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雪 潮

 数日降り続いていた雪がようやくやんだ。また降りださないうちに大人たちが使う湯を沸かしておいた方がいい。そう判断した少女は酒樽を切って作った深いバケツを持って早朝の空気の中に踏み出した。長い銀髪が腰の後ろで揺れ、まだ薄暗い中で道の様子を確かめようとする紫色の瞳が細くなった。
 白銀の世界の凍てつく空気。吐いた白い息が肌に触れるとそこが冷たく張り詰める。山の中の自然は厳しい。井戸までの道を足で踏み固めながら少女は幾度も足を深く雪に埋めた。擦り切れかけたブーツの中に雪が入り、素足の熱を奪っていく。
 ようやくたどり着いた井戸の蓋は凍りついていた。素手で雪を丁寧に払い握りこぶしで数回衝撃を与えてみる。なぜシャベルやスコップを持ってくることを思いつかなかったのか。がっかりした少女が大きく板を叩いたとき、背後から人の気配が近づいてきた。
「朝っぱらから騒々しいぞ。何してやがる…ん?…お前…」
 声の主が料理番であることを知った少女はそのまま蓋に手を掛けていたが、男の声の響きに違和感を感じてゆっくりと振り向いた。
 元は海賊船のコックだったという料理番の顔には驚きがあった。その視線を逆に辿った少女は自分の足元に視線を落とした。
 白い雪を染める紅の雫の跡。鮮血の色。
 慌てて確かめても傷も痛みもない足に首を傾げながら少女は肌の感触を辿り、自分が身体の深部から出血しているのだと気がついた。
 つまり、これは…。
 意識すれば内股に不快感があった。これに気がつかなかったのは寒い中で蓋を開けることに夢中になっていたからかもしれない。
 見ると男の顔にも納得の色が浮かんでいた。男の唇が次第に歪んだ。
「女になったってわけか…ようやくな」
 少女が踏み固めた小道をさえぎって立つ料理番の顔に浮かんだ表情を見た少女は身震いしたい衝動をぐっとこらえた。この感じは何だろう。ついさっきまでの少女はこの山に住む男たちにとって雑用を言いつける対象でしかなかったはずだ。時折面白がってからかう者もいたが、ボロ着を着た少女がいつも無口に黙っているのでどちらかと言えば怒鳴られることの方が多かった。
「バケツを置いて行きな、水は俺が汲んでってやる。お前は戻ってとっとと着替えるんだな。いい日になりそうだ。ちゃんと身体を洗っておけ」
 少女の瞳に疑問の色が浮かんだ。
 これは『親切』なのか?
 少女は小走りに男の横をすり抜けざまにバケツを男の足元に置いた。同時に男の手が伸びて少女の髪に触れた。とっさに首を縮めるようにして手を避けた少女は、ふと少し離れた林に目を向けた。
 今、何か動かなかっただろうか。枝から雪が落ちただけなのか。
「何してる。早く行かねぇと…」
 無意識で男の手をかわした少女は雪原の中に足を進めた。
 さっきとは違う気配を感じていた。
 白い雪の中で動いたもの。あれは…
「おい、リリア!」
 名前を呼ぶ声を耳に入れず、少女は自分が確かに小さく立ち上った雪煙を見たと思った方向に歩いた。誰も足を踏み入れたことのない雪原は表面こそ滑らかで平らだが足を踏み込むと一気に沈む。途中から雪を漕ぐようにして進み続け、ようやくその場所に辿りついた。
 かすかに羽を動かしている1羽の白い鳥。
 丸い瞳が開いて少女の姿を映すと、その鳥は慌てたように羽ばたいてふわりと少女の頭の上に浮かんだ。しかし、それが鳥の限界であることを少女は感じた。宙に浮いた身体を維持するだけで必死なのだ。
「なんだ、鳩じゃねぇか!こいつはいい!煮込んでお頭の晩飯を豪華にしてもらおうってとこだ。ほら、どけ!邪魔だ、リリア
 その時、林の中で黒い影が一瞬動いたこ。少女も料理番もそれには気づかずに行動に出た。
 男は腰に下げていた銃を抜いて鳩に狙いを合わせた。
 雪原に1発の銃声が響いた。
 男は舌打ちして銃を構えなおした。
「何の真似だ」
 男の怒鳴り声に少女は反応を見せなかった。雪の中でボロ屑のように…実際これ以上はないというほどの古着を身に着けているのだが…少女は身体を丸めて横たわっていた。その腕の中には震えている小さなぬくもりがあった。
