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傷 跡

 指先が傷跡にそって肌の上を滑る感触を少女は小さく身震いしながら受け止めた。思わずしがみつくと、広い背中の上にある少女の手もまた、指先の持ち主の傷跡に触れるのだった。
 ルッチの背中にいくつもの傷跡があることをリリアが知ったのは出会ってすぐだったという記憶がある。初めてエニエス・ロビーに着く前、ルッチにとっては帰路の途中で2人は強いにわか雨に降られ、古びた納屋で雨雲が通り過ぎるまでの時間を過ごした。その時にルッチが着替えるため無造作に上半身を包んでいた服を全て脱いだ。山の生活で荒くれ男たちの顔や腕に刻まれた傷を数多く見てきたリリアだったが、ルッチの背中の傷にはひどく驚いた。円形の大きないくつもの傷。これだけの傷を受けても命とは身体から流れ出てしまわないものなのだろうか。実際にはルッチのその傷はリリアがこの世に生を受けた頃にできた古いものだったのだが、少女の目には真新しい衝撃と一緒に映った。
 傷跡の存在を知ったのは何年も前だったが、実際に傷に触れたのはまだこれでほんの数回目だった。ルッチが気まぐれに時たまリリアを抱くようになってからしばらくは、少女には彼に触れることを許さなかった。その一方的な触れ方に少女が慣れはじめた最近になって、なぜかルッチは少女の手に自分の背中を与えるようになった。傷に触れた少女の指の躊躇いをルッチは僅かに唇をゆがめて受け止めた。
「お前が生きてきた時の長さと同じくらい古い傷だ。痛みなど、初めからない」
 痛みがない。
 リリアはルッチのその言葉の方に痛みを感じた。今、ルッチの指が自分の傷に触れると、まだ生々しい痛みとそれを刻んだ刃の感触の記憶に肌の表面が鋭敏さを増す。ルッチの指がゆっくりと往復すると少しずつ痛みがほどけていく。
 ベッドの上で身体を横向きに横たえ、2人は向かい合っていた。ルッチの胸に額をつけながらリリアは頭の上から下りてくるルッチの声を聞いた。
「気にする必要はない。それこそが馬鹿らしい。あの連中の言葉はまったく正しい」
 その言葉に反応して震えた細い身体をルッチはさらに腕の中に包み込んだ。
「俺は殺すためにいる。この時間の方が一時の幻だ」
 言いながらリリアの髪に触れたルッチの唇の動きは穏やかでゆるやかだった。




 ベッドでともに時間を過ごすには最高にスリリングな殺人兵器だと、その女はルッチのことを描写した。ウォータセブンのステーション前。偶然に出会ったのは以前エニエス・ロビーに駐在していたことがある女将校と海兵の2人連れだった。酒場の買出しの途中リリアの事を見知っていたらしい女に呼び止められ、女は無遠慮に少女の全身を眺め回した。
 気に入らないわね、その髪も顔も白い肌も。あなたを玩具にするほど堕ちてはいないでしょうね、あのロブ・ルッチは。
 毒を含んだ威圧的な女の言葉にリリアの心は単純に傷を受けた。女と一緒にいた海兵はあいまいな視線を少女に向け、小さく囁いた…ロブ・ルッチ…あの人のそばにいるのはあまりに危険です…と。リリアはその言葉を自分の弱さに対するものと受け止め、背中の傷の疼きを感じた。誰に言われずともわかっている。本当なら自分はルッチのそばにいることが許される人間ではない。わかっている。十分に。
 身体を硬くしたリリアを見下ろし、ルッチは唇をゆがめた。あれは1度抱いたことがある女だった。女の方が彼を抱きたがったがそれは許さなかった。正義の文字を背負うには強欲で俗物過ぎる人間に思えたが、最後にはベッドの中で似合わないほどしおらしかったような記憶がある。
