全身を黒で包んだルッチの姿に懐かしさの前に思わず小さく息をのんだカクだった。黒いシャツとスラックス。スーツではないからネクタイの白もない。カクが 身体を捻って奥を示すとルッチは音もなく戸口をくぐり歩み進んだ。
「ポッポー」
銀髪が広がる枕の上でハットリが身体を丸めていた。頭を
リリアのそれにくっつけながらルッチを見上げた丸い瞳には悲しみの色があった。
「見せてみろ」
ルッチは袖を捲くり、細い身体に巻きつけられた布をほどいて外した。カクが施した止血は効果があったらしく傷口からの出血は一応止まっていた。
「湯も沸かした方がいいな?」
水を張った容器と何枚かのタオルを運んできたカクにルッチは小さく頷いた。
湿したタオルで静かに肌に触れ、血を拭った。次第に二本の傷が白い肌にくっきりと浮かび上がった。
「ル・・・・チ?」
うつ伏せの横顔が揺れた。無言で見守るルッチの前で瞼が開いて紫色の瞳が彼の姿を求めた。
「動くな・・・傷の処置が終わるまで待て」
冷ややかにさえ聞こえる口調とは裏腹にルッチの指先が少女の唇に触れた。
視線を動かしたルッチはその時初めて
リリアの手に握られたナイフに気がついた。右と左、両方の手に握られたその刃には僅かではあるが血痕が見て取れた。
抵抗したのか。そして、負けたのか。それでもこの様子だと相手もただではすまなかったようだ。
「これはもういい、
リリア。離せ。そいつはもう近くにはいない」
ルッチがナイフに触れると
リリアの手は震えた。握ったままこわばってしまった指をルッチは黙って一本ずつほどいた。血まみれの手を片方ずつ冷水の中で洗った。ナ イフはただ床に落とした。
水から上げた
リリアの手がルッチの手を握った。ナイフを離してしまったことへの名残か、それともルッチ自身を求めているのか。ルッチの唇が歪んだ。 どちらにせよ人を切り裂く刃を握っていることに違いはない。ルッチは少しの間そのまま
リリアに片手を預けておいた。
残る片手の爪を一本差しこんで
リリアの上衣を切り裂き、背中をすべて露にした。拭いきれずに紅が残っている部分をすべてゆっくりとした動作で清めた。
リリアの手にこもる力が伝わってきた。切りつけられた刃の感触が蘇っているのだろう。無言で落とした触れるか触れないかの口づけを
リリアの肌は感じ取っただろうか。また
リリアの手に力が入った。
「湯が沸いたぞ。おお、
リリア。難儀なことじゃったのう。ここはわしの部屋じゃ。もう警戒せんでよいぞ」
ルッチはカクが持ってきた大きなプレートの上を一瞥した。容器の中で湯気を上げている湯、そして消毒薬等の薬と道具。
「・・・針は消毒してあるか?」
「・・・ああ。糸も未開封のものが一つあったから大丈夫じゃ。じゃが・・・やはり縫わねばならんかのう?」
カクは眉をしかめて
リリアの傷を見た。
「これだけの長さだ。縫わなければまたすぐに開く。縫った方が治りも早く残る跡も薄い」
「そうじゃのう」
プレートを置いたカクは次にスツールを二脚抱えて戻ってきた。
ルッチは腰を下ろすと
リリアの顔を見た。
「傷を縫っている間はカクの手を借りていろ」
リリアの瞳が揺れた。従順にルッチの手を離した後に微かな震えが見える
リリアの手をそっとカクの両手が包み込んだ。
「力いっぱい握っても平気じゃぞ。鍛え方が違うからのう」
微笑みかけたカクに少女の唇が小さな曲線を描いた。
一針ごとにルッチは何を思っているのか。
カクは正確な動きで傷を縫い合わせていくルッチの指先を眺めていた。針で肌を貫かれる痛みに小さく痙攣する細い身体の反応を気にかけている風はない。た だ集中力の高まりを感じさせる空気がルッチを取り巻いていた。
リリアは目に溜まった涙をこぼさないように懸命にこらえていた。初めの数針は唇を噛むだけでこらえていたが、やがてカクの手を強く握る ようになった。握ってはすぐにゆるめ、また握る。カクは
リリアに微笑を向けた。
「我慢しないでずっと力を入れていていいんじゃよ、
