裸 木 4

写真/落ち葉 朝になったことを空気に感じた リリアはすばやく起き上がった。途端に舞い上がった白い鳩の姿に驚いてすばやく辿った記憶の中で、ようやくもうこの場所が山の中ではな いことを思い出した。滑らかで冷たい石の床の上で軽いのにあたたかな寝具に包まれて。水汲みも怒鳴り声もない。そして数夜無言で少女の身体を包み込んでい た大きくてあたたかな存在もなかった。

  リリアは静かに立ち上がった。
 カーテンの隙間から差し込む朝の光が寝台に横たわっている姿の頭部に明るさを投げかけている。閉じられた瞳、黒い髪、僅かに呼吸の気配がある鼻と唇。 リリアはその寝顔に見とれた。いつ頃からか幼い心はルッチに強く惹きつけられていた。雪と鮮血が舞うあの日の記憶はあまりに鮮やかな印 象を残し、その死と引き換えに生を与えられたことを今もどこか信じられない。最初にその腕の中に抱き寄せられた時には体中が凍りつくような錯覚に襲われた が、やがてぬくもりがそれに勝って安心感と心臓の高鳴りを同時に与えられた。
 綺麗だ、と リリアは寝顔を見ながら思った。
 ただ、そう思った。

 他人の視線を感じながら目を開けることには純粋な不快感があった。ルッチが眉を顰めながら見上げると少女は頬を染めて俯いた。雰囲気を読むのが早 い・・・少女のことを評価しながらルッチは苛立ちが消えていることに気がついた。見事なまでに紅潮した リリアの顔を面白がりたい気分が勝っていた。

「床の寝心地はよかったか?」

 起き上がったルッチの剥き出しの上半身から リリアは慌てて目をそらした。その様子はとても荒くれ男たちの中で生きてきたようには見えない。ルッチは発見した無垢に唇を歪めた。

『くるっぽー』

 目の前に舞い降りたハットリに向いたルッチの視線は柔らかかった。
 手を伸ばせば届く範囲に存在するほんのちっぽけな命。そのあり方が少女も似ていた。




 朝食の席には現れなかった女主人が姿を見せたのはルッチが リリアを連れて食堂を出た時だった。

「ちょうどよかった。あなたに見せてあげたいものがあって・・・」

 レネーゼが見ているのは リリアの顔だった。 リリアは軽く息を弾ませている女を不思議に思いながら見上げた。子どもらしい直感で リリアはレネーゼがルッチの言動に強く意識を向けていることを知っていた。なのになぜ今、 リリアに向かって明るい笑みを見せているのだろう。
 黙っている少女に向かってレネーゼが伸ばした白い腕をルッチは無表情に、 リリア自身は一歩身体をひいて眺めた。 リリアにはその腕の肌の白さと華奢な手指、ほのかに漂った上品な香りのすべてが眩しかった。自分がそれに近づいていいのだろうか。 リリアの顔には迷いが見えた。

「きっと気に入ると思うのよ」

 この女の目には子どもはすべて同じ一つの型にはまっているように見えているのだろう。ルッチはレネーゼの手が リリアの手をとらえることに成功した場面を皮肉な気分で眺めていた。
 赤みを帯びた長い髪を躍らせながらレネーゼが二人を連れて行ったのは書斎だった。 リリアは壁を埋め尽くしている本の存在に圧倒されたように戸口で立ち止まった。そんな少女に対する苛立ちを隠しきれず、レネーゼは リリアの手を強くひいた。 リリアが驚きながら書斎の中央に立つとレネーゼは自分よりも小さな姿に笑みを注いだ。

「さあ・・・これよ」

 それは恐らく館の主人が読書や執務にあたるときに座るどっしりとした机の上に置かれていた。小さな明かりとりの窓しかない書斎の机の上には灯がともった ランプがのっていた。そのランプの温かみのある光の中に淡い白さで輝く長方形の箱型の何かがあった。その周囲から浮かび上がるような輝きは箱の表面を覆っ ている艶やかで複雑な模様の重なりが発しているものだったが、ルッチはそれが複数の貝殻らしく見えることに気がついた。同じ色合いの貝を揃えて傷が入って いないものだけを選んで材料に使ってある贅沢品。元海軍将校が持つにはふさわしい品物だといえるかもしれなかったが他にこれの類のものを見たことはなかっ た。

「音が出るのよ・・・弾いてごらんなさい」

 レネーゼは少女の瞳が目の前の美しさに吸い寄せられているのを見て微笑した。そして静かに箱に手を掛けて蓋を開くような動作をすると、箱の上面が半分か ら折れてその下に並んでいる鍵盤らしい規則正しい配列が現れた。その鍵盤たちは箱の外側よりもさらに明るく輝き少女を魅了した。

「こうしてね、息を吹き込みながら指で押すの。いい?」

 レネーゼは箱の側面に立っている細いパイプに口を寄せて呼気を吹き込むと同時にいくつかの鍵盤を指で押した。空気の中ではじけるような音色が心地よい旋 律になって室内を満たした。
 目を丸くしてその音の奇跡を見つめる リリアの手をレネーゼはそっと鍵盤の上に導いた。

「これはね、空から来た楽器だと言われているの。本当はこの吹き込み口には巻貝のようなものがついていて息を吹かなくても演奏ができたんですって。それは ちょっと信じられないけれど綺麗なものでしょう?」

 一瞬指先を触れてすぐに離した後、 リリアは再び鍵盤に触れた。躊躇いがちなその動きとは対照的にうっとりとした表情が少女の感情を表していた。
 レネーゼは古びた革表紙の本を楽器の隣りに置いた。

「これは一緒に見つかった楽譜なの。美しい曲がたくさん書かれているわ。私達は席を外すから、好きなだけ弾いていいのよ」

 女は少女の方に顔を寄せたままルッチを見ようとしなかった。ルッチは女の肌が彼を意識してぬくもるのを感じ、それを無視するかどうかを考えた。 リリアは彼に初めて見せる表情を浮かべながら嬉しそうに楽器を見つめている。それは彼にはそのままにしておきたいのか、それともすぐに ひねりつぶしてしまいたいのかを迷わせるような子どもの顔だった。

 音もなく背を向けて書斎から出たルッチの後をレネーゼが静かに追った。気配を感じた リリアは一瞬顔を上げたがすぐにまた楽器を眺めた。

「・・・子どもに玩具を与えておいて何をするつもりだ?」

 レネーゼが書斎の扉を閉めるとルッチは振り向いて女を見た。視線を返した女の顔には必死な色があり、ルッチはそれを気に入らなかった。

「あなたには温室をお見せしますわ。この季節でも何種類か見事な花が咲いているんです」

 先にたって歩きはじめたレネーゼはルッチが後をついて来ないことにすぐに気がついて足を止めた。

「お願いです。私、あなたとお話がしたいのです」

「話ならどこでもできるだろう」

 レネーゼのすがる様な瞳を見返したルッチは廊下の少し離れた場所にひっそりと立っている執事の姿に気がついた。監視にしてはおおっぴらで丁重な視線はた だ黙って二人を見ていた。
 少し驚かしてやるのもいいだろう。
 ルッチの中に悪戯心がおこった。

「温室はどこだ」

 女の顔に光がともる様子をルッチは皮肉な顔で眺めた。
 二人が歩きはじめたとき、途切れ途切れのぎこちない音階が響きはじめた。

2006.2.13

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