紫水晶の雫 前編

 最初に会ったのはお前だったよね。
 ねえ、ハットリ・・・覚えてる?
 時々思ったことだけど、ルッチがわたしをそばにいさせてくれたのは、多分、お前のおかげだったのかな。お前がわたしを好きになってくれたから。
 ああ、ハットリ。あったかいね、お前。
 わたしも・・・大好きだよ。




 微風に揺れるカーテンが夜のない昼の島の一室に薄い闇を作っていた。

「ル・・・チ・・・」

 触れることを許された背中に手を回してしがみついていた少女は心のままに男の名前を呼んだ。少女の指先が古い傷に触れたのを感じた男は全身で細い身体を 覆い、ゆっくりと深い口づけを落とした。

「・・・考えるな・・・ただ、お前が望むものを言え・・・ リリア

 重なり合う肌の熱さ。どこか安心感を与えられる身体の重み。どこまでも見通されているような瞳。顔の輪郭と唇を辿る長い指先。名前を呼ぶ声。
 これ以上望むものなどあるだろうか。いつも、ただ傍らにいることだけを願ってきた。

「ルッチ」

 少女の手が頬を探る感触に男はただ目を閉じた。彼にとって身体を繋ぐ行為よりもこの微細な感触のほうが他人に許すはずのないものだった。

「お前は・・・本当に面白い」

 二つの息づかいが重なった。ほぼ同時に目を閉じた。




 この任務に達成感や充足感といった類のものはあっただろうか。
 いや、特にはない。
 長年海軍と世界政府が追い求めていた女と古代兵器の設計図への鍵となる男をこの島まで護送した。四年ぶりに戻った島、エニエス・ロビー。司法の島と呼ば れるここに彼が所属する組織の拠点と彼の住処と言える部屋がある。彼は今、その部屋に向かって歩いていた。
 ロブ・ルッチ。
 その名前を聞けば言いようのない感情を胸に湧きあがらせる人間達が世界に何人かはいるだろう。今回の任務で言えば、あの造船会社の社長と脳天気なギャン ブル好きの船大工・・・もしも生きていればの話だが。ルッチ自身はといえば終了した任務絡みの人間を思い出すことは、別の任務の中で必要になった場合以外 にはほとんどない。任務が終了するたびに常に仮に作り上げた感情も関係も断ち切って捨ててきた。
 そう。ただ・・・一人を除いて。
 扉を開けると肩にとまっていたハットリが嬉しげに舞い上がった。

「クックー!クルッポー!」

 白い姿が向かった先にはモップを持った少女が立っていた。
 宝石に似た瞳を見開いて鳩に色白で華奢な手を伸ばした姿を見るのは二週間ぶりだったのだが。
 記憶よりも背が伸びたかもしれない。
 髪が伸び輝きが増したかもしれない。
 あり得ないと思いながらもほっそりしたその姿を目にした印象の誤差にルッチは苦笑した。

「・・・何をしている、 リリア。当番兵がいるだろう、ここには」

 床に置かれたバケツ。手に持ったモップ。少女は自分の仕事道具を眺めて小さく笑った。

「ずっとちゃんと掃除はされてたみたいだけど、床が・・・3年半分くらい曇っていたから」

 そうだ。なぜか少女は彼の部屋の床を磨くのを好んでいた。思い出したルッチは無言でシルクハットを椅子に放り、上着を脱ぐとネクタイを外した。そして、 彼の動作を目で追っている少女の視線に気がついた。