「…やめて」
 まだ幼さが残る透明な声が呟き、それから短く呻いた。少女の肩口から血が流れはじめた。
「ば…馬鹿か、お前は。邪魔するからかすっちまったんじゃねぇか。…まあ、いい。今日はいろいろ忙しくなる。そいつと一緒にさっさと行け。いいか、訊かれたらちゃんとお前が悪かったんだって言うんだぞ!」
 言われなくても少女には男のことを誰かに言いつけるつもりはない。そんなことをしても聞く耳を持つ人間がいないということをよく知っている。それは男もわかっているはずなのに。やはり何だか今日はおかしい。
 リリアは鳩を抱いたまま静かに立ち上がった。丸い目を覗き込むと鳩は小さく喉を鳴らした。まるで 少女の気持ちが伝わったようにおとなしく腕の中におさまっている。
「ものすごく寒かったからね。ここよりあったかいところへ行こう…ほんの少しだけどね」
「ポッポー」
 返事のように鳩が鳴いた。




 リリアが大きな山小屋の脇につけたしのように建っている小屋に戻ると、中では初老の女が静かに動いていた。元の色の名残なく全体が灰色になった髪を結いながら歩いていた女は、少女の姿を見とめて首を傾げながら頷きかけたが、少女の足を見た瞬間にその形相が変わった。
「お前、まさかもう…?」
 このネルという女はリリアの記憶する限り感情の起伏をほとんどあらわにしたことがない。だから女のこの様子に、少女は驚き感情を動かされた。それは多分恐怖と言う気持ちだったかもしれない。自分の身体に起きたことに対する戸惑いとそのことに対してネルが見せた表情への小さな恐怖。小屋の中に入ってはじめて少女の身体は細かく震えはじめた。
「とにかく着替えなさい。そこに抱えてるのは何だい?それにお前、怪我をしてるのかい?」
 普段の調子に戻ったように見えるネルはすばやく狭い小屋のもの入れから薬袋や着替えを取り出した。
 リリアはやわらかな羽をそっと撫ぜてやってから薪ストーブから少し離れたテーブルに鳩をのせた。
「そこならあったかい」
 鳩は再び返事をし、丸みのある頭を巡らして部屋の中を見回した。少女の唇に微笑がのぼった。本当に言葉をわかっているような鳩だ。動作もどこか人間に似ている。
 ネルの手が傷口を容赦なく消毒し清潔な布できつく巻いた。さらにこれから月毎に訪れるはずの数日について手短に処置を教えながら手早く着替えをさせる。確かにいつも手早い硬く筋張った手だったが、今日はその動きが乱暴といっていいくらいでリリアは着替えが終わったあともじっと女の顔を見ていた。初潮が訪れたことの驚きよりも女の様子が不思議だった。
「何だい。お腹が痛むのかい?とにかくこれは別に病気じゃないんだ。さあ、ちゃんとやるだけのことをやっちまいな。男どもが顔を洗う湯は沸かしたのかい?」
 いつもと同じきついの語尾。でも、どこか違う。
  リリアが髪を梳かす様子をじっと見つめている視線。
 ふぅっと小さく息を吐き、ネルはためらうように一度口を開いてすぐに閉じた。
リリア…」
 女の声が言いかけたとき、小屋の扉が音をたてて開いた。
「さあ、風呂の道具を持ってきてやったぞ。朝から部屋ん中でってよ、今日だけとはいええらくいいご身分じゃねぇか。いいな、婆ぁ。そいつをうんと磨いておけよ」
 男たちは1人ずつ順番に小屋に入り、大きな盥と白い湯気が立ち上るバケツをいくつも運び込んだ。その1人1人が何か意味ありげに落としていく視線が嫌で、リリアはそっとテーブルの陰に回った。
 これはどういうことなのか。
 男たちの下卑た視線とネルの冷たくこわばった表情の両方が怖かった。
 ふとやわらかな感触に視線を落とすといつのまにか鳩がリリアの方に身を寄せていた。
 大丈夫。食べさせたりしない。身体があたたまったら逃がしてあげるから。
 心の中で囁いたリリアはその別れの時を思うと心細さが増すのを感じた。まだ出会ったばかりなのに。見下ろす視線を受けて鳩はじっとリリアの顔を見上げた。
「ほら、用が済んだら出ていきな。お前たちがいると湯浴みができない。せっかくの湯が冷めちまうじゃないか」
 いつもの調子で男たちをあしらって外に出したネルは振り向くと複雑な表情でリリアを見た。
