温室の中の空気は確かに外の季節とはちがう温度と湿度と匂いを持っていた。ルッチは温室の入り口から三歩入ったところで足を止め、女の後姿から目を離して 中の様子を眺めた。
刈り込まれた株たちはさらに暖かな季節を待ち、棘のある薔薇たちは艶やかな葉を見せ、その中には複数の色の花が見えた。外とは切り離された場所で保護さ れながら懸命に形のよさを見せている花の甘い香り。乾いた冷たい風に舞う枯葉とは対照的な存在はルッチの中に何の感動も呼び起こさなかった。自然の摂理に 逆らわずに潔く命を終えた葉の方が彼には許せた。人が己の都合に合わせて捻じ曲げた生命には野生の美はない。本能もない。
ルッチは立ち止まった女に視線を戻した。この薔薇のように保護されて閉じられた世界にいる女は果たして彼の前にその本能を晒そうとしているのだろうか。 何か思いつめた顔で振り向いたこの女は。
「・・・教えて欲しいのです、男女の営みを。私がそれを受けるのにふさわしい女であるかどうかを・・・」
まだ朝早いガラス張りのこの場所で。ルッチの口元に皮肉な笑みが浮かんだ。いかにも育ちの良いこの女をこんな風に乱すなら、この館の主である元海軍将校 はどこか偏った人間なのかもしれない。それともこの女がおかしいのか。ルッチは真正面から自分を見つめる緑色の瞳を見返した。
「頼む相手を間違えていると思うが。『奥様』にはふさわしい相手が決まっているはずだ。なぜそれを破る必要がある?どちらかの好みが正常ではないのか?」
頬を染めた女の顔に必死の色が浮かんだ。
ルッチは黙ってレネーゼが近づくのを許し、白い手が彼の上着に伸びる光景を眺めた。
「好みなんて、そんな・・・・私には知りようがないのです。あの人は私にそれは優しく唇を触れてくれるけれど・・・それが与えてくれるすべてなのですか ら。でも私はあの人に自分に足りないものを聞くことができない。きっとあの人を傷つけるか怒らせるかしてしまうから・・・・!」
男が女を抱かない理由は。
ルッチの頭にいくつかの状況が浮かんだが、女の外見や雰囲気を考えてそのうちの数個を消去した。この女は美しい部類に入るしその身体は健康そうな自然の 欲望を伝えることができるはずだ。その気がある男を誘惑することも容易いだろう。まして神に許された夫が相手であれば遠慮する必要がどこにあるというの か。
「お願い・・・!私のどこがおかしいのか教えて。あなたならわかるはず。あなたのような危険な感じがする男の人なら」
近寄った女の白い手がルッチの胸を這い上がった。必死に張り詰めた女の神経には自分の手が触れている男の感情を探る余裕はないようだ。ルッチの肌から静 かに放たれている殺気と皮肉を表す微笑を浮かべた唇の形を無視したまま、レネーゼはただどこか飢えたように彼に触れ続けている。
煩わしい。
ただ、そう思った。ルッチはすばやく左手で女の両手を戒めた。
「死にたいか」
短い呟きを聞いて瞳を見開いた女の唇を乱暴に塞いだ。掴んだ女の両手首で細い身体を半分宙吊りにしながらその反応を気にせずただ冷静に侵した。
唇を離した時女の身体は小刻みに震えていた。美しく施された化粧を崩しながら落ちる涙には温度を感じなかった。
「・・・こんな・・・」
この女は今の彼の行為と夫の口づけを比較したはずだ。そしてルッチの唇の冷たさに身を震わせて自分の間違いを知ったかもしれない。
ルッチは女の手を離すと短い一瞥を投げ、背を向けた。
「だって・・・あなたはあの子には・・・」
『あの子には』何だというのだ。
女の囁きが通り過ぎた。
リリアというあの子どもを保護している人間という姿の中に彼の本質を見つけたつもりでいたのなら。そこに己もたやすく侵入できると考え たのなら。
「それこそが間違いだ」
レネーゼは視線を落とした。今の彼女にはルッチの姿を目で追う気力もなかった。どこで何を間違えたのか。混乱した気持ちでしゃがみこんだ女は両手で頭を 抱え、泣いた。
書斎に近づいても音が聞こえて来ないことにルッチは眉を顰め、そんな自分に対して唇をゆがめた。
扉を開けると中から流れてきた空気の中に熱を感じたような気がした。温度のあたたかさではない、気持ちの高ぶりのようなもの。見れば少女は大きな椅子の 上で身体を丸めながら一心に手に持った本に心を集中しているようだった。小さな眉間に皺を寄せ、時々ページの向きを変えながら呟きをもらす姿からは湯気が 立っているようにも感じられる。
すぐ傍らまで近づいたルッチの気配にようやく
リリアは顔を上げた。その瞬間に少女の顔を通り過ぎた表情からルッチは彼がこの光景を誤解していたことを知った。確かに
