裸 木 6

写真/落ち葉 鍵盤を押す長い指。
 ゆっくりと次に移るその動き。
 頭の上に感じた静かな息づかい。
 心に刻まれた五つの音。

 歩きながら リリアは繰り返しその光景と音を頭の中で再生し続けていた。
  リリアが文字を読むことができないと知った時にルッチの顔に浮かんだ表情も再生されるシーンに時々割り込んできた。あの時 リリアはただ悲しくて読むことが叶わない事実を何とかひっくり返したくてたまらなかった。少女の胸の中に渦巻くその狂おしいほどの感情 の波はルッチの顔を見た瞬間に動きを止めた。続いた五つの音は少女の心を静め例えようもない幸福で埋めた。
  リリアがその幸福な記憶を辿り続けていたのは別れによって生じた隙間を埋めるためのものであったかもしれないが、それは少女の身に備 わっているはずの防衛本能を鈍らせていたのかもしれない。館の屋根裏に少女を導いていた執事が木の扉の前で立ち止まった時に初めて、 リリアは自分の後ろにさらに足音が続いていたことに気がついた。
 重々しい靴音。
 ジャック・クレドール。

「こちらです。部屋は整えておきました」

 扉を開けると同時に一礼して下がる執事の姿は動きはじめた少女の本能に警告を発した。執事が話しかけている相手は少女ではあり得ない。でも、なぜこの大 きな建物の主人である人間が新しい下働きに過ぎない少女についてこんな場所まで来る必要があるのだろう。上流階級というのはそういうものなのだろうか。
 それとも。
  リリアは目を伏せたまま場を去っていく執事の姿にまた警告を感じた。何かが怖かった。なぜか逃げ出したい気がしていた。でもどこへ。山 から逃げてきた少女には行くあてなどあるはずもない。

「中に入るんだ。少し話をしよう」

 伸びてきた男の手が肩に触れる前に リリアは部屋の中へ入った。天井が低いことを除けばそこは少女の目にはとても良い部屋であるように見えた。階下の部屋で見た豪奢さはな かったが寝台、机、椅子、何段も引き出しを備えた物入れ・・・必要なものが揃っているように見える。

「見たところ、家内の衣類を身に着けているようだが。自分の服を持っていないのか?」

  リリアは恥ずかしさに頬を染め、ただ頷いた。
 ジャックは上から下まで少女の全身を眺め、改めてその小さな色白の顔を見た。色づいた頬と深い紫色の瞳の組み合わせは効果的な眺めだった。恥らう様子に 男の胸の奥の希望が高まった。

「確かめておきたいことがあるのだ。いや、心配する必要はない。お前の答えによって仕事を与えるのをやめる、ということはないからな。ここに仕事はいくら でも見つかるだろう。ただ・・・もしかしたらお前はとても大切な仕事をできるかもしれないのだ」

 ジャックが向かい合う二人の間の距離を一歩つめた。
  リリアは全身を緊張させて言葉の続きを待った。

「お前はもう・・・男を知っているのか?」

  リリアは質問の意味を掴みかねて僅かに首を傾げた。その様子にひとつ頷くとジャックはさらに言葉を重ねた。

「お前の身体に触れた男はいるのか、という意味だ。男に抱かれたことはあるか?」

 瞬間的にルッチの腕の感触とぬくもりが リリアの身体の表面を風のように流れた。しかし、この男が言っているのはそういう意味ではないのだろう。もっと・・・ リリアにはまだよくわからない意味なのだ。山で感じた恐怖に彩られた意味。
  リリアは反射的に激しく首を横に振った。それを見たジャックは満足げに深く頷いた。

「そうだろう・・・そんな気がしていた。あの男はそういうタイプの人間には見えなかったしな」

 ルッチ。
  リリアは胸の中で呟いた。
 目の前の男の瞳の中に見た色は冷たい恐怖の記憶を呼び覚ます。

「私のすべてを浄化してくれ」

 迫ってくる大きな体から逃れるために後ずさりした リリアは背中が壁についてしまったのを感じた。男の言葉の意味はわからなかったが何をしようとしているのかはわかった。あの冷たい雪の 中での続き。肩と腕をつかんだ大きな手の圧力はあの日に感じたものとそっくり同じだった。

「・・い、やだ・・・!」

 抱きこまれた腕の中は暗くて暴力の気配に満ちていた。性急に少女の身体をまさぐり全身を押し付けてくる男のすべてが怖くて嫌悪に身を震わせた。

「一度でいいんだ。こうなる前に戻してくれたらもう二度と抱いたりしない」

 重ねられた唇の湿度に鳥肌を立てながら リリアは男の身体を強く押し返した。少しも動じない大きな体格を拳で殴った。唇に噛み付いた。その痛みに僅かにひるんだ男の腕にも噛み 付いた。もしも季節がもっと暖かく男が腕をむき出しにしていたらその肉を食いちぎっていたかもしれない。男は自分の腕を包む上着の袖に残された跡を見て目 を細めた。

