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脆 弱

 その日。珍しいことにカクやルッチはもちろんガレーラカンパニーの船大工達は誰も、ブルーノの店のランチタイムに姿を見せなかった。
 だから、知りようがなかったのだ。いつものように掃除に行って、鍵を使ってルッチの部屋のドアを開けるまでは。
「ク、クー。クルッポー」
 中に入ってドアを閉めるよりも早く、白い鳩が宙を流れるように飛来した。リリアは驚きながらその姿を指先にとまらせた。
「ハットリ!」
 低くて鋭い声が短く響いた。ルッチのものだとは思ったが、その声の質に違和感があった。いつもの滑らかさがないガサガサと荒れた声。これまでに聞いたことがないハットリに対する厳しい口調。
 リリアはそっと1歩踏み出した。
「来るな。今日は掃除はいらない。帰れ」
 まだ足が床に着く前に拒絶の言葉が届いた。不安が足を速めた。
「…ルッチ」
 ベッドの中、横たわっているルッチの姿があった。その姿に少女の胸の奥が強く短く締め付けられた。
 昼寝をしているわけはない。
 強い不安が少女を襲う。常に強く孤高な存在であるはずのルッチの予想外の姿を見たことに対する驚きとともに。
 ルッチの瞳が少女の顔を睨んだ。そこにあるのは拒絶と怒りの気配だけだった。
「見るな。帰れと言ったぞ。目障りだ」
 ルッチの頬に見慣れない赤らみがあった。唇が乾いて小さくひび割れているのも見えた。いつもの静寂を切り取ったような気配は消え、速い息づかいが聞こえている。恐らく、熱があるのだ。
 ここしばらく、ルッチは昼間は船大工としてガレーラカンパニーに行き、夜は行き先を告げずに出かけていた。もっとも、行き先を告げないのはいつものことで、ただ、連続して毎日となるとウォーターセブンに来てから初めのことだった。顔を見られないことを寂しく思った。掃除に寄った夜はつい、いつもより遅い時間までその帰りを待ってみたりもした。でも、考えてもみなかった。ルッチの身体に変調がきたすことなど。
「ル…」
 額に向かって伸ばした手は見えない動きで払われた。ふと痛みを感じて手の甲を見ると一筋の傷から浮かび上がり、そこから血が滲んでいた。
「帰れ。ここ以外のどこにでも行け」
 荒々しく呟いたルッチは、顔を背けて目を閉じてしまった。
 全身での拒絶。それを肌の表面で痛いほど感じた。手の傷の痛みはそれに比べたらどれほどのものでもない。手負いの獣が牙をむき出して体毛を逆立てているのと同じ。不用意に触れようとした自分が愚かだったのだ。
 汗が浮かびはじめた額。その額に張り付きながら落ちて枕に広がる黒い髪。閉じられた瞳、苦しげに呼吸する鼻と荒れた唇。
 それでもルッチの横顔には少女の心を惹きつけてやまない美しさがあった。
 リリアはそっと身体の向きを変えて歩き、ハットリの籠の水皿と食事用の器を確かめた。中身はたっぷりと補充されたばかりのようだった。静かに丸い頭を撫ぜてやり、籠の中に入れた。それから1歩ずつ足音をたてないように慎重に歩いてキッチンコーナーに行き、ボールに水を張ってタオルと一緒にトレーにのせた。冷やしてあったミネラルウォーターの栓を抜いてグラスと一緒にそれものせた。
 ルッチは眠っただろうか。それとも、ただ目を閉じて自分が出て行くのを待っているだろうか。いくら足音を忍ばせてもルッチが気配を読み間違うことはない。リリアはゆっくりとトレーを持ってベッドのそばに引き返した。
「…しつこいぞ」
 顔を背けて目を閉じたまま、ルッチが呟いた。声を上げるのもだるいのだろうか。リリアはトレーを床に置くと膝をついてタオルを濡らした。軽めに絞ると指先で布の表面の感触を確かめた。
 きっとほんの少しだけ今より楽になる。だから。
 拒絶されることを半分覚悟しながら、タオルを持った手を伸ばした。
 目を閉じたまま唸ったルッチは結局黙ってタオルを額にのせさせ、短く息を吐いた。ホッしたリリアはなるべく静かに額の汗をぬぐった。ルッチの肌は驚くほどの熱を放っていた。
 次は。水のボトルとグラスを眺めたリリアは考え込んだ。高熱を発しているルッチに起き上がってもらって水を飲ませるのは酷だ。きっと絶対に自分には身体を支えさせてくれないで無理をするだろう。それなら。思いついたリリアはポケットからハンカチを出してタオルと同じように水で濡らした。それからほとんど絞らないまま水滴が落ちないように手で包み込んでルッチの口元まで持っていった。唇をハンカチから落ちる水で湿すとルッチの喉が小さく鳴った。そのまま絞って水を飲ませた。
 タオルとハンカチを絞りなおそうと持ち上げたリリアの手は、緊張で細かく震えていた。




