独 月

イラスト/月と花びら はらはらと舞い落ちる花弁の色。
 梢の間から見える月の明かりはその色をすべて吸い尽くしたように淡い天然の色を帯びて見える。
 その色は、薄い。
 建物の人など存在するはずのない天辺に立ってそれを眺めている男にとって、その色はどうも物足りない。彼の心を躍らせるのはもっと濃い紅の色だ。撃ち抜 いた身体から吹き出す血潮、殴った口から滴り落ちる鮮血、そしてまだ未熟な身体が褥に残した破瓜の証。すべて彼が他人の身体に流させた血だ。

 己の迷いを目に表すことを避けて瞼を閉じたまま胸を張って与えられた死を受けた男にほんのわずかの賞賛を感じた。

 逃げ惑い恐怖に怯えながら死んでいった男の騒がしさに眉を顰めた。

 細い身体に彼自身のすべてを受け入れた苦痛に唇を噛んで耐えていた少女に彼は・・・・何を感じたのだったろう。思いのほか深く彼の存在を刻んでしまった かもしれない少女のことを。

 闇と月光の狭間に浮かび上がった男の周りを一陣の風が吹きぬけた。
 孤独を何よりも好む男は片手で持ち去られそうになった帽子を押さえてその風をやり過ごした。気まぐれな春の風。時に予想を超えたものをあっという間に運 び去る。そこら辺に落ちているガラクタや、生きたままの動物さえも。男は必死で木の枝に爪を立ててしがみついている猫の姿を眺めた。ちっぽけで頼りなく、 それでいながらギラギラとした生命を感じさせる金色の瞳。恐怖の中で最大限の力を発揮している姿は見ている価値がありそうだった。
 他人の勝負事には手を出さない。
 男は風の出方を待った。個体の横を過ぎていったように見えた風はすぐに第二陣を送り込み、小さな身体を枝から巻き取ってクルクルと回しながら引き剥がし た。絶望の声はなかった。ただ大きく見開かれた金色の瞳が声なき叫びを上げていた。

 ふわりと空中を大きく横切って地面に降り立った男は右手の中にすっぽりとおさまっている子猫を凝視した。小さな身体の中の破裂しそうな心臓の鼓動が直接 手のひらに伝わってくる。この生き物は自分が助かったとは思っていない。いつ彼の爪に引き裂かれるか今なお恐怖に身体をかたくしている。
 賢い本能だ。
 男の唇がわずかに曲線を描いた。



 狭いベランダに下りたルッチは窓の中に少女の寝顔を確認した。
 コツン、と人差し指の爪でガラスを叩くとすぐに起き上がった姿が気配を求めてすばやく頭を動かす。やがて窓から差し込む月の光を遮っている姿に気がつい た リリアは紫色の瞳を大きくしながら窓辺に駆け寄り、彼を見上げた。

「開けろ」

 口の形だけで言葉を伝えると少女はすぐに窓を開けた。

「ルッチ・・・・え?」

 無頓着に腕の中に放り投げられたものを受け止めた リリアは毛皮の手触りと体温を感じて声を上げた。その途端に恐怖から解き放たれた子猫は細い腕の中で暴れて爪を剥き出した。

「つっ・・・・」

 魔法のように一瞬で少女の腕に浮かび上がったみみず腫れから赤い雫が床に落ちた。それでも少女は子猫の身体を離さず、やわらかく包み込む。

「大丈夫だから・・・・何もしないから」

 なだめる様にささやく少女の声は甘く、その響きは暴れる小さな身体に吸い込まれた。

「大丈夫・・・お前はどこも怪我をしていないから」

  リリアの手がそっと子猫の全身に触れていく。反射的に噛み付き返そうとした子猫はじっと覗き込む少女と視線を合わせた。

「そうしたいなら噛んでもいいから。落ち着いたら話を聞いて」

 顔の前に差し出された白い指を金色の瞳が睨みつける。 リリアがさらに指先を近づけると小さな鼻がそこによった。じっと待っていると子猫は前足で リリアの指を叩いた。ただ、その動作はそれまで暴れていた四つの足のものとはかなりちがってゆっくりだった。
 やがて猫はまだどこか不服そうな顔をしながら逆立てていた毛をおろした。
 まあ、いいか。
 そんな表情を浮かべているように見える猫に リリアは微笑した。ゆっくりと顎の下を指で撫ぜると金色の瞳が斜めに見上げる。

「手懐けたか」

  リリアは顔を上げてルッチの瞳を見た。

「猫、どうしたの?」

「拾い物だ・・・死に損ないの」

  リリアは改めて腕の中の猫を見た。少女の存在を受け入れた猫は早速外界へ戻ろうと窓に向かって華奢な前足を伸ばしている。そこに見える のは生きようとする本能。

「待って・・・そこからじゃ、危ない」

 やわらかく猫を抱きなおすと リリアは窓に背を向けドアに向かって歩いた。ドアを開け放って静かに子猫を床に下ろすと猫はすぐ近くの未来を確かめるように宙でヒゲを 揺らした。

「・・・行けるよ」

 その声が聞こえたのだろうか。子猫は尾を寝せたままゆっくりと数歩進み、一度空気の匂いをかぐとしなやかな動きで外に駆け出していった。
  リリアはぬくもりが消えた腕の中にちらりと視線を落とし、窓際に戻った。

「行かせたのか」

「・・・引き止めておくことなんて、できないよね」

 ふと、 リリアは床についている小さな血痕に気がつき、猫が去ったドアの方を振り向いた。

「そうじゃない。お前の血だ」

 トン、という軽い音とともに床に下りたルッチの手が リリアの細い手首をつかんだ。
  リリアはルッチに引かれた自分の腕を見て初めてそこにある傷に気がついた。赤い線の一本からはまだ血が滲み出ていた。
 なんだ、自分か。
 そんな表情になった リリアの顔を見てルッチは白い腕をさらに引き上げ傷口に唇をあてた。

「ルッチ・・・」

 腕の表面に押し当てられたルッチの唇の温度。その次にもっとやわらかであたたかいものが傷の上を往復するのを リリアは感じた。血を・・・舐めりとられている。そのルッチの横顔がどこか野生の獣めいて見えた。怖くはなかった。ただ、魅せられた。

「・・・つまらんな」

 唇を離したルッチは リリアの顔を見下ろした。

「月を見るか」

 つまらない返事をしたらルッチは一人でどこかへ行ってしまうだろうか。
 言葉を探して黙っていた リリアの腕が自然とルッチに向けて伸びていた。
 紫色の瞳の中に祈りに似た懇願を見たルッチはごくわずかに口角を上げた。

「・・・この島の連中が年に一度の月だと騒ぐ、花見の月だ。距離がある。落ちるな」

 ルッチは片腕で リリアをすくい上げた。腕の中の細い身体に流れている色鮮やかな血の味。舌に残るそれを消すようにルッチは少女のほっそりとした首に唇 をあてて強く吸った。驚いた少女の身体が小さく跳ねたのと同時に軽く足元を踏み切って宙に躍り出る。
 眼前に現れた月が冴えた光を投げかけた。それを受けた腕の中の少女の髪の輝きをルッチは腕の中に閉じ込めた。

2006.5.6

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