裸 木 2

写真/落ち葉 ここにいていいのだろうか。
 湯気が満ちた浴室の中、香り溢れる白い泡に満ちた浴槽の前で リリアは呆然と眺めていた。この泡は豊富な湯を隠してしまっているがその湯だけでも少女にとっては信じられないほど贅沢な使い方だっ た。
 着替えだと渡された衣類に視線を落とす。滑らかな布地の感触と光沢のある白さが眩しかった。これは到底彼女が触れていいはずはない上質のものだと畏怖を 感じた。山の中のあの賊たちの頭でさえこんな風にただ肌を柔らかく包むためだけにあるようなものは身に着けていたことがない。
  リリアは心をよぎった山の記憶に小さく身震いした。少女が旅立った時には白い雪が何もかもを覆って視界からも心からもすべてを遮断して いた。けれどその下には生きていた者たちの遺骸が眠っている。春になったら訪れるはずの自然による侵食をただ待っている。
 不意に寒さを意識した リリアは着替えを壁際の棚にのせて身体を何とか衣類らしく包んでいた襤褸を脱いだ。汚れた手足とバリバリした髪、痩せっぽちの身体。目 に入る身体の各部を意識しながらつま先からそっと湯に入った。焼け付くように感じられた湯に全身鳥肌がたった。それでも肩まで沈めた時には甘い香りの中で 開放感をおぼえていた。その開放感のすぐ裏側には戸惑いと不安があった。 リリアは膝を抱えて周りの音を探った。

 クレドールという名前は記憶の中に知識としてあった。
 ジャック・クレドール。元海軍将校が海を遠く離れたこの場所で自分の土地の中の一番奥に館を建てて暮らしているということか。
 ルッチはさらに記憶の中を探ったが特別な功績も醜聞も見つからなかったのでそこで思考を打ち切った。恐らくこの館の主人はCP9という組織の存在すら噂 でしか知らない。顔を合わせるに不都合はない。
 ルッチはシルクハットをベッドの上に置いて苦笑した。こういう場所に短時間でも留まることによる不都合な点がこの帽子だった。彼は本当は脱ぎたくなかっ た。任務中は身体の一部と化しているものだから。
 その時、人の気配を感じたルッチは扉に目を向けた。突然の客が何不自由なく過ごしているかを執事が確かめに来たのかもしれなかったが・・・それとも。 ルッチは足音なく歩いて行って扉を開けた。驚いてすぐに数歩下がった女の視線をただ受け止めた。

「お花を・・・部屋に花をお持ちしようと・・・」

 語尾が細かく震えたレネーゼの声にルッチは特に何も答えなかった。
 この季節のこの時間に一輪挿しに入れたとってつけたような切花を。この女はなぜ彼に興味を持ったのだろう。主人不在時にはしっかりと執事に守られ、そう でないときには恐らくそれ以上に主人に守られ堅固な館の中で『愛』という名がついたものを注がれている・・・そんな存在なのだろうと推測できた。そしてそ ういう人間にはあまり似合うとは思えない女になりきれていない幼さをこの館の女主人から見てとっていた。
 面倒事はご免だ。ルッチが視線を離してレネーゼが小さく唇を噛んだ時、部屋の奥から大きな水音が聞こえ、ハットリの羽ばたきと泣き声が続いた。

『くる、くる、くるっぽー』

(何をやってるんだ、あいつは?)

 ルッチは部屋に入るとそのまま浴室の前まで進み、扉を開けた。ハットリがすぐに入り口から浴室に飛んで行った。
 浴槽の中で頭の天辺までずぶ濡れの リリアが激しく咽ながら両手で目をこすっていた。
 湯の中で眠って頭まで沈み湯と泡を吸い込んで慌てて覚醒した。
 わかりやすい状況にルッチはあきれながらタオルを手に取った。

「こするだけ無駄だ。どうせ髪から雫が入る」

 ルッチがタオルで リリアの頭を包み込むと白い身体は驚いて硬直した。その隙にルッチは手加減せずにしっかりと長い髪の水分をふき取った。そのうちふと白 いタオルの中でしっとり輝く髪の銀色と細い首筋の白さに気がついた。高価な入浴剤は効果も抜群のようだ。これはもうほとんど別人だ。タオルの隙間からまだ 驚いているように大きく見開かれた リリアの瞳がのぞいた。二粒のアメジスト。ルッチは宝石のようなそれを改めて評価した。ついさっきまで棒切れで作られた粗雑な人形その ものだったところに見た思いがけない将来の可能性。それは多分少女の境遇においては幸運とは呼べないものなのかもしれないが。
  リリアの瞳は無言でルッチを見つめていた。そこには恐れはなく、ただ驚きだけがあった。
 ルッチはほんの数秒、手を止めてその瞳を見返した。

