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紫水晶の雫

 最初に会ったのはお前だったよね。
 ねえ、ハットリ…覚えてる?
 時々思ったことだけど、ルッチがわたしをそばにいさせてくれたのは、多分、お前のおかげだったのかな。お前がわたしを好きになってくれたから。
 ああ、ハットリ。あったかいね、お前。
 わたしも…大好きだよ。




 微風に揺れるカーテンが、夜のない昼の島の1室に薄い闇を作っていた。
「ル…チ…」
 触れることを許された背中に手を回してしがみついていた少女は、心のままに男の名前を呼んだ。少女の指先が古い傷に触れたのを感じた男は全身で細い身体を覆い、ゆっくりと深い口づけを落とした。
「…考えるな…ただ、お前が望むものを言え…リリア
 少女の口から具体的な言葉がこぼれるはずのないことは、2人にはわかりきったことだったかもしれない。
 重なり合う肌の熱さ。どこか安心感を与えてくれる身体の重み。どこまでも見通しているような瞳。顔の輪郭と唇を辿る長い指先。名前を呼ぶ声。今感じているルッチのすべて。
 これ以上望むものなどあるだろうか、と少女は思う。いつも、ただ傍らにいることだけを願ってきた。その願いが叶っている今、何も…これ以上など。
「ルッチ」
 少女の手が頬を探る感触に男はただ目を閉じた。彼にとって身体を繋ぐ行為よりもこの微細な感触の方がむしろ、他人に許すはずのないものだった。
「お前は…本当に面白い」
 2つの息づかいが重なった。
 ほぼ同時に目を閉じた。




