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遺 忘

 男の手が伸び、娘のしっとりと艶を帯びた銀髪をかき乱した。
「…また駄目か。身体は少しは感じているようにも思えるのだが…お前の心はどこにある?」
 ため息まじりの声に問われた娘は淡く微笑した。その問いの答えこそ娘が時折苦しくなるほどに求めているものであることを、男は知らない。知る必要もない。
 男は娘の紫色の瞳を覗き込み、行為の後とは思えないほど慎重に唇を重ねた。娘は目を閉じてそれを受け入れた。
「こうすればお前は素直に受け止める。素直に身体を開いて払った金の分は確かに俺を満足させる。美しさも肌の感触も申し分ない。背中と足の傷さえもお前の神秘に味を添えるものに過ぎない。噂を聞いてやって来て興味本位にお前を抱く男も多いだろう」
 僅かに困惑の気配を浮かべた娘の表情を見た男は薄く笑った。娘の上から傍らに身体をずらし、肩肘をついて手足を伸ばす。
「俺は好奇心の強い人間でな。お前に傷をつけたのがどんな人間だったのか、どうしてお前がこんな世界にいるのか知りたいのさ。そして何より…お前のこの身体を作った男のことを知りたい。わかるのさ。お前はいつもそんな風に何かを悟った顔で笑っているが、全く違う顔を見せた相手がいるはずだ。お前を心から可愛がっていた男がな。そいつに見せていたはずの甘えた顔を少しだけでも見てみたいと願ってしまうんだがなぁ…」
 その言葉を聞いた娘の瞳に浮かんだのは紛れもなく悲哀の色だった。
 男は短く笑った。
「すまないな、勝手なことばかり喋ってしまった。今度来た時に追い返さないようにしてくれ」
 男は娘の頭の後ろに手を回して静かに引き寄せ唇の先にキスをした。その時、男の指先は柔らかな髪の下にある傷跡を感じていた。
 これが娘の中から記憶を消してしまったのだろうか。
 背中と足の白い肌にくっきりと浮かび上がる傷を持った娘。本当なら色を売るこの世界では最低の評価を受けて投げ売り同然の扱いを受けても不思議ではないその悪条件は、現実ではまったく反対に魅惑の1つと数えられている。この界隈で1番の売れっ子だ。
 複数の傷跡。決して客の腕の中で乱れることなく、誰もこの娘の身体が頂点を迎えるところを見たことがないという噂。一度抱けばすぐに真実とわかる噂を確かめ挑戦するために訪れる客も少なくないという。
 向かい合って見ればこんなに華奢で繊細さに溢れ、およそ色売りの世界とは縁がなさそうに見えるのだが。抱いてみれば思いがけずこの細い身体には抱いている相手を惹きつけてしまう深さがあり、思わず夢中になってしまう。血の気ばかり多くて先を急ぐ若造にはこの味わいは勿体無いしわかるまい。そんな優越感さえ抱かせる。
「…何か欲しいものはないのか?」
 問えばまた困ったように微笑する娘に笑いかけ、男はスプリングがきいた寝台を下りた。
 男が手早く身支度を整える間に娘はベッドの脇に畳んで置かれていたガウンを羽織り、腰紐を結んだ。
「じゃあ…またな」
 どこか無理矢理なおどけた仕草で手を振る男に、娘は頭を下げた。
「ありがとうございました」
 娘の声を聞いた男の顔に一瞬真面目な表情が浮かんで消えた。男はそのまま手をひらひらと動かしながら部屋を出て行った。
 娘は深く息を吐きながら寝台に腰掛けた。
 ドアが開いて中に入ってきた姿を見上げた瞳には、疲労の気配があった。
「疲れたか」
 慣れた動きで部屋の奥の浴室に入り湯の蛇口をひねって戻ってきた男は、薄い僅かな明かりが灯った部屋の中でも黒いレンズの眼鏡をかけていた。男が娘の身体を抱き上げると娘は逆らわずにただじっとしたまま浴室に運ばれた。紐を解きガウンを脱がせる男の手は何の感情も見せず事務的で、娘の身体を眺める視線は商品の価値を確かめるように冷静に全身を一瞥した。
「あの客は無駄に所有欲を出さないのが有難い。金払いも極めていい。抱かれて損はない客だ」
 男は娘が静かに湯の中に身体を沈めるのを待ち、袖を捲くると娘の長い銀髪を濡らして両手で立てた泡を塗りつけた。
「お前の白い肌には痕が残りやすい。我武者羅に食らいつくヤツは一度きりで終わりだ。二度と相手をする必要はない」
 髪と身体を洗う男の手に感情はない。だから娘はただ目を閉じてすべてをまかせていた。一度だけ男に抱かれた時も男の手は今と同じくらい冷えていただろうか。病室で目覚めた時。頭と片足にはまだ生々しい傷があり、自分の名前も年齢も何もかもが空白であると知ったあの時。確かな身分も金も持っていない、戸惑いと混乱に包まれていた娘に示された生きるための手段は数少なく、限られていた。どう考えたらいいのかさえわからなかった娘の前に現れたこの男は病室で突然に娘を抱いた。恐怖と驚きに声を上げようとした娘の口をふさぎ、男は細い身体の隅々まで指と唇を触れ、ただ頷いた。