「ただ一度をなぜ拒む。終わればすべて楽になるものを」

「それはお前だけだろう・・・それに、その子どもを抱いてお前が本当に解放されるとも思えんな。はた迷惑な思い込みはやめておけ」

 その時二人の耳に入ってきた低い声は場違いなほど静かで感情を見せない響きを持っていた。ジャックにとってそれはどこか冷たく背筋を震わせるような効果 を持っていた。
 声を聞いた リリアはその瞬間に全身に溢れた力を振り絞って男の腕を跳ねのけてかいくぐり、戸口に立つ姿の方へ走った。残された男はどこか呆然とし た表情で視線を動かした。

「なぜ・・・あんたが・・・」

 ルッチは皮肉な笑みを浮かべてジャックを見た。飛びついてきた細い身体に視線を落とし、ただそのままにしておいた。すぐにハットリが少女の肩に下りて慰 めはじめた。ジャックの目にはその光景が完璧な一枚の絵に見えた。

「間違えたというのか・・・?その少女はやっぱりあんたのものだと?」

「何をどう誤解しようが構わんが」

 ルッチはすっと手を伸ばした。一本の指がまっすぐにジャックの額に向いた。ジャックはまるで銃口で眉間を狙われているような錯覚を覚え、全身に汗が噴出 すのを感じた。

「何を・・・あんたは何を・・・」

「元海軍将校としてあまりに無様な姿を晒すのはみっともない」

 ルッチが動いてジャックの腕を抱え上げたところを リリアもジャックもその目で追うことはできなかった。それほどにすばやい動きだった。

「何だ、私をどうすると・・・どこへ・・・」

 逃れようともがく男に動じる様子はひとつも見せずルッチはそのまま男を連れて歩きはじめた。 リリアはその後について行った。




 温室の中には泣き崩れたまま地に伏しているレネーゼの姿があった。
 ルッチはジャックの身体を中に突き飛ばすとそのままただ、扉を閉めた。

「ルッチ・・・?」

「ああいうのを似合いの相手、というのかもしれんな」

 ルッチは驚いた顔の リリアを見下ろした。

「わかる必要もない。俺も忘れる」

 本当にすぐ忘れてしまうのだろうか。 リリアはルッチの横顔を見上げた。あの二人のことも、この館のことも、そして・・・ リリアのことも。

「主がご迷惑をおかけいたしました。お茶の用意が整っております。どうか、こちらへお越しください」

 背後に現れて深々と頭を下げた執事の姿にルッチは唇の端を上向けた。

「海の上でもあの男に仕えていたのか?」

「ずっとお守りしてきました。あなた様には大変感謝をしております。これで多分すべて・・・」

「興味はない」

「それでもぜひお茶を召し上がっていってください。失礼ですが、そちらのお嬢様にサイズが合うはずの衣類も用意させていただきましたので」

「『下働き』をお嬢様扱いか?」

「そうはならない予感がしております、今も」

 そう言って先にたった執事の後姿をルッチはしばらく眺めていた。

「アルバート・クレイ、という男がいたらしい。自分の主を守るために片足を失った男だ。・・・そうは見えないように訓練を積んだらしいな」

  リリアは言葉が出なかった。
 ルッチの顔に笑みが横切った。

「行くか。これから服は必要だろう」

 ルッチの興味をひいたのは最初からあの執事だったのだろうか。 リリアは大人たちの間の見えない糸のようなものに困惑していた。

「忘れろ」

 そのルッチの声はどこか穏やかだった。




「レネーゼ様のことを主はずっと・・・婚約する何年も前からずっと心に想っていたのです。年に一度か二度戻ることが出来ればいいというくらいのこの土地の 隣りの地所に住んでいらしたご一族でして。清楚で美しく、その姿を心に決めていた主は職業柄様々な土地を訪れることも多かったのですがどの場所でも他の女 性たちには目もくれず、その生き方を貫いておりました」

 無表情に椅子に座って時折カップを口もとに運ぶルッチとカーテンの裏側の即席の場所で着替えている リリアに向かって執事は淡々と語り続けた。

「けれど婚約が整い、これを機に退職して土地に根づいた生き方をはじめた主にはひそかな悩みといいますか、願望が芽生えた・・・といいますか。男ならばも しかしたら誰もが思うことなのかも知れません。つまり、主は結婚してその夜からはじまるレネーゼ様との夜の・・・営みを無事に行うことができるかどうか確 信がなかったのです。それまでの人生でそういう機会を作ろうとせず誘惑もすべて退けられてきたゆえのことなのですが。そして・・・さらに言えば、主はレ ネーゼ様に喜んでいただきたかったのです。他の誰よりも満たされて欲しかった。本当にあの方がすべてなのですから、その願いも当然のことと言えましょう」