「…とにかく湯を浴びるんだ。連中がまた覗きに来ないうちにな」
 その言葉は男たちが来る前に言いかけていたものとはちがうはずだ。リリアは続きを待って黙っていたが、女の視線に従うように着替えたばかりの服を脱いだ。本当はもっと何か聞きたいことがあった。けれど これまでの二人の間にはそれを問うことを望んではいけない空気があった。
 浅く湯を張った盥にそっと入ったリリアが膝を抱えて座るとネルは細い身体と銀色の髪に丁寧に湯を掛けた。室内の低音がどんどんと湯の熱さを奪っていく。白い湯気の中で少女の白い身体は小刻みに震え続けた。その震えを削り取るように女の手が力を込めて少女の肌をこする。寒さと肌の痛みを唇を噛んでこらえながらリリアは窓の外を見つめていた。灰色の雲がたちこめて吹雪の最初の風が吹き寄せていた。これはきっと今日一日続く。リリアはちらりと鳩を見た。明日になって空が晴れたら林の中で鳩を放そうと思った。初潮、白鳩、朝の湯浴み。初めてのことばかりだった。
 リリアの髪を洗う女の手が止まった。
震える手がリリアの肩を握りしめた。
「ダメだ…」
 呟いたネルはリリアの頭の上からタオルをかぶせ、ごしごしと髪を拭いた。
「いいかいリリア、よくお聞き」
 急に切迫した口調になった女の方に振り向こうとしたリリアは頭をしっかりと押さえられ、そのまますこし濁った湯を見つめ続けた。
「これから吹雪になる。そしたらもう動きが取れない。いいかい、すぐにしっかり着込んで林の中に走るんだ。そこには男が1人いるはずだ。お前がこれまでに会ったことがない男だから、すぐわかる」
 再び振り向こうとしたリリアの頭はさらに強く押さえつけられた。
「その男に言うんだ。お前とわたしをここから開放して命を守ると言う条件でわたしが持っている海図を渡す、と。そうすればきっと男はお前に何か指示を出す。後はそいつのいうことに従うんだ。その男のそばから離れるな。とにかく、もう、ここには戻るな」
「ネル…?」
「ほら、行くんだ!」
 ネルの硬い手がリリアを盥から引っ張り出してタオルで叩くようにして身体を拭き、手当たり次第に衣類を着せ掛けた。その小さな狂乱の中でリリアはただ倒れないように立っていることしかできなかった。気がつくとネルのものであるはずの手編みの靴下を二重に履かされ、さらにリリアのものよりも状態が良いネルのブーツを履かされていた。服もリリアのものの上からネルの一番あたたかなものをかぶせられた。
「でも、ネル、これは…」
 ネルは振り返ろうとする少女の動きを止め続けた。やがて開放されてやっとリリアが後ろを向いたとき、ネルは窓辺に立ってリリアに背を向けた。
「誤解するな。これはお前のためじゃない、わたしのためだ。ちゃんと男に伝えてもらわないと何もかもダメになっちまうんだからね。さあ、行きな。走るんだよ。とにかくさっさとここから出るんだ」
 普段よりあたたく包まれているはずのリリアの身体は震えていた。濡れた髪から雫が落ちた。
 リリアはテーブルの上の鳩を見た。するとリリアの姿が見えないはずのネルが声を荒げた。
「もうそんな鳥の心配をしてる場合じゃないんだ!走れ、リリア!早く行け!」
 声の響きにリリアの身体は反射的に動いた。小走りに扉に近づいて押し開けると粉雪が混じった冷たい空気が流れ込んだ。
「早く!リリア!」
 女の叫び声がリリアの背中を押した。
 転がるように外に出たリリアは一気に林に向かって進もうとした。
 しかし、その時。リリアの視界の隅に映ったのは少女の姿を見て足を速めた男たちの姿だった。




 男たちは簡単に少女の身体を捕まえて雪の中に押し倒した。リリアの口から悲鳴が漏れた。こんな声は記憶にある限り出したことはない。リリアは恐怖と雪の冷たさ、そしてどこからか自分で自分自身を見つめているような不思議な気持ちを覚えていた。
「その子をお放し!」
 ネルの声が聞こえた。男たちの身体に視界を塞がれていたリリアはその声に向かって叫んだ。何を言ったのかは自分でもわからなかった。これまでにこんな風に女を呼んだことはない。けれど今すがることができるのはネルだけだった。
