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 窓から差し込む光が、部屋の中央に陽だまりをつくっていた。
 ふわふわとした丈の長い白い薄物に身を包んでいる少女は、裸足のままその陽だまりの中に座っていた。今日はまだ一度も熱が上がっていない。体調のよさがそのまま表情にも表れているのか、いつになく笑顔が多いように見える。
 そこへ、お揃いのように全身真っ白な鳩が少女の膝に舞い下りた。
「クルッポー?」
 丸みのある声につられるように首を傾げた少女の動きにあわせて、銀髪が艶やかに揺れる。
 そろそろ髪を切ってやってもいいかもしれない。ルッチは右手の指を読みかけていた本のページに挟んだ。
「お前はわたしの言葉をみんなわかるのに、わたしは駄目だね。どうやったらわかるようになれるかな」
「ポッポー。クルックルー」
 鳩は少女に向かって胸を張り、語りかけた。
 そうだ。
 最初からこういう感じだった。
 真っ直ぐに瞳を見つめながら喉を鳴らす雛だった。
 あまりに弱々しくちっぽけで、最初に見た時は本当に生かすことができるのか、まるで自信がなかった。
 それでもルッチはその身体の中に流れている恐怖を知らない果敢な血を知っていた。あの親鳥から遺伝子を通じて受け継がれているはずの性質の存在を信じていたといった方がいいのかもしれない。
 ルッチは音もなく少女の傍らに移動し片膝を落とした。
「ルッチ?」
 一緒に顔を上げた少女と鳩を、見下ろした。
 もしかしたらルッチは微笑もうとしたのかもしれない。そして、それをやめたのかもしれない。
 リリアはルッチの瞳と口元に感じた気配から目を離すことができなかった。
 やがて、目を細めたルッチが短く息を吐いたとき、それは消えた。
「何を見ている。そんな顔を…見せるな」
 自分は今どんな顔をしているのだろう。
 リリアは確かめるように自分の両頬を手で触れた。再会してから、ルッチの前で表れそうになる感情を抑えるのが以前よりも難しくなっていた。もしかしたら膝の上にいるハットリと同じような顔でルッチを見上げてしまっているのだろうか。純粋にルッチを慕い信じているつぶらな瞳。
 リリアはハットリがルッチを見るその顔が好きで、ハットリに返すルッチの視線も好きだった。
 ルッチは左手を差し出してハットリをとまらせ、右手の指先でゆっくりと少女の顔の輪郭をたどった。見せるなと言いながら視線をとどめてしまう少女の表情を作っている唇を、目の下をさらにたどる。恐らくそこにあるはずの無条件の信頼に直接触れて乱してみたくなる。
 ハットリの信頼に慣れるまでどれほどの時間がかかったんだったか。片手で握りつぶし、豹となった一噛みで食い散らせそうなちっぽけな身体の中にあるものに価値を認めるまでに。
 ルッチと少女、そしてハットリ。やわらかな光の中でただ、思いを秘めた視線を合わせ続けた。




 その鳩に初めて会ったのは、ルッチの名前がCP9の中で確かな存在感を持ちはじめた少年期の終わりだった。六式を身につけ、悪魔の実を食べ、それまでに経験したことの無いエネルギーの奔流を己の体内に感じていた頃。躊躇いなく命を奪うことに喜びを見出すようになった己の心の内との密かな葛藤もはじまっていた。