 この任務に達成感や充足感といった類のものはあっただろうか。
 いや、特にはない。
 長年海軍と世界政府が追い求めていた女と古代兵器の設計図への鍵となる男をこの島まで護送した。5年ぶりに戻った島、エニエス・ロビー。司法の島と呼ばれるここに彼が所属する組織の拠点と彼の住処と言える部屋がある。彼は今、その部屋に向かって歩いていた。
 ロブ・ルッチ。
 この名前を聞けば言いようのない感情を胸に湧きあがらせる人間達が、世界に何人かはいるだろう。今回の任務で言えば、あの造船会社の社長と脳天気なギャンブル好きの船大工…もしも生きていればの話だが。ルッチ自身はといえば、終了した任務絡みの人間を思い出すことは、別の任務の中で必要になった場合以外にはほとんどない。任務が終了するたびに、仮に作り上げた感情も関係も断ち切って捨ててきた。
 そう。ただ1人を除いて。
 扉を開けると肩にとまっていたハットリが嬉しげに舞い上がった。
「クックー!クルッポー!」
 白い姿が向かった先にはモップを持った少女が立っていた。
 宝石に似た瞳を見開いて鳩に色白で華奢な手を伸ばしたその姿を見るのは、2週間ぶりだったのだが。
 記憶よりも背が伸びたかもしれない。
 髪が伸び輝きが増したかもしれない。
 あり得ないと思いながらもほっそりしたその姿から受けた印象の誤差に、ルッチは苦笑した。
「何をしている、リリア。当番兵がいるだろう、ここには」
 ただいま、でもなく、お帰りなさい、でもない。これはどこでも変わらない。
 床に置いたバケツ。手に持ったモップ。少女は自分の仕事道具を眺めて微笑した。
「床が曇っていたから…4年分くらい」
 そうだ。なぜか少女は彼の部屋の床を磨くのを好んでいた。そんな単純作業のどこに面白味を感じているのか、少女の顔にこぼれる小さな笑みを見かけるたび不思議だった。あの頃、モップは少女の身長に対してもっと長く、時には振り回されているように見えたものだ。
 思い出したルッチは無言でコートとシルクハットを椅子に放り、上着を脱ぐとネクタイを外した。
「床磨きとは、相変わらずおかしな趣味だな」
 今の身長なら、もうモップに負けることはないだろう。いつの間にか背が伸びていたものだ。ずっと気がつかなかったのは、必要以上にそばに置いておいたからかもしれない。集めた情報が徐々にはっきりとした形を見せ始めてからも、ギリギリ2週間前まで少女はそばにいた。少女の役目は終わったことに気がついて一足先に帰らせたが、その時、ルッチは水の都と呼ばれる街で少女と過ごした時間やいろいろな積み重ねをすべて切り捨てたつもりだった。いつも通り。そして後は今回の任務についた時より前の状態に戻るだけだと思っていた。
「他にできること、ないから」
 言いながら少女は小さく首を傾げた。その表情を出会った頃の幼さがよぎったように見えた。
 リリアはいつも、こうだった。迷惑をかけない距離、煩わしさを感じさせない距離を常に推し量り、何も知らないくせにその距離感は絶妙だ。人に触れられるのを怖がるくせに、彼の手は受け入れる。出会った時から、ハットリと慕いあう。
 リリアは何も変わっていない。
 恐らく、あのウォーターセブンでの様々なことが終わったこともわかっているだろう。
 これからは、また以前の距離感を保てばいい。
 床は勝手に好きなだけ磨けばいい。
 そして、それをごく時たま、面白がるのもいいだろう。
「そのコート、ルッチとおそろいだね」
 ハットリと頬寄せ合って会話のようなものに夢中になっている少女は、幸福そうに笑った。
 あり得るだろうか…またこの声を聞いたことを幸運だと感じることなど。
 任務のために呼んだはずの存在とのそれ以外の時間を、なかったこととして切り捨てるのが馬鹿らしいと感じることが。
 ルッチの唇に、自分に向けた冷笑が浮かんだ。
「お前にできることは、本当にそれだけか?」
「ルッチ?」
 伸びた手に簡単に捕らえられたリリアは、素直に疑問の色を浮かべた瞳でルッチを見上げた。
 警戒心、ゼロ。同じく、期待もゼロ。
 冷笑を深めながら、ルッチはリリアの耳元に唇を寄せた。
「できることはまだあるはずだ。あの街で…俺が教えた」
 少女の頬が紅潮すると同時に唇を重ねた。
 リリアは両手をルッチの胸にあてて押し返そうとした。
「ルッチ?」
 どうして自分が驚いているのか、ルッチを拒もうとしているのか、はっきりした理由は少女にはなかった。ただ、そうした方がいい、そうしなければいけないのだと思った。
 すべてはあの水に抱かれた美しい島での長い夢だと思っていた。限りある時間だと思っていたから自分に甘えることを許せた。ルッチが与えてくれる熱とあたたかさを、時に優しさだと想像した。口づけを与えられたこと、手と唇に切なさを教えられたこと、身体の深い部分を開かれたこと、そのまま朝まで傍らで眠ることを許されたこと。先にこの島へ戻るように言われた時、すべてを大切に胸の中にしまい込んだ。
 だから、ここでは。この非情な権力の闇を抱いた昼の島では、ルッチは任務に関すること以外は興味を持たない。また以前のように気まぐれにリリアの傍らに現れては消えるその姿を、ただ見ているしかないのだと思っていた。それで十分なはずだった。
「何度言ったらわかる…考えるな。」
 再び唇を合わせ、ルッチは少女を抱き上げた。モップが音をたてて床に落ちた。
「…俺にもわからないしな」
 言葉を挟んで少しずつ深まる口づけにまだ上手く応えられないまま、リリアは目を閉じて身体の力を抜いた。
 いいのだろうか。
 でも、本当は望んでいたのかもしれない。ここに戻って来るルッチの姿を見るだけ幸福だと思っていたが、本当は。ルッチに求められることを。
 自然と涙が零れていた。
「お前は」
 寝室へ続く扉を蹴り開けたルッチは、リリアの身体をそっと寝台に下ろした。指先で涙を拭うと少女は微笑した。
「ここでお前を抱こうとは思っていなかった」
 低く囁きながら髪に唇を埋めると少女の全身が震えた。手早く華奢な身体を包んでいる衣類を剥いで床に落とすと、その性急さに驚いたように少女は瞳を見開いた。
「あまり時間はないかもしれん…麦わらが来たら呼び出しもありそうだ」
 まだ豊かとは言えないが整った形の白い胸の頂に唇を移しまた震えた少女の身体を抱く腕に力を入れたとき、気配を感じたルッチは身体を起こした。
「…来たか。少し、待て」
 少女の身体を毛布で覆い、ルッチは滑らかな身のこなしで音もなく部屋から出て行った。
 リリアは毛布の中で自分の身体に腕を回した。




