いかにも睡魔に襲われている証拠のあくびを漏らしながらベッドのなかでもぞもぞと寝返りをうつ少女の姿を無意識に視界に入れながらルッチはグラスを置い た。いちいち少女の顔を覗きに飛んでいくハットリの律儀さが不思議だった。ハットリとこの少女はいつの間にか互いが互いの保護者であろうとしているように 見える。自然と浮かぶ苦笑には知らないうちに興味を覚えている彼自身に対する意味合いもあった。
リリアはとうとう起き上がった。あまりに柔らかく全身を受け止めるベッドの上では目を閉じると何かどこまでも落ちていくような感覚が生 まれて恐怖に近いものを感じてしまう。
山の生活ではないも同然のつぶれきった布団に寝ていた。自由になったあの日から二晩は木の床に敷いた毛布の上でルッチの腕の中で眠った。この街へ着くま での道中はルッチのコートの中で野宿した。
リリアはルッチが本当は人と肌が触れ合うほどの距離にいることを嫌悪していることを本能的に感じていたからなぜ彼がここ数日の夜にその 体温を分け与えてくれたのかわからなかった。
リリア自身も最初にルッチがそばに来た時には恐怖しか感じなかった。それでも客観的に見れば不自由この上ない寝場所で過ごしたはずの数 夜、
リリアは夢を見ることもないほど深く眠ることができた。それなのに今、疲れきっている身体を休めることができない。贅沢な湯で身体をほ ぐし、生まれて初めて口にした味わい深い料理に胃袋を満たされ、堅固な建物の中で外敵から守られて・・・他に望めるものは多分何一つないというのに。
リリアはルッチの視線を意識しないように目を伏せて床に下りた。そしてひんやりと足の裏に冷たくあたるその場所にうずくまって身体を丸 めて横たわった。
「・・・何をしている」
思わず椅子から腰を浮かせたルッチはすぐにまた座ったが、その目は
リリアの姿を注視していた。
「柔らかいと何だか落ちていきそうで・・・」
目を開けた
リリアはルッチにきまり悪そうな視線を向けて呟いた。
ルッチはしばらく黙っていた。
「好きにしろ」
ルッチの冷ややかな言葉になぜか安心したように
リリアは目を閉じた。やがてすぐに規則正しい寝息が聞こえはじめた。
「・・・動物でもあるまいが」
ルッチは必死にベッドを覆っている一番上の寝具を引っ張りながら羽ばたいているハットリの様子に唇を歪めた。
「羽が抜けるぞ」
立ち上がったルッチがゆっくりと近づくとハットリは咥えていた寝具の端をルッチの手に渡した。ルッチはそれを無造作に軽く引いて寝具を
リリアの身体の上に落とした。乱れた髪の隙間から見えた白いうなじにふと顔に触れた少女の肌の感触を思い出した。彼の顎の鬚に触れた 時、眠りながら少女はくすぐったそうに首を動かした。その様子は獣の仔にちょっと似ていたかもしれない。
まだ当たり前の人間であることに慣れていない柔弱な生。
このままこの閉鎖的な建物と住人たちにのみ込まれるのだろうか。
気配を感じたルッチは扉を見た。ノックの音も足音もない。けれどその向こうには確かに人の気配があった。殺した息づかいを感じながらルッチはゆっくりと 帽子を脱いだ。
ある種類の人間は彼に身体を開かれることを望み、またある種類の人間は彼を抱きたいという欲求を感じる。ルッチはそのことを知っていた。そうあるように 計画された錬磨の時期を通り過ぎてきたのだから当然だと思っていた。自分の身体を任務の一部に使うことに抵抗を感じたことはない。精神的、肉体的にそれら を超逸しているという自負していたからプライドを傷つけられることもなかった。
けれどあの女は。
ルッチはレネーゼの姿かたちと表情を思い起こした。『奥様』でありながらほっそりした身体に青臭い硬さを感じさせる女が彼に不自然な執着を見せるのはな ぜなのか。もし彼の周囲に漏れているきな臭さや危険の匂いに惹かれているのだとしたら余計に面倒なだけだ。
ルッチがベッドに腰掛けて無言で待っているとやがて気配は離れて行った。ルッチは足元で眠る
リリアを見下ろした。この少女を起こして目撃されてもいいと思うほどには女は自暴自棄になっているわけではない。思ったとおりだった。
リリアの唇が動き、何かはっきりしない言葉を呟いた。
ルッチは服を脱いで身体を横たえた。寝具の中にはまだわずかに温もりが残っていた。
灯りを消したハットリがルッチの顔の上を旋回した。そしてその意味に気がついたルッチが頷くとふわりと
リリアの身体の上に着地した。
静寂の中で久しぶりに身体を伸ばし、ルッチは彼がもどるべき場所のことを考えた。任務自体が予定よりも早く終了したのでこれまでのところそれほど遅れは ない。それでも随分と彼にとって違和感で一杯の時間を過ごしてきたように思った。こんなことは組織に属して以来初めてのことだ。
明日、もしも館の主が戻らなくてもここを出た方がいい。そう思った。任務の障害になった山賊たちを葬った時の満足感が薄れはじめていた。指先から伝って 流れた血の匂いとあたたかさよりも幼い体温とどことなく甘い肌の匂いの方が強く身体に残っている気がした。それは彼にしては少々滑稽な図であるといえない か。
ルッチはベッドの端に頭をずらして床を見下ろした。暗がりの中、小さな寝息と細い身体から放たれている熱の存在を感じた。これに人間としての形を与えて みるのも面白かったかもしれない。素材としては上等な部類だ。ルッチは自分の気まぐれを思った。同僚たちの中にもそれを面白いと思う者がいそうな気もし た。それとも明日には別れるということが彼の感情に影響を与えているなどということがあり得るだろうか。気に入った玩具を返さなければならないことを知っ ている子どものように。それはあくまで想像上の気持ちでしかなかったが。
ルッチの口から低い笑い声が響いた。彼は自分の爪が必要な時がきたら何の躊躇いもなく少女の喉を引き裂くだろうということを知っていた。そしてそうしな がら同時にこの小さな生を終わらせることを惜しむだろうとも思った。いつの間にか少女の存在は細いけれどしっかりとした楔になって彼の心を繋ぎとめてい た。
だからといって何が変わるものでもない。
ルッチは顔を仰向けて目を閉じた。
その唇に含んだような笑みが浮かんだ。