 ある戦場で、ルッチは始末してもしなくてもどちらでも構わない多数の命を前にしていた。世界政府に対する反乱を高々と唱えていた首謀者数名は、とっくに地に伏して温かな生命の源である紅の流れを大地に吸われていた。骨のある者は殲滅した。残っているのはただ踊らされて仲間意識に酔っていた、集団という形に甘えるしかできない者たちだけだ。放っておいても自然と崩壊する。今殺しても騒ぎにすらならないだろう。
 ルッチは1本の指の爪を染めている血潮を舌で舐めりとった。身体の中心の一部が更なる殺戮を求めているのをわかっていた。あの悪魔の実を食べてから体内に住み着いた文字通りの悪魔の気配。身を任せれば例えようもないほどの残酷な快感を心に産む。
 ルッチは考えながらすっと爪を水平に伸ばした。
 たくさんの喉を掻き切って血を流せと心の中の何かが叫ぶ。血はあたたかく、手の平で受ければ心地よいだろうと誘惑する。
 無駄な殺生は必要ない。目の前にいるのは戦うことにより自分の技量を上げることも望めない敗北者たちだ。ただ、この場を去ればいい。任務は終了したのだ…そう呟いているのが本当に己の本来の心なのか、ルッチにはわからなかった。
 迷うくらいならすべてを無にしてしまうのがいいかもしれない。
 ルッチが目を向けるとそこにあったのは彼を恐れ、獰猛な獣を恐れる表情だった。弱いものを無駄にいたぶる趣味はない。短時間で全てを終わらせることを決めたルッチが全身の筋肉に軽く力を溜めた時、小さな気配が顔の横を通り過ぎた。反射的に伸びたルッチの腕を掻い潜って距離を保ちながら正面に向き直ったのは、翼をはためかせながら滞空している1羽の純白な鳩だった。
「…何をしている。お前の主はもう帰りの船に乗船しているだろう」
 ルッチはその鳩のことを知っていた。けれど、こんな風に近く向き合ったのは初めてだった。
 鳩は当時のCP9の中で一番年長なメンバーのもので、その男はCP9という組織ではあり得ないほど歳を取っていた。ルッチにはまだ経験のない潜入の任務を得意としているその老人は、今回も殲滅作戦そのものには加わらず、作戦を立てるためのデータを取得するために数ヶ月前からこの地に1人、先に来ていたのだった。
 鳩は潜入任務にとても役に立つのだという噂を知っていた。それはルッチにとっては想像してみることさえできない謎だった。小さく弱い生き物を身近において任務に同行する…それは弱点にしかならないように思えた。それでも老人も鳩も幾多の任務を達成し、数ヵ月後には悠々自適な引退生活を始めることになっている。ルッチは鳩を見た。鳩も揺るがない視線を返した。
「クックルー」
 一声鳴くと、鳩はそれまでよりも翼を大きく広げて羽ばたいて見せた。それはルッチと彼の前にうずくまっている敗北者達との間を遮るためのように思えた。
「殺すなというのか」
 低く問うと鳩が頷いたように見えた。
「それもいい。別に殺すことにこだわりはしない。だが、そもそも、なぜお前がここにいる?」
「クルックル、ポッポー」
 鳩は高度を上げ、ルッチの頭の上で旋回した。
 着いて来い。
 そう言っているように思えた。




 まだどこか線が細い印象が残るルッチの手の上で、白鳩は嘴を使って進むべき方向を示した。
 そう言えばこの鳩の名前を知らない。主であるあの老人の呼称は知っている。そもそも、鳥に名前は必要だろうか。
 ルッチは嘴が示す方へ足を向けながら次第に馬鹿らしさを感じはじめていた。手の上の爪の感触、軽いとしか形容できない重さ。白い羽毛に覆われた身体の中の心臓も鼓動の強さも流れる血の量も多分とても小さいだろう。
 こんなちっぽけな生き物に何ができる?