「…誰か、いたの?」
 部屋に入ったカクとカリファは床のモップとバケツを一瞥した。
 ルッチは答えず自分とハットリのグラスに氷を入れ、酒を注いだ。
「まあ、聞くだけ野暮というもんかもしれんが。のう、カリファ」
 カクが笑うと、カリファの口元にも微笑が通り過ぎた。
「あの街であなたがリリアを…その…抱いたと知ったときはひどく驚いたわ。そんな風に誰かを近づける人だとは思っていなかったから」
「わしは驚かんかったぞ。これは、女の勘、とかいうヤツに勝ったってことじゃな」
「少し悔しいわね、それ。でも、相手がリリアなら…と納得してしまうのはなぜなのかしらね」
 ルッチは黙ったまま大きくグラスを傾けた。
「じゃがのう、ルッチ、気をつけねばならんぞ。お前を思い通りに動かしたがっとる人間には、あの子は格好の標的に見えるかもしれんからのう。…例えば、ここの、あの、変わり者の長官が」
 自分の顔を見守るカクとカリファの視線に苦笑しながらルッチは一気にグラスを干した。
「あの男があれを使って俺に何をできると?」
 ルッチの唇に浮かんだ冷笑にカリファはやわらかなため息をついた。
「あなたらしい言葉と表情ね。とても…あなたらしい。過ぎるほどにね」
 ルッチは再びグラスを満たした。
「今はこんな話よりお前達の方だ。身体の中に悪魔を飼う決心はついたのか?」
 3人の視線は同時にテーブルに置かれた2つの色鮮やかな実に落ちた。
 例え直属の上司であるCP9長官でも少女に手を出すことは不可能だ。
 ルッチは1人、心の中で呟いた。
 何かがある前に、恐らく彼のこの手が少女の生を終わらせているだろう。
 少女がそれを望もうと望むまいと。




 寝室に戻った時、少女は半分微睡(まどろ)んでいた。ルッチは静かに毛布をめくり、下から現れた肌の白さを確かめた。そっとその身体を転がして背中に二筋走っている傷跡を指先で辿ると、少女の口から息が漏れた。
「…ルッチ?」
 開こうとした瞼に口づけた。そのまま唇を動かして唇の先をかすめた後、喉から胸の頂へと下がった。
 慌しい愛撫には不慣れな身体は、それでも敏感な反応を返した。
 まだ衣類を身につけたままのルッチの前で自分だけが裸体を晒していることに、リリアの瞳が潤んだ。
「やはり、時間はそれほどないらしい」
 ルッチは両手でこれまでに見つけ出した様々な位置を愛撫しながら唇を重ねた。突然の溢れる刺激に少女の唇は彼の下で震え、こらえきれない声が漏れた。
「ルッチ」
 零れる涙を唇で拭いながらルッチは下半身の衣類を脱いだ。白い足の間に片膝を割りいれて秘められた場所の潤いを確かめた。本当はもう少しほぐしてやった方がいいのだろう。わかってはいたが、そうする代わりに唇を深く包み、身体を抱き寄せながら空いた片手を与えた。
 細くて熱い部分をゆっくりと貫くと、リリアはルッチの手を握りしめて唇を噛んだ。建物の外のざわめきと性急な愛撫に全身が敏感になっていた。
 ルッチはゆっくりと律動を刻んだ。他の部分には手を触れずにただ、己を少女に刻み続けた。
 次第に少女の身体からこわばりがとれた。身体の中を動く熱さと与えられる存在感にリリアの心は酔いはじめた。ルッチが、ここにいる。与えることと奪うことに意識を集中している。それはただただ彼のことを想っている少女にはこの上なく贅沢なひと時だった。
「…動きを速めるぞ。受け止めてみろ」
 普段は言われない言葉に、そうは見せない気遣いを感じた。喜びを感じた瞬間に鋭敏な場所を刺激され、思わず声を上げた。
「悪くない声だ」
 動きを速めながらルッチは念入りに触れる位置とタイミングを調整した。リリアの中が熱を帯び溢れるたびに彼の中での快楽も高まっていく。抱いていることは抱かれていることに他ならないのだということを意識する。
 彼の手を握るその強さと中の柔らかさ、懸命にこらえる表情から少女が昇りつめる直前であることを知ったルッチは少女の手を背中に導き、空いた手でそっと頬を撫ぜた。
「そのまま…昇れ」
 1つの点に集中して動くとリリアの腕に力が入り、彼の身体にしがみついた。
「ルッチ…!」
 すがるとも拒絶とも取れるその声の響きをルッチは好んだ。そのまましばらく少女の声と表情を味わった。
 やがて、思い切り深く与えるとリリアの心と身体は昇りつめ、力いっぱい彼を抱きしめた後やわらかくシーツの中に沈んだ。
 ルッチは自分は達しないままゆっくりと彼自身を抜いた。
 不思議な満足感があった。己の性の欲望よりも強いそれは何だろう。考えながら少女の額に唇を触れた。
「眠れ。どうやら俺は出番が近そうだ」
 毛布を掛けてやると少女が手を伸ばしてきた。見慣れないその仕草に驚きながらも小さな手を包んだ。
 無言のまま、互いの目を覗き込んだ。
 決して言葉にすることはないとわかっている感情がそこに見えた気がした。それは名前をつけた途端に虚構になって消えてしまう種類の、心の底に沈んでいるのが自然なものに思えた。
「眠れ…そのまま、許されるだけ」
 リリアの顔を見ながら衣類を身につけたルッチは、短く囁いた後、背を向けた。
 あの街では情事が終わったあとに決まって眠りに吸い込まれてしまう少女の傍らで、その身体の温かさを感じながら朝を迎えたことが幾度もあった。もしかしたら初めは煩わしく感じていたそのぬくもりを、いつの間にか当たり前のもののように想っていた。そして今、それを感じることができないことに物足りなさのようなものを感じている。
 やはり危険だな、お前は。
 歩きながら心の中で呟いた。
 背中の後ろで扉を閉めたとき、胸の中の感情も全て閉ざした。