 女が吐き散らしていた毒は単なるリリアへの八つ当たりだ。それに、彼の身体には確かにベッドの中での技巧が一通り植えつけられてあるし、彼の身分は政府の殺し屋以外の何者でもない。女の言葉は正しい。単なる事実を毒気で彩って少女にぶつけていただけだ。無視するか冷笑してやればいい。彼ならそうする。
 でもリリアは愚かなほど真っ正直に傷ついていた。不思議なことにルッチはその愚かさに感じるはずの嫌悪を感じなかった。放っておくのが無難だ…そう知りつつも状況を見下ろしていた屋根から地に下りて少女を腕に捕らえた。そしてそのまま屋根伝いに部屋に連れ戻った。
 少女の背中の傷の経過を確かめるために上半身の服を脱がせた。俯いたままの少女の頑なな姿勢を壊したくなって抱き寄せた。ベッドに下ろそうとすると傷の痛みを予感してか少女の身体に力が入った。その身体を静かに横向きに寝かせて上衣を脱いだ。向かい合って身体を横たえ少女の顔を覗き込むと目の中に光るものが満ちていた。
「どれほどの痛みが残っている?」
 ルッチは数日前にその手で抜糸したばかりの傷を指で辿った。反応してしがみついたリリアの指が彼の背中の傷に触れたのを感じた。それぞれが背中に抱いた恐らく一生消えない傷跡。ルッチはさらにもう1本の傷に触れた。
「…あの女が気になるか?」
 反射的にすばやく首を横に振った少女の様子にルッチはある可能性に思い当たった。
「もしかしたら…嫉妬というやつか?」
 リリアはまた首を横に振った。決してルッチの顔を見ようとしない少女の姿を見ているうちにルッチの唇に淡い微笑が浮かんで消えた。
「貞節や良心といった類の言葉には縁がない男だと言ってあるはずだが」
 どちらも殺し屋には必要のない似合わない言葉だ。ルッチはリリアを見守った。少女は身動き一つしなかった。と思った瞬間、少女の目尻から一筋の涙が落ちた。
 ルッチの腕の中にいながらだんだんと間に距離ができていく気がした。ルッチがどういう言葉を重ねようとリリアにはルッチの姿はとても美しいものに見える。女が何を言おうとそれは変わらない。それなのに女の言葉が頭から離れないのは、多分、ルッチが言ったように嫉妬という感情につかまってしまっているからだ。自信あり気な女の口調、すらりとした肢体、海軍将校という強さを認められた身分。そのどれもが リリアにはまったく届かないものだった。いちいちそれと自分を比較して惨めな気分を味わうのは馬鹿げている。わかっているのに空回りする気持ちが止まらない。ルッチの手が、唇が、女の肌に触れる…そのことを思うとただ胸が苦しくなった。ルッチにこんな感情を見せたくないと思えば思うほど結果は逆になった。
 ただ我慢できずに泣くなんて子どものようだ。
 さらに深く俯いたリリアの頭がルッチの胸に触れた。
「バカヤロウ。お前はこれから一体何度こんな風に涙を流すんだろうな」
 まるで面白がっているようなルッチの声が頭の上から下りて来た。それに続いて額に唇の感触が落ちた。2度、3度。唇が触れるたびに波立ったリリアの心がゆっくりと静まっていく。そうなると今度はそう簡単に静められてしまうのが恥ずかしい気がしてしまい、 リリアはどうしていいかわからないままにさらに身体を硬くしていた。
 ルッチの手が少女の髪を梳いた。その手はそのまま頬の上を通り片方は少女の顎をとらえ、もう一方は背中に回った。
「覚えておけ…2度以上抱きたいと思ったのはお前が初めてだ」
 今のは本当にルッチの言葉だろうか。瞳を見開いたリリアの顎を持ち上げ、ルッチは唇を重ねた。柔らかく覆いながら舌でゆっくりと少女の唇の上をなぞった。手で傷の上を撫ぜると、少女の手が静かにルッチの背中に回った。その細い指先もゆっくりとルッチの傷跡の上を動いた。