 他では使い走りに回されてこの身体をすり減らされてしまうだろうが、それは無駄遣いというものだ。お前はただ、最初は作られた評判と噂につられてやってくる小金持ちにほんの時たま身を任せるだけでいい。安売りはしない。お前は高く売れる。じきに本物の評判がたつ。そうすればお前の消えた過去も向こうの方から近づいてくるだろう。
 男の言葉を娘は驚きをもって聞いた。男は色街では広く名が知れた存在で、常に1人の娼婦を抱えて管理してきた人間だった。常に1人だけ、そして常にその娼婦は色街で一番の人気を誇る。男についてそんなことを知ったのは最初の客に抱かれている最中だった。男が所有している女を抱くのは初めてではないというその客の言葉を聞きながら、自分がどこからなぜこういう場所に来ることになったのだろうとぼんやりと思った。
「ルーラ」
 しばらくたってからそれが男に与えられた名前であることを思い出した。これはどういう名前なのだろう、と時々思う。男の知っている誰かの名前だろうか。その女は果たして今、生きているのか死んでいるのか。
 目を開けるとすぐ前に男の顔があった。黒いレンズの向こうの瞳は見えないが、観察されていることを感じた。
「ぼんやりしているな、さっきから。傷が痛むのか?」
「…いいえ」
 時々こんな風に自分が夢の中にいるような気分になる。やがて決まって、記憶がないことへの喪失感に胸を焼かれる。忘れてはいけない何かがあった筈だ、と理由なく思う。
 男は自分が名前を与えた娘を見下ろし、無言のままタオルで身体を包み込んで抱き上げた。娘の横顔に浮かんでいるどこか幼い少女のような影をこれまでにも何度か見たことがある。実際、彼が見つけたときは娘というよりも少女という方が似合っている印象があった。それが変わったのは身分も経済状況も良く知っている馴染みの客を最初の客と決めて抱かせた後だった。
 商品として確かに腕の中にあるこの身体とは違い、娘の精神はいつまでもこの身体の中に定着しないように見える。その捉えどころのなさが商品価値を高めているというのは皮肉なことだ。失くした過去を取り戻すことを願っているのは本人のみ。男も客達も娘にありふれた過去が蘇ることなど望んではいない。
「俺の名前を覚えているか?」
 男が問うと娘は驚いたように男を見上げわずかに微笑した。
「ホーク。まだ忘れてはいません」
「そうか」
 男は客を迎えるための装飾華美な部屋を出て2階へ上がり、娘の寝室に入ると細い身体を寝台に寝かせ毛布を掛けた。質素な印象さえ受けるこの部屋の様子にはつい時々唇を歪めてしまう。棚に隙間なく並んでいる本。机の上、サイドテーブルの上、床の上にも位置を定めだした本。客達の中にはこの娘の私室の様子を想像できる者は誰もいないだろう。
「眠りたいだけ眠っておけ。来週まで客は入れてない」
 頷いた娘が目を閉じるのを確認し、男は部屋を出た。
 客に嬌声を上げることもしない、身体を欲望に明け渡すこともしない頑なな姿。そのくせ毎回の消耗は強く、時に魂を切り売りしているような気分になることもある。
 案外、売ることができる期間は短いかもしれない。
 ホークは娘の寝室に隣接する自分の部屋に入り、革張りのソファに身体を沈めた。赤ん坊の時からこの、他とは色彩も空気さえ違う街で生きて生きた彼には年齢以上の経験と女の行き先を見通す目が備わっていた。
 別の売り方も考えてみるか。
 思ったときに胸のどこかに感じた違和感のようなものは何だろう。ホークはボトルの栓を抜いてグラスに微量の酒を注いだ。立ち昇る香りの貴重さを目を閉じて味わった。
 娘は眠れないまま寝返りを打ち、胸にあてた手を強く握りしめた。予感したとおりの切なさに焦燥感も加わっていた。
 思い出したい。
 いつまでも覚えていたい何かがあったはずだという思いが強くなる。
 胸を締め付けられるような感覚に再び大きく寝返りを打ったとき、窓の外に気配を感じた。
 コツ、コツン。
 小さくてかたい音が聞こえた。
 何かが風で飛んで窓に当たったのだろうか。
 寝台から降りて歩く娘の足は自然と速まり、カーテンを開けたときその目は大きく見開かれた。
 明けはじめた空から降る淡い光の中、窓ガラスのすぐ外に白い小さな姿があった。鳩だ。
 コツ、コツ。
 娘の姿を見ても鳩は逃げようとせず、まるで合図のように嘴でガラスをつついた。
「…お前…?」
 娘の手が躊躇いながら窓を開けると、鳩は翼を広げて部屋の中に飛び、天井で一度旋回するとゆっくりと舞い下りてきた。反射的に差し出した娘の手の指先に降りた鳩は、じっと娘の顔を見た。
 首にネクタイを締めた鳩。
 娘はこの珍客の目を静かに見返した。
「クルッポー」
 まるでその視線に答えるように鳩が一声鳴いた。
 結局その白い鳩は娘と枕を分け合って眠っることになった。
 突然の訪問者をどうしていいか戸惑いながら、その小さな姿をひどく愛しいと思ったことが不思議だった。鳩は娘の指先から離れて先に枕の上に降りて身体を丸め、早く来いとでもいうように目を向けて鳴いた。娘は速くなる心臓の鼓動を感じながらその隣りに横たわった。自分が御伽噺の1ページに彷徨いこんだ気がした。現実とは思えない、美しい夢。
「ポッポー」
