最初の数日は特に何も感じなかった。
元々ルッチは任務で滞在することになった土地で彼の住まいとなった場所のことを自分の部屋とは思わない。本当に必要最低限のものしか部屋には置かない。 だからその部屋はたとえしばらく放っておいても目で見る分にはほとんど散らかったり汚れたりはしない。
大工としての仕事から戻り鍵をあけて扉を開いたルッチは一瞬足を止めた。
空気が何か気に入らなかった。淀んでいる。
『ポッポ〜』
肩から飛び立って先に中に入って行ったハットリに続いて室内に進む。
朝整えたままのベッド。洗ったグラス。それは彼が置いたまま、最後に手を離したままの位置で整然と彼を出迎えた。
そう。確かに最後に手を触れたのはルッチ自身だ。
リリアではない。
薄闇が下りてきている外に向かって二つの窓を大きく開いた。ここしばらく触ったことがなかった窓。触る必要はなかった。掃除にくるたび
リリアが窓を開ける。たったそれだけのことがルッチの部屋の空気を当たり前に保っていたということか。
ルッチの唇に皮肉な笑みが通り過ぎた。
たかが空気だ。
それでも窓から入ってくる冷たく新鮮な空気は少女の不在を意識させた。
「知らなかったのか?ルッチ。その方がわしには驚きじゃわい。」
カクは丸い目をさらに丸くした。
「パウリーが話しているのを聞いていたわ。もうだいぶ良くなったのかしら、
リリア」
そう言いながらカリファはルッチの無表情を覗き込んだ。
足首の捻挫。
リリアの負傷はちょうど一週間前のことだという。そういえばその頃からルッチはブルーノの店に顔を出していなかった。大工の方の仕事の 忙しさがピークだった。ハットリに喋らせるのも面倒で、人と顔をあわせるのも煩わしく、毎日ただ部屋から出勤し部屋に帰って寝た。
リリアは何をやって捻挫などしたのだろう。
誰も今更語らないその原因をあえて尋ねる気にはならず、ルッチはその日もそのままガレーラ・カンパニーを後にした。
両足を床に着いて立ってももう痛みはわずかだった。
見た目もすっかり腫れはひいていて、包帯の分だけ太いだけだ。
一歩歩くと痛みは増した。でも、歩けた。
問題は階段だ。
リリアは一歩一歩慎重に歩き、扉の前でためらった。あの時、実際は階段の真ん中辺りから転がり落ちただけだった。けれど後ろ向きに身体 が倒れていく瞬間をあれから何度も夢に見るほど恐怖は大きかった。
リリアは深く息を吸い込んだ。
もう一週間酒場の仕事をしていない。そして、ルッチの部屋の掃除もしていない。そっと様子を見に来てくれたカクとカリファの話ではルッチは今かなり忙し い時期らしい。だから見舞いには来ないかもしれないとカクは言った。でも
リリアは思った。忙しくなくても多分ルッチは来ない。
リリアが呼んだらもしかしたら・・・・いや、それでも来ないのかもしれない。そして、
リリアも呼ばない。
こうしているうちにいつの間にかできていたウォーターセブンでの
リリアの日常生活が消えてしまうのではないか。前からなかったものになってしまっているのではないか。そんな思いが時折心をよぎる。
リリアは扉を開けた。
こんなに地面は遠かっただろうか。こんなに身体を揺らす風を意識していただろうか。この心細さは何だろう。
リリアは手すりに手を伸ばしてしっかりつかまった。
最初の一段。それがうまく下りられれば・・・・
グラリと身体が傾いた。
いけない、と思った瞬間
リリアは目を閉じていた。そんな自分に腹がたって再びしっかり目を開けた時、
リリアの目に入ったのは白いシャツだった。身体は筋肉質の腕の中に包み込まれていた。
ルッチの腕、ルッチの体温。
突然与えられた温かさに思わず溢れそうになった涙をこらえ、
リリアはルッチの顔を見上げた。
もしかしたら・・・怒っているのだろうか。ルッチの瞳の中に火花を見た気がした。
「ルッチ?」
「・・・バカヤロウ」
それ以上はひと言も言わず、ルッチは
リリアを部屋に運んだ。
壁に立てかけられた二本の松葉杖。
ルッチはベッドの上に放り出した