リリアはその革表紙に守られた紙束に誰かが熱心に記したものを夢中で見ていたのではあった。けれどその文字と記号が意味するものを、少 女は読み取ることができなかったのだ。
「・・・読めないのか」
紫色の瞳に涙が溢れた。知りたいと願って見つめ続けた少女の前で記された文字は魔法の呪文のように思えただろう。どうにかすれば願いがかなうかもしれな いと。少女はどれほどの間これに祈りをささげていたのだろう。
リリアはルッチの視線に気がついて首をふるふると小さく動かした。それは少女自身も驚いた突然の涙に対する防御でもあった。
懸命に微笑もうとする
リリアの顔を見下ろしながらルッチはため息をついた。
親指、人差し指、中指、そしてまた親指、中指。
ルッチの指は本の中の最初の説明に従って順番に五つの鍵盤を押した。
目を丸くして息を止めた少女の前で短い音たちが美しい流れを作った。
ルッチが楽器から手を離すとまだ幼い手がそっと伸びた。白い指がルッチが残した軌跡を正確に辿った。少女の唇から深い息が漏れた。少女はもう一度、それ からまたもう一度・・・繰り返しその五つの音を奏でた。
集中しきって音の世界に埋没している
リリアの紅潮した頬を見下ろしているルッチの肩にハットリが舞い下りた。音に合わせて静かに首を振っている気配にルッチは苦笑した。そ して、黙って顔を上げた。書斎の入り口に立った男は床に影を落とし、その堂々とした体格と姿勢は元海軍将校にふさわしかった。黒い髪、褐色の瞳、日焼けの 残る肌の色。
「何をしている・・・」
男の口から漏れた声は怒りを多量に含んでいた。その視線はルッチを通り過ぎて
リリアに向けられた。まだ彼の存在に気がついていない
リリアはまたひとつ、鍵盤を押した。
「触るな、と言っている!それはお前のような者が触れていい物ではない。それ以上それを汚すな」
憤怒にとりつかれた男にようやく気がついた
リリアは反射的に指を離し椅子から立ち上がった。大股で近づいた男は少女の身体を手で振り払うような仕草をし、美しく滑らかな楽器の蓋 を閉めて腕の中に抱え込んだ。
リリアの大きく見開かれた瞳はまだ男の腕の中の楽器を見つめていた。ついさっきまで少女を囲んでいた奇跡の音色との突然の別れに耐え切 れないように。
少女の顔には驚きのような表情があった。
突然与えられ、それと同じく奪われてしまった宝物。
これから時間が経つとともに喪失感が追いついていくのだろう。
ルッチは少女の顔から男に視線を移した。
黙っていれば冷静沈着な海軍将校に見える男の噴出した感情の痕跡。ルッチの皮肉な視線の前で男は急速に常態を取り戻した。
「アルバートの話ではこの娘を雇って欲しいそうだが」
リリアは男の正体を知って身体をかたくした。それから静かにルッチの顔を見上げる様子を男はじっと見つめた。
「無理にとは言わない。必要ないなら次をあたるだけだ・・・・あなたがジャック・クレドールという名であるなら、の話だが」
「名乗らずに失礼した。確かに私はジャック・クレドールでここの主だ。この少女については・・・」
ジャックは少女の全身を時間をかけて眺めた。そして最後に少女の瞳に視線をすえた。
リリアは思わず小さく一歩下がった。
身体を半分ルッチの後ろに隠した少女を見つめる男の唇に笑みが浮かんだ。
「心配には及ばない。この子はこちらでひきとろう。早速部屋を与えて仕事の内容を執事に考えさせよう」
ジャックの合図にこたえて現れた執事は
リリアの前に進んで手を差し出した。
「さあ、お前の部屋はこっちだ。今日はまだ誰も戻っていないが明日になったら使用人はみんな帰ってくる。それまでにお前の仕事も決めておこう」
リリアの体が小さく震えた。
予想していたはずの別れがあまりに突然なように感じられた。
「ルッチ・・・」
少女の口からこぼれた声にルッチは答えなかった。
ハットリが
リリアの肩に下りて翼で少女の頬を撫ぜた。
「実に親切なことでしたな。・・・何か他に私に話はおありかな?」
ルッチは黙ってジャックに目を向けて立っていた。それを受け止めていた男が最後に視線を揺るがせて小さく逸らした時、ルッチの唇が僅かに上向いた。
「時間を無駄にするつもりはない・・・あなたの時間もな」
そのまま身を翻して歩み去るルッチの姿を
リリアはただ目で追った。次第にかすんでいくその後姿が自分の涙によるものだと気がついたとき、少女の唇は震えた。
『くるっぽ・・・』
黒い姿を追って飛んだハットリは数度空中で少女の方を振り返った。
微笑もうと努力した少女の顔は感情が入り混じってひどく歪んでいた。