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夢語り

 そっと身体を寄せてきたやわらかな体温を感じた瞬間、ルッチは本能と過去の日々の中で身につけた反射的な攻撃が発動しかかるのを堪え、眉を顰めた。
 この気配は違う。半分残った眠りの中で判断した後は、覚醒しながら傍らにあった細い腕を掴んだ。
「どうした…」
 目を開いて最初に見えたのがリリアの紫色の瞳であることを不思議に思った。今夜のように1つの寝台で眠ることは最近ではそう珍しいことでもなくなっていたが、2人の間に自然と10センチ以上の間隔をとって眠るのが常だった。肌を深く合わせた後などは少女はよくそのままルッチの腕の中で眠ってしまったりもしたが、今夜はそうした晩でもなかった。
「声が聞こえたから…」
 少女の顔に浮かんでいるのが微少な不安であることにルッチは気がついた。自分はどんな声を出したのだろう。ルッチは気持ちを向け、消えかかっていた夢の片鱗を記憶に留めた。
 そうか。
 何となく可笑しくなったが、それを素直に表情に出す性格は持ち合わせていない。
 ルッチは少女の手を離し、ゆっくりと1度、瞬きをした。
「ルッチの寝言は珍しいぞ、リリア。あとでわしにこっそり教えてくれんかのう?」
 笑みを多分に含んだ声に目を向けると、ソファの上で身体を起こしたカクがのんびりと両腕を天井に向けて伸ばした。
 そうか、こいつのせいか。
 1人ですべてを納得したルッチの唇に笑みが過ぎった。
「ルッチ?」
 首を傾げた少女にカクは笑った。
「よかったのう、リリア。ルッチの機嫌は満更でもなさそうじゃ。普段よりほんのぽっちりだけ表情があるからのう。なあ、ルッチ、一体どんな夢を見たんじゃ?興味が湧くのう」
 話すわけがないことは、よくわかっているくせに。
 唇に皮肉めいた曲線を浮かべたルッチは、彼に注がれたままのリリアの視線に気がついた。微笑を浮かべて半分安心しながらもまだどこか不安気にみえる表情は、幼く見えた。永遠の無垢。自分は少女が持つその空気に惹かれているらしいといつも不意に意識する。
 細い身体、ちっぽけな命。
 深い心、秘めた熱。
 少女の中に残る不安はまったく見当違いで不要なものなのだが、このまま黙っていたらまた記憶の中に降り積もって悪夢の素になるのだろうか。細い身体から高熱を発していた夜、毎晩のようにうなされていた。その声はまだまだ、記憶に新しい。
 消しておくか…不本意だがな。
 ルッチがカクに視線を戻すと、そこにはわかっているとでも言いたげな笑顔があった。
「…お前が覚えているかどうかはわからんが」
 ルッチは、ゆっくりと口を開いた。




 子どもの頃は年齢の差が身体と心、すべてに反映される時期だという。ルッチ自身は自分が子どもらしい子どもであった記憶などないが、確かにそんな時期はあった。
 ルッチの記憶は政府の小さくて極秘の施設からはじまっている。そこで産まれたわけもなく、1人で勝手に歩いて入れる場所でもないのだから、誰かが彼をそこまで連れてきたはずだ。けれどその人間の記憶はない。
 それから世間に向けてはルッチの親のふりをした男と一緒にあちこちの町を旅した。ルッチ自身が男の偽装の一部として利用されていた。そしてその期間は様々な言葉や風習を心身に馴染ませることを要求され、部屋に残されている間はいつも本を読んでいた。旅に出ないときは島に戻り、ただひたすらに体力と術式に磨きをかけた。
 容姿が目立つ年齢になると訓練の場所はまた施設に戻り、いくつかの施設を経験した。そのひとつひとつで彼より年上の子どもたちや青年たちと出会う機会があった。その度にルッチは年齢差による体力差を最初は味わうことになったが、無関心なまますぐに相手を超えた。そんな風にいくつの施設を回り終わった頃だろう。ルッチは今の…いや、先日までのCP9のメンバー、カク、カリファ、ブルーノ、ジャブラ、フクロウ、クマドリたちと1つの建物に集められた。彼らはすべて『候補生』の名簿に名前が載っている存在だった。