「ルッチなら…あのナイフに負けないのに」
「『鉄塊』を身につけたお前には興味が湧かないだろうな。俺とお前は存在する意味がまったく違う」
「意味?」
「どうでもいいことだ」
 この傷を受けたときにルッチは本当に痛みを感じなかったのだろうか。リリアはそっとひとつひとつの傷を辿った。今からではどうすることもできないが、それでもせめてその記憶を癒すことができればと願った。微かに眉を顰めたルッチはそれでもリリアに止めろとは言わなかった。
「後ろを向け」
 言いながらルッチは少女の身体を転がした。白い肌に浮き上がった二筋の傷。人の肌はこんなにも傷つきやすいものだっただろうか。唇を寄せると細い身体が震えた。
「敏感だな」
 ルッチは傷を甘噛みしながらゆっくりと顔を移動した。傷をつけた凶器の記憶を大事に抱えている必要はない。この唇と指の記憶にすり替えてしまえばいい。少女の身体の反応を感じ取りながらふと思う。背中の傷を受けたとき、あの爆音と圧倒的な熱風の中で彼は何を思ったのだったか。年齢的には今のリリアよりも若かったはずだ。相手の恐怖を全身で感じながらこの身体で殺戮の渦を巻き起こした。彼の中に恐怖はなかったし、恐らく歓喜もなかった。ただ、己の身体の力をはっきりと認識しその力の大きさに喜びを感じた。もっと強く、もっと完璧に。それからの日々も周囲が求めるものと彼自身が求めるものは常に一致していた。他を見る必要はひとつもなかった。
「ん」
 漏れ出したリリアの声に甘さを感じた。もっと聞きたくなって甘噛みを強め、指の動きは逆にやわらかくした。素直に返ってくる反応を楽しんだ。
「安心しろ。もしも開いたらまた縫ってやる」
 本当は少女の傷が完全にふさがっていることはわかっていた。
 肌の感触と耳から聞いた言葉でいらない記憶を追い払ってしまえ。
 そう思った。
「ルッチ…」
 重なる刺激に耐え切れずにリリアの声が彼の名を呼んだ。
 ルッチは唇を離すと自分の胸に少女の背中がぴったりと重なるまで華奢な身体を引き寄せて抱いた。リリアにはああ言ったが少女が今ここにこうしている意味は考えない方がいい。ルッチは少女の身体の震えが止まるまで黙ってただ抱いていた。
「ルッチ」
 声の変化からリリアが何かを求めているのがわかった。それが何なのかわからないまま抱いている腕の力を増した。伝えることに慣れていない少女と受け取ることを考えずに生きてきた男。これは滑稽な組み合わせなのかもしれない。
 襟足に口づけを落とすとリリアは自分を包み込んでいるルッチの腕を抱きしめた。触れ合っている上半身のすべてから互いの熱が浸透した。腕の中のぬくもりに感じる心地よさに危険なものを感じながらもルッチは目を閉じてその満足感に身を任せた。今夜はあえて少女の身体を開かないでおこうと思った。ただこうして触れ合ったまま眠りに落ちるのも悪くないかもしれない。ゆるやかに、ただこのまま。
「眠れるなら眠れ、リリア
 泊まっていけという言葉を使うのは躊躇われた。その理由はわからなかった。
 リリアはルッチの体温を感じながら逸る胸を抑えて頷いた。きっとそう簡単には眠れない。いつまでも眠ることができなかったらルッチは呆れてしまうだろうか。
 リリアはそっとルッチの腕を抱きなおした。するとルッチの唇が耳朶に触れた。




 そのまま迎えた初めての朝、窓ガラスを通して注ぐ陽光がベッドの上の眠っている2人を包み込んでいた。
 少女の無垢な眠りはがいつのまにか傍らの男にも移ったのかもしれない。
 男の口元には透明な笑みが浮かんでいた。


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