白い片羽が開いて娘の額を撫ぜた。
気がつくとなぜか涙が落ちていた。
「…お前はわたしを知っているの?」
 やわらかな翼はただ撫ぜ続けた。その感触を感じているうちに娘はやがて眠りに落ちた。




 その日から、その白鳩は娘のそばにいた。
「妙な同居者が増えたものだな」
 ホークは鳩の姿をしばらく眺めた後、娘に視線を移した。たった一晩のうちに現れた微小な変化。彼はそれをどう評価するべきか迷っていた。鳩を見る娘の顔には今まで見たことのない明るい表情があった。無理に大人の女になることを強いられてきた姿が本当の年齢に少しだけ後戻りしたような。娘が鳩に笑顔を向けるときに限ってのほんの短い印象ではあったが、それはもしかしたら彼がずっと恐れてきたものかもしれないと思った。失われた過去の気配。彼の商品の価値を下げることにつながりかねないもの。
 しかし、ホークは鳩を追い出そうとはしなかった。娘の笑顔にはどこか彼の予想を超えたものがあった。
 それからの数日、娘は幸福だった。
 どこかに飼い主がいるのかもしれない、すぐに飛び去ってしまうかもしれないという不安は常にあり、部屋に鳩のための籠の類を用意はせず、ずっと窓を開けておいた。ここを去りたくなったらすぐに飛んでいくことが出来る状態の中で、鳩は娘のそばを離れなかった。娘が客を迎えている時、ホークは鳩が部屋にいないことに気がついたが、客が帰った後に娘が部屋に戻った時にはやわらかく鳴きながら枕の上で出迎える姿があった。
 互いに身を寄せ合って眠り、同じテーブルで食べ、本を読み、一緒に散歩を楽しんだ。話し掛けると、視線と驚くほど人間に似た仕草、やわらかな鳴き声でそれに答えた。
「お前の言葉がわかるといいのに」
 言いながら笑う娘の横顔をホークは無言で眺めた。考えをまとめる時期がきたのかもしれない。決めるなら早い方がいい。彼が部屋を出た時、娘はまだ鳩を抱いて話し掛けていた。




「最後の客…?」
 娘は不思議そうにホークの顔を見、ゆっくりと自分の身体を見下ろした。その視線の意味を読んだホークは思わず苦笑した。
「違う。お前の人気が落ちて売り物にならなくなったわけじゃない。もう随分前からお前を身請けしたいという話がいくつかあった。その中で一番条件のいい客にお前を渡す。その前にお前を買えるのはあと1人だけ。かなりいい値がついたぞ」
 娘の顔にはなお戸惑いがあった。
 ホークは娘の前に歩いて行き、その肩にとまっている鳩を見下ろした。それから突然な動作で右手で娘の顎を捉えた。
「お前は数多くの客に切り売りするには向いてない。野心も欲も持たないお前には、金が有り余ってるおまけにお人よしもいいところの1人の客のそばで暮らすのが似合ってる。俺が扱いやすいのはお前とは正反対のタイプの女だ。お互いに解放された方が楽になる」
 つまり、もうホークの役にはたたないということなのだろう。娘は合わせていた視線を外して俯いた。身体を売ることは好きではない。1人の男に仕えるというのはもしかしたら今よりも罪悪感も苦しさも少ないことなのかもしれない。娘は自分がこれまでこうしてやってこれたのはホークに事務的に冷静に、時に守られながら管理されていたからだとよくわかっていた。ホークが言うことなら従うしかない。
 ホークはそんな娘の姿を見下ろしながら、自分の中の感情をひとつひとつ確認していた。自分の名前さえ思い出せない娘に仮の名前をつけてやったとき、決して情を移すことにならないようにと強く思った。犬や猫に対する時、人は愚かなほど自分に所属すると感じるものに心を許す。それは人間でも同じかもしれないという警戒感があった。
 娘が欲を大きくしてこの街のNo.1で在り続けることに固執するなら楽だ。もう一段、二段と上を狙えばさらに面白い。彼は手持ちの情報と駒を駆使して娘の野望達成を援護することができ、大きな金を手に入れることができるだろう。彼の目には娘にはそのための条件がすべて備わっているように見えた。
 しかし、現実はかなり違ったものになった。滅多な客には売らず、伝説めいた噂を流布し磨きながら上客だけを相手にさせるうち、娘は彼の思惑通りすぐに色街で1番の位置にのぼった。それでも娘そのものに対する印象は最初に会った時と驚くほど変わらなかった。今にも花開きかけている精神性の強い美しさ、少女から娘へと脱皮しようとしている時期特有の全身の透明感、無垢に見えながら抱けば吸い込まれるような深さを感じる華奢な身体。男達は誰1人娘の心と身体を変化させることなく、ただ通り過ぎていく。ある意味ではこれは大当たりだとも言えた。言われるままに素直に従う娘の味わいと魅力がいつまでも変わらないなら、彼は常に安定した高額の収入と時間を得ることができる。このまま娘を売り続けていればいい…少なくともあと数年は。そして娘の味わいが薄れだした頃を見計らってゆっくり最後の行き先を決めればいい。
