流 血 1

イラスト/ もう少し足が動けば。
 身体の揺れを抑えられれば。
 少女は背中を温かなものが流れ伝う感触に唇を噛みしめながら懸命に歩いていた。
 ロブ・ルッチ・・・彼の部屋に辿りつけさえすれば。
 一足進むごとに逆に遠のいていく感覚がもどかしい。崩れ落ちそうになる身体を支えている力が段々全身にうまく伝わらなくなっていく。

「ルッチ・・・」

 小さな呟きとともに細い身体は地に伏した。薄い闇の中で銀色の髪だけが リリアがそこにいることを静かに告げていた。



 ガレーラカンパニーはもともと一つの会社組織だったわけではない。バラバラだった7つの造船会社がまとまったもので、それをまとめているのはアイスバー グのカリスマ性と個人的技量の高さという思ってみればひどく曖昧で形がないものだけなのだ。
 カクたちがウォーターセブンにやって来たのはちょうど会社がまとまる形を模索しているごく初期の頃だったから、すんなりと寄せ集めの大工たちの中に溶け 込むことができて好都合だった。1番ドックという組織の中のいわば花形部署に配属になり、気づけば町の人間たちにも名前を覚えられ出していた。単純な町、 単純な組織。カクは面白がりながらも時たまその光の眩しさに目をそむけたくなったりもした。
 光があれば闇がある。そのことを意識したのはカリファが何者かに襲われるという出来事があったからだ。アイスバーグの個人秘書という多忙な仕事も傍から 見れば華やかなものに見えるのか。残業した帰り道、カリファは一人の男に襲われた。懐から取り出した刃を向けて突っ込んできたその男をカリファは蹴りのひ とつで片付けたという。吐き散らしていた言葉から推測するに、その男は7つの会社のどこかに属していた人間で、ガレーラカンパニー設立の時に解雇された余 剰人員であるらしかった。小さな闇がそうとは知らずに大きな闇に挑んで蹴散らされたようなものだ。実力がバレないように蹴る力を加減するのが難しくて悔し かったと笑うカリファの笑みにカクは強く惹かれた。そんな笑みさえ美しいと思った。

「ん・・・?」

 一つの屋根から次に飛び移りながら、カクの視線は眼下の小路に気になるものを見つけていた。灯りに照らされて浮き上がっている銀色。動かないそれはどう 見ても人間の髪だ。そしてそれはカクがよく知っている少女のものにそっくりだった。

「・・・ リリアか?」

 着地した時、カクはすでに確信していた。背中に広がる紅の染み。唇から漏れる荒い呼吸。カクはすぐに細い身体を仰向け、抱き上げた。
 少女の口から音が零れた。耳を近づけて聞き取ったカクの顔に複雑な微笑が浮かんだ。

「馬鹿じゃな。ルッチは今夜はまだ戻っとらんかもしれんぞ。お前もそのことを知っとるじゃろうに」

 腕の中で震える細い身体にカクはじっと視線を落とした。ブルーノの店を出てルッチの部屋に向かっている途中で襲われたのだろう。ここからなら本当はルッ チの部屋に行くよりも店に戻った方が距離は近い。ブルーノも確実に店にいる。それを知りながらなお、この少女はルッチのところへ向かった。そんな愚かさが カクには・・・貴重なものに思えた。彼にはない、許されない、本能の我侭。

「少し、我慢しろ。わしが何とかしてやるからのう」

 カクは少女を抱きなおして走り、宙に跳んだ。



 濡れた血にはかまわずそのまま リリアをベッドに寝かせ、カクは上衣のボタンに指をかけた。脱がせ、消毒して傷口を押さえる・・・早くしないと少女の命の雫がさらにこ ぼれ落ちてしまう。しかし、カクは小さく息を吐いて指を離した。開いた襟元から覗く リリアの白い肌の滑らかな美しさに畏怖を覚えていた。
 やはりな、と心のどこかで納得する。エニエス・ロビーで最初に会ったときにももちろん綺麗な子どもだと思った。精神性が高そうな印象とハットリがその細 い肩にのっていたことへの驚き、黙ってルッチの顔を見上げたときに瞳に差した光への小さな賛嘆、そんなものが全部混ざり合っていた出会いだったと思う。け れどあの時には リリアの色白の肌にはこの艶やかさはなかった。そう・・・このウォーターセブンに リリアが4人とは半年遅れでやってきた時もなかったと思う。
 原石に内包された美を磨きだしたのがルッチの手だとすれば、自分がそれを露出させるのは冒涜といえるかもしれない。カクは考えた後そっと リリアの身体をうつ伏せにした。元は白かったブラウスの紅に染まっているその中心に二筋の裂け目があった。そこに指を入れて裂け目を広 げると、二本の傷が見えた。盛り上がり肌を伝い落ちる血の筋は細いがまだ続いている。カクは新しいタオルをあてて傷を圧迫した。

「お前にこんな傷をつけた奴がいることを知ったら、ルッチはどうするかのぅ」

 カクの横顔にはその男に対する同情の色は少しもなかった。
 こぼれた少女の声を聞いた時、カクの顔にはまったく違うやわらかな笑みが浮かんだ。

「大丈夫じゃ、 リリア。ちょっとそのまま目を閉じておれ。わしが一っ走りして必ずルッチを連れてくるからのぅ」

 カクはタオルをあてた上から裂いたシーツを巻きつけてしっかりと縛った。



「珍しいな、お前がここに来るのは」

 少し前に戻っていたらしいルッチは身体をガウンで包み濡れた髪を拭いていた。
 カクはルッチが視線で表した酒への誘いを首を振って断った。普段、カクは滅多に自分からルッチの部屋へは来ない。用事があればルッチは自分でカクの所に やってくる。用事がなければカクが行ってもルッチが喜ぶはずもない。わかっているからカクは一見受身的な態度に甘んじている。

リリアが襲われたんじゃ、ルッチ」

 ルッチの手の動きが一瞬止まったように見えた。

「・・・お前の血ではなかったのか、それは」

 低く言ったルッチの目はカクの上着に染みた色を見ていた。

リリアのじゃ。今・・・」

 カクが言葉の続きを遮ったのは凍りついたようなルッチの表情だった。血の跡を見つめて黙って立っているその姿の後ろで何か大きなものが爆発した気配と、 それとは対照的に静まり返って見える顔の清冽な美。

「・・・静かに逝ったのか」

 ルッチの言葉にカクはようやく我に返った。

「待て待て!結論を早まるな。 リリアは無事じゃ。傷ついて多くの血を流したが命はある。とりあえず応急的な処置はしたが、ちゃんとした手当てが必要じゃ」

 ルッチは黙ってカクの顔を見た。それからすぐに背を向けてテーブルまで歩き、酒を注いであるグラスからゆっくりと一口飲んだ。

「わしはお前を迎えに来たんじゃ・・・ リリアの意識はまだ戻っとらんが、それでも何度もお前の名を呼んでおったのでのぅ。何か着替えもひとつ持ってやってくれ。その方が リリアも嬉しいじゃろ」

 ルッチが手を伸ばすと籠から飛び立ったハットリが指先に下りた。

「これを連れて先に戻れ。俺は・・・すぐに後から行く」

 少しでも少女を一人にするなと。
 カクはハットリを受け取って頷いた。まだ何か言いたいことがある気がした。けれどルッチの背中はそれを拒絶していた。

2006.7.15

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