 カク。
 中でたった1人、別の施設でともに日々を過ごしたことがあったのが彼だった。まだ膝小僧を丸出しの短いズボンを穿いていた頃。普通の子どもがどんなものなのか、機会があるたびに真剣に観察していた頃だ。
 出会った時、その身体の中にある心が生まれながらに壊れていることを感じさせたカクは、不思議とルッチのそばにいることが多かった。ルッチもカクには何かあるたびに抵抗なく彼自身の手を与えた。繋いだ手に感じたのはぬくもりとは違ったように思う。恐らくは命そのもの。目に見えない透明な箱の中に自分から入っているように見えたカクの存在を、そうやって確かめていたのかもしれない。
 だからどうだというわけではないが。
 ルッチはさらに皮肉めいた微笑を浮かべながら身体を起こし、重ねた枕に背中を預けた。
「あの施設に入った初めの頃、お前は眠れなくなっていた。そばに俺たちの中の誰かがいる時は妙にテンションが高かった」
 覚えているか、とルッチの視線に問われ、カクは頭を掻いた。あの頃の日々はカクの中では余りに遠いように思えるが、こうしてルッチの顔を見ていると今自分達が大人であることのほうが不思議だ。
「あんたと出会ってからの1年半の間にわしは一気に人間の心というものを手に入れたんじゃが、そいつがちょっと急すぎたんじゃ。あんたと離れてからそれを思い知った。そんな突然高級な玩具を手に入れても持て余すばかりで、気持ちのバランスを取るのがなかなか難しかった。それでも、まあ、わしなりになんとかやっているうちに、あの施設にたどり着いた。そしたらそこに、またあんたがいたんじゃ。驚いたし気分が高揚しっぱなしになっても不思議ではないじゃろ?あんたがそこにいるだけで、わしはカリファやブルーノ、ジャブラたちに簡単に笑顔を向けることができたし、連中の存在を認めて自分の中に受け入れることができたんじゃ。…そんな怖い顔をしてもだめじゃ。この話をはじめたのはあんたじゃろ?わしはリリアの前では本音だけを話すことにしとるんじゃ」
 瞳を大きくクルリと回したカクはリリアに笑いかけた。
「前にも言ったかのう。わしは本当におかしな子どもだったんじゃ。あのまま行けば多分、ただの人殺しになるか、そうじゃなかったらさっさと自分の命を絶ってたじゃろ」
 それを止めたのがルッチだ。
 ただ、カクの傍らにいただけのルッチ。その瞳は自分の知らない何を見ているのだろうといつも不思議に思っていた。その言葉を聞くとルッチの中にカクが知らない世界があることをいつも知らされた。その瞳に映りたくなり、その言葉を受け止めたくなり、今のカクが生まれた。
「…眠れない夜にお前は『月歩』に焦がれた。夜の中に出て行って飽きもせずに練習を重ねていた」
「あんたをつきあわせてな」
 カクは立ち上がると窓辺に移動した。そして部屋の中の薄明かりの元になっている月を見上げた。
「わしらの中で一番の年上はブルーノで、それからクマドリ、ジャブラ…といたけれど、一番強くて経験を積んでいたのはあんたじゃった。当時のCP9たちの完成された六式を見せられた日、あんたはもうすべての技のコツを掴んでいるように見えた。わしは『月歩』に魅せられてのう。あんな風に自分の足で滞空することができたら、それを鍛え抜いたジャンプ力と組み合わせたら自由に空を飛べる気がしたんじゃ。わしはただ、空を飛びたかっただけじゃったのかもしれんな」
 ルッチの唇に薄い笑みが浮かんだ。
「思ったように能力が身につかないことにジレて、お前は賭けに出た。俺が夢の中で見たのは…あの夜のことだ」
 カクは驚いたように目を丸くした。
 それから黙って続きを待っている少女の顔を見た。
