すリリアにルッチは一瞬の微笑を見せた。
「大した降りじゃない」
 言いながらルッチは繋いでいた手を引いて少女の体を腕の中に入れた。
「濡れるなら、それもいい」
 濡れてなお輝きを失わない髪にルッチはそっと唇を触れた。肌に張り付き出した衣類越しに透けて線が見える細いシルエットは眺める価値があるように思えた。腕の中に息づかいと体温を感じていると微かに己の中の歓喜の存在を意識した。今この少女とこの場所にいる彼はとっくに普段の己を失っていたのだ。それを自覚して心の中から笑いが込み上げた。
「馬鹿げているな」
 唇を白い首筋に移動するとリリアは身体を震わせた。このまま束縛して身体の隅々まで抱きつくしたいという衝動とただ傍らに置いて呼吸する姿を目で愛でていたいという想い。ルッチは目を閉じて2つの衝動を秤にかけて楽しんだ。
 雨脚が強まった。
 このまま全てが洗い流されればいい。
 ルッチの中を狂おしい想いが駆け抜けた。


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