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狭 間

 もうすぐ新年を迎える夜に、人は誰と一緒にいることを望むのだろう。
  リリアはふとブルーノの顔を見た。1時間ほど前までは酒場の中にはガレーラカンパニーの職人たちが溢れていた。今も10人ほどが残って盛んに騒いでいるが、その中には会社のトップに立って彼らを率いる社長の姿はなくなっていた。そしてその傍らにあった有能な美しい秘書の姿もない。2人は静かに連れ立って風が強くなりはじめた夜の街に出て行った。ブルーノとともにその姿を見送ったリリアはブルーノの気配の中に無言で揺れた何かを感じた気がした。
 ブルーノとカリファ。
 人生経験が豊富とはいえない自分が感じるものは多分ほとんど見当違いなものばかりのはずだ。まして彼らはCP9という世の中の常識からは見えない影の世界に属している。リリアの想像が通じるはずもない世界。
 でも。ブルーノもカリファも人間だ。リリアはカリファが時々向けてくれる優しさを半分隠した微笑が好きだし、酒場の主人としてリリアの働きを労ってくれるブルーノの瞳に真実の色を見る。だから出て行く2人を見送るブルーノの横顔に感じたものはもしかしたらほんの少しだけ当たっているかもしれないと思った。
「そいつを抱くか、ブルーノ」
 低く聞こえたその声はリリアの身体を硬直させた。
 カウンターに1人座っているルッチ。肩にハットリをのせたその姿はいつもと同じ見慣れた船大工のものだ。何かかにかを理由にして飽きずに乾杯を繰り返しているパウリーを中心とした輪の中に加わるはずもなく、何も気にしない顔をしながらすべてを油断なく見て取っている黒い瞳。ルッチがカウンターに座ったのは、そういえばアイスバーグとカリファが店を出て行った直後だった。
 ルッチは何を見たのだろう。そしてなぜブルーノに。
 リリアの頭はルッチの言葉に凍り付いてしまったように冷たく固まり、何も考えることができなかった。リリアの身体を抱けとルッチはブルーノに言っているのか?なぜ。どうして。
 ブルーノはリリアの顔をちらりと見た後でルッチを見下ろした。
「言葉遊びはやめておけ…と言いたいが、お前はそんな無駄をするはずもないな。本気で言ってるなら余計にやめろ。どんな意図があるにしてもな。リリアはうちの店の従業員だ…俺にとっては。時々、お前にとっては何なのか訊いてみたい気になるぞ」
 ルッチはわずかに唇を歪めた。
「俺はお前に抱かれたことがあるしお前が抱いたカリファを抱いたこともある。そこに俺が抱いたリリアをお前が抱くことが加わったとして…大した違いも変化もあるまい」
 それぞれが互いにどういう感情を持っているかは関係ない。ルッチが言いたいことをブルーノはわかっていた。感情を持つのをやめる必要はないがその感情に思考や行動が影響を受けることはあってはならない。それはただ愚かなことだ、と。
「お前はリリアを抱けというが、それは俺のためか?自分のため、ということもありそうな気がするが」
 ルッチは空になったグラスを置いた。
「ただの提案だ。深い意味はない」
 空のグラスに伸ばしたリリアの手は細かく震えていた。ルッチが視線を向けるとリリアは手を引いて唇を噛んだ。平気な顔をしていなければならない。普段と変わりなく。それが出来ないのならいっそ…。
 すばやく身を翻して裏口に姿を消した少女の姿をルッチの瞳は無言で追った。ハットリが首を伸ばした。
 ブルーノは短く息を吐いた。
「あれは組織に属している人間じゃない。お前個人に属している人間だ。扱いには気をつけたほうがいい」
「俺に属するものなどない。勘違いしているようだな、ブルーノ」
 無感情に呟くとルッチは席を立った。離れていく後姿をブルーノの視線が静かに追った。




