笑い転げるべきか、怒るべきか。まだ1回しか着たことのない新品同様のパジャマが、文字通りはち切れて…いや、はち切られてしまったことに。サンジの眉毛が悩める心中を表現するように、ゆっくりと上下した。
「まともに寝返りも打てねェ薄物だな。ったく。役に立たねェ」
いかにも迷惑そうな顔で呟いたゾロの声に、サンジの気持ちは自動的に決まった。
「お前なぁ。どこの世界に人様からの借り物破いて偉そうにしてるヤツがいるんだよ。まずは、ごめんなさいだろ、ごめんなさい。お前が筋肉馬鹿だから…」
ここまで戦闘モードで突っ走りだしたサンジのキツイ視線は、猫を抱いて話しかけながら現れた細い姿にやわらかく和んだ。
「さあ、足もきれいになったし、次は大好きなサンジ君のご飯かな…」
見るな、アキちゃん、見ちゃいけない。
その瞳が、唇がどんな反応を見せるのか。もしかしたら半分は『期待』と呼んだ方がいいかもしれない精神状態で、サンジは祈った。
前足を1本華奢な胸にあてて甘えるように見上げる猫の方を覗き込むように額を寄せていたアキは、微笑とともに顔を上げ、それから静かに固まった。
深い呼吸をひとつ、少し浅い呼吸をひとつ。
感情表現が苦手なアキのひとつひとつをサンジは追い、その瞳が見開かれるにつれてついつい上がってしまう口角を止められなくなった。
「ゾロ?」
恐らく3人の中でなぜか一番落ち着いているらしいゾロは、軽く両手を挙げて幾筋か裂け目を生じたパジャマを示した。
「…破れた」
「じゃ、ねェ~だろ~が、このクソマリモ!大体、てめェの人間離れした筋肉が…」
しかし、またもサンジは台詞を最後まで言うことはできなかった。
アキが、笑っていた。
2人の目の前で、控え目だが声をあげて。
静かだがこれは確かにアキの『爆笑』だ。
初めて見る、小さな奇跡だ。
我慢しろ、我慢。いや、何を我慢?我慢する必要、あるか?
「ったく、しょうがねェ野郎だな」
一応締めくくりの台詞を吐いた後、サンジも笑った。一緒に笑えるチャンス、逃すにはあまりに惜しい。
ゾロは表情を変えずにパジャマの上衣を脱いだ。
「うわ、バカ、脱ぐな突然!レディの前だぞ、レディの!」
そう言えばこの2人は一応、念のため、なぜか、恋人同士のはずだっけ。
叫びながらサンジはそっとアキの方をうかがい、頬が真っ赤になっていることを確認してなぜか安心した。
「ほら、アキちゃんを困らせるな」
アキは首を小さく横に振った。
「…大丈夫、トレーニング姿でちょっと慣れた。…仕事なら、平気なのにね」
メタの材料としてなら、むしろ瞳を輝かせるだろう。ゾロはアキの中の矛盾を面白がるように微笑した。
「いいか、下は絶対に脱ぐなよ!上よりはまだマシなんだから、我慢しろ、我慢。じゃねェと部屋に追い返すぞ」
「酒とつまみ」
「条件出すか、こいつ。油断できねェ野郎だな。まずはフレークのメシだ。それから、夕飯兼ねて何か作ってやる。アキちゃん、イカは何がいい~?すっげェ新鮮なやつ、手に入ったんだよ~」
「刺身」
「てめェにはきいてねェ!ったく、図々しい野郎だ」
言いながらキッチンに向かうサンジの足取りは軽く、リズミカルだ。
夏休みの初日…のような高揚感。
久しぶりの『お泊り会』。
こうなると、明日の点検までゾロの部屋の電気が止められたことは、とても幸運なことだと言えそうだ。
しっかし、『らしい』よな。
サンジはゾロが好きな純米酒の買い置きと、アキのための紅茶缶の中身を確認した。
早上がりで仕事から帰った時、部屋の前にはゾロがいた。両手にそれぞれ大きなダンベルを持っていたということは、しばらく前からそこでトレーニングをしていたということだろう。開口一番の一言が「電気が止まった」。どうやらここ1ヶ月ほど部屋の電化製品のトラブルに次々と襲われ、結局本家本元の配電盤周りの点検をすることになったらしい。そして、明日の点検までは安全のために電気を止められたのだ。
こういう時、ゾロはどうするべきか。
サンジに言わせれば、ゾロはここ数日の暑さの中でも、たとえ汗で溺れそうになったとしても熟睡できるはずだ。窓やドアを開け放して寝ても、つられて泥棒に入った人間の方が不運な結末を迎えるだろう。
で、さっきも思ったが、ゾロの隣の部屋には、残念ながらその恋人であるアキが住んでいる。世間一般に言うところの恋人同士ならそこに転がり込むのが自然だと言える…不本意ながら。でも、ゾロはそうしなかった。アキの部屋はいつもかなり圧倒的な状態だから、というのもあるかもしれないが、それでも恋人同士、ひとつ布団で枕を並べても悪いことはないはずだ…一般的には。
自分の部屋の前に突っ立っているゾロの姿に、瞬時にサンジはそこまで考え、理由はないまま、それがとてもゾロ『らしい』ことなのだと納得し満足したのだ。
部屋を脱出しなければと決めたのは、多分フレークのためだ。
脱出先にサンジの部屋を選んだのは、恋人である2人がゾロでありアキだからだ。
だから、いい。この一晩を楽しまない手はない。