 考えていた計画にホークの中で気持ちがひっかかるようになったのは、あの鳩を見たときだった。何がひっかかっているのかは今もわからない。初めて見た少女らしい面影の笑顔と表情は彼がこれからどれだけ時間をかけて磨いても多分決して得られるものではない。それがひっかかるのかもしれない。だとすればこれはプライドの問題だろうか。
 娘が俯いたまま顔を上げないことにホークは苛立ちのようなものを感じていた。金持ち男に身請けされればこれからは楽に生きられるどころかアホらしいほどの贅沢がし放題だ。彼はちゃんと娘のことをそう扱いそうな男を選んでいる。娘は喜んでいいはずなのだ。
 なのに。
 ホークは娘を眺めているうちにひとつ、思い当たった。
「お前、そんなに失くした過去を取り戻したいか?」
 娘の身体が小さく震えた。
「それは愚かな願いかもしれんぞ。お前が負った傷は普通の生活をしている平凡な人間ならそうそう身体につけるものじゃない。そして、もしただ平凡な生活をしていた人間だったとしたら、思い出した途端にお前の周りの目くらましの魔力は消えて、ただつまらない人間に戻るだけだ。どっちにしてもお前を待っている贅沢三昧な甘っちょろい暮らしとはおさらばだ」
 それでも。
 娘は顔を上げ、濡れた瞳でホークを見た。
 それでも思い出さなくてはいけない何かがある。忘れてはいけなかった、忘れるはずがなかったものがある。その確信の強さは変わらない。
 2人はただじっと視線を合わせた。どちらの中にも相手には見せない感情が揺れていた。
「クルッポー?」
 沈黙を破ったのは鳩だった。
 ホークは唇を歪めた。
「とにかく、俺はお前を手放す。切り売りの客は今夜のあと1人、ただいつもと同じように我慢していればいい。それが終わればお屋敷暮らしだ」
 ホークが決めたのだから。
 娘はひとつ、頷いた。
 胸の中にこれからの生活の変化に対する不安が湧き上がりだしていた。




 その最後の客は夜半を過ぎた頃、現れた。
「…灯りを消せ」
  開いた扉の陰から低い声が流れた。娘が躊躇っているとトン、という靴音が響いた。
「俺は夜目がきく。無駄な灯りはいらない」
  言われるままに灯りを消し、娘は緊張して高鳴る心臓を感じながら胸に手をあてた。初めて聞く声と気配。この客には今まで会ったことがない。暗がりの中で気配を探りながら、ただ待った。
 気がついたときには目の前にいる男の手が娘の髪を梳いていた。指先が髪の中の傷を辿るのを感じ、背筋に刺激が走った。
 どうして。
 娘は自分の身体の反応に驚いていた。髪を撫ぜられることなど初めてではない。傷を触られるのもよくあることだ。なのに背筋に走った感覚に思わず声が漏れそうになった。
「大きいな」
 傷の端から端まで辿った男の指先は耳の後ろから頬の伝い顎まで下りた。その動きを愛撫と受け取った肌がまた反応するのがわかり、娘は思わず首を横に振った。
「逃げていい身分ではないのだろう?…今は」
 この男の言葉には何か意味がある。問いを口にしようとした時、男は娘の隣りに座り、娘の頭と顎を引き寄せると唇を重ねた。その素早さと力強さとは対照的に男の唇は穏やかでやわらかかった。唇の先を啄ばまれ、娘は目を閉じた。見えない中で傍らの男の身体の熱と存在をいっぱいに感じていた。もしも抱きしめられたらどんな感じがするだろう。あり得ない感情が浮かんだ瞬間、たくましい腕が娘を抱いた。包み込まれる感覚に圧倒された。
「聞いていたよりも素直な身体だな」
 皮肉めいた言葉を口にしながら男はゆっくりと口づけを深めた。表面をなぞる唇とあたたかい舌。包み込んでは誘うようにまた解放される感覚。頬を包む手の大きさ。心がどんどん男に向けて高まっていくのを感じた娘は、堪えきれずに男の胸を両手で突き放した。されるままに身体を離した男は低く笑った。
「客の扱いが下手だな、ひどく。耐えるな。仕事だから感じてはいけないということもあるまい」
そうではない。そんな理由ではなく、ただ、このままではいけない気がした。すべてが娘にとって初めての感覚で、これに身を任せたらどうなるのかわからな った。
「…逃げるな」
 再び男の手が娘を捉え、腕の中に包み込んだ。抱かれながら髪に触れた唇を感じた。額、瞼、頬。下りてきた唇はそのまま娘の唇を覆った。
すぐに逃げ出したいのに、本当は逃げたくない。混乱している娘の身体からこわばりがとれ、力が抜けていった。
肌と肌が触れたとき、落ちた涙の意味は何だろう。
キスと愛撫を続けながら娘のガウンを脱がせた男は手早く自分の衣類を床に落とし、娘の上に身体を倒した。大きな熱の中に包まれた時娘の口から漏れたのは安堵に似たため息だった。肌を重ね互いの体温を感じて安心する。初めての感覚だった。十分抱きしめられ口づけを与えられた後、身体を横に転がされ男の指と唇が背中の2本の傷に触れた。
「ん…」
漏れた声を自分のものとは思えず、娘は唇を噛んだ。男はまるで傷の形と長さを知っているように闇の中で正確な愛撫を繰り返す。身体の中で高まる熱をどうしていいいかわからなくて首を振ると、男の空いている手が娘の胸に触れた。
「我慢しないで声を聞かせろ」
