Ruri&ゆうゆうかんかんモバイル

名前変換


ハイヒール

 鍵を回した瞬間に違和感を感じた。それは物音でも声でもなかった。敢えて名前をつけるなら『気配』だっただろう。穴に差し込んだ銀色の鍵を回し終わって抜いた途端に来た事を後悔した。
 リリアは湧きあがる理由のない感情を元来たところへ押し戻した。どうかしている、と思った。ブルーノの店で見かけたルッチの様子は彼だけを見ればいつもと少しも変わっているところはなかった。ただ彼の周りが…その隣りにいた存在だけが見慣れた光景から浮いていたのだ。いつの間にか店から姿を消していたルッチはいつも通りドックに戻って仕事をしているはずだ。酒場がすいている時間を見計らってリリアが掃除をしに来たのもいつもと同じ。だからここでドアを開けてもいつもと同じ無人でガランとした部屋が待っているだけだ。絶対 に。間違いなく。
 自分に言い聞かせながらそっとドアを押したリリアは開いて行く隙間から広がりはじめた空間を覗いた。やがて少女が通ることが出来るほどの余地ができたとき、その視線は一点に落ちた。床の上に転がっている1足の黒い靴。その細くて優美な凶器のようなハイヒールは今日、店で見た記憶があるものだった。




 ガレーラ・カンパニーの昼休み時だった。
 簡単な昼食と景気付け、或いは午前中を苦しんだあげくの迎え酒を求めた男たちがブルーノの酒場に押し寄せた。サンドイッチ用にパンを薄くスライスしていたリリアは、ふと手を止めてひとつのテーブルに視線を走らせた。それから慌てたように頭を振って再び長いナイフを動かしはじめた。
「気になるか?。確かにあれは随分と珍しい光景じゃがのう。わしでもついつい目をひかれてしまうわい」
 驚いて顔を上げたリリアはカウンターに座ったカクと視線を合わせた。
「ハットリが忙しそうだね」
 2人が一緒に目を向けたテーブルで気だるそうに腕組みをしたまま座るルッチの肩で、ハットリが何か羽を手のように動かしながら言葉を送り出していた。そのハットリの羽根の先、ルッチの隣の席に座っているのは、注文仕立てであることが一目で分かる装飾性の高いスーツに身を包んだ若い女だった。他人の手で整えられたに違いない複雑な髪型と効果的な化粧。スラリと伸びた足を優雅に組んだその先で黒いハイヒールが揺れている。
 口を開きかけたリリアはカクの顔を見てやめた。その先を推測したカクはリリアに視線を返した。
「ありゃぁ、今度大きな取引をはじめる材木会社の社長の一人娘なんじゃ。何でも前にも父親と一緒に会社を見学に来ていたらしくてな、今日もついて来たらしいんじゃが、どうも前からルッチの事を気に入ってたってことらしい。社長の方はアイスバーグさんと会食、娘の方はルッチと食事…ということになってしまったようじゃがのう。恐らくはカリファの考えじゃな。狙うほどのものもなさそうじゃが」
 情報を引き出す役割にルッチが一番適していると判断されたということなのだろう。リリアは慣れた手つきでサンドイッチを切り、皿に盛ってカクの前に置いた。
「とても綺麗な人ね」
 鮮やかな色を塗られた唇の曲線とスーツの下に存在を窺うことが出来る身体の曲線。どちらもリリアの目には大人の条件を満たす眩しいものに見えた。
「わりとどこにでもいるタイプじゃと思うがのう。中味は薄そうじゃ」
「ああいう執着的な目はルッチがかなり嫌いなタイプだろう」
 湯気が上るコーヒーを置いたブルーノは探るような視線をリリアの上に落とした。リリアはまたパンを切りはじめている。あの日、ルッチの部屋から戻ったリリアは遅くなったことをブルーノに詫び、ブルーノはただそれを迎え入れて食事をさせた。それからどちらもリリアが外泊した事については触れず、それまでと同じ様に日々を過ごしていた。
 カクはリリアを見るブルーノの顔をちらりと見上げた。