「何言ってやがる、婆ぁ!これはお前が俺に教えやがったことじゃねぇか。お前がどこだかで見つけたっていう赤ん坊を抱えてぶったおれそうになってた時、お前が言ったんだぞ。俺が助けてやる代わりにお前は俺に力を寄越す。この赤ん坊が育ってよ、月に一度の女の証とやらの血を流すようになったらってな。その最初の血を流してるこいつを犯って交われば伝説の力が交わった奴の身体に復活するんだろ?眉唾もんだって最初は俺も思ったさ。でも試すだけなら別にどうって ことねぇ。ダメでもお前とこいつはずっといろいろ便利に使える。特に身体が育ったとなりゃぁ…これからずっと退屈しねぇで済むってことだ」
 自分の真上にある頭の顔が笑みを浮かべながら言った言葉をリリアは男たちの手の中で聞いた。すぐには意味がわからなかった。伝説とは何だ?確かにネルはリリアを赤ん坊のときに拾ったと言っていた。けれど。わからないことが多すぎる。
 1人の男がリリアの身体から借りていたネルの服を簡単に破りとった。
 別の手がリリアの口を覆った。
「やめろって言ってんのがわからないのかい!」
 再び聞こえたネルの声に複数の男たちの声が重なった。どうなったのだろう。リリアは耳を澄ませた。しかし女の声は聞こえなくなった。
 男の手がリリアの服の襟ぐりに手を掛けて胸元まで引き裂いた。リリアは身をよじり懸命に頭を動かして口を塞いでいた手から逃れるともう一度叫んだ。誰に向けて発したのか自分でもわからない声はひと言、助けを求めた。それを聞いた男たちの中から笑い声が起こった。
「無駄と知ってるはずだぞ、リリア。この山には俺たちしかいねぇ。それともお前、熊でも呼んだのか?熊はお前の柔らかい部分を食ってはくれるだろうか、お前を助けてはくれないぞ」
 冷たい空気の中にさらけ出された白い肌の上を複数の手が這い回った。その感触のおぞましさにリリアは唇を噛んだ。それでも浮かんだ涙はこらえた。
「待てよ、そうがっつくな。お前たちの頭を差し置いて手を出すつもりか?ほら、さっさとボロ小屋へこいつを運べ。まずたっぷりと見せてやる…その力って奴を俺のものにすることができるかどうかをな」
 大きな手で身体を引き起こされると、雪の中で凍りはじめていた濡れた髪が耳元でしゃらしゃらと音をたてた。手を振り解こうと抵抗していたリリアは小屋の前に倒れているネルの姿を見た。
「ネル!」
 少女の声が響いた時、開いたままの戸口から白い鳩が空に舞い上がった。
「何だ?ありゃ」
「あれだ!今晩の頭の夕食に使いたい鳩だ。誰でもいいから撃ち落せ!」
 すぐに数発、銃声が響いた。けれど白い姿は離れて行き、すぅっと林の中に吸い込まれるように見えなくなった。
「ったく、どいつもこいつも…このど下手!」
「まあ、いい。とにかく伝説とやらが先だ。お楽しみつきのな。てめぇら、さっさとそいつを運べ」
 リリアが手足を振り回して抵抗しても、その細い腕を掴んでいた男は軽々と少女の身体を肩に担ぎ上げた。
「細くて小せぇ尻だな~~。大丈夫なのかよ、こんなんで」
 大きな手に触れられてリリアは唇を噛んだ。叩いてももがいても動じる気配のない太い腕。落ちた涙は無力感と絶望の色をしていた。
「あ…?」
 間の抜けた男の声を聞いたと思ったのとリリアの身体が雪の上に落ちたのはほぼ同時だった。
「え…?」
 少女を抱えていた男は周りの男たちと一緒に、細い身体とともに落ちた自分の腕が雪の中に鮮血を垂れはじめた光景を呆然と眺めた。そして次にその大きな身体は突き飛ばされたにしてはあまりに速い勢いで10メートルほど先に飛んで落ちた。
「何だ?おい、ジャッキー!」
 声ばかりで身体はそのままの動揺した男たちは足元の少女を見下ろした。疑惑、驚き、恐怖。男たちの目の中に揺れる感情が通り過ぎた。
「まさか…お前か?」
 けれど問いかけられた少女は男たちを見ていなかった。少女の瞳は飛んでいった男の身体の行方を見つめていた。いつのまにか強くなってきた吹雪の白く舞う雪の中、ぐったりと崩れた身体のそばにゆっくりと立ち上がる姿がひとつ、あった。
 白い風の中に滲む黒いシルエット。
 …熊にしては細く見えるそれは別の獣のものなのか?