リリア。おかしな話じゃが、わしは嬉しいわい。覚えとるか?最初にお前と会ったとき、わしはお前の年頃の子どもに何をどうしてやったも のかまったく思いつかなくて、頭を撫ぜてやろうとした。そしたらお前はひどくわしの手を怖がって・・・と言ってもそれをあからさまにするお前ではないか ら、ただ身体をがちがちに硬くして綺麗な目に涙を溜めてわしが手を離すまで耐えとった。あの時は少々驚いて内心傷ついてる自分が不思議じゃった。なんせお 前はCP9No.1のルッチの手にしっかりとつかまっていたんじゃからのう。なんでわしだけダメなんじゃ?と思ったが、逆だったんじゃな。あの時のお前は ルッチ以外の手は誰のものでも受け入れることができなかったんじゃ」
カクはそっと
リリアの手を撫ぜた。
「もっと痛がっていいんじゃよ、
リリア。泣いてもいいんじゃ。ここにいるのはルッチとわしだけなんじゃから」
懸命に微笑した
リリアの額の汗をぬぐってやりながらカクは囁いた。
最後の一針を終えて糸を切ったルッチは確かめるように傷の表面を指で辿った。
カクは
リリアの全身から力が抜けたのを見届けると立ち上がった。
「わしは向こうで飲み物を作るから、用があったら声をかけてくれ」
手を離す前に一度力を送ると
リリアの手もそっと握り返してきた。ようやく普段に近い微笑を浮かべた
リリアの顔を見てカクは安堵の思いに包まれた。刃に切られた恐怖と痛み・・・ルッチが新たに与えた針の痛みでほんの少しだけその記憶が 薄くなったのかもしれない。もしかしたらルッチの思惑もそこにあったのか。カクはルッチの横顔を思い返した。ひとつの崩れもなかったポーカーフェイス。け れどカクが行くまで片手を少女に与えていたルッチ。以前のカクには想像もできなかったはずの光景だった。
わかってはおったがのう。
カクは思う。ルッチが
リリアをウォーターセブンに呼んだと知ったときから予感はいつも彼の胸の中にあった。ルッチが自分が拾ってきた華奢な少女にいつか己の 内側にしまいこんである魂を預けるだろうということが。一般人の普通の形の幸福は望めるはずがない二人だと思った。けれど、異常な状況だからこそ出会うこ とが出来た二人だとわかっていた。
互いに夢中じゃからのう、ああ見えて。
カクの唇に浮かんだ笑みにはやわらかさと一緒にどこか孤独感が漂っていた。
「着替えるぞ」
カクが離れるのを待ち、ルッチは静かに
リリアの背中を撫ぜた。そして細い上体を抱き起こした。もはやボロ切れとなった上衣の残骸を剥がすと脇腹から腰にかけても血が流れた跡 が残っていた。タオルをあてると
リリアは小さく震えた。
「自分で・・・」
言いかけた
リリアの唇をルッチは自分の唇で覆ってふさいだ。記憶している感触を確かめたと思ったとき、
リリアの頬を伝う涙に気がついた。恐怖に凍り付いていた感情が溶け出したのだったらいい。そう思った。
唇を重ねたまま白い肌を洗った。まだ幼さの残る胸の頂に一瞬唇を移し、すぐに持ってきた白いシャツで身体を包んでやった。
「ルッチ・・・」
堪えきれずに胸にすがりついた
リリアを両腕で抱いた。時折、あっけないほど簡単に奪えるだろうと予想する
リリアの命。それが彼ではなく他人の手による場合を考えたことがなかったのが不思議だった。そして今実感しているその可能性はルッチの 中の何かを小刻みに震わせた。
この少女はやはり危険だ。
ルッチの理性はそう囁く。
失えば恐らく一生忘れることの出来ない存在になるだろう。
本能が少女を抱く腕の力を増やす。
「少しだけ・・・待っていろ」
無理矢理に腕を下ろしたルッチは
リリアの身体をうつ伏せに寝かせた。
「すぐに戻る」
リリアの瞳に浮かんだ疑問に半分はぐらかした答えを与え、ルッチは立ち上がった。
「・・・行くのか?やっぱり」
カクは手に持っていた新聞をテーブルに置いた。
「お前は残れ。あいつのそばに・・・いろ」
『いてくれ』とルッチの声に頼まれた気がしたカクは微笑して頭を掻いた。
「慎重に動け、とお前に言う必要はないとはわかっとるが。その黒い服を見てすぐに行くつもりなのはわかっとったし。先ず、カリファから情報をもらうといい かもしれん。この間カリファに蹴り返された馬鹿者と同じ犯人な気がするんじゃ」
「そうだな」
傍らを通り過ぎたルッチの身体が起こした微風は冷気をはらんでいるように感じられた。