 そう。この黒い靴は酒場で見たあの靴だ。そしてここにそれが落ちているということは、今、中にあの女性がいるということだ。ルッチと一緒に。そして ルッチが女の靴をここに落とした意味は。
 部屋の中で軽い羽ばたきを聞いたリリアはそっと後ろに下がって音を立てないように気をつけながらドアを閉めた。ルッチがいる。靴を脱がせた女を腕の中に抱いて。一歩一 歩足音を殺しながら進むリリアの胸の中で心臓が速まった。鍵をかけないまま来てしまった事に気がついたが戻る気にはなれなかった。ただ無事にこの場から離れる事。『無事』という意味を見失いながらリリアはただひたすらに足を進めた。
 ドアが閉まる音を確認したルッチは強欲に彼を求める女の身体を再び深く貫いた。容易に喘ぎ簡単に泣いて堕ちていく豊満な身体。
 『来月結婚するの。その前に思い出として抱いて』
 そんな風に誘ってきた女は彼の他に一体何人に同じセリフを使ったのだろう。埋もれるほどの思い出を集めることが出来ればこれからの一生を満たされた気分で生きていけるのだろうか。
 皮肉な笑みを唇に浮かべ、ルッチは女を追いたてた。意識を集中するまでもなく考える必要もない行為だった。
「鳩さん…お願い…何か喋って…」
 そう言いながら自分の声と行為の音のみの世界に酔っている女。この女はどこかバランスを欠いている。しかし面白味は感じられない。
 ルッチはアイスバーグの言葉を思い出した。
『すまないが昼食だけどこかに連れてってやってくれないか。後は気を使う必要はない。戻っていつも通り仕事してくれ』
 その指示を伝えたのがカリファだったなら、恐らく彼は言われたままにブルーノの店を出たら真っ直ぐドックに戻っただろう。実際、店で周囲のひやかしの視線を無視しながらただ時間が過ぎるのを待ちはじめた時はそのつもりだった。そこに来て女があからさまに身体の要求をアピールしはじめたのだが、女の笑みも言葉も誘惑的な身体の動きも彼に通じるはずもなかった。だが、ふと、ルッチは思ったのだ。大切な取引相手になるはずの会社の社長の娘はいつぞや見かけたロブ・ルッチという1人の船大工に熱を上げている。それでもアイスバーグはルッチを利用して相手の機嫌を取るつもりはなさそうだった。そんなことを考えるはずがない男だ。腕があり人望があり、慎重この上ない男。光に向かって影に背を向けて歩いている男。彼はルッチが女を抱いたことを知ったらどう思うだろう。ルッチには特に知らせる気はないが、もしもいつかアイスバーグがそれを知ったら。それでも彼の中の信念とかいうような名前のものは少しも揺らぐことはないのだろうか。
 ルッチは女を抱くことにした。取るに足らないちっぽけな布石だ。それでも決めたルッチの唇には薄い笑みが浮かんでいた。
 昂って上りつめて行く女の声を耳にしながらルッチは白い肌を眺めた。なぜかその肌の白さを偽物だと感じていた。彼はもっと本当にぬけるように白い肌を知っている…リリアの肌だ。ルッチは苦笑した。この間リリアを抱いた時、身体を開かれるのが初めてのリリアの反応に興味があったルッチは、細い身体の動きの一つ一つに集中して意識しながら時間を掛けてリリアを抱いた。それが新鮮だったためかそれともこの女が余りに簡単なためか、行為をしているこの時間が退屈だった。やがてぐったりとした身体から下りたルッチは女の顔を見下ろした。
「ありがとう…いろいろすっきりしたわ。でも…あなたは最後まで…達していないんでしょう?いいのかしら?」
『必要ない。仕事に戻る』
 女はゆっくりと身体を起こした。
「…わかったわ。不思議な人ね」
 先に身支度を終えたルッチの手は女が扱いかねていた長い髪を元の形に結った。振り返って口を開きかけた女は、ルッチの表情を見ると口を閉じ、小さく息を吐いた。
「抱いてもらったのに…あなたが恐いわ」
 それは正常は判断だ。ルッチは唇を歪めた。女は彼の腕の中でバランスを取り戻したのだろうか。身体の感触よりもその方にむしろ興味をひかれた。その時には女は立ち上がり、ドアの前で黒いハイヒールを履いていた。