 リリアは息を殺してその姿を見つめた。
「う…」
 高くなってきた風の音の中に吸収されてしまいそうな女の声が、耳に届いた。ネル。生きている。
 その声が聞こえるはずはない場所にいる黒い姿が静かにネルの方に向かって動きはじめた。
「何だ、あれは…あいつは…いいか、おめぇら、銃を抜いとけよ。俺が言ったらすぐに撃てるようにな」
 銃を抜いた男たちは黙って近づいてくる影を見ていた。
 リリアはネルの名を呼んだ。影に獣の気配を感じていた。
「…わたしを解放してくれ。そしてあの子を開放して命を助けてくれ。…その条件で…これを…」
 影がネルの上にかがみこむと同時に、女の声が低く囁いた。男たちには聞き取れなかったかもしれないが、前にネルが言った同じような言葉を聞いていたリリアの耳はそのほとんどを理解した。
 では、あの姿はネルが言っていた男なのか。
  リリアは吹雪の中を凝視した。すると確かにそこにいるのがすらりとした人の姿であるように見えた。
 女から身を起こした影はリリアと男たちの方に向き直った。
 影との間の空気が冷えた。
 滑らかに近づく姿はもしかしたら雪の上に足跡を残していないのではないか。リリアは思わずそんなことを想像した。そのうち、影のシルエットがはっきりと見えはじめた。ぴったりと身体に合った黒いスーツは冬の山 はおよそ似合わない。リリアにはその服装自体が見るのが初めてで、頭の上に見える細長い帽子を見つめた。影が羽織っている黒いコートの裾が風に音を立てている。その音を聞いたとき、影を見ている全員の目の中でその姿は1人の人間としての存在感を持った。人間。1人の男。舞い狂う雪片を透かしながら無言で見つめる男の瞳には温度の気配がなかった。そして男の右手から間隔をあけて雪面に滴り落ちているのは…あれは、血だろうか。
 この人がネルが言っていた男なのか。
 改めて思ったリリアは、そのとき初めて自分の身体に乗っかっているまだ体温の名残がある腕に気がついた。鼻に感じたのは血の匂いだろうか。腕から流れて固まりはじめている血潮、そして…少女の体内から密かに流れ出している血。
  リリアが腕を振り落とすと、その動きに気がついた男たちの手が伸びた。
「やめておけ。俺はお前たちに用はない。その娘を連れて行く」
 男の口から流れた声は風の音を貫いて全員の耳に届いた。
「馬鹿言うな。こいつは俺たちのものだ。お前がネルと何を話したかは知らねぇが、このまま殺すのも面倒だ。さっさと行きな…お前が来たところへな」
 答える頭の手が彼を囲む男たちに合図を送っている。それに気がついたリリアは考えるよりも先に警告の声を上げていた。
「だめ!撃たれる…!」
 その時、頭が右手を大きく上げた。
 立て続けに発砲された銃の音に少女は瞳を大きく見開いた。
「待て。あの野郎はどこだ?…うおっ!」
 一瞬、男の姿が見えなくなった。慌てて頭が周囲をぐるりと見回した時、その身体が宙に舞った。
「何…!」
 子分たちに頭の行方を眼で追う時間はなかった。大きな身体が次々と順番に宙に放り出されくるくると回転しながら雪原に落ちる光景は信じがたいものだった。
 リリアは自分の前、すぐそばに黒い姿が立っているのに気がついた。途端に頭の上から何かが落ちてきて少女の全身を覆う。それは男が着ていたコートだった。
「そこにいろ」
 コートの下の暗闇でリリアはその声を聞いた。すぐに男の気配が離れ、それに男たちの絶叫が続いた。見てはいけないのだろうか。少女は迷い、そっと顔の前の布を持ち上げた。雪の中に立つ男を取り巻く白と赤の風。吹雪と血煙の中で黒い姿はしなやかに舞っていた。
 もしも『悪魔』がいたらあの男のような姿なのかもしれない。男の冷然とした瞳と声を思い出したリリアは再びコートの下に潜った。そうすると風の音だけが少女を取り巻いていた。身体の下から染みとおってくるような冷たさと距離感を奪うような風の音。そのどちらもが少女を眠りへと誘う。
  リリアは気配を探るのをやめた。受け止めきれない事実から自分を守るため、白と赤の夢の中に落ちていった。




「…終わった…のか…」
 雪の中に倒れ伏した女の傍らに黒衣の男が立った。
「お前たちを狙う者は少なくともこの山にはもう誰もいない」
「…そ…うか」
 身体に顔を動かす力が残っていないネルは目の前の黒い靴に向かって微笑した。
「…言うな…リリアには」
 何を言うな、なのか男は問わなかった。男が女から手に入れた海図は昔1人の女海賊が持っていたものだ。自由奔放で機知に富み、海の男たちが憧れる対象だった女。そして海図はその女が死ぬ前に仲間の1人に渡したものだと言われている。そう、『言われて』いるのだ。
 男個人は今回の任務でその噂とは別の仮説を組み立てるに至ったのだが、それは任務とは関係はなかった。