 ルッチが足を止めたとき、どこからともなく声が降ってきた。
「なんと…連れてきてしまったのか、荒々しく生まれ変わろうとしている魂を。まだ見込みがあると判断したということか?フクベ」
 どこからか姿を現した老人の着地は、音もなく…と言えるものではなかった。しかし気配の消滅は完全で、ルッチはその小柄な姿が目の前に現れるまで少しもその存在を感じなかった。
 白鳩は大きく羽ばたいて舞い上がり、老人の肩に下りた。
「あなたはもう船に戻っていたと思っていた…トリロ」
 自分を凝視する少年の視線にトリロは瞳を和らげた。そのおよそCP9の一員らしいとは思えない表情にルッチは眉を顰めた。
「そのつもりだった。衰えた六式ではお前たち他のメンバーの邪魔になるしかないと自覚してるからな。でもな、最近、自分が関わった任務の最後が気になるようになってな。自分が果たした役割が何に繋がり、どう終焉するのか見届けたくなった。年のせいかな」
 トリロの手がルッチを招いた。
 ルッチは数歩近づき、手ごろな距離と思える間をとって足を止めた。
「まあ、ちょっと座らんか。船に戻れば皆と合流。こんな風に話す機会はあり得ない」
 トリロが指し示したのは初期の戦闘で崩れた建物の廃材の山だった。ルッチはまだ老人の姿を凝視しながらしなやかな身のこなしで腰を下ろした。
「最年少で組織に加えられただけのことはある。お前は聡明さも体術の会得の早さも他に類を見ないほどに優れている。この闇の組織の一員である我らは所詮はただのコマに過ぎないが、お前はそのコマの中でのリーダーになるべくこれからさらに教育されるだろう。不運なことだ」
「…不運?」
 ルッチの唇に笑みが浮かんだ。トリロは少年の顔に浮かんだその鮮やかさに驚きながらも、一見大人びて見えるそれに残る未熟さに首を横に振った。
「これまではただ己を強くすることと躊躇いなく命を奪うことに喜びを感じるように、身体と心に叩き込まれてきただろう。それだけでも十分、常人とは異なった存在になっているが、お前はこれから命だけでなく魂を殺す手段も教えられることになる」
「随分と文学的な表現だ」
「わかりやすく言えば女を抱き、男に身体を開くということだ。単純な強さを早く身につけすぎたお前は、お前をコマとして使う者を欲張りにしてしまう。連中はお前に心を完全に失くすことを望むだろう」
 ルッチの笑みが深まった。
「心など、残っているか?」
「あるさ。昔、六式を身につけたばかりの頃はただの殺戮機械となって澱んだ快感を貪ってきたこの老いぼれと同じでな。とっくに捨てた、消したと思っていても知らぬ間に蘇ってここにある。これもまた不運なことだな」
 トリロは肩の上で首を傾げて覗き込んでいる鳩に微笑んだ。
「本当に心を消すことができていたら、こいつとこうやっていることもなかっただろう」
 ルッチは理解しがたいと思いながら目の前の光景を眺めた。
「結局、あなたは何を言いたい?」
「任務がなくて1人でいるときは己の心と会話をしろ。他人の魂と命を奪う技を身につけても、己の中にも同じものがあるということを忘れるな…そういうことだ。ただのお節介にすぎないがな。年若く何もかもが一番柔軟なはずのお前をほっておくことができなかった。老人の戯言だ。遺言とでも思って忘れないでおけ」
「…あと何ヶ月かたてば引退だと聞いているが」
「そう。わしもそう聞いている。まあ、これは噂を確かめるための機会みたいなものだな」
「噂?」