 手でやわらかく包みながら直接頂に触れる指先の動きに、娘の全身が震えた。漏れそうになる声を抑えようと口元に動いた手は男の手に受け止められてしまった。見透かされている。そんな感じがした。男は娘の反応を読んでいる。読んで、楽しんでいる。
 男は娘の身体を引き寄せて強く抱いた。抱かれてはじめて娘はそれを自分が望んでいたことに気がついた。触れること、抱かれること、身体の熱を感じること。娘は男の腕の中で自分から身体の向きを変え、躊躇いながら男の背中に腕を回した。
 その時、指先に感じた感触を。
 娘は驚いて手の動きを止めた。少し触れただけで頭の中に鮮明に浮かんだ傷跡の形。これは果たしてあっているだろうか。
 男は娘が再び手を回すのを無言で待っていた。それから娘の動きにあわせるように抱いている腕に力を込めた。
 首筋、胸の頂、脇腹、臍の周り。
  男の唇は次々と娘の身体に甘美な刺激を送り込んでくる。堪えきれずに身体を動かすと指先で唇をなぞられる。男の足が娘の膝を割った時、強い予感にとらえられた娘は男の腕にしがみついた。男はゆっくりと娘の中に指を沈めた。
「怯えるな。傷つけたりはしない」
 男の唇があやすように娘のそれにやわらかく触れた。唇と中にある指の両方の穏やかな動きに、娘は湧きあがるものをただ堪えた。
 なぜこんな風に感じる。
 なぜ他人の手と唇を嬉しいと思う。
 なぜ男は娘が思うことをすべて知っているように振舞う。
 なぜこんなにも満たされていく。
 いつの間にか落ちていた涙は男がゆっくりと身体を繋げた時、大きく溢れた。まるでまた心を読み取られたように指を絡めてきた男の手を握りしめ、娘は目を閉じた。次第に身体の深くまで存在を感じた。昇りだした身体と心に眩暈さえ覚えた。
「…ル…!」
 最後に自分の唇から零れた音ははっきりとは聞こえなかった。
 達した瞬間に抱きしめられ、深い安堵とともに意識が遠のいた。
「眠れ…許される間」
 男は低く囁いた。その手がそっと娘の頬に触れた。
 娘の枕元の薄い明かりが燈された。




 初めて娘の艶やかな声を聞いた。
 隣室にいたホークはしばらく前から部屋の中を歩いていた。窓際に進み、また振り返って戸口に進む。いつの間にか規則正しかった歩調は乱れていた。
 やがて隣の部屋が静まり返り、客が出て行く気配がかすかにした。
 なぜ躊躇いを感じるのだろう。
 ホークはドアのノブに手をかけたまま息を吐いた。仕事を終えた娘の様子を確かめ風呂に入れるのはいつもの彼の仕事だ。この娘に限らず、自分が抱えている女すべてをそうやって扱ってきた。大事な商品のメンテナンスだ。常にプロの意識があった。
 なのに今夜は。
 ホークは自分に対する冷笑を唇に浮かべ、ドアを開けた。そして、1歩入ったところで足を止めた。
 娘は眠っていた。明かりの中に無垢な寝顔が浮かんでいた。肩まで毛布を掛けられ、穏やかな寝息をたてている口元には淡い微笑があった。
 これまでで一番幼く、一番艶やかな顔。
 ホークは素直にそれを認めた。あの最後の客が馬鹿かと思えるほどの大金を無造作に投げ出した時にはただの絶好のカモかと思ったが。最もその男には何とも言えない静かな危険な気配があり、相場の2、3倍くらいの金額であれば受け取らずに済ませていただろう。隣室でいつも以上に音と気配を探っていたのは、万が一あの客が娘に傷をつけそうな気配があったらすぐに踏み込めるようにと思っていたからだ。
 ところがそれどころか。
 男の冷笑が深まった。
 あんなに甘い声を出すことができたのか、この娘は。
 どんな顔を見せていたんだ、あの客に。
 一瞬、身請け話を決めたことを後悔した。甘えることを知らずにトップにいるこの娘は、それを知ればどれほど男を翻弄することが出来る女になるだろう。心が揺れた。
 本当に、どんな顔であんな声を出していたんだ、お前は。
 ホークは普段は滅多に吸わない煙草を1本箱から振り出し、唇に咥えた。




「…いいのか、これで?完全に離れてしまうのか?せっかく探し当てたというのに。…平気なわけではないのじゃろ?」
「…探していたわけではない。偶然だ。お前も知っているだろう。あれを身請けする男というのはこの街では有数の名家の総領だ。自由になる金は湯水のごとく、女遊びひとつしない地味な人間だ。邪魔をする理由もあるまい」
「じゃがのう。わしもわかっとるつもりではあるんじゃ。闇に追われる身であるわしらのことを例え思い出して前のように慕ってくれたとしても、それが、ためになるわけは絶対にないからのう。ただ…わしは自分で思っていたよりも諦めが悪い人間なのかもしれんな。お前の方が深い事情やら何やら…いろいろ持っとるのにな」
「…フン」
  闇の中で交わされた会話を聞いた者は誰もいなかった。
 その夜、娘の元から白い鳩の姿が消えた。




 すべて、夢だったのだろうか。
 気持ちが通い合っている気がした白い鳩。
 心も身体も包まれたと感じた闇の夜。
 目覚めた時、娘はその両方がなくなっていることに気がついた。すぐに飛び起きて窓辺に急いだ。そこから見えるのは背の高い木々と手入れの行き届いた庭、ひっそりとした小道だけだった。
