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煙 花

 街全体、島全体に走っている水路のどれを辿っても、ちゃんと中心の大噴水にたどり着くはずだった。
「う~ん、おかしいなぁ。ね、ヤガラ?」
 進むにつれて周囲のブルの数がいつの間にか減っていた。
 気がつくと雰囲気が何となく『裏道』の様相を呈していた。それでも興を感じてそのまま進んでみた。
 ずっと視線の前にあったはずの大きな噴水が右手になったかと思ったら後ろになっていて、最後に左に曲がったときにはリリアが乗ったブルはポツンとひとりになっていた。
 仰ぎ見れば雲間の月、振り向けば静寂の中に噴水の音だけが幽かに聞こえる。
「何だか別の世界みたいだね」
 首を回してニー!と場違いに明るく返事をしたヤガラに微笑むと、リリアはほうっと息を吐いた。まだ年が明けてから日も浅い夜は空気が冷える。もしかしたら小雪が舞うかもしれないという声も聞いた。
 今、ルッチはどこにいるのだろう
 想いの先は水面のさざ波に消える。
 時折落ちる月明かりだけの場所。静けさは美しい祭りの前では心を震わせる予感でしかない気がした。
 紫色の瞳はまた夜空を見上げた。




 花火があるらしい、という噂はガレーラカンパニーのまだ年若い見習いたちの間から広まりはじめた。リリアがそれを耳にしたのは比較的早い時期だった。ランチタイムにやって来た若者に声を掛けられた日、だった。
「あの…リリアちゃん!今度新年の打ち上げ花火があるらしいんだけど、いや、その、よかったらというか何というか…」
 花火?
 コーヒーを淹れていたリリアは耳慣れないのに懐かしい言葉に首を傾けた。言葉上の意味は知っている。夜空を彩る美しい色と音を楽しむもので、夏向けのものであったはずだ。人の心を捉える風物詩。
 宙を向いたリリアの視線は想起の色を帯びた。
「年越しの夜には随分爆竹や手持ちの花火がにぎやかじゃったのう。どうしたんじゃ?リリア。もうコーヒーはポットにたっぷりで溢れそうじゃぞ」
 気がつくとリリアに話しかけた若者の肩を落とし気味の後姿が離れていくところで、カウンターを挟んだ目の前にはカクがいた。リリアの顔を覗き込む瞳にはいつもの明るさ以外の別の何かもあるような気がして、それを断つために大きく瞬きをした。年越しの夜のにぎやかな音をリリアは知らない。記憶に刻まれているのは窓の外から静かに聞こえた鐘の音とすこし離れた傍らにあった人の体温の記憶…
 お湯を注いでいた手を止めてリリアは小さく息を吐いた。
「花火ってほんと?」
「まあ、本当はまだ内緒にしてあるはずなんだがのう。アイスバーグさんは確かに花火を注文済みじゃ。カリファが言っとった」
 カクは読みにくいリリアの表情の中に見慣れないものを見た気がしていた。躍っている心の気配。少女らしく、子どものように。
リリアは花火が好きなんじゃな。嬉しそうじゃ」
 リリアは頬を赤らめた。
「…打ち上げ花火は見たことがないの。だから好きとか言えないんだけど。でも花火が大好きな人を知っててね。その人は小さな船で色んな島の大きな花火の大会を追いかけて日々を過ごしていたの。最後に会ったのはもう何年も前なんだけど」
「なんじゃ、それじゃあお前はまだほんの子どもじゃな」
「うん。あの時からずっと憧れてきたの。人の生き方まで決めてしまう綺麗さってどんなだろうって」
「わしらには無用で無縁なものじゃったな、何度見ても、どこで見ても」
 聞こえた呟きにハッとして見るとカクの大きな瞳が透明な光を返した。
 そんな風に生きてきたカク。それはルッチやカリファ、ブルーノも同じなのだろうか。そしてそれは、どんな生き方なのだろう。
 カクの唇が笑みを浮かべた。いつも周囲に見せているものとは違う静寂を切り取ったような微笑。
 リリアは小さく首を横に振ってその微笑に吸い込まれそうな錯覚を消した。それは花火の話と同じくらいリリアの中に強い印象を残した。