「知らないだろうな、お前はまだ。この組織に所属して長く命を保ち続ける者の数はそう多くはない。そして、無事に引退という引き際を迎えた者たちは、名前も身分もそれまで生きてきたものとは完全に別なものを与えられて、新しい人生を生きる。お前はそう説明されてきたはずだ。だがな、新しく生まれ変わったはずの引退者たちの姿は、これまでに確認されたことはないんだ。別の人生を生きているから、というのが理由だというが、わしらの探索力、情報収集能力をもってしてもほんの僅かな痕跡さえ見つけることができないというのはあまりにおかしくはないか?頭を切り替えて少し考えればお前もきっと同じ結論を出す。 ひとつの情報も見つからないのは…」
「もう生きてはいないからだ、ということか」
 大きく頷いたトリロの顔は急に普通の老人らしく見えた。
 ルッチは唇を歪めた。
「あなたは自分の身でそれを確かめるというが、もしもあなたの推理が正しかった場合、真実を確かめたときにはあなたは死んでいる」
 トリロの顔にも微笑が浮かんだ。
「そうだな。そしてそのことにさして腹もたたないだろうよ。だが、好奇心への答えはわし1人で独占するのもつまらないだろう。お前さんを巻き込んでもう少し楽しませてもらおう。わしが引退した後、もしもこのフクベがある日突然お前のところに現れたら、それはわしが死んだということだ。現れなかったらわしはどこか退屈すぎるほど平和な場所で残りの人生を楽しんでるだろう」
「…俺は関係ない」
「そう言い切れることを願うしかないな。まあ、老人の我侭だと思ってつきあってくれ」
 ルッチはトリロの顔に現れた笑い皺を眺めた。この老人が生きてきた年月がどれほどか、まったく想像することはできなかった。
 それからルッチとトリロはいくつかの任務を一緒に担当した。その中でルッチは老人についていくらか知った。
 鳩のフクベは主に見張りの役割を担いながら、時にトリロの巧みな腹話術に合わせて人間を真似た動きを見せ、観る者の注意を逸らす。腹話術師として路上で客を集めたトリロはさり気ない会話と鋭い観察眼で情報を収集する。
 トリロは朝は早くから起き出し、夜は早めに就寝する。酒の飲み方は静かで、飲んでいる間は口数少なく穏やかに話す。任務で喋りすぎる反動だと言って笑う。
 CP9にこんなにも人間臭い男がいたとは。ルッチは時には日に何度もその思いを感じた。
 トリロは相変わらず他の人間がいない場所ではルッチに気さくに話しかけた。ルッチはその理由を内心疑問に思い続けた。




 その日、ルッチはエニエス・ロビーの自室で寝台の上に身体を投げ出していた。念入りに浴びたシャワーも身体に残る体臭を消しきれてはいない気がする。それが不快だった。地下の1室に呼ばれて過ごした2時間余りは教練のひとつにすぎない…そう自分に言い聞かせていることがさらに不快だった。
 教練だと理解していたから躊躇わずに裸身を晒した。担当教官に指示されるままに、薄いマットの上でピンで留められた標本のように開いている女の身体に触れた。好奇心はなかった。だが。
 倦怠感と屈辱間。忍び込み気持ちを包み込むそれらを強く嫌悪した。
 ノックの音が響いた。
 無視しようかと迷ったルッチはため息とともに無表情に戻った。
「…珍しいな、トリロ」
 ルッチは無意識に老人の肩に白鳩の姿を探し、見当たらないことに眉を顰めた。トリロと会うのは数週間ぶりだった。老人の顔にはどこか興奮の気配があった。瞳に浮かぶ強い光はこれまでに見たことがない。
「久しぶりだな、ルッチ。部屋まで押しかけてすまんが、ちょっとわしの部屋まで来てくれないか?」
「…なぜだ?」
 CP9の一員になってから、誰が自室に来たこともないし、もちろん、彼が訪れたことも無い。怪訝そうに視線を返すルッチにトリロは皺だらけの笑顔を向けた。
「それを言ってしまうと少々つまらないからな。老人の顔をたてると思って黙ってついて来い」
 ルッチは押さえていた扉に軽く寄りかかった。気分も身体も気怠かった。
「今は…」
「…まあ、そう言うな」