「床磨きとはおかしな趣味だな」

「他にできること、ないから。外は段々騒がしくなってきているけれど、これはやっぱり麦わら?」

 首を傾げた リリアの顔に出会った頃の幼さを見た。
 ルッチは自分に向けた冷笑を浮かべながら手を伸ばして少女を捕らえた。

「ルッチ・・・?」

 驚いて身体を固くした リリアの耳元に唇を寄せた。

「できることはまだあるはずだ。あの街で・・・・俺が教えた」

 少女の頬が紅潮すると同時に唇を重ねた。
  リリアは両手をルッチの胸にあてて押し返そうとした。

「どうして?ルッチ・・・・ここでは・・・」

 あの水に抱かれた美しい島での長い夢だと思っていた。限りある時間だと思っていたから自分に甘えることを許した。ルッチが与えてくれる熱とあたたかさを 時に優しさだと想像した。口づけを与えられたこと、手と唇に切なさを教えられたこと、身体の深い部分を開かれたこと、そのまま朝まで傍らで眠ることを許さ れたこと。先にこの島へ戻るように言われた時、すべてを大切に胸の中にしまい込んだ。
 だから、ここでは。この非情な権力の闇を抱いた昼の島では、ルッチは任務に関すること以外は興味を持たない。また以前のように気まぐれに リリアの傍らに現れては消えるその姿をただ一人で見ているしかないのだと思っていた。

「何度言ったらわかる・・・・考えるな」

 再び唇を合わせ、ルッチは少女を抱き上げた。モップが音をたてて床に落ちた。
 少しずつ深まる口づけにまだ上手く応えられないまま、 リリアは目を閉じて身体の力を抜いた。本当は望んでいたのかもしれない、と思った。ここに戻ってきたルッチの姿を見るだけではなく、そ の周囲を取り巻く熱に包まれたいと。自然と涙が零れていた。

「お前は」

 寝室へ続く扉を蹴り開けたルッチは リリアの身体をそっと寝台に下ろした。指先で涙を拭うと少女は微笑した。

「ここでお前を抱こうとは思っていなかった」

 低く囁きながら喉元に唇を埋めると少女の全身が震えた。手早く華奢な身体を包んでいる衣類を剥いで床に落とすと、その性急さに驚いたように少女は瞳を見 開いた。

「あまり時間はないかもしれん・・・呼び出しもありそうだ」

 まだ豊かとは言えないが整った形の白い胸の頂に唇を移しまた震えた少女の身体を抱く腕に力を入れたとき、気配を感じたルッチは身体を起こした。

「・・・来たか。少し、待て」

 少女の身体を毛布で覆い、ルッチは滑らかな身のこなしで音もなく部屋から出て行った。
  リリアは毛布の中で自分の身体に腕を回した。


「・・・誰か、いたの?」

 部屋に入ってきたカクとカリファは床のモップとバケツを一瞥した。
 ルッチは答えず自分とハットリのグラスに氷を入れ、酒を注いだ。

「まあ、聞くだけ野暮というもんかもしれんが。のう、カリファ」

 カクが笑うとカリファの口元にも微笑が通り過ぎた。

「あの街であなたが リリアを・・・その・・・抱いたと知ったときはひどく驚いたわ。そんな風に誰かを近づける人だとは思っていなかったから」

「わしは驚かんかったぞ。これは、女の勘、とかいうヤツに勝ったってことじゃな」

「少し悔しいわね、それ。でも、相手が リリアなら・・・と納得してしまうのはなぜなのかしらね」

 ルッチは黙ったまま大きくグラスを傾けた。

「じゃがのう、ルッチ。気をつけねばならんぞ。お前を思い通りに動かしたがっとる人間には、あの子は格好の標的に見えるかもしれんからのう。・・・・例え ば、ここの、あの、変わり者の長官が」

 自分の顔を見守るカクとカリファの視線に苦笑しながらルッチは一気にグラスを干した。

「あの男があれを使って俺に何をできると?」

 ルッチの唇に浮かんだ冷笑にカリファはやわらかなため息をついた。

「あなたらしい言葉と表情ね。とても・・・あなたらしい。過ぎるほどにね」

 ルッチは無表情なまままたグラスを満たした。

「今はこんな話よりお前達の方だ。身体の中に悪魔を飼う決心はついたのか?」

 三人の視線は同時にテーブルに置かれた二つの色鮮やかな実に落ちた。
 例え直属の上司であるCP9長官でも少女に手を出すことは不可能だ。
 ルッチは一人、心の中で呟いた。
 何かがある前に、恐らく彼のこの手が少女の生を終わらせているだろう。
 そう思った。




 寝室に戻った時、少女は半分微睡(まどろ)んでいた。ルッチは静かに毛布をめくり、下から現れた肌の白さを確かめた。そっとその身体を転がして背中に一 筋走っている傷跡を指先で辿ると、少女の口から息が漏れた。

