Ruri&ゆうゆうかんかんモバイル


時々、戯(そば)え 1

 スポーツジムのトレーナー。
 涼しげに刈上げた形のいい頭と、何とかという名前の外国映画の主人公を思わせる、筋肉質な身体といかにも真っ白な歯を隠していそうな微笑を浮かべた口元。その人を見た時、絶対に職業を当てた自信があった。
 いや、ちがう。
 自信なんて、とんでもない。
 人を見る目のなさを今ほど痛感している時は、ないんだ。だから、頭の天辺から全身に降り注いでいる雨の中、濡れて落ちてくる前髪の隙間から見えたその人のその姿に、『当たれ~!』とヤケクソに心が叫んだだけなのだ。
 半ば地面に座っている状態で見上げる人の姿は、大きい。もっとよく見ようと思っても、雨粒が目に入るから滲む。どんどん、頬に水が落ちる。
「泣いてる?もしかしたら」
 泣いてません、もしかしなくても。
 答えようと思ったけど、なぜか声が出なかった。
 ま、いいか。猫の子だと思えば。
 …聞こえたように思えた呟きは、意味がわからなかった。
 どうして、この人は立ち止まったんだろう。
 どうして、この人はわたしの惨状を見てもこんなに落ち着いてるんだろう。
 見ず知らずの他人なのに…いや、他人だから?
 この雨がどうも街の半分でしか降らなかったことを、後から知った。そういう雨のことを『戯え』というらしいことも。
 50%の確率。運の悪さ。
 今のわたしに、ピッタリだ。
「拾った子猫には、タオルとあっためたミルクだな」
 文字通り首根っこを掴み上げるように、スーツの後ろ襟を掴んだ手に軽がると引き上げられた。
「…なに?」
「ああ、警戒して毛を逆立ててる感じだね」
「どうして?」
「ゴー・ダブリュー・イチ・エイチから抜け出せたら、返事するよ」
 頭の中の変換機能はずぶ濡れだとよく働かないのかもしれない。
 5W1H。
 ようやく、アルファベットと数字が思い浮かんだとき、わたしはそのまま、軽く引っ張られるようにして男の斜め後ろを歩いていた。
 自分が捨てられていた子猫のように拾われたのだと実感できるまでには、それから何日かかかった。



「お、いらっしゃい」
「毎朝、走ってるんだ、ちゃんと」
「気持ちいいからね」
「俺は、ご免だなぁ、そういうの」
「必要もないよね、氷見さんはきれいな体型保ててる」
「その辺は美意識の問題」
 男2人の会話がドアの向こうから漏れ聞こえる。
 やっぱりな。
 誰かが鍵を開けて入ってきた気配は、夢うつつに感じていたし、歩き方からそれがこの部屋の主ではないこともわかっていた。そうなると、後は1人しかいない。そして、予想が当たったことはあまり嬉しくない。わたしにとってこの来訪者は、どうにも緊張してしまう人間なのだ。
 仕事は休みだし、もう少しだけ眠ろうかな。
 そう考えて気分が軽くなりかけた時、今日が水曜日であることを意識した。
 水曜日の朝。ゴミ出しの日。それは、わたしの仕事。わたしが、部屋の主、来山俐(きたやま さとし)から貰った仕事。
 義理、とか人情という単語が浮かび、ちょっと頭を振る。義理はいいとして、ゴミ出しに人情って何だ?
 つまり、それだけ、今部屋から出て行くための理由をかき集めて自分を奮い立たせてるということだ。
「おはよう」
「起きてたのか、居候」
 朝日が似合う爽やかさだが掴みどころのない笑顔と、あからさまに不機嫌な綺麗な顔。どちらも早朝から立ち向かえる相手ではない気がして、ただ、ペコリと頭を下げた。
「こいつ、暗いな、相変わらず。なあ俐、俺はやっぱりお前が女と生活空間を分け合ってる図は寒気がする。いくらこいつが性別不能な鶏がら体型だとしても。お前を守るため、戻ってこようか?」
「そう言いながら、何日おきかに泊まってくのが氷見さんの趣味でしょう、今の」
 わたしの話題なはずだけど、気にしないことはわかっていたから、昨夜玄関に揃えておいたゴミ袋を持って外に出た。こじんまりしたマンションの外階段は、他人とすれ違うには幅が足りないと思う…気持ち的に。ゴミ袋を持ってる今は、余計にそうだ。触れてしまったら悪い。できるだけ端を下りていくと、上がって来た1人の老人とすれ違った。60台後半から70台後半までに属する年齢と推定できる男性。このくらいの年齢は、外見の個人差が大きい。表情の豊かさも、話しぶりも。この老人は、無口だ。まだ1度も声を聞いたことがない。7割ほど白髪が占めた髪はいつもきちんと分け目がついていて、どこかで櫛を見るとこの老人を連想する。
 おはようございます。
 一言口にしても、バチは当たらないはずだ。むしろ、朝の挨拶はするべきなんだろう。でも。
 今回も何も言わないまま、間の距離が離れていった。
 ここは、わたしの家じゃないから。
 そんな言い訳が頭に浮かぶ。
 じゃあ、わたしの家はどこなんだろう。
 答えのない問いが自分に跳ね返ってきた。





Copyright © 2012 北国のあき/NorAki All rights reserved.