 深い眠りだった。
 決して言葉にすることはないと思っていたものが自然と溢れそうな気がしていた。
 出会ってからの様々な場面が一度に蘇り、その速さと鮮やかさにただ切なくなった。
 これは、夢だ。わかっていた。
 けれど、どれもが本当にあったこと…偶然の出会いから繋がってきた日々だ。
 どの記憶も思い出すたびに新しい。思い出すたびまた大切に思う。
 眠っている間ずっと大きな波に揺られているように感じていた。
 その中で一度の大きな衝撃と揺れを感じて目を開けた。
 目覚める少し前から建物の中の空気のざわめきのようなものを感じていた。
 目覚めた途端に記憶から遠のいてしまった夢は、ひどく穏やかであたたかかったように思えた。
 壁と窓ガラスの向こうに多くの音の気配を感じた少女は身体に毛布を巻いて床に下り、窓に歩み寄った。カーテンを寄せるとまるで何かに貫かれたようにぽっかりと穴があいた裁判所の建物と中途半端な位置で止まっている橋、そしてそれぞれ統一感なく出鱈目な方向に動いている海兵たちの姿が見えた。
 麦わらたちが来たのか、ここに。
 今、この司法の塔の中にいるのか。
 そしてCP9が海賊達を迎え撃っているのか。
「…ルッチ」
 唇から零れた名前を抱くように、リリアは静かに自分の身体に腕を回した。眠りに落ちる直前まで触れ合っていた肌のあたたかさが蘇る。どうしていいかわからないほどの熱を少女の身体の中から引き出していたその手は、指は、今は目の前の相手に向かって凶器と化しているのだろうか。ルッチの強さを絶対的なものだと思っていたが、考えてみれば実際に戦っている場面を見たことはほんの数回しかなかった。そのすべてが圧倒的だった。
 再び、部屋全体が揺れた。
 窓の外にルッチはいない。それだけはすぐにわかった。
 不安はなかった。
 普段と同じようにただ静かに服を着た。それが終わってしまうとふと、次にどうするかを考えた。
 ルッチはこの島の中のどこかにいる。戦い、勝ってまたここに戻ってくる。ならば、少女がいる場所もここだ。考えてみれば他に行く場所などどこにもない。最初から、出会ったあの日から、ずっとルッチのそばにいた。それ以外を考えたこともなかった。
 リリアはまだぬくもりが残っている寝台に上がり、ヘッドボードに背中をもたせ、膝を抱えた。
 ここで、待つ。
 目を閉じるとまた部屋全体に振動を感じた。