「…ならな、ルッチが寝言で何を言ったのか、わしにはわかるぞ、リリア。あの時ルッチは結局一言しか言葉を言わなかったからのう。あのな、わしがやった賭けというのは施設の中庭の大木によじ登ってそこから隣りの木、その隣りの木…と飛んでみることだったんじゃ。木の高さはちょうど施設の建物と同じくらいじゃった。確かにかなり高いから落ちれば軽い怪我では済まん。わしは子どもじゃったから、もっと高く感じとった。あの晩、わしはルッチには内緒で中庭に出た。決意も固く一番端の木に登った。風があったから油断すると振り落とされそうな気がしてた。しばらくしっかりしがみついていたが、高さに目が慣れると枝の上に立った。そして、隣りの木と空を眺めた。今から飛べるんじゃ…それだけしか考えてなかった気がする…ワクワクしてのう」
 ベッドの上で膝を抱えていたリリアは思わずルッチの顔を見た。
 ルッチは小さく頷いた。
「カクに躊躇いはなかった。部屋が空なことに気がついて俺が中庭に出た時、そいつは笑顔で枝を蹴り、空中に飛び出した」
 飛べると信じたオレンジ色の髪の子ども。その笑顔が見えた気がしてリリアの手に力が入った。
 カクは笑った。
「そこらの普通の子どもよりはかなり飛んだと思うぞ。鍛え方が半端じゃなかったからのう、その頃には。でものう、まだ重力に逆らい切ることはできなかった。ぐらりと傾いた自分の身体がひどく情けなくて、もうそのまま黙って落ちてしまおうと思った。…その時じゃよ、声が聞こえたのは。『カク!』と一言だけわしを呼んだルッチの声じゃ」
「…落ちたの?」
 訊いたリリアにルッチは黙って頷いた。
「そう、落ちたんじゃ。見事にルッチの上にのう。もっとも、ルッチは最初からわしを受け止めるつもりだったじゃろうし、わしもルッチの声を聞いた瞬間に 体が勝手に動いて受身の体勢になっておったから、2人とも軽い打撲で済んだんじゃ。ほれ、わしら、今もこうしてちゃんと元気じゃろ?心配せんでいいぞ、リリア。今なら多分かすり傷さえ負わん」
 カクの名を呼んだルッチの声の切実な響きをリリアは想像した。眠っていた自分を驚かせたのはその響きだったのか。人間らしさを失うための訓練を行う施設の中で、ひとつの命を賭けた夜に響いた少年の声。
 多分、助かったカクは満面の笑みを浮かべ、助けたルッチは憮然としているようにさえ見える無表情な顔を見せただろう。少年達の顔を想像したリリアは浮かべた微笑をルッチから隠すために膝に顔を埋めた。ほっとして、心の中がどうしようもなくあたたまって。我慢できずに次々と笑みが零れだす。
 少女のそんな様子を見ながらルッチは小さく鼻をならし、カクはベッドの隣りの床に座った。
「お前が感じてるルッチとわしが見てきたルッチは、案外、似てるのかもしれんのう、リリア。…だから、睨んでも無駄じゃ、ルッチ。わしらだけの時は、あの頃に戻るのはあんたが夢を見るほど簡単なんじゃ」
「…もう寝るぞ」
 ルッチは2人に背を向けて寝具の中に肩まで身体を埋めた。
 リリアは顔を上げ、カクはゆっくりと見上げ、視線を合わせた2人は一緒にルッチの後姿を見た。
「こうやって1つの部屋で過ごすのも、やっぱりそう悪くもないのう」
 自分の気持ちを代弁してくれたようなカクの言葉に、リリアは大きく頷いた。
 ここには『家族』がどんなものなのか知っている人間はいない。だからそれに例えるわけにはいかないのだが、この部屋の空気が嬉しかった。
「あと幾晩か、こういう夜を過ごしたいのう…」
 2人は一緒に空の月を見上げた。
 闇の中で輝き続ける月。
 雲間に姿を消してもそこにあることがはっきりとわかり、薄い雲ならただ身体を彩る模様のように眩しい光を透かして通す。自分達はルッチをこの月の様に思っているのかもしれない。
 リリアは小さく息を吐いた。
「…もう寝ろ」
 低い呟きが聞こえた。
 悪戯っぽそうな笑みを浮かべたカクと目を合わせ、同時に笑った。


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