 トリロはそっと手を伸ばしルッチの肩に触れた。そして反射的に半歩身体を退いたルッチに再び笑顔を見せた。
「お前はきっと見たことがないものだ。わしが保証する」
 見たことがないものを見せてやるといわれて胸を躍らせるほどの素直な感情を、自分が持ち合わせているとでも思っているのだろうか…この老人は。ルッチがため息をつと、トリロは笑みを深くした。
「わかっている。子どもなのはわしだ。人間、年を取るほどに子どもに戻るものらしい」
「…それほどの年でもないだろう」
 ふらり、と扉から身体を離したルッチを見た老人の視線はやわらかかった。




「…これは…」
 途切れたきり、ルッチの口から言葉が続くことはなかった。
 表面が荒削りな木片でできている小箱に、裂いた新聞が詰め込まれていた。一見、それだけの塵芥の類に見えた。しかし、中で何かが動いている気配があった。新聞紙の巣の中でいかにも重そうな頭を持ち上げてルッチと目を合わせた小さなもの。それは1羽の雛鳥だった。
「クックルー」
 ルッチが雛の姿を確認するのを待っていたようなタイミングでフクベの白い姿が舞い下りた。
「雌…だったのか?」
 口をついて出たのはルッチ自身、なんとも間抜けに思える言葉だった。それを聞いたトリロは声を出して笑った。
「フクベは雄だ。お前と顔を合わせなかった間はちょうどコイツの蜜月の日々だったんだ。見合いをしてな。短期間ではあるが恋人と伴侶を得たというわけだ。そして自分の命を受け継ぐものに恵まれて…お前はまるであり得ないことみたいな顔をしているが、実はこれが自然の慣わしというものなんだ、ルッチ。そういうわしも、それを思い出したのはここ数年なんだがな」
 フクベは雛が開けた嘴に自分のものを突っ込んだ。食事をさせているのだということがルッチにもわかった。白い産毛に覆われはじめたばかりの雛の身体は赤味が透けて見える。目ばかりが大きくて骨と皮だけのようなその姿をルッチは黙って眺めていた。いかにも弱々しい存在だ。でもそこからは確かに生命力の熱が放たれていた。
「随分時期を先延ばしにしてきたが、そろそろわしとフクベは任務に出なくちゃならない。ここまで育てばあとは人の手でも育てることができる。ルッチ、この雛はお前にやる。お前の両手で育ててみろ」
「…つまらない冗談だな」
 冷めた口調とは異なり少年の瞳に浮かんだ驚きの表情に、トリロは満足して頷いた。
「今日はやり方を教える。明日からはお前が1人でやるんだ。生かすも殺すもお前次第、運次第。楽しめる賭けだとは思わんか?」
「俺が任務で外に出る時はどうする」
「たまたまわしがいればベビーシッターしてやるし…それに、お前、多分しばらくは外には出ないはずだ。そうだろ?」
 ルッチは真っ直ぐに自分を見る老人の顔を見返した。何をどこまで知っているのか、読み取れるものは何もなかった。
「鳩は人間と違ってあっという間に育って自立する。気がついたらお前の相棒になってることだろうよ」
「…悪い冗談だな」
 ルッチは唐突に身体を包んでいた気怠さを思い出した。
 女の身体に自分から触れたいという気持ちはなかった。指示されるままに手を進め指先を動かすうちに標本だったはずの女の体温を意識するようになった。喘ぎ声を聞きながらそのすべてが初心者の青臭いガキにやる気を出させるための露骨な演技だと心の中で冷笑した。それなのに彼の身体は理性とは別物のように理解しがたい反応を見せ、結局ルッチは一通りの行為を完遂した。教官という肩書きを持った人間の好奇心に満ちた視線の前で初めての行為を行ったことは、予想を超えてルッチの心身に疲労を残していた。恥辱。心に浮かぶこの言葉を無視しようとしてもし切れず、しばらく続くと言い渡されたこれからの教練の日々を思うといたたまれない気がした。