「俺の任務にお前たちはもはや関係ない。あとは海図を持って戻ることだけが俺の仕事だ」
 恐らく次に自分が言う言葉がこの世で最後のものになる。それを悟った女はしばし考え、そして息を吐いた。
「…そうか」
 この男のような人間に無駄を言っても仕方がない。
 世界政府が抱えている殺し屋に対してその情に訴える意味はなく、そういう趣味は女にもない。
 そしてこの男は契約したことは絶対に守る。
 ネルはもう一度息を吐いて残る力を振り絞って目を大きく開いた。胸の中の鼓動が止まったその時に目の前に広がった光景はこの雪山とは別世界の青く広がる海原だった。
 男は生を終えた女を見下ろし、ふとその見開かれた瞳に小さなズレのようなものを見つけた。黒々としていた女の瞳の円が中心から少しずれてその下に何か別の存在を予測できる。恐らくそれはこの女の本当の瞳の色。長いことその正体も感情も生き様も隠し通した女の真実。
 男の口が長く白い息を吐いた。
 死体なら今ここにゴロゴロと転がっている。飛び散った鮮血とともに白い雪の中に埋もれはじめているが。彼にはそれをどうこうする趣味はない。今回は敢えて痕跡を消す必要もない。この山を訪れる人間はいない。麓の町の住人がこの一団への恐怖から住処を捨てて逃げ出したのが1年以上前のことだ。それに遺体に残る傷跡に人間の手によることを疑わせるものはない。この連中が発見されたとしても山の獣たちの仕業と言うことで納得されるだろう。
 男は静かに手を伸ばして女の眼球に触れた。そして隠された真実を確かめた後、両眼を閉じてしばらく押さえていた。これは彼が手を下したのではない骸、言わば通りすがりの死体のようなものだ。だから目を閉じてやったのが最大の彼のきまぐれだ。
 男は歩いて行って彼のコートを拾い上げた。
 その下にいた少女は目を閉じていた。死んではいない。放っておけばやがて死ぬ。
「ポッポー」
 白い鳩が少女の頭の上に舞い降りた。
 首を傾げて男を見上げる丸い瞳に男の口角が小さく上がった。
「心配なのか?珍しいな…そいつが気に入ったのか。契約は守る。心配は必要ない」
 鳩に言って聞かせた男は冷たくなった少女の身体を抱き上げた。予想以上に軽かった。昨日からずっと目的の女とここの海賊上がりの山賊たち、それと少女の様子を見張っていた。少女は見るからにか細い身体で男たちのために雑用をこなしていた。男は彼の同僚の女のこの少女と同じような外見の時期を振り返って大体の年齢の検討をつけていたのだが、数時間前に少女の初潮の場面を目撃して内心驚いていた。こんな棒っ切れのような身体で。
 吹雪がまた強くなった。
 男は少女を抱いたまま小屋に向かって歩き出した。
 腕の中で動く気配があり少女が目を開いた。不思議そうに男を見上げる顔に恐怖はない。冬の冷たさと目撃した惨状に精神が麻痺してしまったのだろうか。
 2人は無言で見つめ合った。
 倒れた女の身体の横を通るとき、リリアは無言で視線を落とした。半分雪の中に埋もれはじめたネルの足はブーツを履かずに裸足だった。
 少女の瞳から涙が落ちた。それは音の無い静かな哀悼だった。




 パチパチと薪が爆ぜながら燃える音が耳に流れ込んできた。
 目を開けたリリアは自分がストーブの横の即席に作られた寝床の中に寝かされていることに気がついた。タオル、カーテン、部屋の隅に作ってあったネルとリリアの寝台から剥がされた毛布。何重にもしっかりくるみ込まれていたので片手を引っ張り出すのも一苦労だった。
「起きたのか」
 記憶に残っている黒い姿とストーブの前で椅子に座っている男の姿がゆっくりと一致した。よく見ると男には黒以外の色もあった。ネクタイと帽子に巻かれた細い布の色。そして男の肌と唇の色。
 寝たまま床を見ると、小屋の中には朝の出来事につながるものは何も残っていなかった。湯浴みの盥もバケツもない。みんなこの男が外に出したのだろうか。
「…誰?」
 男に問いかける少女の声は予想外に柔らかかった。もしかしたらすべてを忘れているのだろうか。男が無言のまま視線を返していると、白い鳩が彼の肩から飛び立った。
「あ」
 鳩は少女の顔の前に下りた。少女の顔に嬉しげな微笑が浮かび、白い手が鳩の背を撫ぜた。鳩は首を曲げて少女の手に頭をこすり付けた。
「よかった…お前はもう寒くないの?」
 鳩は胸を張って羽を広げた。少女の微笑が大きくなった。
「この鳥はあなたのなんだ…」
 リリアは呟いた。
 黒衣の姿、すばやい動き、流した血。それだけを考えるとこの男に恐怖を感じなければいけない気もしたが、なぜかリリアはこの男が怖くなかった。目を奪われたあの雪の中での一瞬が少女の命を狙ったものではなかったからだろうか。恐らくこの男は少女には無関心で、ネルが条件を出したからこうして少女を雪の中から救い上げたのだ。表情を変えない男の無関心さがリリアには安心できた。
