「心配するな、
リリア。ルッチは消しに行ったんじゃ。殺めに行ったわけではない。他人の目からは同じことに見えてもわしらにはその違いが見えるはず じゃ」
ハットリが羽で少女の髪を撫ぜていた。
身体を起こすのが苦痛らしい少女にカクはスープを飲ませていた。スプーンですくった中身が小さな唇を通って消えていくのを見るのはどこか快感だった。少 しずつ血色が戻ってきたその唇を愛らしいと思った。
「大丈夫、何もなかったことになる。その傷も時間が過ぎれば薄くなる。ルッチが何をどう感じているかはわからんが、もしもわしがルッチでもやっぱりそいつ の行方を追ったじゃろう。自分よりも弱い者に狂気をぶつけるその根性は到底許しがたいもんじゃ」
「カリファの時も・・・そう思った?」
真面目な顔で尋ねる
リリアにカクはフッと力を抜いた微笑を見せた。
「そうじゃな。カリファは強い女じゃが・・・しっかしそいつもカリファに反撃された時は焦ったんじゃろうな。目を白黒させたかもしれん」
半分だけのカクの答えの続きを
リリアはもう訊かなかった。エニエス・ロビーにいた頃からずっと感じていたカクの中のある想い。それは
リリアが勝手に想像しているだけなのかもしれないが。
カクは笑った。
「
リリアにはかなわん。わしはお前が大好きじゃよ。どれだけ血に染まってもお前は無垢じゃ。ずっとそのまんまでいて欲しい」
リリアは布団から引っ張り出した自分の両手を眺めた。ルッチが洗ってくれたこの手にもう血の色は残っていないだろうか。命ある身体に切 りつけた感触がまだ生々しく刻まれているこの手に。
カクはカップを置いて少女の両手をそっと握った。
「忘れろとは言わん。忘れなくても丸ごとそっくりわしらはお前を受け入れる。お前がこの手で自分の命を守れたことを祝福するだけじゃ」
カクは少女の額に口づけた。
放っておいても長くはもたないだろう。
ルッチは饐えた匂いのこもった部屋で床に身体を投げ出すように横たわっている男の変色した顔を見下ろしていた。愚かとしかいいようがない。ルッチは床に 転がった酒のボトルを見た。
リリアの細いナイフがえぐった傷を甘く見ていたのか、それとも最初から生きながらえるつもりはなかったのか。男は傷の手当てをせずに限 界まで酒を飲んでいたようだ。そして今はもう、助けを呼ぶ力も残っていない。
手を下しさらに残りの血を絞り出す必要もない。判断して踵を返したルッチは数歩進んでふと足を止めた。
違う。
彼にとっては手を下す価値が残っている。なぜならこの男にはあの少女の白い手で命を奪われる価値などないのだから。
「残念だが、苦しみを止めてやる」
ルッチの爪が一閃し男の顎が力なく落ちた。
ルッチは細い命が耐えるまで無言でその残骸を見下ろしていた。
カクの部屋に戻ったルッチは眠っている少女の枕元に一輪の薔薇を置いた。
「らしくないのう、ルッチ」
微笑を含んだカクの声にルッチは僅かに眉を顰めた。
「・・・カリファからだ」
嘘ではなかった。男の死を告げるために立ち寄ったカリファの部屋でなぜか目に留まった花瓶の中の小輪の花。そのルッチの様子を見たカリファがその花を
リリアに渡すように彼に託したのだから。
「そうなのか?やはり女じゃな、カリファは。よく気が回る。で・・・その男はどうした?」
「俺が始末した」
ルッチの口調が必要以上に強かった気がしてカクは首を傾げた。
「抵抗された跡はないようじゃな」
「そんな力は残ってなかった」
リリアの顔にかぶさっている光る髪をルッチはそっとかき上げてやった。その様子を見ていたカクはようやく状況に得心がいった。
「
リリアが目を覚ましたらちゃんと教えてやらなければいかんな。どうやら少し熱が出てきたらしい。わしらと違って痛めつけられることに免 疫がない身体じゃからのう」
今は動かさない方がいいということか。
ルッチは黙ってスツールに腰を下ろした。
「毛布はいらんじゃろ?わしは向こうのソファで寝るから、何なら
リリアの隣りで添い寝してやれ」
「・・・馬鹿なことを」
互いの顔を見なくてもそこにある表情が見える気がした。
そうだ。ルッチはそういう人間だった。幼い頃、心の迷宮に迷い込んだカクの手を引き上げてくれたのはルッチだった。
カクは微かな記憶が蘇ってきた胸に片手をあてた。
「おやすみ、じゃな、一応」
「・・・フン」
灯りを消すとルッチの後姿が窓明かりの中に浮かび上がった。しばらく眺めてからカクが背を向けようとしたとき、その姿が動いたように見えた。身をかがめ て少女の寝息を確かめたのだろうか。カクは声を出さずに笑いながらソファに寝転び、靴を蹴り脱いだ。