 手ごたえのある男、を最後に感じたのはいつのことだったか。
 目の前にいるゴム人間は最初に顔を合わせた時、初めて拳を向けてきた時、そして今、とルッチの中に一応記憶しておいたメモ書き程度の印象を簡単に塗り替えてきた。
 面白い。
 長官という肩書きを持ったあの男の思惑などどうでもいい。
 この男、麦わらのルフィという名の海賊をこの手で沈める。彼はそう決めていた。
 まだどこか未知数らしいこの少年。
 予想外にこの身体の中の血と悪魔を喜ばせてくれるかもしれない。
 正義と悪。
 彼の中にあるそれは思考というよりは身体に叩き込まれ刻まれてきたそれだ。
 生き方、存在理由、行動理念…いくつ別の呼び方をしようとも、ただそうあるだけだと知っている己。
 …バスターコールか。
 馬鹿げた男の愚行が設定したタイムリミット。
 一瞬彼の中をよぎった名前。
 在りえない刹那の思考には笑うしかない。
「行け。この島から離れろと…あいつに伝えろ」
 全力で飛び去ったハットリに彼自身の愚かさはすべて預けた。
 これでもう、この名前を思うことはない。
 すべてが終わるその時まで。
 拳に力を込めたルッチの唇に笑みが浮かんだ。




 コツン
 透明な音が小さく響いた。
「…ハットリ?」
 リリアが床に飛び降りて窓を開けると、ハットリは風とともに部屋の中に舞い込んだ。
「お前、どうして…。もうルッチの戦いは終わったの?」
 ハットリは少女が差し出した指にとまろうとはせず、羽ばたきながらその指をそっと咥えた。
「クルッポー」
 喉の奥で鳴きながら指を引くハットリを少女は見つめた。
「ここから出ろと…そう言うの?それはルッチの言葉?」
 鳩は大きく首を頷かせながら少女の顔を見た。
 リリアは微笑しながらハットリの頭を指先で撫ぜた。
「何か騒がしくなってることはわかってる。でも、考えてみたらここより他に行くところなんてないの。わたしにはルッチを探しに行くことはできないから、だから戻るのを待ちたいの」
「クルッポー!」
 これまでに少女が聞いたことがないほど大きな声で一声鳴いた鳩は少女の肩にとまり、光る髪を一房咥えた。
「きっとすごい戦いなんだね…ルッチもカクたちも。ハットリ、お前はルッチのところへ戻らなきゃ。お前には羽があるもの。飛べるもの」
 ハットリはなおも数度少女の銀髪を引いた。
「いい子だから、大好きな人のところに戻って。さあ」
 リリアはそっとハットリの身体を両手で持つと窓の外に差し出した。
「まっすぐにルッチのところへ。そして、ずっとそばにいて」
「クックー!」
 ハットリは飛び立った。その白い姿は少女の頭上で大きく一度旋回してから離れて行った。
「…向こうにいるんだ、ルッチ…」
 リリアが窓から身を乗り出すと銀髪が風に流れて輝いた。
 低い音と振動とともに軍艦が放った1発の砲弾が司法の塔を直撃したのは、その瞬間だった。




 打たれるたびに威力を増す念のこもった拳の嵐の中で、意識が薄れていくのがわかった。
 敗北へ落ちつつあることを知りながら、何も感じなかった。
 痛みとはこんなものだっただろうか。
 全身に走る数え切れない激痛も次第に無の感覚に近づいていく。
 失うものなど実は最初からなにも持ってはいない。せいぜいが命だがそれを惜しむ気持ちもない。光があれば必ずある闇。彼が属するその場所は元来が誰とも同じ次元には存在しないところだ。今はただ、そこへ…堕ちていくだけだ。
 何も感じなかった。
 何も見えなかった。
 ロブ・ルッチ。
 倒れ伏した彼の横顔はその瞳に何も映してはいなかった。
 彼を想って鳴く一羽の白い鳩の声も恐らくは届かなかったかもしれない。




