紫水晶の雫 後編

 深い眠りだった。
 決して言葉にすることはないと思っていたものが自然と溢れそうな気がしていた。
 出会ってからの様々な場面が一度に蘇り、その速さと鮮やかさにただ切なくなった。
 これは、夢だ。わかっていた。
 けれど、どれもが本当にあったこと・・・偶然の出会いから繋がってきた日々だ。
 どの記憶も思い出すたびに新しい。思い出すたびまた大切に思う。
 眠っている間ずっと大きな波に揺られているように感じていた。
 その中で一度の大きな衝撃と揺れを感じて目を開けた。

 目覚める少し前から建物の中の空気のざわめきのようなものを感じていた。
 目覚めた途端に記憶から遠のいてしまった夢は、ひどく穏やかであたたかかったように思えた。
 壁と窓ガラスの向こうに多くの音の気配を感じた少女は身体に毛布を巻いて床に下り、窓に歩み寄った。カーテンを寄せるとまるで何かに貫かれたようにぽっ かりと穴があいた裁判所の建物と中途半端な位置で止まっている橋、そしてそれぞれ統一感なく出鱈目な方向に動いている海兵たちの姿が見えた。
 麦わらたちが来たのか、ここに。
 今、この司法の塔の中にいるのか。
 そしてCP9が海賊達を迎え撃っているのか。

「・・・ルッチ」

 唇から零れた名前を抱くように、 リリアは静かに自分の身体に腕を回した。眠りに落ちる直前まで触れ合っていた肌のあたたかさが蘇る。どうしていいかわからないほどの熱 を少女の身体の中から引き出していたその手は、指は、今は目の前の相手に向かって凶器と化しているのだろうか。 リリアはルッチの強さを絶対的なものだと思っていたが、考えてみれば実際に戦っている場面を見たことはほんの数回しかなかった。そのす べてが圧倒的だった。
 再び、部屋全体が揺れた。
 窓の外にルッチはいない。それだけはすぐにわかった。
 不安はなかった。
 普段と同じようにただ静かに服を着た。それが終わってしまうとふと、次にどうするかを考えた。
 ルッチはこの島の中のどこかにいる。戦い、勝ってまたここに戻ってくる。ならば、少女がいる場所もここだ。考えてみれば他に行く場所などどこにもない。 最初から・・・出会ったあの日から、ずっとルッチのそばにいた。それ以外を考えたこともなかった。
  リリアはまだぬくもりが残っている寝台に上がり、ヘッドボードに背中をもたれて膝を抱えた。
 ここで、待つ。
 目を閉じるとまた部屋全体に振動を感じた。




 手ごたえのある男、を最後に感じたのはいつのことだったか。
 目の前にいるゴム人間は最初に顔を合わせた時、初めて拳を向けてきた時、そして今・・・と俺の中に一応記憶しておいたメモ書き程度の印象を簡単に塗り替 えてきた。
 面白い。
 長官という肩書きを持ったあの男の思惑などどうでもいい。
 俺はこの男、麦わらのルフィという名の海賊をこの手で沈める。
 まだどこか未知数らしいこの少年。
 予想外にこの身体の中の血と悪魔を喜ばせてくれるかもしれない。
 正義と悪。
 俺の中にあるそれは思考というよりは身体に叩き込まれ刻まれてきたそれだ。
 生き方、存在理由、行動理念・・・いくつ別の呼び方をしようとも、ただそうあるだけだと知っている己。
 ・・・バスターコールか。
 馬鹿げた男の愚行が設定したタイムリミット。
 一瞬俺の中をよぎった名前。
 在りえない刹那の思考には笑うしかない。
 「・・・行け。この島から離れろと・・・あいつに伝えろ」
 全力で飛び去ったハットリに俺自身の愚かさはすべて預けた。
 これでもう、この名前を思うことはない。
 すべてが終わるその時まで。




