裸 木 1

写真/落ち葉 教えられた道を辿って着いたその屋敷は門を通ってからそこに至るまでの道の長さが人の想像を超えていた。広い敷地の奥まった場所。そこにある建物はどっし りと重々しい石造りでまるで大地にうずくまっているように見えた。
 風が吹くと地面から枯葉が浮いた。
 ルッチは傍らを歩く少女の銀色の髪に絡みついた赤朽ち葉に視線を落とした。

 屋敷を囲む木々の中には裸木が多かった。通り過ぎる風の空気を切る冷たさにも影響されない表皮を晒しながらその内側に生命を眠らせている忍耐の化身。そ れともこれは忍耐と待望の姿というよりも実際の死に近い姿なのだろうか。春まではまだ先が長い時間を死の一歩手前ギリギリの状態で眠っているのか。どちら にしても今はもうその状態に慣れ目覚めの時こそが驚きなのかもしれなかった。

  リリアは小さく白い息を吐いていた。目の前の建物に威圧されていることを細い全身で意識していた。病み上がりのこの痩せた少女はこれま で山の中の木の建物しか知らないで生きてきた。街で初めて店やホテル、酒場、自警団詰め所などを見た時も驚いたがここはそれとは比べ物にならないほど圧力 があった。

「クルッポー」

 ルッチの肩の上からハットリが リリアに声を掛けた。それはまるで『気にするな』とでも言いたげに聞こえ、 リリアは視線を上げた。すると真っ直ぐに リリアを見つめるハットリの丸い瞳と無表情に建物の全景を測るようなルッチの視線の動きが見えた。
 上から下まで黒ずくめのルッチの姿に合わせるように今日のハットリは白い体の上に黒いコートを羽織っていた。その中の首に巻いたネクタイは赤。いつもは ルッチが自分の身支度よりも先にハットリの世話を終えてしまうのだが、今日はなぜかそれを リリアに任せて黙って眺めていた。 リリアはハットリに触れることができるのが嬉しくてならず、恐らく今日中に来るはずの別れのことを考えないでいる助けになった。

 観察を終えたルッチは手を伸ばして呼び鈴の鎖を引いた。その鉄の感触は手袋をはめた手にも冷たく凍りついた。
  リリアは耳を澄ました。けれどほんの小さな音も外に漏れ出すことはなく、果たして誰かの耳に何かの音が届いたのかどうかもわからなかっ た。
 その時、ルッチが半歩後ろに身体をひいた。それと同時に重厚な鉄の扉が音もなくゆっくりと開いた。中から姿を見せたのは白髪混じりの髪を丁寧すぎるほど にぴったりと撫で付けた物静かな姿勢のいい一人の男だった。

「どちら様でいらっしゃいますか。主とお約束されているわけではないと存じますが」

 絵に描いたような執事だ。ルッチは思った。それからさらに心の中で言葉を続けた。この典型的に見える執事はほんのわずかだけその外見に似合わない種類の 目の表情を持っている、と。監視、追及、排除。どれもがすこしずつ感じられる。

 執事の方も彼の前に立っている奇妙な二人連れを観察していた。
 黒い髪、黒い瞳、黒い服装の正体不明な男は彼から見ればまだ青年と言っていい年頃のようだった。それがあくまで年齢的なものだけに言えるということはそ の感情の存在を消した表情からわかる。執事は心の中で何種類かこの男に当てはまりそうな職業・身分を引っ張り出した。しかしすぐにどれも否定した。男は想 像を超えて冷徹さと玄人ぶりを身につけているように見えた。肩にとまっている鳩らしい鳥と男の連れらしい華奢で貧しそうな少女の方に激しく違和感があっ た。くすんで輝きを失っている銀色の髪のこの少女はどういうわけでこの男と一緒にいるのだろう。恐らくその身体に着ているボロの下はすぐに裸身に違いな い。ブーツの上の膝もむき出しでいかにも冷え切った肌の色を見せている。
 男が身体のすぐ横にこの少女が立つことを許しているのはもしかしたら少女が耐えている寒さを緩和するためなのかもしれない。そういう気遣いがありそうに は思えない男だったが。

「約束はしていない。町長と自警団の団長にここに行くように言われただけだ。下働きに使える娘を必要としてるかもしれないと聞いて来た」

 執事の耳は男の声を聞いて納得していた。そうだ、こういう男はこういう声でこういう話し方をするのが似合っている。似合わないのはその年齢だけだ。すぐ にでも死刑執行人になれそうな男だ。

「下働き・・・この子を?この館では今はまだ特に人手が欲しいとは思っていないのだが・・・」

「こいつには身寄りといえる人間はいないから住み込みで働くことが出来る。俺は通りすがりの人間だ。この街まで連れてくるのが別の人間との約束だった」

 つまりこの男の役目は終わっていてさっさとこの少女と別れて自分の道を行きたいということだろう。執事は少女の顔を見た。黙って立っている少女は静かに 二人の話を聞いていた。その顔に一瞬通り過ぎたのは悲しみに近い何かだったかもしれない。

「私の一存では決められないことだ。だが今・・・主は数日の予定でここを離れているのだ。他に決められる人間はここには・・・」

 ルッチは執事のためらいがちな口調に、ただ待った。どうやら職業意識に気持ちを引き裂かれているらしい様子に唇を歪めた。街からはるばる歩いてきた人間 をむげに追い返すのも、正体不明な人間を屋敷の中に入れるのも、どちらも出来れば避けたい行動なのだろうと推測した。