 少女が来たことは記憶にあった。煩わしい、と思い振り払った。だが、そこからは次第に曖昧になった。浅い眠りと目覚めを交互に繰り返した。なぜか寄せては返す波の音が聞こえる気がした。
 熱がこもっていた額と唇に冷たい感触が与えられ、朦朧とする意識の中で素直に心地よいと感じた。
 その冷たさがなくなるたびにすぐに次の冷たさが与えられた。
 全身が震えだすと情けなさと関節の痛みに襲われた。すると全身が隙間なく毛布で包み込まれ、不快な新しい空気を遮断してくれた。足の先にはあたたかなものをあてがわれた。
 すべてを与えているのが華奢な手であることに気がついたのはいつだっただろう。そんなはずはないと思った。彼はその手の持ち主をとっくに部屋から追い払ったはずではなかったか。
 やがて、その手が震えていることに気がついた。同時に頬に落ちてきた慣れない感触から手の持ち主が泣いていることを知った。恐れているのか…彼を。彼が見せてしまった馬鹿らしい脆弱さを。
 不安か。
 そう問いかけたはずだった。答えは聞こえず、ただ、躊躇いがちに彼の手に触れてきた小さな手を感じた。
 治って、ルッチ。お願い…苦しまないで。
 祈りに似た無言の響きがその手から伝わってきた気がした。自分のために祈る者があろうとは思わなかった、と苦笑しようと思ったのだが、なぜか代わりにその手を短く握り返していた。
 泣くな。もうすぐ回復する。病など体の表面を通り過ぎる迷いに過ぎないのだから。泣くだけ無駄だ。
 その手が額に触れる感じは不快ではなかった。
 無防備に身体を預けて世話を焼かれることは、想像していたより煩わしくもなく屈辱感もなかった。
 ずっと病や怪我に寝込むことは不名誉極まりない失態だと思ってきたし、実際そういう扱いを受けてきた。1人用の病室という名の独房に放り込まれるくらいなら這ってでも任務を果たす方を選んだ。最後に寝込んだのはまだ1人の人間として数えられるにはほど遠い、ちっぽけな餓鬼の頃だったと記憶している。それからは何があっても1人で密かに処置し回復してきた。だから、他人の痛みもないものとして目をくれることはしないできた。1人1人が自分の納得いく形で強くあるだけだ。そう思ってきた。
 しかし、少女はそうではなかった。懸命に生きながらも弱さを持っていた。それは本当ならルッチにとって嫌悪、或いは無関心がふさわしいはずだった。それなのにいつの間にか少女を抱き、細い身体をそっくりそのまま腕の中に包み込んでいた。そして今、その少女が彼の苦痛を取り除こうと必死になっている。これはもう、笑うしかないのかもしれない。
 また、涙が落ちてきたのを感じた。
 だから…泣くな。
 呟いたはずの言葉は少女に届いただろうか。思いながら最後は深い眠りに身体を任せた。再び身体に力が戻る気配を感じるのは悪くなかった。




「…バカヤロウ」
 ルッチが目を開けたとき、リリアは彼の傍らに突っ伏して膝を床に着いたまま眠っていた。まだ彼の左手を握りながら。その頬には確かに涙の跡があった。
 夢ではなかったというわけだ。
 ルッチは静かに起き上がった。身体はすっかり軽くなっていた。少しだけ高熱の名残の気だるさがあった。
 ハットリが肩に舞い下りた。
「おまえも負けずに心配か」
 少女の睡眠を妨げないように低く囁いたルッチに、ハットリも羽だけで返事を返した。
 全身に残る汗の記憶を不愉快に思ったルッチは時間をかけてシャワーを浴びた。ガウンを羽織って浴室を出ると、リリアはまだ眠っていた。ルッチはため息とともにその身体を抱き上げて毛布の中に寝かせた。ふと、少女の右手の甲に残る一筋の傷に気がついた。この手を彼が振り払った時に。記憶が蘇った。爪が滑らかな肌の表面をかすったはずだ。
 愚かだな、お前は。
 ルッチは身をかがめて傷に唇を触れた。出来れば傷を舐めり取りたいと思った。
 ふと、気配を感じて窓に目をやると見慣れた姿が飛び降りてきた。ため息と一緒に窓を開けた。
「なんじゃ、やっぱりリリアはここだったんじゃな。ブルーノがえらく心配しとるぞ」
 カクは身軽に音もなく部屋に滑り込んだ。大きな丸い目が室内の様子を瞬時に見て取ったのがわかった。
「眠っている。見ての通りだ」
「う~む。リリアが眠っていてあんたがシャワー後のガウン姿とくれば俗物的。貧困発想的な想像もできるがのう」
 腕組みをしてニヤニヤと笑うカクをルッチは無表情に見返した。
「好きにしろ」
「いや、そんなんじゃないことはわかっとる。あんたは昨日船大工の方を突然に休んだし、リリアはその事を知らなかったんじゃ。で、この部屋を掃除に来たリリアがブルーノに何の伝言もせずに1晩戻ってこない。こうなると…どういうことが考えられるかのう?」
「暇だな、カク」
 カクは笑って頭を掻いた。
「まあな。そんな予感がしたからわしは夜中にここへ来るのはやめたんじゃ。ブルーノにもやめとくように言った。じゃないとあんたは心を許してリリアに看病されるままにはなってなかったじゃろうからのう」
「…フン」
 ルッチはタオルで髪を拭きはじめた。
「今朝は仕事、行くんじゃろ?」
「当たり前だ。着替えてくる」
 衣類を抱えてバスルームに姿を消したルッチを見送った後、カクは少女の枕元に立った。
「お前は自分がどれだけの奇跡を起こしてるのかわかっておらんのじゃろうなぁ、リリア
 少女の横顔に残る涙の跡を指先で辿ったカクは柔らかな微笑を浮かべた。
「目を覚ましてルッチがいなくなっとったら、また、焦るんじゃろうなぁ」
 そのままカクはしばらく少女の寝顔を見下ろしていた。
「何を呆けてる。行くぞ」
 バスルームから出てきたルッチはシルクハットをかぶり、ハットリがその肩にとまった。
「また完璧なあんたを見ることができるのは頼もしいが、ちょっとだけつまらんのう」
 面白がるように軽口を叩きながらカクは先に部屋を出た。その後に続いたルッチが戸口で1度だけ部屋の中を振り返ると、穏やかな寝息が聞こえた。
 バカヤロウ。
 心の中で呟いてから、ルッチは静かにドアを閉めた。


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