 瓦礫の中で少女は静かに目を閉じていた。
 崩壊した建物とともに落下した身体は痛みとともに地に打ちつけられ、後から倒れて来た割れた壁の一部に片足をつぶされていた。今はもう、痛みも感覚もない。身体の中から少しずつあたたかなものが流れ出す感覚だけが残っていた。
 しばらく前に宙を蹴って飛ぶ姿を見たように思った。長い尾があるそのシルエットはルッチだと思った。そう思うと目撃の瞬間に背中の傷まで見えたように錯覚した。
 打ち込まれる砲弾の音。
 叫び声。
 島全体が狂ったような騒音に覆われていたが、少女の心の中には静けさがあった。
 ルッチ。
 ただ1つの名前だけを呼んでいた。
 戻ると信じていたルッチの部屋は崩れてしまった。そして自分は死にかけている。壊れることも逝くこともこんなにも簡単なことだったのだ。
 簡単すぎて怖くはなかった。
 ただ、失いたくないある気持ちだけがあって、そのことがどうしようもなく切なかった。
 首に力が入らなくなった頭がガクリと後ろに落ちた。上向いた状態で目を開けたリリアは飛来するハットリの姿を見た。一瞬見間違いだと思った。ハットリの羽の端と両足は赤く染まっていた。遅くなっていた心臓がその時だけ強く打った。
「…その血は…誰の…」
「クルッポー!」
 舞い降りたハットリは羽で少女の頭を抱いた。
「…お前が怪我をしていないんなら…それは…」
 リリアの目から一筋の涙が落ちた。ルッチは負けたのだ。ハットリが告げに来たそれを正確に読み取っていた。
「ハットリ…」
 ゆっくりと手を伸ばすとハットリは少女の胸に下り、腕に抱かれた。

 最初に会ったのはお前だったよね。
 ねえ、ハットリ…覚えてる?
 時々思ったことだけど、ルッチがわたしをそばにいさせてくれたのは、多分、お前のおかげだったのかな。お前がわたしを好きになってくれたから。

 声に出す力なく心の中で語った言葉。まるでそれに聞き入っているように、ハットリは頷きながら少女の頬に頭を摺り寄せた。

 ああ、ハットリ。あったかいね、お前。
 わたしも…大好きだよ。
 お前にこう言えて、とても嬉しい。
 ありがとう、来てくれて。

「ルッチにも…いつか…言いたかった…け…ど…」
 鳩を抱いていた腕がゆっくりと落ちた。
 ひとつひとつ、身体に力が入らなくなっていく。こうして少しずつ失って、最後には心も消えてしまうのだろうか。
 顔を覗き込む丸い瞳に、最後の力を集めて微笑した。
「…ル…チ…が…さむ…が…てる…か…ら…あと…こ…れ…」
 必死に呟いた言葉を聞いたハットリは羽を広げた。

 飛んで、ハットリ。お前の大好きな人のところへ。
 そしてできれば…わたしも一緒に…

 思考に灰色のヴェールがかかりはじめたのがわかった。暗くなりはじめた視界の中で懸命にハットリを見つめた。ハットリはしばし少女の顔を見た後、首を伸ばして嘴で少女の喉もとの鎖を摘んだ。
 バサッ
 舞い上がる白い鳩の口元に紫色の光が煌いた。リリアは小さく息を吐いて瞼の重みにまかせて目を閉じた。
 あの美しい石をルッチが突然買ってくれた日のことを覚えている。
 出会った日に降っていた雪。
 離れなくていいのだと知った時の例えようもない喜び。
 青い水が満ちた街。
 初めての口づけと抱擁。
 肩にハットリをのせて立っている後姿。
 背中と傷。
 心を揺さぶる声と冷笑。
 なにもかもが美しく思えた。
「ル…」
 もう声は出ないとわかった。
 ルッチはどうなったのだろう。その命はまだあるだろうか。もしも目を開けたなら何を見て、そして何を言うのだろう。それを知ることができないのが寂しかった。一緒に逝くという考えに一瞬甘美な誘惑を感じたが、すぐに否定した。ルッチは死んではいけない。あの存在がこの世からなくなくなることなど考えたくない。生きていてくれれば先に逝くことなど悲しくはない。

 会えたから。
 そばにいることができたから。
 強く深く抱きしめられたことを覚えているから。

 本当はいつも言いたいと思っていた。一度だけでいいから。
 結局、顔を合わせてしまえば、それを言うことなどずっと死ぬまで無理だったのかもしれない。
 心の中で呟くことさえ許されない気がして言えないできた。
 でも、今なら。
 リリアは黒く塗りつぶされかけた意識の中で必死に言葉を浮かべた。

 ありがとう。
 大好きだった…ルッチ。
 出会えた最初から・・・大好きだったよ。

 肌に残る熱の感覚を蘇らせることはもうできなかった。
 失くしたくないとすがりつく想いがひとつずつ消えて行った。
 もしも1つだけ想いをもちつづけることができるなら。

 ロブ・ルッチ

 それが最後に少女が想ったものだった。


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