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間奏曲

 海を見たのはルッチに出会った時が初めてだった。エニエス・ロビーに向かう道中に乗った船と海列車の上で、その視界の中に限りのない水の広がりと生き物のような動きに圧倒された。
 それまでリリアは赤ん坊の時からずっと山の中で生きてきた。それなのに、何故だろう。たまに不思議な夢を見ることがある。
 揺れる波にぶつかって砕けた眩しい陽光。思わず目をつぶると自分が誰かの腕に抱かれてゆらゆらとあやされていることに気がつく。揺れる波、揺れる船、2つに合わせて揺れる温かな腕。その時に鼻腔の中には潮の香りまでが流れ込む。
 懐かしい感じがする記憶に似た感覚。その夢に五感を満たされて目覚めた朝はいつも感覚が鋭敏になっている。幸福な思いの中に忍び込む緊迫した気配。早く、という声がどこからか聞こえる。
「ぽっぽー?」
 突然変化した夢の中の声に戸惑いを感じながら目を開けると、頭の上から少女の顔を覗き込んでいるハットリの逆さまな顔があった。
「ん…おは…よ…」
 半分口の中で呟いたリリアは大きく身体を伸ばした瞬間に今いる場所を思い出した。
 ルッチの部屋。ルッチのベッド。
 慌てて身体を起こすといつの間にか素肌の上に下着とルッチのシャツ1枚という姿に着替えさせられているのがわかり、さらに慌てて床に下りた。
「お目覚めか」
 不機嫌そうな声に目を向けると、バスローブに身体を包んだルッチの姿がブラインドの隙間から差し込む薄明かりの中に浮かんでいた。一人掛けのソファに身体を預けて肩肘をついているその姿は特に何をしていたわけでもなさそうだ。
 何かを言わなければならない、と思ったリリアは、その何かを思い出せずに困惑しながら立っていた。
 おはよう、とごく普通の朝の挨拶を言うにはルッチはひどく難しい相手だ。投げかけた言葉は大抵フンと鼻で笑って流される。まして、 リリアはルッチの部屋で朝を迎えるのはこれが2度目で、その事だけでも大いに戸惑う理由なのだ。
 自分の服はどうなったのだろう。部屋の中を見回していると不意に傍らにルッチが立った。
「ずぶ濡れの服はバスルームに放り込んである。後で何とかしておけ」
 ルッチは片腕を少女の身体に回して静かに引いて耳元に唇を寄せた。
「カクがあの後、寄っていったぞ」
 ルッチの言葉がリリアに昨夜の動揺を思い出させた。
 カリファ、ブルーノ、そしてカク。
 偶然の目撃を呼んだのは部屋の雨漏りだった。




 夜から降り出した雨は次第に雨足を強め、そのためかブルーノの店の客足はもう、しばらくの間途絶えていた。ブルーノは肩を竦めて店を閉める準備をはじめ、リリアには部屋に上がる許可を与えてくれた。軽い風邪をひいていたリリアは思いがけない早仕舞いをありがたく思い、部屋に戻るとシャワーを浴びた。
 多分、その訪問者は少女がシャワーを浴びている間にひっそりと静かに夜の中を訪れたのだろう。部屋の中央に水溜りを作っている雨漏りに気がついて少女が外に出て階段を下りていった時、もうすでにカリファはブルーノの腕の中にいた。
 店の裏口の扉をあけたリリアは中の空気に人の声を聞いた。
「…お願い…私を癒すことができるのは、あなただけなの…ブルーノ…」
 囁くようなカリファの声には懇願と切実な響きがあった。
 カウンターの上に背中を預けた美しい肢体を震わせながら見上げるカリファ。覆いかぶさるようにしながらじっと見下ろしているブルーノ。暗く落とした灯りの中でも2人の様子は一瞬で目に飛び込んできた。ブルーノは少女の存在に気がついた、とリリアは思った。それでも驚きに動けなくなっている少女のことは無視したままブルーノはそっとカリファの額を撫ぜた。
「気にすることはない。あの男を愛するのが…今のお前の仕事だ。苦しむことも傷つくことも必要ない。俺が…そうさせない。お前が辛くなったら、俺のこの手で…身体で…」
 カリファの肩から腕を伝い下りたブルーノの大きな手が愛撫を目的とする形をとった。
 2人の唇が近づいて触れる寸前になった時、ようやくリリアは外に戻ることができた。カリファとブルーノ。震えはじめた少女の身体は何かにぶつかって止まった。
「他にも目撃者がおったとはな」
 振り向こうとしたリリアの身体を腕でしっかりと拘束したのはカクだった。リリアはその腕のきつさに思わず声を漏らした。
「初めての男というのはやはり特別なものなんじゃろうな…リリア?」