「あの・・・すぐに別の湯をお持ちするようにいいつけてまいります」

 背後から響いた声にルッチはレネーゼがいたことを思い出した。振り返ると女の緑色の瞳は吸い寄せられるようにタオル越しに少女に触れるルッチの手を見つ めていた。

「いや。もう落ち着いた」

 ルッチが言葉を返した時にはすでにレネーゼは背を向けて歩きはじめていた。その背には赤褐色の髪が大きく揺れていた。



「ごめんなさい」

 呟きとともに浴室から姿を現した リリアの姿にルッチの口から短い笑いが漏れた。
 幾重にも折りたたんだ白いブラウスの袖とほとんど床に引きずられたスカートの裾。頭の上にハットリをのせた少女の姿はそのまま畑の中で案山子に使えそう に見えた。もっとも案山子としては背丈が小さく、服からようやく脱出しているような手足と顔は新たな感じの素材の美しさがこぼれていたのだが。伸び放題の 髪を整えてきちんと身体にあった服を着せれば誰もこの少女が山賊と暮らしていたとは思わないだろう。閉ざされた世界にいたためにまだ世の中のことを何も知 らず、それでも物事を吸収する能力はかなり高い。ルッチはここ数日の道中でそれを見抜いていた。もう風呂で溺れることもないだろう。
 ルッチは歩きにくそうに邪魔な裾を踏みながらよろめいている少女が転びそうになったのを首根っこを捕まえるようにして持ち上げて椅子の上に下ろした。こ れでは何もかも歩き出した赤ん坊と同じだ。そしてその赤ん坊は恥じ入りながらまたあの宝石に似た瞳で彼を見上げている。何か彼にはその名前を知りたいとも 思わない感情のようなものをひそかに宿して。

「バカヤロウ」

 少女は微笑した。それはまだ本人も慣れないぎこちないものだったが、いつもハットリに向ける無邪気さをほんの少しだけ含んでいた。




「それでこの リリアという少女をここまでお連れになったのですか。・・・あなたはとても親切な方ですのね、ロブ・ルッチ様」

 道で行き倒れていた少女をただ拾ったのだというルッチの説明を聞いたレネーゼは賛意を示すように大きく頷いた。その少女がそれまでの生活についての記憶 の多くを失っているという話にも疑問を感じた様子はなかった。手際よく三人の前にカップを並べた執事は礼儀正しく彼自身の感想はひとつも表情に出していな い。
 ルッチは頬を染めた女の顔から視線を外した。

「では主人が戻ってからこの子のことは改めて話すといたしまして・・・・今夜はあなたはさっきのお部屋に、この子は空いている使用人部屋に寝かせましょ う。主人が出かける時はいつも・・・あの・・・使用人たちに休暇を与えるものですから、部屋はいくつでも空いておりますわ」

 広い屋敷の中が静まり返っているのはそのためだったのか。ルッチは納得した。それにしても自分が不在の時は執事以外の使用人を外にだすというのは・・・ それは館の主のどんな感情を意味しているのだろうか。
  リリアはしっかりと唇を引き結んだ。内心不安になっていた。

「まだ雇ってもらえると決まったわけでもない。とりあえず今夜は リリアは俺と一緒の部屋でいい。鳥の世話を任せているんでな」

 ルッチの言葉をどういう意味合いで受け取ったかはわからなかったが、執事は顔色一つ変えず、レネーゼはめだたないため息をついたように見えた。
 ルッチは視界の隅に紅潮した リリアの顔を確認した。安心したように身体のこわばりをといてハットリの頭を撫ぜてやっている様子から自分が『予防線』としての役割を 与えられたことにまったく気がついていないことがわかった。それは言わば案山子のようなものだったのだが。

 ルッチは唇に小さく笑みを浮かべてレネーゼの顔を正面からまっすぐに見た。
 思ったとおり、館の女主人は慌てたようにうつむいた。
 ハットリの頭から顔を上げた リリアは二人の間のその瞬間を静かに瞳に映した。

2006.2.7

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