サンジは口笛を吹きながら、猫の瞳の色に合わせて買ったブルーの皿にディナーを盛り付けた。
ゾロは細い身体をそっと抱きしめ、背中を小さく撫ぜた。
「久しぶりだな。お前も仕事の後か?シャンプーの匂いがそれ用だ」
もしかしたら自分の声は若干うわずってはいないだろうか。ゾロはアキが身体の力を抜いて額を頬を彼の胸に触れた感触に目を細め、今度は髪を撫ぜた。
時々他人になりきることが必要とされる今の仕事を、アキ自身がずっと必要としてきた。そのことも理由も、ゾロは知っている。それでも、最近は件数が減ってきたように思える。その分、仕事の質を選ぶことにしたのだとエースというあの男が言っていた。確かに件数が減ったこととは反比例的に、1件の準備にかける時間と本番の日数は増えたかもしれない。どちらも筆まめではないからメールも一言メールをほんの少しだけ。だから、今夜、顔を合わせた瞬間、腕の中でその体温を確認しないではいられなかった。
会いたかったってことか。この俺が。
こうして抱いているとまず、保護欲が湧く。本来、彼は守られることを必要としたり求めている人間とは個人的にはつきあう気がしない。仕事ならいい。それ以外は男女を問わず願い下げだ。の、はずなのだが。
ゾロの中に湧き上がる感情は不慣れに甘い。アキ自身は自立していることを人一倍自分に求める人間だ。そして確かに、ゾロには真似のできない知識と技術の持ち主であり、予測不可能という言葉が似合うと思う。だから、ゾロはアキを対等の存在と認めながら、その存在に魅了されながら、こっそりと不慣れな甘さを噛み締める。この甘さがあるから、男としての肉体の反応が複雑になっているのだと自覚している。
異性として身体を合わせたいと思わないわけでない。この欲望は当たり前のものだと思う。
ただ、今ではない。まだ早い。
そう告げる本能に従えるのは、多分、アキを守りたいという意志が思いのほか強いからかもしれない。
「さ~て、天麩羅!じゃんじゃん、揚げるよ~♪」
ゾロとアキに見せる顔の99%が能天気顔だとゾロがカウントしているサンジの声が近づき、ゾロはアキをソファに座らせ、素早く指先で頬を撫ぜた。
小ぶりな揚げ鍋とコンロを運んできたサンジは、手早くテーブルをセットし、火をつけた。
「揚げたてを食べて欲しいからここでやっちゃうね。ちょっと離れてて。いざとなったら怪獣マリモンを盾にしていいから。塩と天つゆ、両方試してみて!」
こいつこそ保護欲の塊だな。
ゾロは目の前に置かれた冷えた酒を早速手酌で口に含みながら、手際よく天麩羅を揚げていくサンジを眺めた。
まあ、サンジのそれは『騎士道精神』とも呼べるもので、女に対して無条件に働くらしい。そのせいか、女に対するガードはないも同然。ゾロが想像できないくらいの夢を女に対して抱いているだろう。
それ以外は、口は悪いし足技はかなりのもので自分を男だと強く自負しているヤツだ。なのに、ゾロは時々サンジに「子どもか!」と突っ込みたくなる。強いと同時に危なっかしい男だ。
アキとサンジ。
ゾロは2人の顔を順番に眺め、小さくため息をついた。あとはここにフレークが1匹入れば、完成だ。不慣れな保護欲誘引隊。いつの間にか自分の懐の中に飛び込んできて、ちゃっかり根を下ろしてしまったらしいとんでもない連中だ。
「ほら、食べて、食べて。この塩もなかなかいい味だから試してみて。ほらよ、仕方ねェから、てめェも食っていいぞ、イカ様を」
新鮮なイカは口の中で容易に噛み切れるものなんだ。
ゾロはアキの笑顔を見ながら口を動かした。
揚げたての衣とイカがミックスした旨みが香りと一緒に鼻腔を抜ける。
ゾロ好みのキンキンに冷やした酒が、喉を滑らかに滑り落ちる。
満足と快感に思わず、小さく唸ってしまった。その声にサンジはあからさまに聞こえないフリをしながら口元の微笑を隠しきれず、アキは大きくひとつ、頷いた。
お前たちは、本当に。
口を開きかけたゾロは思い直し、猪口の中身を飲み干した。
酌をすることなど全く思いつかないアキが愛おしい。いつの間にか3種のつまみを並べてそ知らぬ顔をしているサンジはやはり侮れない。
「美味い」
呟いてしまったゾロは、まあいいか、とまた酒を注いだ。
満たした猪口をアキの前に置くと、恥ずかしそうに微笑み、小さく飲んだ。
「ったく、間接キス泥棒すんな!もうひとつ持ってくるから、待ってろ!」
間接キス。この言葉、一体何年ぶりに聞いただろう。やっぱりアホだ、このコック。
「サンジ君の分もね!」
「は~い、アキちゃ~ん!」
冷たい酒は気づいた時には回っているから、恐らくアキが最初に突然眠りに落ちるだろう。その次が、きっと気分よく浮かれ飲みするサンジの撃沈だ。そしてゾロは、2人をそれぞれ寝かせてやり、酒の種類を変えて飲む。予想は簡単についた。これは多分、外れない。それだけの時間を3人はともに過ごしてきた。
損な役回りか、案外幸運なそれだと思うべきか。
ゾロは顔を上向けた。
まだまだ酒には酔わないが、こんな風に空気に酔うのも一興だ。
思いがけない夏休みの夜が賑やかに始まろうとしていた。