「どうでもいい。死んでも文句は言うな」
 呟いたルッチの肩をトリロの手がそっと叩いた。ルッチは無言のまま、今度はその温度を拒絶はしなかった。
 雛はルッチの顔を見ても口を開けようとはしなかった。
 当たり前だ、とトリロは言った。雛の意識にはすでに親としてのフクベの存在が刷り込まれている。それに対抗するためには、今度は多少強引にでも餌付けという条件反射を人間の側が刷り込まなければならないのだ、と。
 トリロの部屋で半日を過ごしたルッチは、手の中に不恰好な巣を持って部屋に戻った。戸口の前までルッチを追って飛んできたフクベは一度だけ軽くルッチの頭を嘴で突いた。本能よりも主への忠心を選んだその姿を振り返ることなくルッチは歩き続けた。
 なぜ、こんなくだらないことに巻き込まれることを自分に許しているのだろう。ちっぽけな巣とは対照的に部屋の隅に山積みになっている飼料、新聞紙、野菜を横目で眺めたルッチの口から吐息が漏れた。指先の1本で絶つことができそうな体長数センチの命。素直に口を開けることはしないが、ルッチの身体の動きにあわせて丸い瞳が後を追う。左に動けば左、手を上に伸ばせば上に。飽くなき好奇心は自衛本能の表れだろうか。
 それから3日、ルッチは雛の世話にかかりきりになった。呼び出されるまでは他にすることもなかった。本を読み、毎日の自室でのエクササイズをこなし、その合間に雛に食事を与え巣の掃除をした。
「ピッルー?」
 雛の鳴き声は想像していたものとはだいぶ違っていた。首を傾げて鳴く様子はまるで会話をしようとしている人間のようだった。
「…気軽に返事をするようになったら終わりだな」
 呟いたルッチは丸い瞳をよぎった反応の鮮やかさに驚きを感じた。
「ピッピール、ピッポー」
 懸命に音を返そうとする姿は玩具のようで滑稽だった。




 ゆっくりと時間が過ぎた。
 あれからさらに5回、教練という名目の時間に女を抱いた。そのうち後半3回は毎回別の女を相手にした。五感に感じる様々なものを心の外に遮断する術もわかりはじめた。刺激の程度と時間の組み合わせを様々に変えて、得られる反応から次の組み合わせを考えた。
 部屋に戻ると女を抱いた痕跡を身体からすべて消してから雛に食事をさせた。その頃には自分で餌を啄ばむことも覚えだしていた雛は、身体も大きくなり柔らかな羽毛に覆われはじめていた。
「…女はとりあえず卒業らしい」
 独り言のように呟いたルッチの声に、雛は顔を上げて一声高らかに鳴いた。
「逆の立場は…気が進まない」
 ルッチが自分の口から零れた愚痴に苦笑すると、雛は首を傾げた。その邪気の無さに訳もなく怒りを覚えた後にそれが八つ当たりであることを自覚したルッチは、黙って飲み水を交換した。日課となっている小事をこなしていくうちに波立っていた心が静まっていった。
「いいさ…俺を抱く相手を飲み込む方法を見つけるまでだ。それを卒業したら次には自分にやられたことを男相手にやってみろと言われる…それだけだ」
 少年の顔に浮かんだ微笑には無自覚の妖艶さの気配があった。
「ピルッピルー?」
 小さく羽ばたいて見せた雛に視線を戻したルッチの顔はすでに平静そのものだった。
「気にするな。…もっと野菜を食べろ」
「ピルルル」
 いつの間にか雛を相手の口数が僅かずつではあるが増えていた。時々ルッチは今の時期の自分に偶然のようにこの雛を与えたトリロのことを思い出した。そこには何の思惑もなかったのだろうか。引退前の最後の任務は予定よりも長引いているらしく、まだ帰還の報告はない。戻ってきたら聞いてみようと決めていた。
 これが誰かを待つ、という感情か。弱いものではあるが。
 気がついたルッチは指先で雛の頭に触れた。伝わってきたものは予想よりも熱かった。