 普段と変わらない滑らかな声の響きとは違ってカクの腕には細かな震えがあった。
「この任務についた男たちの中でわしだけがカリファの肌を知らん。わしだけがカリファの目には男として映らん。いつもはそれを逆に利用して弟のような顔でカリファの部屋まで入り込んどるくせに、愚かじゃな、今こんなに気持ちを叩きのめされとるなんて」
 カクは少女を抱く腕にさらに力を込め、甘くて清潔な匂いのする濡れた髪に唇を埋めた。リリアは大きく身を震わせた。カクに対して抱いている温かな信頼感と突然の唇の感触に対する動揺が胸の中でぶつかっていた。
「すまん、リリア。みっともないところを見せてしまったな。この上お前まで傷つけてしまったら、わしはもう自分を見失ってしまうじゃろう。行くんじゃ、リリア。頼むからルッチのところへ走って行け。ルッチの熱で身体を温めてもらって、できればまだわしに対する好意を残しておいてくれ」
 腕をほどいたカクはリリアの両腕にそっと手を添えてゆっくりと振り向かせた。少女の顔を覗き込んだカクはやがて微笑した。
「そんな顔をせんでいいんじゃ、リリア。選ぶのはカリファじゃ。カリファが気持ちを紛らわすことが出来て満たされるなら、もう、それでいいんじゃ」
 カクは少女の唇が震えるのを見、瞳に溢れた涙を見た。
「お前がルッチの次にわしを贔屓にしてくれていれば、それでいいんじゃ」
 カクは微笑を深めて少女の額に唇を触れた。
 ウォーターセブンの町は年に数回という規模の大きな嵐に襲われていた。必死で前に進む少女の身体は何度も風にさらわれそうになった。正面から吹き付ける風に呼吸が苦しくなり、何度も後ろを向いて歩いた。ようやくルッチの部屋の前に辿りついた時には、ただ頭からドアにぶつかることしかできなかった。
 ドアを開けたルッチは無表情にリリアの顔を見下ろした。その姿を見た途端に全身の力が抜けたリリアの身体が膝から落ちると、膝が床に触れる寸前に片腕で抱え上げて部屋の中に入れた。
「…無茶をする」
 ルッチの腕の中で少女の身体はガタガタと震えていた。紫色の瞳はただルッチを見つめ唇は言葉を紡ぎだそうとするのだが、身体の震えがそれを許さない。ルッチはしばらくそのまま少女を抱いていた。細い身体は心なしか普段よりも少し体温が高い。震えているのは寒さだけが原因ではなさそうだった。ため息をつくとルッチはテーブルの上のボトルに手を伸ばした。
「とにかく、その震えを止めろ」
 直接酒瓶から大きく呷ったルッチはそのまま唇を重ねて少女の口に酒を流し込んだ。そして唇を合わせながら少女を抱き上げ、バスルームに運んだ。バスタブに湯を入れるために床に下ろそうとしても少女の両手はルッチのシャツを握ったまま離そうとしない。額を胸に小さくこすりつける仕草に胸をつかれた。不覚にも。
 ルッチはリリアを抱いたまま居間に戻り、ソファに腰を下ろした。片腕を少女の身体に回し、空いた手でまたボトルを取って口にあてた。唇を合わせながら無意識に髪を撫ぜていた手に少女は気がついただろうか。少女は素直に与えられた酒を飲み下し、目を閉じたままルッチの胸にもたれていた。やがて身体の震えがおさまった頃には呼吸もゆるやかになり、そのまま眠りに落ちた。念のためにそのまま数分が過ぎるのを待ってからルッチは少女をベッドに運び、着替えさせてから毛布をかけた。
 その時、強い風雨の唸りの中、軽いノックの音が聞こえた。ルッチはドアを開け、立っているカクの顔を一瞥した。
リリアは無事に着いたか?」
「ああ。何か滑稽なほど動揺していたようだが」
「それは多分ほとんど…わしのせいじゃ」
 ルッチはカクの顔と拳を握った手を見た。
「…カリファか」
「言うな。お前には関係ないし、任務とも関係のない話じゃ」
「そう願いたいな」
 ルッチが顎で中を示すとカクは入ってドアを閉め、真っ直ぐにベッドの横に歩いて行った。
「安らかじゃな…よかった。あんたはほんとに不思議な男じゃな、ルッチ」
 カクは少女の寝顔から床に落ちたままになっている濡れた衣類に視線を移した。部屋にいたはずなのに濡れて透けているルッチのシャツを見ればルッチが着替えさせたのだろうということがなんとなくわかった。栓が抜けたままになっている酒瓶から別の光景を想像することもできた。
「お前に言われるのは少々心外だが」
 ルッチが頷くとカクはその酒瓶から一口飲んだ。
「…リリアに、あんたがカリファを抱いたことがあることを…直接言葉にした訳ではないが結局は言ってしまった…すまんな」
 カクの言葉にルッチの唇に笑みが浮かんだ。