「・・・ルッチ?」

 開こうとした瞼に口づけた。そのまま唇を動かして唇の先をかすめた後、喉から胸の頂へと下がった。

「や・・・」

 慌しい愛撫には不慣れな身体は、それでも敏感な反応を返した。
 まだ衣類を身につけたままのルッチの前で自分だけが裸体を晒していることに、 リリアの瞳が潤んだ。

「やはり、時間はそれほどないらしい」

 ルッチは両手でこれまでに見つけ出した様々な位置を愛撫しながら唇を重ねた。突然の溢れる刺激に リリアの唇は彼の下で震え、こらえきれない呻き声が漏れた。

「ルッチ」

 零れる涙を唇で拭いながらルッチは下半身の衣類を脱いだ。白い足の間に片膝を割りいれて秘められた場所の潤いを確かめた。本当はもう少しほぐしてやった 方がいいのだろう。わかってはいたが、そうする代わりに唇を深く包み、身体を抱き寄せながら空いた片手を与えた。
 ルッチは細くて熱い部分をゆっくりと貫いた。 リリアはルッチの手を握りしめて唇を噛んだ。建物の外のざわめきと性急な愛撫に全身が敏感になっていた。
 ルッチはゆっくりと律動を刻んだ。他の部分に手を触れはせずに、ただ、己を少女に刻み続けた。
 次第に少女の身体からこわばりがとれた。身体の中を動く熱さと与えられる存在感に リリアの心が酔いはじめた。ルッチが、ここにいる。与えることと奪うことに意識を集中している。それはただただ彼のことを想っている少 女にはこの上なく贅沢なひと時だった。

「・・・動きを速めるぞ。受け止めてみろ」

 普段は言われない言葉にそうは見せない気遣いを感じた。喜びを感じた瞬間に鋭敏な場所を刺激され、思わず声を上げた。

「悪くない声だ」

 動きを速めながらルッチは念入りに触れる位置とタイミングを調整した。 リリアの中が熱を帯び溢れるたびに彼の中での快楽も高まっていく。抱いていることは抱かれていることに他ならないのだということを意識 する。
 彼の手を握るその強さと中の柔らかさ、懸命にこらえる表情から少女が昇りつめる直前であることを知ったルッチは少女の手を背中に導き、空いた手でそっと 頬を撫ぜた。

「そのまま・・・昇れ」

 一つの点に集中して動くと リリアの腕に力が入り、彼の身体にしがみついた。

「ルッチ・・・・!」

 すがるとも拒絶とも取れるその声の響きをルッチは好んだ。そのまましばらく少女の声と表情を味わった。
 やがて、思い切り深く与えると リリアの心と身体は昇りつめ、力いっぱい彼を抱きしめた後やわらかくシーツの中に沈んだ。
 ルッチは自分は達しないままゆっくりと彼自身を抜いた。
 不思議な満足感があった。己の性の欲望よりも強いそれは何だろう。考えながら少女の額に唇を触れた。

「眠れ。どうやら俺は出番が近そうだ」

 毛布を掛けてやると少女が手を伸ばしてきた。見慣れないその仕草に驚きながらも小さな手を包んだ。
 無言のまま、互いの目を覗き込んだ。
 決して言葉にすることはないとわかっている感情がそこに見えた気がした。それは名前をつけた途端に虚構になって消えてしまう種類の、心の底に沈んでいる のが自然なものに思えた。

写真/浜辺 「眠れ・・・そのまま、許されるだけ」

  リリアの顔を見ながら衣類を身につけたルッチは、短く囁いた後、背を向けた。
 あの街では情事が終わったあとに決まって眠りに吸い込まれてしまう リリアの傍らで、その身体の温かさを感じながら朝を迎えたことが幾度もあった。もしかしたら初めは煩わしく感じていたそのぬくもりをい つの間にか当たり前のもののように想っていた。そして今、それを感じることができないことに物足りなさのようなものを感じている。
 やはり危険だな、お前は。
 歩きながら心の中で呟いた。
 背中の後ろで扉を閉めたとき、胸の中の感情も全て閉ざした。

2006.9.18

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