「もう一緒に行く相手は決まったの?」
 さらりと落ちた金髪の奥でカリファの瞳がやわらかく微笑んだ。
「一緒に…って花火?」
 カリファが好きなことを知っているフルーツを買っておいたリリアは真剣な表情でナイフで皮を剥いていた。
「そう。面白いのよ。この頃ね、ドックと会社の周りに職長たちと花火に行くのを狙っている姿が結構集まるの。知名度や人気が見えるわ」
「…そうなの」
 丁寧にスライスしたものを皿に盛ってカウンターに置き、リリアはカリファの表情を追った。
 前より綺麗になった気がした。
 元々とても美しかった瞳が、唇が、肌が。リリアはちらりとブルーノの背中を見た。今は酒場の店主になりきっているブルーノはカリファに対しても普通の接客態度を崩すことはない。でもブルーノも今のカリファの美しさに気がつかないはずはない。そしてきっと リリア以上にそのことについて考えているのかもしれない。
「カリファは…アイスバーグさんと行くの?」
「有能な秘書としてはそうなるわね。挨拶だけでまた仕事に戻る可能性も大きいけれど」
 フォークに刺したフルーツを小さく一口噛んでカリファは微笑んだ。
「美味しいわ。ねえ、リリア。あなた、何かあった?少し…大人びたかしら」
 一見しただけでは変わりないリリアがナイフを手にしたとき、カリファは何かこれまでとは違うものを感じた。銀色に光る刃の危うさをいつの間にか巧みに緩和している白い手と指先。真剣に引き結ばれた唇の端に小さく浮かんでいた微笑。
 リリアは目を伏せた。
「あなたを花火に誘いたい人、結構いるみたいよ」
 応援団長パウリーを先頭にして。
 リリアの唇が曲線を描いた。
 この頃昼に日参しているパウリーはいつも1人の若者と一緒だ。まだ少女のリリアに対して信じられないほど困惑した顔を見せるこの2人組…申し訳ないと思いながらもリリアはついつい面白がってしまうのだ。
「花火は初めてだから、誰かと一緒に…というところまでは想像できないな」
 そう言いながらもふと心の中に浮かぶ1人の人の横顔。
 苦笑して首を振ったリリアはカリファと顔を見合わせて笑った。
 確かに以前とは違っているその2つの笑顔の幽かな艶やかさを。ブルーノの視線は静かにその光景を切り取って記憶に収めた。




 自分の身の回りのものや部屋についてルッチは少々潔癖な部分がある。不要なものは一切置かず、置いてある必要なものでも彼自身の好みを示すものは敢えて避けているような。
 そんな中でリリアが特に丁寧に扱うのがシンプルな中に美しく線が浮かぶようなカットを施されたグラスと黒いシルクハットだ。そのどちらもがルッチに属しているもののように思える。
 部屋に戻ってきたルッチはリリアが念を入れて拭いていたグラスを取り上げて氷と酒を満たし、一人掛けのソファに深く腰を下ろした。それからリリアの手が持つ毛の柔らかそうな小さなブラシを見て、帽子を脱いで小さく放った。
 そんなルッチの様子から機嫌のよさが伺える。シルクハットの縁が巻いた部分に静かにブラシを掛けながら、リリアは自然と速くなってしまう呼吸を整えた。
「ルッチ、あの…明日…」
 明日?
 無言のままの表情に僅かに疑問の色が浮かんだ。その気配だけで続く言葉を飲み込んでしまったリリアは自分の臆病さ加減に苦笑すると同時にほうっと息を吐いた。
「明日は掃除はいらない。煩わしいがアイスバーグの祭りにつきあわなきゃいけないんでな。やはりあれは頭がいい男だ。ウォーターセブンの代表という顔をしっかり作っていく腹積もりだろう」
 窓の外を見るルッチの横顔に感情はない。
「…花火に行くの?」
「でかいブル1台貸切だ。1番ドックの職長全員に声が掛かってる。籤引きで当たった市民と一緒に花火見物だ…馬鹿らしい」
「そっか」
 リリアは止まっていた手を動かして丁寧にブラシを掛けた。
「で…お前の話はどうした?」
 ゆっくりと向いたルッチの顔の前でリリアは首を振った。
「掃除がいらないのなら、いいの。…確かめたかっただけ」
 肩に舞い降りたハットリに頬を寄せながらリリアはルッチに背を向けた。
「わたしも…その籤を買えばよかったのかな…」
 リリアの呟きに答えるようにハットリが小さくクルッポー、と鳴いた。