 そっとルッチの顔を見た執事はその顔に同意も何の変化も見ることができず、小さく息を吐いた。

「だから主は決心したのです・・・鍛錬あるのみ、と。それから遠い街にあるそういった関係の場所を訪れて・・・何といいますか腕を磨く・・・そんな日々が はじまりました。それだけならよかったのです。いえ、レネーゼ様から見ればそうは言えなかったのかもしれませんが、それだけならば結婚されると同時に主に はもうレネーゼ様おひとりがすべてになるのですからきっと大丈夫だったのです。けれどそうはいきませんでした。結婚が近づくにつれて主の心を襲ったのは深 い後悔だったからなのです」

 盛大に歪んだルッチの唇を無視するように執事は懸命に言葉を続けた。

「身も心も清純なレネーゼ様に対してご自分は・・・と主は悩みました。予定通りに結婚の式は行われましたが本当の意味で結ばれることは・・・主にはできま せんでした。ご自分がひどく汚れてしまったように感じておられたのです。そのままレネーゼ様をご自分のものになさることはできない、と・・・それから主の 苦しみはずっと続きました。そのうち・・・」

 ルッチの手が音をたててカップを置いた。

「男を知らない処女を抱けば汚れた自分の身体を浄化することができる・・・そんな戯言を信じるほどに追いつめられたというわけか。浅いな」

「はい。・・・でも、あなたとお嬢様がおみえになって・・・」

「・・・あんたは運にまかせてみることにした、と」

「はい・・・」

 ルッチは立ち上がった。慌てた執事が足を踏み出した時、カーテンの後ろから リリアが現れた。純白のブラウスに黒いスラックス、フードがついた短いマント。あつらえたように身体にあっているその衣類はどうみても 旅をする人間にぴったりに見えた。色合いはルッチの服装と重なっている。

「あの・・・これ・・・」

 言葉に迷っている リリアの紅潮した顔に執事は身分を忘れて笑顔を向けた。

「ぴったりですね。昨夜はかなり急いで仕事をしたので実は少し心配だったのです」

「あの・・・ありがとうございます。でもこれ・・・・昨夜・・・?」

「実は別のタイプのものも一組作っておいたのですが」

 下働き用と旅人用と。そつのなさは職業柄だろうか。ルッチは自分に向いた リリアの視線に気がついていたが目をむけることはしなかった。

「世話になった」

 背を向けたルッチに執事が呼びかけた。

「あの、じきに・・・主も姿を見せると思いますので。できれば・・・」

「湯気をたててるお前の主人と顔をあわせても向こうが困るだけだ。許してやれ」

 頭を下げた執事の顔には笑顔があった。
 数歩歩いたルッチの姿を リリアはただ見つめていた。心に浮かんだ懇願を言葉にする勇気が出なかった。そしてその時、ハットリが自分の肩にのっていることに気が ついた。

「ハットリ・・・?」

 ハットリは リリアの頬に頭をこすりつけた。その姿はとても満足そうに見えた。

「何をしてる。行くぞ」

 短い声に リリアの表情が輝いた。
 振り向いたルッチの顔には不機嫌な表情が浮かんでいた。

「気になっていたんだが」

 滑らかな動きで戻ったルッチの指が静かに リリアの長い髪をとらえた。

「少し重いな、お前には」

 ルッチの指が リリアの首に触れた時、執事が微笑して近づいた。

「用意してあります。お使いください」

 執事からルッチの手に渡された銀色のものを リリアは凝視した。鋏だ。

「職業柄、か」

「このままでは勿体無いと最初から思っておりましたので」

 意味がわからないまま立っている リリアの前にルッチの身体がかがみこみ、軽い音とともに髪に無造作に鋏が入れられた。そのままルッチが リリアの身体を抱えるようにして一周しながら次々と鋏が床に光る固まりを切り落としていく。最後に顔の前にかぶさる髪が落ちるとそこに は大きな宝石めいた瞳が現れた。
 短く眺めた後に頷いてルッチは鋏を返した。 リリアはそっと首を振ってみた。驚くほど軽かった。
 少女が首を振ると抜けるように白いうなじが光る髪の隙間から見え隠れした。驚きに見開かれた美しい瞳を遮るものは何もなく、視線の光をいっぱいに受けて それを倍に反射した。

「さすがですね。まさにちょうど良い長さです」

 作品を褒め称えるような執事の言葉に苦笑したルッチはすぐにまた背を向け歩きはじめた。

『くるっぽ〜』

 ハットリに声を掛けられて今度は リリアはすぐにルッチの後を追った。
 後姿。これまでいつも見失ってしまわないように必死でついてきた黒い姿。これからもそれは変わらないだろうが、でも、何かがほんの少しだけ違う気がし た。

 外に出た二人を冷たい風が取り巻いた。
 舞い上がった枯葉が一枚少女の頭に落ちた。けれどそれは絡みつく暇なくそのまま地面に落ち、再び乗ることができる風を待った。

2006.3.7

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