リリアの方に視線を移した。
「あれを使ってたのか?」
「うん。でも杖に頼っているうちは階段は危ないって言われて。・・・階段を下りられないとどこにも行けないから・・・」
杖なしで歩いてみようとするなら最初は誰かを呼ぶべきじゃないのか。
口には出さなかったその言葉をルッチは自分の中で取り消した。呼ぶわけがない。
リリアは一人で立ち、一人で歩き、一人で転ぶ方を選ぶだろう。カク、カリファ、ブルーノ・・・そしてルッチもそうであるように。
細い肩にとまったハットリとまるで本当の会話を交わしているように見える少女の顔は無邪気としかいいようがなかった。運動不足だったはずのくせに少し痩 せたように見える。それだけ痛みが強かったということだろうか。そして早く歩こうと無茶を繰り返していたのかもしれない。
だからどうだというわけではない。
ただ、ルッチの中に怒りに似た気持ちのざわめきが存在してそれが煩わしかった。
「おまえは・・・」
リリアは瞳を見開いて突然立ち上がったルッチが近づくのを見ていた。やはり、ルッチの瞳の中に見えるのは怒りだ。もしかしたら初めて見 た感情の小さな奔流。
「ルッチ・・・?」
帽子を脱ぎ
リリアの顎をとらえたルッチの手は冷たかった。
リリアの唇を覆ったルッチの唇はひどく熱かった。
気がついた時
リリアはベッドの上に倒れ、ルッチの身体の重さを受け止めていた。その重さはなぜか気持ちを安心させてくれ、唇の輪郭を辿るルッチの唇 の感触は感じてはいけないはずの幸福感を
リリアの心に注ぎ込んだ。
リリアは目を開け見上げたルッチの瞳の中からもう怒りは消えていることを知った。
怒り続けることができるはずはない・・・ルッチは苦笑した。
腕の中の少女はあまりに無防備でまだ細く幼く。そもそも怒り自体が彼には認めたくないものだった。こんな風にごくたまにルッチの心とペースを乱す存在は 実は彼にとって危険なのかもしれない。心に浮かんだ考えと同時にルッチは唇と身体を
リリアから離していた。
黙って見下ろせば紫水晶の瞳が何かを問うようにルッチを見ていた。何も言葉を口にせずただ視線を返し続けるとゆっくりと瞬きをした。
ルッチが離れてただ一人になった身体はとても軽い気がした。軽くて頼りなく、肌が寒い。それでも
リリアはなくなったものを惜しむのではなく与えられたことを嬉しいと思った。これ以上を願うのは間違いだとわかっていた。
無言のまま互いの距離を感じていた二人のうち、先に動いたのは
リリアだった。肘を突いて上半身を起こすとルッチがまた近くなった。遠慮がちに後ろに身体を退きながらルッチの目から目を離すことがで きず、
リリアは小さく息を吐いた。
「・・・」
半分口を開きかけた
リリアは戸惑いを感じた。「ありがとう」も「ごめんなさい」もルッチは聞きたくないだろう。
リリアが伝えたい言葉も何かもっと違う・・・もっと心の深いところにある・・・
ルッチの唇の端がゆっくりと上向いた。このまま
リリアを彼の部屋に連れ戻り抱いてしまおうか。そうするのが簡単だ。抱けばその間少女は彼のことを身体の隅々まで意識しながらも今瞳に 浮かべている真摯な何かに蓋をするだろう。だが。
ルッチは手を伸ばして
リリアの光る髪に触れた。
ルッチの指先を感じながら
リリアは目を閉じた。
命も身体も奪うのは容易い。それでも奪えないものの気配がこの少女の中に存在している。そして自分はそれを知らない間に評価してしまっていたらしい。そ れが珍しいものとしてなのか侵しがたいものとしてなのか、それともいずれ手に入れようという標的としてなのかはルッチ自身にもわからなかったが。
ルッチは再び唇を重ね、
リリアの唇が震えだすのを感じて満足した。ゆっくりと身体を倒すと細い腕が彼の背中に回り、すぐに離れた。ちらりと視線を向けると少女 の身体の両脇に下りた手は軽く拳を握っている。
それでいい。
ルッチは細い身体を覆いながらただ唇を重ねた。
その先がないことがわかっている静かな時間。
ただ衣類越しに互いの存在を感じた。