 男は鳩が彼を振り向いて投げてきた視線に苦笑した。
 彼にとって相棒とも言えるこの鳩は時々思いがけない影響力を発揮する。そんな時、彼の唇には冷たい笑みが浮かぶのだった。
「…そいつはハットリだ」
「ハットリ…?」
 リリアが復唱するとハットリは頷くように頭を上下させ、少女の手を軽くつついた。
「俺はロブ・ルッチだ。だが覚える必要はない。俺たちのことはすぐに忘れろ。明日、吹雪が止んだらお前を連れて山を下りる。一番近い街に着いたらそこがお 前の新しい住処だ。お前はそこに残り、俺たちは帰る」
 リリアは答えなかった。
 ずっとこの山で生きてきた。厳しいネルと一緒に男たちの言いつけをきいて暮らしてきた。だから外の世界のことは知らなかった。ほんの時折ネルが上機嫌なときに、ネルがこれまでに行ったことがある街の話を聞いた。それだけだ。だから今の自分が突然街に行っても何をどうしたらいいのかさえわからないだろう。これまで暮らしてきたここでの生活はきっと他の人間から見たらひどく狭くて歪んでいるはずだ。
 リリアは答えない代わりに弱音を言うこともしなかった。開放して命を救う…このルッチと言う男がネルと約束したのはそれだけだった。だからリリアは男が言うとおりにするだけだ。
「飲んだらまた眠れ」
 ルッチは水を差し出した。小屋の中に口に入れることができるものはそれしかなかった。リリアはそれを受け取ると手が震えないように注意しながら飲んだ。
 少女の身体は高熱を発していた。
 そのことをリリアもルッチも知っていたが、どちらも何も言わなかった。
 鳩に人の病気はうつるものだろうか。心配になったリリアはハットリのお尻をそっと優しく押した。
「風邪がうつっちゃう…」
 ハットリは首を横に振って翼を少女の額にあてた。
 リリアははっとした。随分前にこうしてもらった記憶が蘇る。あの時ネルは穏やかな声で何か歌いながらリリアのそばにいてくれた。そんな姿を見たのは初めてで…そして結局最後だったのだが…、その姿を長く見ていたかったリリアはくっつきそうな目蓋を懸命にこらえてずっと起きていた。ネルは何も言わず歌い続けた。
 思い出した記憶とともに熱いものが溢れそうになった。その馴染みのない感情を見られたくなくて頭まで毛布に潜り込んだ。リリアは泣くということを知らなかった。10数年の日々の中で自然に零れ落ちた涙が頬を濡らしたこともあるが、驚いてすぐにそれを抑えることを覚えた。
 ルッチは光る髪以外隠れてしまった少女に黙って視線を向けていた。彼は普通の『子ども』についての知識が無かった。彼自身はそういう存在である時期はなかった。一緒にいたカリファやカクもそうだ。だから女が少女の命を条件に示したとき、正直煩わしいと思った。どうせ怯えて泣きわめくか逃げようとするに違いないと思った。そして予想ははずれた。どうやらこの少女は感情を凍らせる術を身につけているようだった。それと同時にハットリに見せた幼いほほ笑みの方にむしろ彼は驚いていた。これが年相応というものなのだろうか。
 痩せ細った身体に訪れた大人のしるし。己に感情の乱れを許さない本能的防御。一般人には心を許さないハットリが心配そうな視線をじっと注いでいる姿にはもしかしたら将来の美に繋がるかもしれない可能性も見えていた。この一見バラバラにも見える要素を秘めた少女はどう生きていくのだろう。
 ルッチは自分の中に見つけた珍しい好奇心に苦笑した。考えるまでもない。保護者も金も何もない子どもの行き着く先など知れている。闇側に堕ちるか施設に引っかかるか。どちらにしてもなまじ容姿が秀でていればいるほど死ぬまで他人に支配されて生きることになるだろう。恐らくは短い生を。
 短い冬の日が暮れはじめていた。
 ルッチはコートの内ポケットから取り出した携帯フラスコの口を捻って一口飲み干した。濃厚な香りとともに喉を焼かれる感覚が心地よかった。




 少女がもぞもぞと顔を出したとき、頬は熱で紅潮して真っ赤になっていた。くるみ込まれた毛布の中で細い体がガクガクと震えているのがわかった。
 それでもリリアもルッチも互いに何も言わなかった。
 ルッチにはリリアの複雑な表情を読み取ることができた。少女は自分が病気になったことを恥じている。罪の意識さえ持っているかもしれない。それは恐らくこれまで少女にとって許されることではなかったのだ。男たちは少女のことを役立たずと罵っただろう。そう。容易に想像できる。海賊上がりも政府の役人も、自分たちの道具だとみなした存在には普通の人間であることを許さないのは同じだ。
 ルッチはやかんを見つけて湯を沸かした。沸くとポケットから取り出した携帯食を粉々に砕いてカップに入れ、その上から湯を注いだ。いかにも食欲をそそらないドロドロのものができあがったが、ふと思いついてフラスコから酒を垂らした。