 酒場の中から楽しく飲みたい客たちが帰って行き今のように本当に酔うことを目的に飲む客ばかりが残った時、ブルーノはいつもリリアに合図して先に部屋へ上がらせる。頷いたリリアはカウンターの横をくぐって裏口から外に出た。リリアが暮らしている2階の部屋には店の裏にある外階段を登っていかなければならない。ブルーノの部屋とは実質的に独立しているその場所は、過ごす時間を重ねるに連れて心馴染んでくつろぐことが出来る場所になっていた。
 今夜は空気が冷える。一歩外に出て思わず身体を震わせたリリアは瞳を大きく見開いた。裏口の前に立っていたのはルッチだった。
「ブルーノは。まだ客は残りそうか」
「奥さんが里帰りしちゃった人と仕事をやり直すように言われた見習いさんと…うん、やっぱりみんなきっとこれからブルーノに話を聞いて欲しいんだと思う」
 不意打ちな感じでルッチに会ってしまったことはかえって幸運だったのかもしれない。いつもと変わらないルッチを見て声を聞いた リリアもつられて普通の顔ができているだろう。少し安心したリリアはハットリに手を伸ばした。やわらかくて温かな身体の重さになぜか涙が滲みそうになった。
「お前は部屋に戻るのか?」
「うん」
 ぶっきらぼうに短く答えた  リリアの顔をルッチは無表情に眺めていたが、やがてごく僅かに口角を上げた。
「ハットリを連れて行くなら俺も待たせてもらうぞ」
 途端にリリアの心は葛藤の渦に巻き込まれた。これが今夜ではなくてせめて昨日だったなら…リリアは喜びの感情を押し殺してルッチを部屋に上げただろう。午後から落ち着かずに余計なことばかり考えていたリリアはずっと自分の愚かさを心の中で叱り飛ばしていた。あの転がっていた靴も昼に見かけた女性の事も、リリアには気にする必要もないしルッチの行動を詮索する権利もないのだ。ルッチの邪魔にならないようにすること、それだけを考えていればいい。そしてこれからは今までよりももっといつの間にか甘えていた自分に注意しなければ。そう決めたリリアだった。
 冷たい風が吹きぬけた。リリアはそっとハットリを抱いた。これは練習だと思えばいいのかもしれない。ちゃんとルッチの前で普通にしているための。
 何といっていいのかわからずにただハットリを連れて階段を登りはじめたリリアの後ろから低い靴音がついて来た。この音だけで嬉しいと感じてしまう自分は本当に…馬鹿だ。リリアは小さくため息をついた。
「お茶を淹れるね」
 リリアはハットリを肩にのせて部屋の奥の小さなキッチンに行った。
 窓際にしつらえられたベッドに腰を下ろしたルッチは素早い視線で部屋の様子を見てとった。ベッドと小型の書棚、折りたたみ式のテーブル。色彩も形もシンプルなものがいくつかあるだけの部屋の中で書棚の上だけに色が溢れていた。ボトルシップ、絵葉書、ドライフラワー、銀色のペンダント、細々とした雑貨。それはエニエス・ロビーのリリアの部屋では見たことがないものばかりだった。もっとも向こうでのリリアの部屋は部屋と呼ぶよりもクローゼットと言った方が良いほどの広さしかなかったからベッド1台で満杯だったが。もう一度棚の上を 眺めたルッチはこのうちのほとんどはリリアがとにかく受け取ったもののどうしていいかわからない贈り物なのだろうと推測した。生活感もこだわりも好みも、そこには何の空気も見えずただ店のショウウィンドウの展示物のように整然と並べられていた。
「ハットリにはまだ熱いかな」
 トレイを持って戻ったリリアはテーブルにカップを3つ並べた。そのうちの1つは小さなデミタス用のカップで、ハットリのためのものだとすぐにわかる。舞い下りた白い鳩は静かに嘴を伸ばして薫り高い液体の表面に触れ、すぐにブルブルと首を振った。
「ごめん、ごめん。少し冷ましてあげるね」
 笑ったリリアの目にルッチの横顔が映った。その瞬間に胸が急に苦しくなった。ルッチがハットリを見る表情。それは リリアが一番好きなルッチの顔だった。慌てて目を逸らしたリリアは深く息を吸い込んだ。なぜこんなに過敏になっているのだろう。普通にしていると決めたのに。
 紅茶に息を吹きかけるリリアの口元が震えた。一筋落としてしまった涙はルッチに気づかれてしまっただろうか。その場合、熱い湯気が原因にすることは、やはり不可能だろうか。混乱したリリアはルッチが立ち上がった気配を感じてそっと涙を拭った。
「俺は女を抱くこともあれば男に抱かれることもある。任務次第、気分次第だ。そのことを知っておけ」
 ルッチがさらりと言った言葉に驚いて思わず全身を向けたリリアにルッチは笑みを投げた。
「別に平気な顔をしろとは言わないが、泣くほどのことでもないだろう」
 頷くわけにもいかず立ち尽くすリリアのそばに一歩近づいたルッチは帽子を脱いでテーブルに置いた。
「やはり…お前はなかなか興味をそそるな」
 間近に感じるルッチの体温に赤みが差したリリアの顔にルッチの手が静かに伸びた。頬に触れた指先の感触を堪え切れずにリリアが目を閉じたとき、唐突に気配は離れた。
「喉を掻き切るのも簡単そうだ」
 するりと椅子に座ったルッチはカップを持ち上げて唇をあてた。
「…うん、ルッチの指1本にも勝てないね…」
 脱力感に満ちた身体で椅子に座りこんだリリアは苦笑した。なぜか心が軽くなっていた。ルッチの存在は圧倒的過ぎて、こうしていられるだけで奇跡にも思えた。ルッチのカップを持つ手の形や紅茶を飲む時の喉の動きまで黙っていると見とれてしまう。こんな自分につける薬は多分どこにもないのだと思った。
「ハットリ」
 カップをそっと打ち合わせて乾杯する少女の顔を眺めていたルッチはそれからしばらく黙っていた。その目はいつのまにか、午後の部屋の中で思い出した少女の肌の白さを確認した。


Copyright © 2012 北国のあき/NorAki All rights reserved.