 早く落ち着いて店に戻らなければ。リリアは冷たい水で顔を洗った。これまでにルッチのことをほんのわずかでもわかった気持ちになったことはなかった。だから何を聞いても知っても驚くことはないと思っていた。けれど現実はどうだ。ルッチの言葉に、行動に胸が騒がなかったことはない。今も胸が締め付けられるように苦しい。ルッチがポンと放り投げたこの身体をもしもブルーノが受け止めていたら、店が終わったあとに…。リリアは両腕を自分の身体に回した。望まないはずでいながらこれまで自分はいつの間にかひどく間違っていたのかもしれない。そう思った。
「くるっぽー」
 扉の外でハットリの本物の声がした。震えだした身体を強く抱きながらリリアは無言で扉を見つめた。今はダメだ。到底いつもの顔でルッチに会うことなどできない。しかし扉は音も立てずに開いた。そこに立つ姿は…。リリアは目をそらすことができなかった。
「お前は本当に面白いな」
 普段と変わらないルッチの口調がリリアには苦しかった。
「…ブルーノは身体の扱いがうまい。いい思いができるかもしれないぞ」
 自分がその『いい思い』を望むとルッチは思うのだろうか。それがどういうものか想像すらつかない自分に。そういう意味で他人の手が自分に触れることを思うだけで恐怖に身がすくんでしまう。それなのに。
「店に戻らなくちゃ…」
 リリアがルッチの顔を見てもルッチが扉の前から動く気配はなかった。
「職長たちが騒いでいるだけだ。今夜はもう戻る必要はない。アイスバーグはカリファと出て行ったしな」
 それはつまり。リリアに向かってルッチは短く頷いた。
「やっと手を伸ばす気になったんだろう。予定通りだ。少々哀れと言えないこともないが」
 哀れとは誰が?アイスバーグかカリファ、それともブルーノなのか。
 その時、ハットリがふわりと舞い上がった。リリアの右肩に降りて頭を頬に擦り付ける。
「行くぞ」
 無言のまま瞳を見開いたリリアにルッチは苦笑した。
「ここでお前を抱く気はない。部屋に連れて行く。ハットリがお前といたいらしいしな」
 気持ちが混乱したリリアは呆けたようにルッチを見続けた。ルッチはブルーノに…。けれど今…。
「考えるな、と言っただろう」
 気がつくとリリアの身体はルッチの腕の中にあった。拒絶するべきだと判断したときにはすでに唇をふさがれていた。初めて抱かれたあの日から最初に与えられた唇。再び味わうことはないと思っていたルッチの口づけ。ガクガクと震えだして止まらない細い身体を引き締まった腕が軽々と抱えあげた。
「面倒だ、上を行く。声を出すな」
 そのままするりと窓から宙へ飛んだルッチは音もなく屋根を飛び伝って彼の部屋に戻った。夜の薄闇の中、月だけが2人の姿を照らしていた。




 これは自分をブルーノに抱かせようとしたルッチの手と唇だ。
 ただ身体を硬くしたまま横たわるリリアの姿にルッチは口角を上げた。衣類を身につけたままの華奢な身体と無言で見返す紫色の瞳が頑なに彼の行為を拒んでいる。予想よりも激しいその頑固さはルッチにはなかなか新鮮だった。未熟な身体と強固な精神。そのどちらにも手の伸ばし甲斐はありそうだ。
 感情を抑えた極めてソフトに感じられるはずの唇の動きを止め、ルッチはリリアから身を起こした。
「力づく、は簡単すぎるな」
 リリアはルッチの表情を探った。そこに怒りはない。どちらかといえば面白がっているような気配を感じた。あの日もそうだった。リリアはルッチの行為の中に暴力めいたものはひとつも感じなかった。何かを確かめるように事を進めたルッチの身体のすべてはただ穏やかだった。それはついそれを優しさと勘違いしたくなるものだった。だから、自分は。
 ルッチは静かにリリアの髪に指先を触れた。どうしようかと考えているらしいその顔はやはりどう見ても楽しそうだった。
「ブルーノにはああ言ったが…俺はもしもアイスバーグがお前を望んだとしてもお前を抱かせる気はない」