 リリアは熱に潤んだ目でぼんやりとルッチの動作を目で追っていた。身体の上にあるハットリの重さが関節に痛かったがひどく嬉しかった。外の吹雪の音はすでに嵐と言えるレベルになっていた。吹きつけ、揺らし、小屋をひっくり返す隙を狙っている。
 震える体は皮膚の表面の熱を身体の内部に伝えるのを止めてしまったようだ。少女は自分の肌の熱さを意識しながら、身体の芯は寒くてどうしようもなかった。顔に感じるストーブの熱はちっとも痛む身体に広がらない。こんなに震えたらハットリが転がり落ちてしまうのではないか。 リリアは歯を食いしばった。
「中から温めろ」
 ルッチは小さく合図してハットリをどかすと少女の傍らに膝をついた。
 無造作にカップを差し出してから初めてそれでは無理なことを意識した。少女の身体はまるで命乞いをしながら死の恐怖に押しつぶされている者のように、大きく震えていた。彼を見上げる瞳には謝意があった。少女が懸命に伸ばした手が力なく落ちる寸前に、ルッチはそれを左手に受け止め右手のカップを床に置いた。無言のまま少女の身体に右腕を回して抱え起こすと細い身体は床に座った彼の膝の間におさまった。

 リリアは一瞬理由のない恐怖に目を閉じた。これまでに誰かが少女にこんなに近い場所にいたことはなかった。パニックを起こしかけたとき、男が少女を支えながらもその腕以外はほとんど触れないように微妙な距離を保っていることに気がつき、ほっと息を吐いた。この男も人に触れたり触れられるのが苦手なのだろうか。リリアはぐらつく身体をまっすぐにしようと必死になった。
「無理か」
 無感情に呟いたあとルッチは今度はしっかりと細い身体を腕の中に抱え込み、少女の背中を自分の胸に寄りかからせた。少女の体の熱が伝わってきた。途端に身体を硬くした少女はそれでも今の体勢の方が楽だったのだろう。またひとつ息を吐くとルッチに体重を預けた。
「飲め」
 男の手が差し出したカップからは酒の匂いがした。それはかなり強い香りだった。受け取ったリリアの手が震えてカップを落としそうになると、男はそれを受け止めてため息をついた。そして少女の唇にカップの縁をあてた。

 ルッチは少女の口もとを見下ろしていた。震える唇がゆっくりと小さく開く。カップを少し傾けてやるとわずかな量を口に含んでから飲み込んだ。それから少女の身体は大きく揺れ、慌てて口に手をあてたところをみるとどうやら口には合わなかったらしい。それでも落ち着いた頃にまたカップを寄せると少女は逆らわずにまた一口、飲んだ。雛鳥だったハットリに湯に浸した粒餌を食べさせた時に似ている。ルッチは唇をゆがめてその記憶を追い払った。
 口の中のものを無理やりに飲み下しながら、リリアはカップをもつ男の手を見ていた。指の長いその大きな手は リリアが知っている男たちの手より特にごついようには見えない。形よく白く滑らかに見えたが、朝、その手は血に染まっていたのだ。命を奪い、今は命を与えてくれようとしている手。さっきハットリに触れたときはとてもゆっくりと動いていた。穏やかといってもいいくらいに。
 ルッチは少女の身体の震えが小さくなったのを感じていた。こうしていると寒さが和らぐのだろうか。少女が時々咽ながらカップの半分ほど中身を減らしたのを確認するとルッチはカップを床に置いた。
「アルコールが回っているうちに眠ることだ」
 言いながらルッチは少女を抱いたまま静かに身体を倒した。
 床に敷いたボロボロの毛布の上で少女をすっぽりと包み込み、自分と少女の身体にコートを掛けた。少女はまた身体を硬くしていた。ルッチは早まる心臓の鼓動を直に感じた。
「何もしない。お前に興味はない」
 囁いたルッチは少女の身体の熱で彼の身体も温まりはじめたことに気がついた。損はないということだ。彼を求める女を抱くよりも暖を取るには都合がいい。無駄に体力を減らす必要もない。
「あの…ルッチ…」
 少女の声が紡ぎだした音が彼の名前だということに、ルッチは一瞬気がつかなかった。躊躇いがちにそっと静かに。少女がまるで大切そうにそれを囁いたから。
 その時、ハットリが少女の上に舞い下りた。
「お前は眠って熱を下げることだけ考えろ。天気が回復しだいここを離れたいからな」
 少女は頷いた。素直に目を閉じたことがわかった。
 名前はリリアといったか。
 ルッチは少女の銀色の髪に落ちて混ざっている自分の髪を眺めた。
 少女の顔を覗き込んだハットリが安心したように自分も丸くなって羽の中に嘴を埋めた。
 やがて吹雪の音よりも規則的な少女の寝息がより近く聞こえはじめた。
 煩かったらすぐ止められる。簡単に。
 ルッチは幼いぬくもりに触れながら目を閉じた。
 眠りは予想よりも早く訪れた。


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