「奥様に・・・」

 言いながらすばやく動いた執事の視線をルッチは無表情に受け流した。そのことが恐らく執事の気持ちを決める要因になった。

「ともかく中へお入りください。お茶を一杯召し上がる間に奥様に用件だけでも伝えていかれるとよいでしょう」

 丁寧になった執事の口調を面白がるようにルッチの瞳が一瞬動いた。塞いでいた戸口の前から身体を動かして扉を押さえる執事の前を数歩歩いたルッチは リリアが動き出さない気配に振り向いた。少女の紫色の瞳はじっと扉の中を見つめていた。ルッチにはその気持ちを推し量ることはできな かったし考える気もなかった。ここ数日中には忘却する相手だ。興味を持つことに意味はない。得もない。病を癒し細い身体を温めて眠った数夜の方が予定外の 行動で不運だったといえるのだ。

リリア

 少女の名を呼ぶルッチの声にはあたたかさも冷たさもなかった。
 そういえばまともに名前を呼んだのは今が初めてかもしれないと気がついた。見ると少女は驚いたような顔をして瞳を見開いた。それから何かにひかれるよう な足取りで彼の方に進んできた。




 大きな暖炉のある一室に二人を通して執事は姿を消した。
  リリアは部屋の中を何度も見回さずにはいられなかった。
 赤々と燃え上がる炎は勢いがありながらいかにも従順に暖炉の中におさまり、滑らかな石の床に敷かれた厚みのある絨毯が足音を吸い込む。優美なアーチを描 いた縦長の窓のガラスは曇り一つなく外をすぐそこにあるもののように見せ、ずっしりと襞になったカーテンがその自然の絵を縁取る額になっている。艶のある 黒檀を土台にした家具たちは、ある物は時の流れを織り込んだような布を張られてソファとなり、他にも表面を磨き上げられてテーブル、棚、壁を飾る絵画の額 など様々な形をとっていた。この建物の外観と同様に空気を圧する室内。その安定感も重々しさも リリアには初めてのものだった。
 外にあれだけ生えている木を使うのではなくてわざわざここよりも温暖な地域に育つ黒檀を使う。そのことの意味がルッチにはわからなかった。いや、無意味 なのだ。好みといってしまえばそれまでなのだが。

 二人は暖炉の前で身体を温めながら視線を合わせた。
  リリアの瞳は訴える光とともにハットリを見つめ、ルッチが僅かに顎を振ると嬉しさに頬を染めながら手を伸ばして指先にハットリをとまら せた。
 本当にハットリが不思議なほどなついている。ルッチは少女の血色が戻った透けるような肌と形の良い唇を見下ろした。

「主人が留守をしておりまして大変失礼しました」

 執事が扉を開くと同時に聞こえてきたのは物静かな女の声だった。
  リリアは反射的にハットリを腕の中に抱いて女を見た。
 ルッチは今立っている姿勢は変えずに視線だけを女に向けた。

 少し蒼ざめたようにも見える肌を赤褐色の長い髪が縁取り肩から下はゆるやかに編まれて落ちる。緑色の瞳はルッチを見た瞬間に見開かれそこから動こうとし ない。女が身に着けている衣類はいずれも落ち着いて深い色合いのもので上等な質を伺わせるが、なぜか僧衣のような印象も与える。

「レネーゼ・クレドール様・・・この屋敷の奥様でいらっしゃいます」

 主の妻が名乗ることも忘れて立ちつくす横で執事が代わりに一礼した。
 レネーゼはその声に我に返った様子だったがその視線は次に少女とその腕の中の鳩に捕らわれた。そして・・・再び無言のままルッチに目を戻した。
 ルッチは彼に向けられた年上の女の視線を半分無視するように執事の顔を見た。執事の眉間にかすかに寄った疑問の縦皺の方が面白みがあった。

  リリアはレネーゼを美しいと思った。何不足なく満たされているこのくらいの年齢の大人の女を見たのは初めてだった。顔かたちも声も動作 も・・・これが上流の世界では当たり前の上品さなのだと思い、気後れのようなものを感じていた。何もかもがひどく違った。
 ルッチの無表情は彼がこの女を見て何を思ったのかをまったく見せなかった。ただそこに見た何かを確認するようなすばやい一瞥の後ほとんどわからない程度 に口角を上げた。 リリアは勿論忠実な執事にも見えなかったもの・・・そんな何かを見て取ったのかもしれなかった。

「・・・主人は早ければ明日戻ります。お話は私もお伺いしますがこの家のすべてのことは主人が管理しております。よろしかったらとりあえず今夜はここにお 泊りください。アルバートにお部屋を用意させます」

 囁くように一気に言い終えた女の口調に リリアは不思議そうな顔をした。
 ルッチは執事の驚いた顔を見て予想通りだったことに心の中で頷いた。この女は今、ひとりでルッチと リリアを客人とすることを決めたのだ。それは恐らくこれまでにはなかったこと・・・これまでの慣習を破ったことなのだろう。

「お話を伺う前に失礼とは思いますがお湯を使われてはいかがですか。一休みされた方がよいように思います」

 レネーゼが二人に向かってというよりも執事に向かって言いながら促すような視線を向けると執事はようやくきびきびとした動作を取り戻した。

「お部屋にご案内いたします。すぐに湯の準備もさせますので」

  リリアは躊躇いながらルッチの顔を見た。
 ルッチはしばらく考えるように女と執事の顔を眺めていたが、やがて小さく頷いた。その瞳は最後に確認するように女の顔を見たが、その視線を受けた女は目 を伏せた。その姿から何か答えを得たのか、ルッチは執事の後について部屋を出た。 リリアはすぐそのルッチの後を追った。よくわからないまま、それでも何かがこの先に待っているような気がしていた。

2006.2.6

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