 音が立て続けに5発、聞こえた。
 これは花火開始の合図なのだろう。そう判断したリリアはブルの向きを変えてヤガラの頭を島の中央に向けた。
 1発、さっきよりひときわ大きな低音が響いた。視界の端を光る筋がすうっと空をのぼっていった。
「…あ!」
 空気を震わせるような音とともに光を帯びた色の花が開いた。
 リリアは深く息を吸い込んだ。
「あれが花火」
 生まれて初めて見る花火は想像していたよりももっと生き物のように感じられた。人の手によって打ち上げられて轟音とともに咲き、静かに消えていく。その消える瞬間の輝きはまるで命のようだと思った。いつかは消える…それがわかっているからなるべく長い時間を目に、心に焼き付けたいと願う。
「すごいね…」
 変化する色と形に引き寄せられるようにブルの上で立ち上がったリリアはヤガラの首に腕を回した。独りで見ようと決めていた花火を一緒に見ている思いがけない相手。愛嬌たっぷりの丸い瞳はこの色鮮やかさを認識することができるのだろうか。
「綺麗」
 すぐ近くで見るのとは迫力は違うだろうが。建物の間を抜けるように現れて噴水のシルエットの上空で展開される光の姿をリリアはじっと見つめた。
 ルッチも今これを見ているだろうか。
 リリアは貸しブル屋を出た直後にすれ違った大きなブルを思い出していた。背が高いブルの上の様子を見ることは出来なかったが、何人か見知った職人の顔があった。ルッチもカクもカリファもあそこにいたはずだ。でも後は追わなかった。ヤガラと一緒に探検してみることに決めていた。
 ブルーノがポットに入れてくれたのは熱いココアだった。
 リリアはこの慣れない甘さを少しずつ好きになっていた。ココアを練るブルーノの手つきを見ながらもしかしたら自分のほかにもココアを淹 れてもらっていた人がいたのではないかと想像した。それは多分カリファ、そしてカク。ルッチはそこに入っていない。
 まだ十分に温かいココアを一口飲むとリリアは身体を震わせた。
 どんどん空気が冷え込んできた。花火の明るさで意識していないだけで寒さは強まっている。本当に雪になるかもしれない。リリアはその時開いた大きな花火を見つめながら膝を抱えた。
「お前は寒くない?」
 ヤガラは元気に返事をした。
 リリアは嬉しくなってヤガラの首を撫ぜた。
「本当に綺麗…」
 大きな音と同時に静けさを感じる不思議な時間だった。
 空を落ちていく光の行方を飽きずに何回も追い続けた。
 夢の中にいるような気分になった。
(ルッチと…見たかったけど)
 横顔を思い出したときカクの言葉が重なった。もしかしたらルッチも花火には関心がないかもしれない。無用なものには気持ちも時間も割くことを嫌うはずの ルッチ。だから、こうして独りでヤガラと一緒の花火見物はきっとちょうど良かったのかもしれない。
 時間にすれば一時間ほどのはずのそのひとときを永遠のように感じながらリリアは目を細めた。映るすべてを記憶に刻み込みたい。そう願った。
 その時、頬に微小な冷たさが落ちはじめた。




 何をしているのだろう。
 他に通るブルもいない細い裏水路で。
 恐らく半分凍えかかりながら。
 ルッチは屋根の上から小さく揺れるブルを見下ろしていた。そこには膝を抱え込むようにして身体を丸めた少女の姿があった。じきにのぼるはずの太陽の前触れの薄明かりの中で色白の顔にかかった銀色の髪が光り、その下から見え隠れしている唇に微笑が浮かんでいるのが見えた。閉じられた瞳の色の記憶が通り過ぎた。
 ふわりと宙に浮いたルッチは狙いたがわず靴音とともにブルに降りた。するとくるりと首を回したヤガラが少女をかばうように彼を睨んだ。
 ガクン、と揺れたブルの動きにあわせて頭を揺り動かされたリリアは目を開けようとしたが目蓋がひどく重かった。
「凍死したいわけじゃないだろう。何をしてるんだ、お前は」
 進み出したブルの動きを全身で感じながら耳に流れ込む声を夢心地で聞いた。言葉の意味は流れていき声の響きだけが耳に残る。
 ルッチの声。いい夢だ。一緒に花火を見ている夢なのかもしれない。
 微笑を深くした少女の顔をルッチは冷ややかに眺めた。ふと、床に置かれたカップに気がついて手綱を片手に持ってそれを拾い上げた。そこにほんの少しだけ 残っている液体からは甘い匂いがした。そして一緒に幽かにラム酒の香りも。恐らくブルーノがココアの香り付けに垂らした程度の量だったのだろうが、それが思いがけない効果を出してしまったということなのかもしれない。
 この無防備さはリリアには似合わない。ルッチの口もとにふっと笑みが浮かびすぐに消えた。花火と酒入りのココアがこの少女の弱点ということか。
 顔にかかった水しぶきの冷たさに薄く目を開けたリリアはすぐ前にある背中から横顔へ視線を動かした。膝の上の温かさの正体はハットリだった。
 いつの間にか朝になっていた。夜が明けたばかりだとわかる清冽で肌寒い空気の中、静かな光の中の横顔に見とれた。綺麗だ、と思った。カリファに感じるものとは違う綺麗さだ。どちらかと言えば花火に近い気がした。寡黙なときも多言なときも、手が血潮で紅に染まっているときも…そして肌を重ねているその ときも。
 無表情のルッチの背中の僅かな強張りがリリアの視線に気がついていることを示していた。それでも何も言わない、訊かないルッチに惹かれた。
 ともに花火を見るという望みは叶わなかったが一緒にブルに乗りたいという願いがいつの間にか実現していた。
 リリアは目を閉じた。
 いつか離れなければならないときがきたら、できればルッチの手で命を断ち切って欲しい。そう願った。
「バカヤロウ」
 低い呟きが聞こえた気がした。


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