 バスルームの中で声を押し殺して泣いた。
 また何かを失ってしまった気がした。あの、真っ白に全てが見えなくなった瞬間に大切なものを思い出した気がした。その記憶も一緒に…今はもう手が届かない。
 娘は自分の腕を見た。
 この腕で抱きしめたたくましい身体の感じをまだはっきりと覚えている。引き締まった筋肉、そして背中の傷。一度抱かれただけでなぜこんなにいろいろと深く身体に刻み込まれているのだろう。深く…深く、苦しくなるほどに。
「少し早いが支度をするぞ、ルーラ」
 ドアの外でホークの声がした。
 何の支度だろう。不思議に思った娘は返事をできなかった。
「お前を待ちかねている男がいる。夕方、連れて行く」
 身請けの話だ、とわかった。脱力感が広がった。夢から目が覚めてしまったのだろうか。あまりに早い現実が目の前にあった。
 せめて顔を見ることが出来ていたら…あの最後の客の。
 娘は耳に残る男の声を思い出した。冷ややかで皮肉めいていて、心を揺さぶる滑らかな声。
「ルーラ」
 娘が慌てて浴槽に身体を沈めたとき、ホークが入ってきた。腕に抱えている白い布は衣装だろうか。娘は手の平に湯をためて顔を洗った。
「最後の客…無駄じゃなかったようだな。肌の調子がいい」
 娘の顔を覗き込んだホークは不意に唇を重ねた。驚いた娘が身体をひくと、ホークは笑った。
「いい反応といい顔だ。少しだけ生身に戻ったお前は、さぞかし喜ばれるだろうな」
 ホークの手が普段と変わりなく娘の髪を身体を洗った。
 この手は違う。昨夜のあの手ではない。娘は目を閉じた。いつものように身体の力を抜こうとしたが、なぜかうまくいかない。心は自然と過ぎた夜の記憶を辿ってしまう。
 ホークは黙って長い髪をタオルで拭いた。




 黄昏時の陽光が白いドレスを染めていた。
 娘は広大な敷地を囲む鉄柵を眺め、門の高さを見上げた。奥に立つ石造りの館から歩いてくる男の姿には見覚えがあった。3度、それとも4度。娘の最初の客であり、1番多く抱かれた客でもあった。自分のことを好奇心が強い、と言っていた男だ。
「あれが今日からお前の主人になる男だ。馴染みだろ?」
 ホークの言葉を半分他人事のように聞いた。心と身体の感覚の半分がどこかへ行ってしまったような、そんな感じがずっと続いていた。
 門をあけた男はそっと娘の手を取った。
「こんなに早くこの日が来るとは思っていなかった。…どうして気を変えたんだい?ホーク。もっと焦らされると思っていたよ」
「まあ、きっかけなんてそんな大したことは特に。こいつにはこういう売り方があってる気がしただけで」
「『売る』か。痛ましい響きだな。今日からはもうそんな言葉を聞く必要はなくなるさ。もっと気楽に生きられるようになる。ここでな」
 男は僅かに身体をかがめて娘の顔を見た。微笑もうとしてうまくいかなかった娘はただ頷いた。
「ドレスは気に入ったかい?お前以上に似合う人間は想像できないな。よく似合ってる。今日は家の中の使用人たちは全部外出させた。残ってるのはここの警備の人間だけだから…ゆっくり休める」
 娘は視線を動かし、建物の正面と周囲に何人かの男達を見た。全員が黒づくめの服装をしていた。
 男はホークに革のケースを渡した。
「これでお前は自由になれる。使用人達がいないから祝い事は後回しだが、祝砲だけは大きく1発鳴らそうと思って…」
 男の視線の動きを追った娘は館の屋上を見た。そこには光を浴びて輝くほどに磨き上げられた黒い砲身があった。
 娘の心臓が強く打った。
「近所迷惑かもしれないが、今日ぐらいはいいだろ。そのくらい嬉しいからな」
 男の声は心の中から響いた重い破壊音に消されて聞こえなくなった。黒い砲身。壁も屋根も当たったものを粉々に砕く砲弾。大きくすべてが崩れる音。バランスを失って落ちていく身体。五感に残る生々しいものがじわじわと娘を包み込んだ。
 頭の中で破壊音が続く。
 知っている。命あるものもそうじゃないものも区別なしに破壊するための道具。巻き込まれたら抵抗することなどできない。
「…ルーラ?」
 目を閉じた娘の身体が揺れた。
 ホークは娘の腕をつかんで支えようとしたが、その手を娘は反射的に振り払った。
 この手は違う。確かに自分を守ってきてくれた手かもしれないが、この手ではない。
 重い瓦礫が身体の上にある苦痛と圧迫感。
 流れ出る血液のあたたかさ。
 そういうものを自分は良く知っている。
 頭に激痛を感じるまでずっと何かを強く願っていた。自分ではない誰かの命が無事であることを。
「どうした?具合が悪いのか?」
 ただ見上げていた空。
 光の中に見たのは…白い羽だった。端が赤く染まった白い羽。大切な命を育む血の色。
 衝動に襲われた娘は身体を翻して走った。ドレスの中で引きずる片足。もどかしいほど、進むのが遅い。
「待て!」
「ルーラ!」