 ルッチの言葉の意味を考えているリリアの顔は生真面目なくせにどこか誘うようで、ルッチは髪に指を絡ませながら再び唇を合わせた。
「それでお前の気分は少しは落ち着いたか?」
 囁くルッチの言葉の意味よりも声の響きに気持ちが反応してしまう。ルッチの中でのブルーノとアイスバーグの違い…それははっきりとはわからなかった。ただ、もしかしたらルッチがあの言葉をブルーノに言ったことに何か目的があったのかと思えた。ああ言われたからといってブルーノがリリアを望むはずはなく、それを知った上で言った台詞だったとしたら。
「どれもどうでもいいことだ。考えるな。ただ感じたままを見せろ」
 リリアの唇の柔らかさを確認したルッチは徐々に口づけの深さを増した。慣れないリリアの戸惑いを包み込むように逃げ道をふさぐ。初めてのときの痛みや羞恥の気持ちを思い出しはじめたリリアがそれまでとは違う意味で身体をこわばらせると、ルッチの手が何度もリリアの耳の後ろから頬全体を撫ぜた。
「考えるな。もっと望め」
 ルッチの声にあやされているように感じながらリリアは目を閉じた。心を静めると外の風の音が聞こえた。高鳴る心臓とまるで何かを期待しながら恐れているような自分の身体。バランスをとろうとしているうちにどんどんと心がルッチのほうに向いていく。重なり合う肌と肌のあたたかさ。自分の身体のひとつひとつの場所を目覚めさせていくようなルッチの手と唇。やがてリリアの身体と心は覚えがある熱い坩堝の中に投げ込まれた。細い場所を貫かれたときには痛みよりも繋がることができて満たされたような気持ちを味わった。それでもまだ残る痛みに無意識の涙を流すと、ルッチの唇がそれをぬぐった。なぜ全部わかってしまうのだろう。繋がった部分から初めて感じる熱いものを堪えながら リリアはルッチの手を握りしめた。
「耐えるな。開け」
 少女の細い腰を抱え上げたルッチはさらに深く身体を沈めた。その未体験の感覚にリリアの口から声が漏れた。
「そのままだ、リリア
 ルッチの声もわずかに熱を帯びているように聞こえた。そのことに気持ちをやわらげた瞬間、身体の芯が耐え切れないように一気にのぼりはじめた。
「う…」
 つかまるように握りしめたルッチの手がリリアの手を握り返した。
「ルッチ…!」
 真っ白になった頭の中の方角を見失ってリリアは強く唇を噛んだ。収縮と痙攣。比べようもない眩しさ。目を閉じたままリリアはルッチの視線を感じた。
 ルッチは昇りつめた少女の反応をすべて視線でとらえた。時間をかけただけのことはある。少女は前のときと違ってルッチの手を離すことも忘れてぐったりと目を閉じていた。ルッチはゆっくりその手をほどいて白い身体に毛布を掛けた。
 ルッチの身体の重みが離れてしまったとき、リリアは薄く目を開けた。そこにはルッチの視線があった。
「最後で最初だな」
 ルッチの言葉の意味を考えようとしてもまどろみに誘われて頭が回らない。その時リリアは遠くで鳴る鐘の音を聞いた。繰り返しなる鐘の音。急ぐ様子もなくゆったりとした間隔でなり続けるそれの正体は…。リリアはその正体と同時にルッチの言葉の意味がわかった。新年の鐘の音。恐らくリリアがまだ抱かれて高みに登りつめていた頃から鳴っていたのだろう。古い年に別れを告げて新しい年を迎える深い音色。
 行く年の最後から、来た年の最初にかけて。目を閉じたりリアの唇に微笑が浮かんだ。
 新年を迎えた夜をルッチと一緒にいられること。
 ぬくもりはじめた毛布の中でそっとルッチの身体のすぐそばまで手を伸ばした。決して触れてくることのないその手に気がついたはずのルッチは何も言わずただ少女の横顔に視線を落としていた。


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