 結局、老人と白鳩は戻らなかった。
 長期にわたった任務の終了と同時に引退し、報告の書面だけを残して第二の人生に旅立ったと聞かされた。ともに任務に当たったCP9の1人がルッチに1つの包みを渡した。中に入っていたのは見覚えがあるパイプと煙草の葉の小袋だった。

 これからが賭けのはじまりだ
 誰の目にも見慣れたパイプはやめて楽な紙巻に変えようと思う
 気が変わらないうちにお前にこれを託す
 ハットリによろしく伝えておくれ


 中に一緒に入っていた1枚の紙切れに書かれた文字を読んだ時、最初はそれが雛の名前であることに気がつかなかった。
 フクベにハットリ。
 理解できないネーミングセンスだ。
「どうやらお前は名前をもらったらしい」
 声をかけるとふらふらと舞い上がった白鳩は真剣な顔でルッチの肩に下りた。
「…カク、という名前でもいいかとは思ったが…」
 ルッチの顔を通り過ぎた見えるか見えないかギリギリの笑みを追うように、白鳩は頭をルッチの頬に触れた。ルッチはまだ慣れないそのくすぐったい感触に眉を顰めた。
「やめておけ…ハットリ」
 初めて呼ばれた名前を聞分けたように、白鳩は一声鳴いて舞い上がった。




 その日、雨が降りだした。
 ルッチは窓を細く開けて空を見た。どんよりと垂れ込めた雲はかなり厚いものに見えた。確認した後も窓は閉めなかった。ハットリの外飛行3日目。初日ほどとはいかないまでも、今日も何気なく窓の外に視線をやることが多い気がしてルッチは苦笑した。
 この頃伸びてきた髪を首の後ろでまとめ、本を1冊選んでソファに身体を預けた。食べた悪魔の実の性質の影響か、雨は落ちてくる感触も降る音も苦手になっていた。身体の中の苛立ちを解消するには読書か身体を動かすのが最適だ。棚からリキュールの首の長いボトルを下ろしてグラスと一緒に傍らに置いておくともっといい。ルッチの舌は様々な酒を判別し薬の類が混入されていないかを判断する訓練を終えていた。訓練の中でいくつか好みの酒を見つけることができたのはこの年齢にしては幸運な偶然の付属品かもしれない。少し大ぶりなステムのない個性的なグラスに注いだ酒の色は、血に例えるにはあまりに鮮やかな紅をしていた。指先できっかけを与えると不規則に揺れて円を描きはじめるグラスと中でゆれる深紅の波。ルッチは靴を蹴り脱いでソファの上に足をのせた。
「クル、クル、クルッポー!」
 羽ばたきと悲鳴のような鳴き声とともに鈍い低音が響いた。顔を上げたルッチは一瞬自分の目を疑った。身体を密着するようにして羽ばたいている2羽の白鳩。2羽一緒では窓の細い隙間を通り抜けることができなかったのだろう。ハットリが懸命に嘴でガラスを突きはじめた。
「フクベか?」
 ソファから窓辺に素早く移動したルッチが窓枠をいっぱいに押し上げると、2羽はもつれるようにしてルッチの腕の中に飛び込んだ。
「…そういうことか」
 ルッチは記憶よりもひとまわりかふたまわり小さくなったフクベの身体をハットリの巣に横たえた。乱れた翼の羽の中には茶色に近い色に染まった部分が何箇所もあった。それは血痕だった。
 トリロは賭けに負けたのだ。ルッチはその現実を受け止めた。殺しのライセンスを与えられていた者はライセンスが無効になると同時に自分の命を失う。人によってはこれを公平と呼ぶかもしれないし皮肉と受け取るかもしれない。どちらにせよ、トリロは死んだ。そして長い時間をともにしてきた相棒もほとんど命を失いかけている。
「愚かだな、お前は」
 主を失った以上、どこへ飛んでいくのも自由なはずだった。この鳩ならば賢く生き抜くことも出来たはずだ。自由になってまた蜜月を迎えて子孫を残すことも可能だったはずだ。そうあるべき自然の形はまだ失われていないのだから。