 コツン
 透明な音が小さく響いた。

「・・・ハットリ?」

  リリアが床に飛び降りて窓を開けるとハットリは風とともに部屋の中に舞い込んだ。

「お前、どうして・・・・。もうルッチの戦いは終わったの?」

 ハットリは リリアが差し出した指にとまろうとはせず、羽ばたきながらその指をそっと咥えた。

「クルッポー」

 喉の奥で鳴きながら指を引くハットリを少女は少しの間見つめていた。

「ここから出ろと・・・そう言うの?それはルッチの言葉?」

 鳩は大きく首を頷かせながら少女の顔を見た。
  リリアは微笑しながらハットリの頭を指先で撫ぜた。

「何か騒がしくなってることはわかってる。でも・・・考えてみたらここより他に行くところなんてないの。わたしにはルッチを探しに行くことはできないか ら、だから戻るのを待ちたいの」

「クルッポー!」

 これまでに少女が聞いたことがないほど大きな声で一声鳴いた鳩は少女の肩にとまり、光る髪を一房咥えた。

「きっとすごい戦いなんだね・・・ルッチもカクたちも。ハットリ、お前はルッチのところへ戻らなきゃ。お前には羽があるもの」

 ハットリはなおも数度少女の銀髪を引いた。

「いい子だから、大好きな人のところに戻って。さあ」

  リリアはそっとハットリの身体を両手で持つと窓の外に差し出した。

「まっすぐにルッチのところへ。そして、ずっとそばにいて」

「クックー!」

 ハットリは飛び立った。その白い姿は少女の頭上で大きく一度旋回してから離れて行った。

「・・・そっちにいるんだ、ルッチ・・・」

  リリアが窓から身を乗り出すと銀髪が風に流れて輝いた。
 低い音と振動とともに軍艦が放った一発の砲弾が司法の塔を直撃したのは、その瞬間だった。




 打たれるたびに威力を増す念のこもった拳の嵐の中で意識が薄れていくのがわかった。
 敗北へ落ちつつあることを知りながら、何も感じなかった。
 痛みとはこんなものだっただろうか。
 全身に走る数え切れない激痛も次第に無の感覚に近づいていく。
 失うものなど実は最初からなにも持ってはいない。せいぜいが命だがそれを惜しむ気持ちもない。光があれば必ずある闇。彼が属するその場所は元来が誰とも 同じ次元には存在しないところだ。今はただ、そこへ・・・堕ちていくだけだ。
 何も感じなかった。
 何も見えなかった。
 ロブ・ルッチ。
 倒れ伏した彼の横顔はその瞳に何も映してはいなかった。
 彼を想って鳴く一羽の白い鳩の声も恐らくは届かなかったかもしれない。




 瓦礫の中で少女は静かに目を閉じていた。
 崩壊した建物とともに落下した身体は痛みとともに地に打ちつけられ、後から倒れて来た割れた壁の一部に片足をつぶされていた。今はもう、痛みも感覚もな い。身体の中から少しずつあたたかなものが流れ出す感覚だけが残っていた。
 しばらく前に宙を蹴って飛ぶ姿を見たように思った。長い尾があるそのシルエットはルッチだと思った。そう思うと目撃の瞬間に背中の傷まで見えたように錯 覚した。
 打ち込まれる砲弾の音。
 叫び声。
 島全体が狂ったような騒音に覆われていたが、少女の心の中には静けさがあった。
 ルッチ。
 ただ一つの名前だけを呼んでいた。
 戻ると信じていたルッチの部屋は崩れてしまった。そして自分は死にかけている。壊れることも逝くこともこんなにも簡単なことだったのだ。
 簡単すぎて怖くはなかった。
 ただ、失いたくないある気持ちだけがあって、そのことがどうしようもなく切なかった。
 首に力が入らなくなった頭がガクリと後ろに落ちた。上向いた状態で目を開けた リリアは飛来するハットリの姿を見た。一瞬見間違いだと思った。ハットリの羽の端と両足は赤く染まっていた。遅くなっていた心臓がその 時だけ強く打った。