 呼ばれた名前をはっきりと他人のものだと思った。自分には別の名前があった。それを呼ぶ誰かの声を思い出せそうな気がした。今は届かない失くしてしまった大切なもの。その人の命があるのかないのかそれすらもわからない。
「ちょっと待て!お前」
 ホークの手がドレスの袖をつかんだ。出会った日からずっと面倒をみてくれ、守られてきた手。はじめて触れられることに、所有されることに嫌悪を感じた。
「離して、ホーク!わたし…」
 ホークは強引に袖を引き、娘の身体を腕の中に閉じ込めた。
「何をどう思い出したのかは知らないが、今のお前に戻る場所はない。それはお前が一番知ってるはずだろ?」
 わかっていた。
 わかっていても帰りたいと願った。
 大切だった人がいる場所へ。恐怖など遠くに追いやって安心していられた場所へ。
 白い鳩が飛ぶ、あの空を見ることが出来る場所へ。
 娘の口から呻き声が漏れた。
 白い鳩。
 あの鳩はきっと娘の過去からやってきた鳩だったのだ。あれを追って行けば、もしかしたら行きたかった場所へ行けたかもしれないのか。
 あんなにも親しげにそばにいてくれた鳩。
「ごめんなさい、ホーク。わた…鳩を…」
 ホークは笑い、腕の力を強めた。
「あの鳥を探してどうする?飼い主に自分がこの街の売れっ子No.1だった話でもするか?あきらめるのが利口だ。お前は今は記憶を失くす前のお前じゃない」
 娘の身体の動きが止まった。
 ホークの言葉が心に冷風を吹き込んだ。まだ見えない過去のことはわからないが、確かにこの数ヶ月、娘は人に胸を張ることが出来ない生き方をしてきた。
 自分の身体を、本当なら大切な人とだけ行うはずの行為を、ひとつの手段として使ってきた。
「まっとうな生き方をしている人間には、お前の姿は汚れて見えるだろう。じゃなかったらただの便利な欲望のはけ口か」
 ホークの言うとおりだ。
 娘は肩を落とし、ホークは娘の身体を拘束していた腕をほどいた。
「お前はお前の生き方を受け入れて大金を払ってくれた男のところへ行け。願ったものとは違うだろうが、生きていければ十分だろ」
 娘は振り返り、門の前に立っている男の姿を見た。生きるために、と割り切ることが今の自分に出来るだろうか。考えると肌の表面が粟立った。
「もう…できない。なぜかわからないけれど、きっともうできない。ごめんなさい、ホーク」
 娘は地に膝をついた。進むべき方向がわからなかった。過去には戻れない。先にも進めない。
 ホークは苦い笑いを浮かべた。
「そうやってどこへも行けなくなってどうするつもりだ。利口になれ、少しは。今欲しいと思っているものは全部捨てて、安楽な暮らしを選べ。お前がちょっと笑いかけてその身体を差し出せば済む話だ」
 差し出されたホークの手をまた振り払った。
「できない。もう」
 あの白い鳩が飛んでいった先にいるはずの人のことを。
 娘は立ち上がり、走った。今度こそ息が切れるまで止まらないつもりだった。
「どこまで馬鹿だ」
 追いついたホークの手を肩に感じたとき、娘は悲鳴を上げた。
「いや!ホーク。汚いとも…どう思われてもいい。わたし、どうしても探さなきゃ…」
「クルッポー」
 その時、白い鳩が宙を過ぎり、真っ直ぐに娘の肩に舞い下りた。
「「お前…」」
 2人の声が重なる中、木の陰から1人の男が姿を現した。
「…騒がしいことだな、随分と」
 黒一色に身を包んだ男の姿。娘の心は強く揺れた。そして、その声には聞き覚えがあった。
「なるほど、最後の客の登場か。この鳩もあんたのだったんだな」
 鳩の嘴につつかれた手を娘から離したホークは、男の顔を見た。
「確かにハットリはルッチの鳩じゃよ。久しぶりじゃな、リリア。会えて嬉しいぞ」
 続いて現れたもう1人の男の衣服も黒かった。
 娘は瞳を見開いて初めに現れた男の姿を見つめていた。黒い髪、冷たく鋭い瞳、全身を包む圧倒的な空気、背中に在るはずの傷跡、今とは全く違う静かで時に気だるげな表情の記憶。歓喜に胸が苦しくなった。生きていた。生きて立つ姿をまた見ることが出きた。ならばもう、何も望むものはない。
 ルッチ。ひとつの響きが心に溢れた。
 リリア。2番目に現れた男が口にした名前が、記憶の中のあるべき場所におさまった。あまりに速くて鮮明な渦巻くような記憶の流れに失いかけた意識を、目を閉じ唇を噛んでとどめた。
「…ルッチ…」
 名前を呟きながら倒れかかった身体を受け止めたのは娘の傍らに立っていたホークではなく、黒衣の男の腕だった。
「…いつまでも無茶をする。おとなしくあの屋敷におさまってしまえば…それで終わりだっただろうに。リリア
 ルッチに呼ばれた名前が心に沁みた。
「…ルッチ…ルッチ…」
 リリアは手を伸ばしてルッチの身体にしがみついた。
 死んでしまったかもしれないと思ったあの時の恐怖と悲しみを思い出す。それと入れ替わるように切ないほどの喜びが溢れる。
 ルッチは少女の銀色の頭から視線を上げ、ホークを見た。
「こういう場合、また金を払うか?」
「おい、ルッチ。リリアの前じゃ。あまり即物的な物言いはやめておけ」
「相変わらず甘いな、カク」