 それなのに主の言いつけどおりに命を賭けて飛んできた鳩。ルッチは腕の中にハットリを抱いたまま、静かに横たわる身体から生命が失われていくのを見届けた。最後に一鳴きさえできなかったが、フクベにはもう語りかけたい相手はいなかったのかもしれない。
「クルックルー?」
 ハットリは騒ごうとはせずにルッチの腕の中で顔を見上げた。
「…これが未来の俺たちかと聞いているのなら、返事は保留だ。死ぬまでわからん」
 ルッチは開いたままの窓に近づいた。
「今ここを去るのもお前の自由だ。お前はもう飛べるんだから…ハットリ」
 両手で持った小さな身体のあたたかさを意識しながら外へ手を差し出した。
「帰巣本能と餌付けなどたいした拘束具でもない。自分で選べ、どこへ行くか」
 静かに手を開くとハットリは不思議そうな顔をしながら羽ばたいた。
「クルッポー?」
 ハットリは当たり前な顔をして部屋に戻り、フクベの亡骸に身体を摺り寄せた。
「ポッポー、クルックルー」
 小さく鳴き続けるハットリの声をルッチはそのまま黙って聞いていた。彼自身よりも遥かに雄弁だ、と思いながら。




 ルッチの追憶を破ったのは少女の小さなくしゃみだった。反射的に腕の中に深く細い体を抱きこみ、自分の体温を分け与えようとした。そして自分の行動に気がついて唇を歪めた。
「ハットリ」
 合図するとハットリはすぐに少女の頭の上に移動した。
 ルッチは少女を抱き上げた。
「ベッドに戻れ。今日1日はおとなしくしていろ」
「うん…」
 少女の白い手がルッチの袖を軽く掴んだ。それは言葉よりも雄弁だった。
「ポッポー」
 ハットリは静かに舞い上がり、自分の籠に戻った。見てないよ、とでも言いたげに半分背中を向けた白い姿に、ルッチの唇は堪えきれずに曲線を深めた。すぐ傍らに置いて邪魔だと思わない存在。それどころかそれを失いかけた時、ルッチ自身の生活も行動も信条も見失いかけた。
「お前達を連れて行くか…馬鹿げた逃避行に」
 驚いて顔を上げた少女の唇に自分のそれを重ね静かに熱を与え、奪った。命も体力も何もかも…失いかけたもののほとんどを取り戻した今、生き延びるために身に着けた能力を使うことは、それ自体すでに復讐とも言えるかもしれない。
 久しぶりに心と身体にみなぎる充実感の元になったのが恐らく1羽の鳩と1人の少女であることをルッチは笑った。正義という名の下に作られた不透明な闇の中に道連れにしようと思ってしまうほど、いつのまにか手放しがたいと感じていたちっぽけな2つの命。丸ごと自分のものであるように錯覚できるそれに手を触れて確かめたかった。
「来い、ハットリ」
 少女をベッドに下ろしたルッチはハットリを呼び、2つの命を腕の中に抱いた。
「…ルッチ」
 少女の腕が自分からそっと彼の身体を抱いた。求められていることを自覚するのは危険なほど快かった。
「クルッポー」
 小さく穏やかな声を聞いた時、愚かなほど満たされている自分を幸運だと思った。
 あの老人は死ぬ前に何度己の人生に満足しただろう。本当は最後にパイプの一服を恋しく思ったかもしれない。
 あるがままに、己のままに。
 ルッチは腕の中の命を強く抱いた。
 手放すよりも巻き込んで危険に晒しながらともにあることを選ぶ。どのみちいつか死を迎えるなら目の前で散るようにと願う。これが彼のやり方だ。
「お前達を連れて行く」
 彼の声を聞いた鳩と少女が見せた喜びの表情を目に焼き付ける。
 もしかしたら今、老人の遺言を今受け取ることができたのかもしれない。
 似合わない感情を抱きながら、ルッチは慣れない追悼の想いに目を閉じた。


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