「こいつはとっくに知っている。気にする必要は皆無だ」
 カクは目を見開いた。
「お前が言ったのか」
「そういうことになるな」
リリアに…そこまで惚れているのか?」
「意味がわからんな」
 ルッチはカクの手からボトルを取って飲んだ。
「嘘をつけんのじゃろう、リリアには」
「必要がないだけだ」
 カクは笑った。
「ありのままじゃないといやだというのはかなり高い理想だと思うぞ。わしなんか、笑顔の裏の心の中身は真っ黒じゃ」
「こいつの前でもか?」
「ん…いや。確かに、リリアの前では嘘はつかん。そうか、この子はそういう子なんじゃな、わしらにとって。で、あんたはこの子を選んだんじゃ」
「どうだろうな」
「なんじゃ、いつもみたいに真っ向から否定せんのか?素直じゃな」
「酒を飲んでいるからな」
 ルッチがボトルを渡すとカクは今度は大きく呷った。
「さて、これで景気をつけさせてもらったし、飛んでいくか。邪魔をしたな、ルッチ」
「…まあ、いい。お前なら嵐にも勝てるだろう」
 カクは足を左右順番に軽くストレッチした。
「負けたら、所詮わしもそこまでの人間だったということじゃ。じゃあな。リリアを頼んだぞ」
 入ってきたときよりも軽い足取りで出て行ったカクの後姿を見送ったルッチの唇には、皮肉な微笑が浮かんでいた。
「お前に頼まれる筋合いもないがな」
 ハットリを籠から出してやったルッチはその白い姿がリリアの枕元に落ち着くのを見届けてから灯りを消した。毛布をめくり少女の隣りに身体を入れると細い身体から放たれる熱さが伝わってきた。毛布を掛けなおしてからうなじに一度だけ口づけを落とした。




 昨夜の出来事を思い出したらしいリリアの様子に構わず、ルッチは少女の銀色の髪を指で梳いた。どうやら熱はすっかり下がったらしい。ならば大人しく寝かせておく必要もないだろう。少女の身体にはいかにも大きい彼のシャツの裾から手を入れて素肌を抱き寄せると リリアは驚いたようにルッチの顔を見上げた。そのタイミングに合わせてルッチは深く唇を重ねた。
「ん…ル…」
 離れようとする身体をぴったりと抱き寄せるとやがて少女の身体から力が抜けていった。
「考えるな。行為には所詮その時々の刹那の快楽しか意味はない。カリファがそれを求めるのもブルーノがそれを与えるのも自由だ。カクもそのことを知っている。それ以上の意味を見つけようとするのが愚かな過ちだ」
 行為をせずにただ互いのそば近くに身体を置いて眠るひと時にある意味は。ルッチの肌にはまだ眠っている少女の温かな体温が残っているように感じられた。
「ルッチ…」
 自分の名を呼ぶ少女の声に感じるものは。
 そっと背中に回された手の感触に敏感になる肌の意味は。
 ルッチはベッドに腰を下ろし、足の上に抱き上げたリリアと向き合った。背中の傷を含めた少女の全てが彼の上に、腕の中にあった。そのまま上体を倒し胸の上の少女の身体の重みを感じた。
 寝転がって腹を見せるのは相手に対する服従のしるし。動物のそれを思い出したルッチは唇を歪めた。自分の姿はまさに今、その状態ではないか。こんなちっぽけな少女の身体の下で。
 ルッチは不思議そうに彼を見下ろしているリリアの頭に手をかけ、静かに引き寄せた。
「キスを上手くやってみろ。きっと意外とお前の役に立つぞ」
 リリアの頬が赤く染まった。視線で促しながらルッチが辛抱強く身体を投げ出したままでいると、少女は躊躇いながら顔をゆっくりと近づけた。
 ふわり。
 落ちた髪が頬に触れるのと同時に唇の先を温かなものが一瞬かすった。すぐに逃げるように離れた少女の身体を捕らえ、ごろりと横に転がった。
「まだまだだな」
 なぜ自分の機嫌がいいのかわからないまま、ルッチは目を閉じた。リリアはそんなルッチの表情に見とれ、心の中から勇気を搾り出した。
 ルッチに祝福を。神という存在は本当はどこにもいないのかもしれないが。
 リリアはルッチに身体を寄せて額に口づけした。そっと。それでもさっきのものよりは長い時間をかけた口づけだった。
 リリアが離れるとルッチの唇に微笑の影が通り過ぎた。
「…悪くないな」
 ルッチは目を閉じたまま少女の身体を捕らえ、腕の中に抱き込んだ。
 互いの胸の鼓動を感じながら、額と額を触れ合わせて。
 リリアの胸の中に昨夜からあった痛みはそのまま小さくなって心の底に消えた。
 どこからか波の音が聞こえた気がした。


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