「・・・その血は・・・誰の・・・」

「クルッポー!」

 舞い降りたハットリは羽で少女の頭を抱いた。

「・・・お前が怪我をしていないんなら・・・それは・・・」

  リリアの目から一筋の涙が落ちた。ルッチは負けたのだ。ハットリが告げに来たそれを正確に読み取っていた。

「ハットリ・・・」

 ゆっくりと手を伸ばすとハットリは少女の胸に下り、腕に抱かれた。

 最初に会ったのはお前だったよね。
 ねえ、ハットリ・・・覚えてる?
 時々思ったことだけど、ルッチがわたしをそばにいさせてくれたのは、多分、お前のおかげだったのかな。お前がわたしを好きになってくれたから。

 声に出す力なく心の中で語った言葉。まるでそれに聞き入っているようにハットリは頷きながら少女の頬に頭を摺り寄せた。

 ああ、ハットリ。あったかいね、お前。
 わたしも・・・大好きだよ。
 お前にこう言えて、とても嬉しい。
 ありがとう、来てくれて。

「ルッチにも・・・いつか・・・言いたかった・・・け・・・ど・・・」

 鳩を抱いていた腕がゆっくりと落ちた。
 ひとつひとつ、身体に力が入らなくなっていく。こうして少しずつ失って、最後には心も消えてしまうのだろうか。
 顔を覗き込む丸い瞳に最後の力を集めて微笑した。

「・・・ル・・チ・・・が・・・さむ・・・が・・・てる・・・か・・・ら・・・あと・・・こ・・れ・・・」

 必死に呟いた言葉を聞いたハットリは羽を広げた。

 飛んで、ハットリ。お前の大好きな人のところへ。
 そしてできれば・・・わたしも一緒に・・・

 思考に灰色のヴェールがかかりはじめたのがわかった。暗くなりはじめた視界の中で懸命にハットリを見つめた。ハットリはしばし少女の顔を見た後で首を伸 ばして嘴で少女の喉もとの鎖を摘んだ。
 バサッ
 舞い上がる白い鳩の口元に紫色の光が煌いた。 リリアは小さく息を吐いて瞼の重みにまかせて目を閉じた。
 あの美しい石をルッチが突然買ってくれた日のことを覚えている。
 出会った日に降っていた雪。
 離れなくていいのだと知った時の例えようもない喜び。
 青い水が満ちた街。
 初めての口づけと抱擁。
 肩にハットリをのせて立っている後姿。
 背中と傷。
 心を揺さぶる声と冷笑。
 なにもかもが美しく思えた。

「ル・・・」

写真/浜辺  もう声は出ないとわかった。
 ルッチはどうなったのだろう。その命はまだあるだろうか。もしも目を開けたなら何を見て、そして何を言うのだろう。それを知ることができないのが寂し かった。一緒に逝くという考えに一瞬甘美な誘惑を感じたが、すぐに否定した。ルッチは死んではいけない。あの存在がこの世からなくなくなることなど考えた くない。生きていてくれれば先に逝くことなど悲しくはない。

 会えたから。
 そばにいることができたから。
 強く深く抱きしめられたことを覚えているから。

 本当はいつも言いたいと思っていた。一度だけでいいから。
 結局、顔を合わせてしまえば言うことなどずっと死ぬまで無理だったのかもしれない。
 心の中で呟くことさえ許されない気がして言えないできた。
 でも、今なら。
  リリアは黒く塗りつぶされかけた意識の中で必死に言葉を浮かべた。

 ありがとう。
 ・・・・大好きだった・・・ルッチ。
 出会えた最初から・・・大好きだったよ。

 肌に残る熱の感覚を蘇らせることはもうできなかった。
 失くしたくないとすがりつく想いがひとつずつ消えて行った。
 もしも一つだけ想いをもちつづけることができるなら。

 ロブ・ルッチ

 それが最後に少女が想ったものだった。

2006.9.20

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