「当たり前じゃ。この子はわしにとっては守護天使みたいなものじゃからのう」
 天使。
 その言葉を聞いたリリアはハッとして身体を硬くした。冗談でもその呼び名は自分にはふさわしくない。
 記憶が戻ったのはいい。でも、だからといって記憶をなくしていた間のことが代わりに消えてなくなるわけではない。
 リリアはゆっくりとルッチの身体から手を離した。
 うなだれてしまったその姿に男達の視線が集まった。
「どうしたんじゃ、リリア?照れ屋なところは変わらんのう」
 少女は数歩身体を退いてルッチから離れた。
「わたし…」
 震える声を聞いたカクはルッチの顔を見た。
 ルッチは腕を組み短く、息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しいほど、何も変わらん。お前の身体が不感症になったらしいという噂を聞いたが、夕べ確かめても変わりはなかった。お前のままだ…拍子抜けするほどにな、リリア
 ルッチの顔に不機嫌そうな表情が浮かんだ。
「こら、なんちゅう言い方をするんじゃ。まあ…言いたいところはくんでやれ、リリア。お前が前のまんまなら、ルッチも変わりようがない男じゃ」
 娘は涙に濡れた瞳でルッチとカクを順番に見た。
「…ったく、どこの旅回り一座だ。お涙頂戴興行は観客がいないところでやれ」
 ずっと無言のまま様子を見ていたホークは、ため息をついた。そして、目の前にある少女の背中を強く一押しした。不意の圧力にバランスを崩して前に進んできた少女をルッチは黙って見下ろした。
「連れて行け。俺はこの金をあの男に返す。それで誰も文句は言えなくなる」
「ホーク」
 振り向いたリリアの顔にホークは唇を歪めた。今はもう、『少女』と呼ぶのがふさわしい顔。
「素材は悪くなかったが、お前、やっぱり色街向きじゃないな。俺は手を引く」
 ルッチは鋭い視線でホークの顔を見た。
 カクはのんびりと笑った。
「案外人間らしい男じゃの、あんたは。金はどうする?ルッチから取るか?」
「…いらない。昨日、この身請けの金より多くもらった」
「呆れたな、ルッチ。お前、一体どれだけ…ま、いいか。それなら長居は無用じゃの」
 カクはリリアを抱き上げた。
「観客の前で、お前には今これはできんじゃろうからのう」
「フン」
「でも、カク、わたし…」
 カクは面白がるように笑い抱いている腕に力を入れた。
「照れんでいい、リリア。大丈夫じゃ。誰も観客がいなくなったらちゃんとルッチに交代するからのう」
 困惑の色濃い少女の顔の前にハットリが舞い下りた。
「ポッポー?」
 少女は小さな白い身体を抱きしめた。
「ごめんね、ハットリ。この間はまだ思い出せなかったの、何もかも」
「クルッポー!」
 ハットリは満足気に鳴くと娘の頭に両羽を回した。
 ただ不機嫌そうに立っている男。
 嬉しげに笑う男とその腕の中で、渦巻く感情に包まれている娘。
 まるで人間のように振舞う鳩。
 ホークは1人、肩を竦めた。恐らく1枚の絵の中におさまるべきものが全部おさまったという場面なのだろう。彼としてはこれ以上とても見ている気分にはならない。プロとしては、望みがかなうと思った瞬間にそれを奪われてしまった哀れな客のフォローでもしておくべきだろう。
「さっさと行け。この街から出て行け。ここにいる限りそいつはいつまでもNo.1だ」
 ルッチは最後にホークを一瞥し背を向けた。
「もうそれは他人の呼び名じゃ。…忘れることじゃな、あんたも」
 歩きはじめたルッチの後を追うカクの腕の中で、リリアはホークを見た。
「…ありがとう、ホーク。あなたが言ったとおり失くしたものを見つけられた」
「馬鹿。あれはお前を手に入れるために使った飾りの言葉みたいなものだ」
 黒いレンズの奥の自分の瞳にはどんな感情が浮かんでいるのか。
 ホークは離れていく姿を、揺れる銀色の髪をほんの一瞬見つめ、背を向けた。
「さて、そろそろ不機嫌なルッチにお前を渡そうかの。若干殺気が強くなった気もするし」
「カク、わたし、自分で歩く」
「この綺麗じゃがズルズルのドレスでか?まず服を何とかしないとのう。一応、お前、訳ありのわしらと一緒になってしまったわけだし」
「…訳あり?」
「まあ、積もる話は後じゃ。ここは隣町までひとっ飛び。あまり夜が更けないうちに宿を取りたいのう、ルッチ。ほれ!」
 無造作に宙に放り出されて思わず目を瞑ったリリアは受け止めてくれた腕にしがみついた。
「飛ぶぞ」
 細い身体をしっかりと抱きなおしたルッチは林の中を走り、木々の幹を蹴りながら宙に上がった。
 リリアはルッチの胸の中の鼓動を聞いた。
 生きている。走り、飛んでいる。
 みっともないと思うのだが、涙はずっと止まらなかった。
 枝葉を鳴らしながら林を渡っていく身体の周りには風が起きた。
 ルッチ。
 風に託すように囁いた名前はすぐに遠くに流れて行った。
 もう一度抱きしめられた腕の強さに、声が届いたことを知った。


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